雑記(六四)
秋の唐招提寺を訪れた芦村節子は、芳名帳に「田中孝一」と書かれてあるのに目を留める。特徴的な筆跡が、死んだ叔父のそれに似ていたのである。松本清張の小説「球形の荒野」の序章には、こんな印象的な場面がある(『松本清張全集6』文藝春秋)。
節子の叔父の名前は、「野上顕一郎」。「戦時中、ヨーロッパの中立国の公使館で一等書記官だったが、終戦にならぬうち、任地で病を得て死んだ」という。もちろん、名前が違っているのだから、芳名帳に「田中孝一」と書いたのは叔父ではないはずなのだが、叔父の野上顕一郎こそは、かつて節子に、奈良の古寺の美しさを教えた人物でもあった。そのせいもあって、節子は「田中孝一」の筆跡がどうも気になってしまう。
節子の夫の亮一は「T大の病理学の助教授」で、その日は京都で学会に参加していた。節子はそのあいだ奈良を歩くことにしていて、その日の夜に奈良の宿で落ち合う約束だった。しかし節子は、唐招提寺を訪ねたあとで、すぐに奈良駅へ戻るのはやめて、西の京の駅から橿原神宮前駅に向かうことにする。果たして、橘寺の芳名帳には「田中孝一」の名前は見あたらなかったが、安居院の芳名帳にはそれがあった。この「田中孝一」の名を書いた人物は、どこにいるのだろう。
その夜、節子は奈良の宿で亮一と合流し、食事をともにする。亮一は「ところで、君の古寺巡礼は、予定通り済んだかね?」、「佐保路のあたりはどうだった?」と問う。「夫は訊いた。尤も、それには少し理由があった。亮一は「佐保路」という名前が気に入っていたのだ。語感もいいのだが、「吾背子が見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも」という万葉集の中にある大伴坂上郎女の歌を自慢で憶えている。亮一は、若いとき、そんな本をよく読んでいた」。
亮一が記憶している「吾が背子が」の歌は、『万葉集』の巻八「春の雑歌」の部に入っている。「佐保路(道)」は「さほぢ」と読む。貴方が見ている佐保道の青柳を、手で折り取ってでも見ることができればなあ、と言うほどの意味である。「佐保道」は平城京の東北の地域で、大伴氏の邸宅もそこにあった。作者の大伴坂上郎女は、このときはその「佐保」から離れた地にいたのであろう。「佐保道」で青柳を見ている誰かを、恋い慕うような調子の歌である。
節子が唐招提寺を出て西の京の駅に戻った場面には、こうあった。「最初の予定はいろいろと組んである。たとえば秋篠寺から法華寺に廻る佐保路のあたりを歩いてみたかった」。しかし節子はその予定を変えて、橿原神宮駅へ向かい、橘寺、安居院を回っている。「佐保路のあたり」をめぐるという当初の予定を、亮一は知っていたから、節子に「佐保路のあたりはどうだった?」と問うたのであろう。「佐保路」にいる誰かを思う、大伴坂上郎女の歌は、京都で学会に参加していたときの亮一の心情によくかなうものでもあったらしい。
結局、節子は「佐保路」には足を踏み入れず、「吾が背子が見らむ佐保路の」という歌に示される思いは、言わば空振りに終わるのだが、さりげなく挿みこまれた万葉歌が、妻を思う亮一のやさしさを伝えているように思われる。
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