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雑記(四七)

 今年はいつのまにか、十一月二十五日が過ぎていた。三島由紀夫の命日である。

 昨年二月に逝去した古井由吉の『半自叙伝』に、その年のその日のことが出ていた。「駆出しの喘ぎ」という文章で、初出は一九八二年に出た河出書房新社の『古井由吉 作品二』。『半自叙伝』では「創作ノート」の章の二つ目に載っている。「昭和四十五年の四月一日から、自由業とはなった。金沢大学に三年、立教大学に五年、併せて八年の職から離れたことになる。三十二歳だった」とはじまる。

 途中、芥川賞を受ける「杳子」を書いたときのことも出てくる。「六月に入ってから清書に入ったが、これは清書というよりも、大負けの前半をいくらかでも取り返そうとする後半戦みたいなもので、もう一度粘りに粘ったが引分けとまで行かぬうちに時間切れとなり、六月なかばに編集者の手に渡すことにした。玄関口で靴まではいてからまた気にかかって仕事部屋にもどり、鞄から取り出した原稿をぱらぱらとめくってまた鞄におさめ、首を横に振り振り出かけたものだ」。

 文章の後半には、母の病気を姉からの電話で知らされたときのことも出てくる。これが、三島の死の前日だったらしい。「翌日、午前中に駆けつけて、寝間に入ったとき、独特な面相が目についた。その印象が紛れるまで、病人のそばに坐りこんでいた。それから居間に出てきて、なんとなくテレビをつけるとちょうど正午のニュースで、三島由紀夫という文字が目に飛びこんできた」。この日が、一九七〇年の十一月二十五日だったのであろう。古井はそのニュースの感想や印象を、直接的に書くことはしていない。文章は行を改めて、こうすすむ。

「早々に親の家を出て、池上線の雪ヶ谷あたりから丸子多摩川まで歩き、閑散としたバスで河原沿いに二子玉川まで出て、遠回りをして用賀の自宅までもどってきた。文字というものがああもまがまがしく目に映ったのは、じつに久しぶりだった。昨年までならまた感じ方が違っただろう、あれほど生理的にはこたえなかっただろう、と思った」。

 最後のところ、「昨年までならまた感じ方が違っただろう」とはどういうことだろうか。一九六九年と一九七〇年の、社会状況の差もあるだろうが、古井にとっては、まず、自身が教職にあるか「自由業」の作家か、ということだろう。自分が本格的に足をふみいれてしまった作家という職業のその先に、三島の死が立ちふさがったように、たとえ一瞬でも、見えたのではあるまいか。だから古井は、「杳子」の原稿を編集者へ出しにゆこうと出かけるときよりも、はるかに時間をかけて、用賀まで帰らねばならなかった。これは、そういうことが伝わるように、はっきり意識して書かれてあるように思う。

お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。