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自由の希求、それも権力『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』S1E9

 『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』S1E9「翠の評議会(The Green Council)」感想。これまでで最も荒れたエピソードなので、議論別に感想。ハイタワー家の物語としては悪くない。

誤解連鎖で生還ルート

 繰り越し批判①「アリセントの予言誤解」。自分も長々愚痴ってしまったのだが……整理するとまぁわかる。まず、公式設定として、アリセントは「本気で信じ込んだ」。無意識な自己誘導ではないということ。むしろ「できるのはお前しかいないからやれ」と言われて激怒したらしい。レイニラ支持でようやく肩の荷が降りたと思ったらエイゴン指名の掌返しを受け「今ごろふざけるな」「もう怒りつづけるのは疲れた」と内心ブチギレ。しかし、王としての遺言命令だから守らなければいけない、と渋々承諾。

「王は〜」と主語をすげ替え本心を主張する取りつくろいすら放棄

 当然ながら、アリセントの話を誰も信じない。オットーは、娘が簒奪に乗り気だと勘違いした。それで議席に座らせたものだから、娘が暴れ馬化していく。彼女はエイゴン戴冠を望んではいたが、あくまで法規の発想だった。裏で簒奪計画を進めていた評議会に反発、なかでもレイニラ暗殺に頑固反対。口をはさもうとした者を「壁送りにする」と脅す始末なので、会議が立ちいかなくなる。
 重要なのは、王妃に力などないこと。簒奪計画は、レイニラが王宮を離れ(継承成立の主要因であった)デイモンと結婚した時点でほぼ決定事項だった。本来のオットーなら、レイニラ支持宣言を行った娘は監禁でもして会議を進めていただろう。しかし予言問題でルートが分岐した。結果的に、誤解の連鎖によって暗殺がせき止められたのである。

アリセントのエージェンシー

 批判②「原作改変によりアリセントのエージェンシー(主導権)が剥奪されている」。TV版のコンセプト上避けられない事案だが、ep9は、主導権会得の物語でもある。レイニラ暗殺をめぐり、ハイタワー親子には決定的な亀裂ができた。地味に大きそうなのは、レイニスの「父親の言いなり」発言。第三者から指摘されることは、自分の親の問題性を受けとめる一助になる。実際問題「幼なじみがお前の子を殺す」とすり込んだオットーこそレイニラとその子どもたちの殺害を企てていたのだから。
 操り人形でありつづけた娘は、ついに親と対峙し、父よりも親友を選ぶ。「ずっと言いなりだったからもう自分の本心がわからない」とも漏らしたが、そんな離人感・現実感消失症でも、自分の意思を尊重できたのである。たとえそれが、息子の戴冠、親友の安全という無理のある願いだとしても。
 『HOTD』シーズン1において、初登場時のアリセントは、ドラゴンを怖がり「見物人」で十分だと搭乗を断った。対するラストでは、子を守るためドラゴンに立ちはだかる。ドラゴンの家の「当事者」としてエージェンシーを得るまでの物語。

嫌われエイゴン

いつも泣いているエイゴン

 批判③「エイゴンを何故レイピストにしたのか」。性暴行加害者にされた結果、ファンダム全方位から嫌われている。しかし、彼はジョフリー・バラシオンほどサイコパス寄りではない。インタビュー等を読むと、もっとも大きい心傷は父親にネグレクトされたこと。次男が目をえぐられたにも関わらず父姉から極刑を迫られた刃傷事件は、翠の子どもたちにとって「母親の言う通りだった」と気づかされるトラウマだろう。エイゴンの場合、若すぎる母親が児童婚のトラウマを負っていることも勘づいている。その母は、不確定すぎる「王としての未来」を強いた。反して、父の場合、嘘をつき通してレイニラ継承を堅持した。エイゴンは「王朝史上はじめて継承指名されなかった長男」である。ターガリエンそのものを嫌悪する彼は、一人だけ長髪を拒否し家で浮く「のけ者」でなった。人との接し方もわからないから、妻子をネグレクトし、性暴行の問題もわからない。その結果、性暴力のトラウマを持つ母親から「息子ではない」と拒絶される。

ターガリエン家の「のけ者」親子で顔も似ている

 戴冠式に向かう途中、アリセントは刃傷事件のヴィセーリスのようなことをする。切迫する息子に対し、レイニラの安全確保ばかり喋りたてた。「俺を愛してる?」というシリアスな問いかけをされても否定的な言葉づかいで返す。なにより愛と肯定を求めていたエイゴンは、玉座に対する喝采をそれそのものだと誤認してしまう。自己評価が低く酒と性に依存してきた彼は、権力にも溺れていくだろう。悲劇的で皮肉なのは、その直後、アリセントがドラゴンを前に身を挺して守ろうとしたこと。愛を言葉にできない母親は、息子を愛している。

レイニス事件簿

 今シーズン最大の大荒れオリジナル展開。竜舎から普通に脱出できたはずのレイニスが天井=床を突きやぶって民間人殺戮。結局、簒奪者たちを燃やさない……批判④「なぜ、シリーズもっとも知的なキャラクターに近視眼的な選択をさせたのか?」。脚本を捨てて衝撃展開をとったと大不評。
 自分なりの解釈は「レイニスもターガリエン脳」。怒って当然の状況下、いつもは抑えているターガリエンの暴力衝動がわきあがり怒髪天を突いた。小市民の被害など気にしない貴族は多いだろうし、天上人ターガリエンなら尚更。ドラカリス未遂にしても、政治状況的におかしくはない。親族殺しは最大のタブーであるし、まだ開戦しておらず交渉で解決する道が残されている。

