雑記(二五)
先月下旬、立花隆の訃報に接して、四月三十日に亡くなっていたと知った。驚いた。八十歳であったという。これからまだ、立花の文章を読めるものだと思いこんでいた。
書架から、立花隆の『天皇と東大』(文春文庫)を出してきた。この文春文庫版だと全四巻、「Ⅰ大日本帝国の誕生」、「Ⅱ激突する右翼と左翼」、「Ⅲ特攻と玉砕」、「Ⅳ大日本帝国の死と再生」という構成である。手元の第一巻は、奥付によると、二〇一二年十二月一〇日の第一刷。ずいぶん前に、鞄に入れて持ち運んでいたときに水筒の中身が漏れたせいで、紙がよれよれになっている。買いなおそうかしら。
最近はしばらく松本清張の『昭和史発掘』(文春文庫)を読んでいたこともあって、二・二六事件の前後のことに関心が偏っている。それで、第三巻「特攻と玉砕」の、二・二六事件に関するあたりに目を通すことにした。第四十七章「二・二六事件 秩父宮と平泉澄の密談」は、昭和天皇の弟で陸軍軍人でもあった秩父宮と、歴史学者の平泉澄を中心に、二・二六事件の経緯をたどっている。
秩父宮は、二・二六事件で侍従長・鈴木貫太郎の邸宅の襲撃を指揮した陸軍大尉の安藤輝三と、親密な関係にあったとされる。秩父宮は、陸軍士官学校を第三十四期生として卒業して第一師団歩兵第三連隊の見習士官となったが、そのとき三十八期生の士官候補生としてこの歩兵第三連隊に訓練に来たのが、その安藤であった。時は大正十三年、すなわち一九二四年である。二・二六事件は昭和十一年、一九三六年。安藤はその年の七月に死刑になった。
立花は安藤を、二・二六事件における「決起将校の中核的指導者の一人」としたうえで、こう書いている。「この安藤がどれほど秩父宮に近い関係にあったかというと、後に銃殺刑に処せられたとき、ほとんどの決起将校が天皇陛下万歳を叫んで死んだのに、安藤だけは秩父宮殿下万歳を叫んで死んだといわれている(「磯部浅一獄中手記」など。異説もある)」。凄絶な挿話である。そして、「一般に士官候補生と最初の任地の指導教官とは深い人間関係を持つことになるが、この二人は人間的にも互いに好感を抱き合い、秩父宮が歩三にいる間に、最も目をかけ、目をかけられ、互いに最も気を許す仲になっていた」という。
たしかに磯部浅一の「獄中手記」には、「相沢中佐、対馬は 天皇陛下万歳と云ひて銃殺された」、「安藤はチチブ宮殿の万歳を祈つて死んだ」とある(河野司編『二・二六事件ー獄中手記・遺書』河出書房新社)。「天皇陛下」の上に一字空白があるのは、敬意を表して闕字としたのだろう。磯部も死刑判決を受けたが、磯部と村中孝次の刑の執行は、安藤らの刑死からさらに約一年後のことであったから、磯部にはこれを書きとめる時間があったわけである。
磯部の記述は八月十四日のもので、安藤らの銃殺刑の執行があったのが七月十二日、その直後に書かれたと見られる。ということは、安藤が秩父宮に万歳を言って死んだということは、かなりたしかな情報なのではないか。立花が書くような「異説」の入り込む余地があるのだろうか。
立花のこのあたりの記述は、主として保阪正康『秩父宮と昭和天皇』(文藝春秋)によっているらしいのだが、実はまさにこの保阪の著作のなかに、「異説」は記されている。このときの処刑の担当者によると、この日に処刑された全員が「天皇陛下万歳」を叫び、ただ一人、「秩父宮万歳」とつけくわえた者があったという。しかしそれは、安藤ではなく、栗原安秀であったというのである。
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![寺井龍哉](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/6567079/profile_3e2c436d84076d753fa01774f8007a8f.jpg?width=600&crop=1:1,smart)