雑記(一四)
松本清張『昭和史発掘8』(文春文庫)に、二・二六事件に動員された歩兵第三連隊の沢田安久太郎の手記から「要点をとる」として記述された箇所がある。それによると、沢田たちは二月二十八日の夜、皇居のすぐ近くの「中村藤太郎」という標札のかかった立派な家屋に進入した。家主らはすでに避難していて、二人の書生が留守番をしている。沢田はそこで、二十六日以降の新聞を見た。二十八日付の新聞を見ると、自分たちが叛乱軍とされている。「お互いに口にこそ出さないが複雑な気持になった。そして次第に断崖に立たされているような絶望感に陥った」と、沢田の手記をもとに、清張はまとめる。
それから沢田は、遺書のつもりで故郷の両親への手紙を書いた。翌二十九日の朝、出動の命令を受けた沢田は三宅坂に向かう。「そこでは飢えと寒さを凌ぐために、あたりから朽木を集めて焚火をした。談笑するものは誰もなかった」。
そこへ、清原康平がやって来る。清原は、二十六日には野中四郎の部隊で警視庁の襲撃にくわわり、事件後は無期禁錮の判決を受けた人物である。その清原が皆を集めて、言った。「われわれは国家のため最後の一人になるとも昭和維新を実現するつもりだったが、腰抜けの一部の同志の裏切りで崩れようとしている。現在残っているのはわれわれ第三中隊と第六中隊だけである。そこでお前たちに決意をききたい。最後の一人になるとも決行する覚悟の者は手を挙げよ」。
それに対する一同の反応はこうだ。「その言葉に、われわれは期せずして一斉に『はい』と答えて手を挙げてしまった」。清原は「ありがとう。その覚悟を聞いて教官は心から嬉しく思う」と言う。そして「戦友同士互いに顔を見合せて、最後の天皇陛下万歳を三唱し」、「軍装を点検し、銃や軽機には残らず実包を装塡して戦闘の準備を完了した」。
覚悟を問われて、一同、覚悟がないとは答えられなかった。それはおそらく、実際に覚悟があったからではない。覚悟を問われたら、迷うことなく、「はい」と答えなければならない、という教育が徹底していたからであろう。覚悟があるか否かよりも、あると答えられることが重要なのであり、その精神状態よりも、即座に首肯するという行為が重要なのである。身体的な行為の強制は、人間の精神をも変質させるものであるから、このような軍隊式の教育方針は、指揮に従順な兵の育成には、成功したらしい。
中井正一が『美学入門』(中公文庫)のなかで、「大学のとき兵隊にとられて、三年ばかりして帰って来た」友人との思い出を記している。「京都の下賀茂神社の糺の森だった。二町もあるまっすぐな森の参道を歩いていると、向うから同じ大学に生徒として通っている中尉がやって来たのである。すると友人が、他の道を通ろうという。なぜかときくと、あの中尉の軍服を見ていると、このポケットの中の自分の手が、どうしても敬礼するために上ってくる、それを制しきれなくなるのだというのである」。これも、似た話であろう。
軽い滑稽譚のようだが、背筋の寒くなる挿話でもある。同じような場面は、近代日本の軍隊の歴史上に、相当くり返されて来たに違いない。覚悟を問われればあると答え、上官を見れば敬礼をする。そういう、即時的かつ反射的な行為を一個の身体に強制することが、軍隊式の教育のかなり大きな部分を占めていたのだろう。そこでは、個別的に状況を判断する必要性はない。
沢田の場合で言えば、「最後の一人になるとも決行する覚悟の者は手を挙げよ」と清原に求められて、「決行」や「覚悟」という言葉の意味を、そのときの状況に照らして再考する余裕が奪われていたことになる。ここで、「決行」や「覚悟」という言葉はむしろ、甘美な響きを感じさせて、兵たちを死のほうへ誘引した。それで、沢田も絶望を忘れた。