雑記(三二)
三浦雅士の『身体の零度』(講談社)の「まえがき」は、次のようにはじまる。「身体について、はじめに襲われるのは、恥ずかしさの感情だ。だが、なぜ人は自分の身体を恥ずかしいと感じるのか。身体は自分のものであって自分のものではない。誰も自分の身体を選べはしないのである。気づいたときにはすでに、その身体のもとにあったのである。にもかかわらず、人は、まるでそれが自分の最大の過失ででもあるかのように、自分の身体を恥ずかしいと思う」。
ここまでで最初の段落である。このような文章の切り出し方は、同じ三浦の『人生という作品』(NTT出版)の序文、書名と同じ「人生という作品」という文章の、冒頭と酷似している。やはり最初の一段落を引いてみよう。「いまでは誰もが自分の人生を持っている。あたかも一個の作品のように所有している。けれど、自分が自分の人生を持つとはいったいどういうことなのか、考えてみるとじつに不思議である。この不思議さは熟考に値する」。
もちろん、『身体の零度』の主題は「身体」であり、『人生という作品』の主題は「人生」である。二つの文章は主題を異にする。しかし、両者のはじめの段落は、その構成においてよく似ている。まず「身体」や「人生」に対する常識的な認識に言及し、それを「だが」、「けれど」という逆接の接続詞で承けて、その常識が実は異様な性格を持っていることを指摘するのである。「誰も」という言葉を用いて、議論の対象をひろげるのも同じである。
『身体の零度』は一九九四年十一月の刊行で、「あとがき」の日付は、同年の九月二十四日。「本選書で書きおろすという企画は、鷲尾賢也氏のものである。細かい仕事に追われている私を叱咤激励し、一ヵ月余で書きあげさせてしまった。叱咤されるには当方に理由があったが、激励は好意以外の何ものでもない」とある。「はじめに」もその九月か八月に書かれたのだろう。
一方で、『人生という作品』の刊行は二〇一〇年の三月三十一日。同書の「あとがき」には日付がないが、劈頭の「人生という作品」は、末尾に「(2009.12)」とある。十五年前の論法を、なぞるように反復したことになる。それだけ、有効な論法と思われたのであろう。まっすぐに問題の中心へと進んでゆく姿がまぶしい。
三浦雅士の文章は独特の魅力を持つ。その大きな理由がここにあると思う。