 公式サイドの見解は、複雑な理由が混合した選択。翠派を皆殺しにする気満々だったし、内戦が止められることもわかっていたが、同時に「自分の戦争ではない」スタンスだった(レイニラとの信頼関係が潰えているので)。大きかったのは王妃との絆形成だという。監禁中、交渉にきたアリセントは目を見据えて「あなたが女王になるべきだった」と熱弁した。それをコリアーズ以外に言われたのは初めてだったし、権力欲が香る夫よりも真摯で具体的だった。圧倒されて人生はじめてレベルに無防備になっていたらしい。政治信念、頭のよさも伝わったから、相手へのリスペクトが生まれた。ゆえに、最後、自分と同じく子を護ろうとするアリセントを殺すことはできなかった。「家父長制から隔離された空間なら女性同士で絆がはぐくめる」のが『HOTD』メソッドのよう。まぁこの二人って、俯瞰、理知のスタンスが結構似ている気がする。

自由の希求も権力

上の閉じた窓シーンと対になっている

 強化された違和感がある。レイニスの「自由を希求せず刑務所に窓をつくる」格言。この言葉は、彼女が竜舎をつきやぶったことで「ガラスの天井の破壊」として顕現する。いわく、アリセントに対する返事と教え(「鐘を鳴らして」への否であり「自由を希求する女性像」の提示)。
 しかしながら、レイニスの言う「窓の外への脱出」、つまり「空を飛ぶこと」って、ドラゴンライダーだからこそ出来ることではないのか? 大量破壊兵器であり直系王族の証たるドラゴンを持っているなら、女性でも大いなる力が得られるだろう。
 アリセントの場合、一般諸侯の王妃だ。児童婚が確約した時点で「男に従う」ほかなく、ほとんど外出できず「産む機械」扱いされつづけたから歪んだわけである。なんというか、空を目指して誇り高く「自由を希求」できること自体、ある種の特権なのではないか。先の主導権の話にしても、アリセントは身体を武器に戦うしかない。夫の没後もラリスの売春取引に従わざるをえず、シーズン中もっとも勇敢な姿すら、ドラゴンを前にその身一つで立つだけである。二人の身分差をあらわすのが、当記事のヘッダーにしたショットのように思う。

「家」から「外」へ

 今のところ作中唯一のラディカルフェミニスト

 レイニス騒動が今後活きてくる可能性もある。重要なのは大衆の存在。『HOTD』S1は意図的に内輪のホームドラマにされたそうだが、今回から外の世界、つまりは社会の描写が広まった。それを象徴するのがミッサリアの言葉「あらゆる権力は民が許し与えるもの」。
 浮かぶのは「天上人ターガリエン」像である。S1では、ターガリエンたちの暴力性、格差への鈍感ぷり、民への無関心がにおわせられつづけている。顕著なのはレイニラだが、一番有能設定のレイニスすら、アリセントの「民を犠牲にしない女王」論で感銘を受けたはずなのに大量殺戮にでて、おそらくは王都民のドラゴン嫌悪を煽った。

6年間介護と仕事を過負担したせいで政治スキル爆上がり

 「天上人」に対するのは、ウェスタロスの伝統を背負うハイタワー家である。彼らは、たとえ言い訳に使っていようと、民を気にかける発想を持っている。戴冠式乱入で「扉をあけろ」と命じたオットーは、意図どうであれ、黒派の殺戮から民を救おうとした。
 男子継承主義をとる翠派は、伝統保守主義にうつりやすい。しかし、侵略者であった黒派王族が例外主義を貫き反感を買う社会状況を考えれば、庶民寄りの革新勢力とも言える。メンバーにしても、ハーウィン等から階級、人種差別されつづけるサー・クリストン、「男失格」烙印の身体障害者であるラリスなど、マイノリティ弱者が揃う。
 そこで面白いのは「王宮で咲かぬ花」アリセントの存在である。原作での彼女は大衆人気がある。TV版では良妻賢母像、大陸一の美貌に加え、七神正教信者のシンボルでもある。王子たちのハイタワー装、王宮のターガリエン乱倫美術廃止、宗教シンボル設置といった行動は、正教強化として支持率につながってる可能性が高い。
 一方、ep9でオットーと袂と分かった彼女は、戴冠式で民を沸かすべく征服王美術を採用する。父以上にターガリエンレガシーの力を識っており、好き嫌いで判断しないポピュリズム技能の持ち主なのである。ただし、そのポピュリズムは、本物のドラゴンの「力」によって粉砕される。
 余談だけど、わりと好きなファンセオリー。ラストシーンでドラゴンを前にしたアリセントは、死を望んでいたというもの。人生や状況、子の存在ゆえに自死を選べない境遇を考えればまぁおかしくない。ep6でドラゴンを「怪物」と表現した彼女は、おそらくウェスタロスにおけるドラゴン嫌悪の象徴である。にもかかわらず、目の前の怪物を「人生を終わらせてくれる救世主」として視たなら、これ以上ないドラゴン崇拝だろう。

ひとまず

 翠派の物語は今回で一段落。結論として言えるのは、オリヴィア・クックの演技の素晴らしさ。父親オットー役のリス・エヴァンスが語った「ひとつのラインに数多くの相反感情を込められる」称賛そのまま。カオティックなパフォーマンスにもかかわらず、原作における「邪悪な義母」ステレオタイプにも近い……というか、男性たる関係者や歴史家からたら「そう捉えられる」であろう像を確立してみせた。最終回を残したままではあるが、個人的に『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』でもっとも価値あるキャラクターアークは「こういう人はいるけど表象はされてこなかった」パティ・コンシダインのヴィセーリスとクックのアリセントだった。

・前回の感想


よろこびます