雑記(二二)
気象庁のホームページによると、観測史上の日本最高気温は、二〇二〇年八月十七日の静岡県浜松、それから二〇一八年七月二十三日の埼玉県熊谷の、四一・一度だそうである。
各地点の観測史上一位の値を使って作成されたランキングでは、次いで二〇一八年八月八日の岐阜県美濃、同六日の同県金山、二〇一三年八月十二日の高知県江川崎が同率の三位で、四一度。東京が出てくるのは、二〇一八年の七月二十三日の青梅が最高で、四〇・八度。同年八月二十三日の新潟県中条、一九三三年七月二十五日の山形県山形と同率で、全体では八位にあたる。このランキング、一位こそ二〇二〇年だが、十位までの実に半数が二〇一八年で、この年の過酷な暑さが思われる。
澤地久枝『雪はよごれていたー昭和史の謎 二・二六事件最後の秘録ー』(日本放送出版協会)の序章「一、封印されてきた闇」の冒頭には、「昭和二十八年(一九五三年)夏、連日摂氏三十度をこすような異常高温が東京をおそっていた」とある。その夏、八月十九日に、七十歳を過ぎていた匂坂春平は庭仕事の途中で体調を崩し、やがて意識を失い、その日のうちに命を落としたという。「告別式がおこなわれた八月二十一日には、気温は三十八度四分に達した。東京で気象観測がはじまってからの最高記録であり、いまもその記録は破られていない。この夜ははげしい雷雨となった」と澤地は書く。同書の刊行は、一九八八年で、もちろんその後、「最高記録」は更新された。今では東京で三十度を超えても「異常」とは思わないし、三八・四度も、目をみはるほどの気温ではあるまい。まさに隔世の感がある。
澤地によると、匂坂春平は、二・二六事件を扱った特設軍法会議の主席検事官を務め、手元に膨大な裁判関係資料を保管していた。しかし、生前にその存在が公にされることはなかった。澤地がNHKのプロデューサー・中田整一とともに匂坂の家を初めて訪ねたのは、一九八七年一月。すでに匂坂はこの世にない。澤地らはその家に複写機を持込んで膨大な資料のコピーをとり、手書きのメモに至るまで解読を試みたという。
同書のなかでは、二・二六事件当時の山下奉文の行動や、「陸軍大臣告示」をめぐる事情など、新たな資料に基づく記述も興味深いが、「五、長い一日」の章の最初に置かれた指摘には、胸のすくような感触がある。「軍法会議においての軍人たちの証言は、「時刻は判然いたしませぬが」「参謀であったと思いますが、あるいは違うかも知れません」と言って、時間と人とを特定しない点で共通している。単純な例だが、敵の陣地をはさみうちするという作戦場面がある。一分以下の時間単位もおろそかにできないであろう。協同作戦の一隊が攻撃を開始、別の一隊がおくれるなどということはあってはならない。攻撃開始、攻撃終了。どこが敵正面であるのか。軍隊の命令には曖昧さ、ニュアンスによってそれとなくわからせるたぐいの表現はまったく適さない。時刻とは、軍人の生活習慣のベクトルであろう」。
さらに澤地は言う。「叛乱が起きたあとの局面に登場してくるほとんどの軍人は、幼年学校から陸士へすすみ、軍人教育をたたきこまれ、陸軍大学校を卒業したエリート中のエリートである。それなのに、習慣であるべき時刻の確認がない。重要な決定場面に立ち会いながら、その内容も相手も、まことに漠然とした記憶しかない。認識が浅かったり、時間の観念がないのではなくて、かくさなければならないことを共有していた結果としか思えない」。重大な事実を秘匿するために、関係者たちはそろって、時間を失念したふりをしていると言わんばかりである。
一九六〇年代半ばから七〇年代にかけて書かれた松本清張の『昭和史発掘』(文春文庫)は、軍人もまた官僚の一部なのであると、くりかえし注意を促していた。軍隊経験やそれに基づく知識が次第に忘れられ、一般性を失ってゆく時代にあって、軍人もまた現在の省庁の吏員たちと同様に、官僚機構の内部で役割を果たす存在であって、さほど特異な存在でもなかったと、あらためて述べておく必要があったのであろう。澤地もまた、八〇年代末の読者たちにとってなじみの薄い軍人というものについて、その基本をたしかめておきたかったのだと思われる。
清張は一九〇九年生まれ、澤地は一九三〇年生まれである。『昭和史発掘』も、『雪はよごれていた』も、著者の五十代の仕事であった。その配慮の深さを思う。