
雑記(三〇)
二・二六事件の中心人物十五名は、一九三六年の七月十二日に処刑されている。五人ずつ、三回に分けて刑は執行された。第一組は、香田清貞、安藤輝三、竹嶋継夫、対馬勝雄、栗原安秀の五名。このとき、五名全員が「天皇陛下万歳」を叫び、その後、このなかの一名が、さらに「秩父宮殿下万歳」を叫んだということは、複数の証言で一致しているようである。しかし、その一名が安藤輝三なのか、栗原安秀なのかが、判然としない。
安藤であったという証言は複数ある。松本清張『昭和史発掘8』(文春文庫)によると、「当時の射撃指揮官山之口甫元大尉」は雑誌「人物往来」の一九六五年二月号で、こう書いているという。孫引きになるが、引いておく。「突然、香田が、『天皇陛下万歳を三唱しよう!』と叫ぶようにいった。五人が一せいに『天皇陛下万歳!』を唱えた。安藤だけがつづけて『秩父宮殿下万歳!』と、しぼり出すような声で叫んだ」。
翌年に処刑された磯部浅一も、「相沢中佐、対馬は 天皇陛下万歳と云ひて銃殺された」、「安藤はチチブ宮殿の万歳を祈つて死んだ」と書いている(河野司編『二・二六事件ー獄中手記・遺書』河出書房新社)。磯部の場合は、香田の名前は出さずに、対馬の名前を出しているが、安藤が秩父宮の名を口にしたという点は一致している。
私の確認する限り、「秩父宮殿下万歳」を叫んだのが栗原であったとする証言は、保阪正康『秩父宮と昭和天皇』(文藝春秋)に紹介された、二つの証言のみである。一つは、秩父宮とも安藤とも親交のあった森田利八のものだが、森田は処刑の現場にいあわせていないので、今は措く。もう一つは、処刑を担当した「元少佐」のものである。
「秩父宮殿下万歳」の声の主を安藤とするのが多数派ではあるのだが、しかし、この「元少佐」の証言を誤りとして切り捨てるのもためらわれる。この人物は、自分が処刑を担当したことを誰にも語らず、また二・二六事件の関連書も読まずに過ごしてきたという。だから、安藤が秩父宮の名を口にしたという説の存在を、保阪が告げるまで知らなかった。
秩父宮と個人的な交際のあった安藤が「秩父宮殿下万歳」と叫んだという光景は、見ようによってはきわめて劇的で、それは急進派の栗原が言うのとは、まったく違う意味を持つであろう。事件に関わった者たちの志と無念を語るには、安藤に秩父宮の名を言わせたほうが、効果的であると考えられる。そのあたりに、この問題の鍵がひそんではいないだろうか。
清張は前掲の『昭和史発掘』で、こうも書いている。「刑務所の看守は、今は死刑囚となった将校に好意的な扱いをした。看守のほとんどは将校らに揮毫をたのんだ。村中などは始終筆を動かしていたという。(林昌次看守談)渋川の遺書の中にも「画仙紙ヲ入レテ揮毫ヲ頼マル。仕事ナリ」と見える。とくに死刑判決後、看守たちは、さかんに紙を持ちこんで彼らに揮毫をねだったらしい。こうなると、いささか「記念品」の獲得めく」。このような、贔屓の役者を応援するような心情が、栗原と安藤を取り違えさせたのではないか、とも思えるのだが、これは邪推に過ぎるだろうか。
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