反・ゲームオブスローンズ『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』S1E10
『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』S1E10「黒装の女王(The Black Quenn)」感想。シリーズの輪郭が浮かびあがる波紋のようなファイナル。
NOPE/ノープ
サプライズはルセーリス死亡経緯。原作『炎と血』伝承で、エイモンドは甥を襲うサイコパス的殺人鬼とされていた。しかし、TV版では、暴行を受けるまで暴力に出ないキャラクターに設定されており、今回もアラックスに火を吹かれたヴァーガーが制御不能になったことで悲劇に至っている。
おそらく、これこそターガリエン王朝滅亡を描く『HOTD』のテーゼである。元々、ドラゴンを魔術で操っていた古代ヴァリリア帝国において、ターガリエン家はマイナーな家だった。かつてデナーリスが指摘したように、魔術ではなく鞭を使うターガリエンにとって、ドラゴンは制御できる存在ではない。
この危険性に気づいていた王こそヴィセーリスだった。ep1では、いわゆる「天上人ターガリエン」説、人間がドラゴンを操れると信じる傲慢を批判している。「非男性的」な研究者肌に設定されたTV版ヴィセーリスは、ドラゴンパワーによる統治の効力を理解しつつ、操縦不能な大量破壊兵器たるドラゴンの力を恐れつづけていた。
前回の感想で触れたが、『HOTD』シーズン1では「天上人」ターガリエンたちの暴力性、同盟軽視の武力主義がにおわされ続けていた。蟹喰紛争でカラクセスに希望を見た兵は無残に踏みつぶされる。予言を軽視するデイモンのドラゴンパワー統治主義は、ドーン、蟹喰紛争泥沼化で反証されている。似た気質のレイニラは自分に反対する庶民の演劇を気にとめなかったし、レッドワインやドンダリオンといった強力な貴族と社交せず敵をつくっていく。そしておそらく、自分と息子の継承権、その法的信頼性を焼きつくしながら、離反をふせぐ同盟強化を行ってこなかった。最上人材とされるレイニスすら「アリセントへの返事」としてドラゴンピットを突きやぶって大量の民間人を殺戮している。
そして、ドラゴンの危険性を理解していたヴィセーリスが没した瞬間、ドラゴンの扱いに慣れぬティーンの喧嘩が内戦、通称「ドラゴンの踊り」をはじめてしまった。簒奪の過程そのものにはヴェラリオンとの軋轢、ハイタワー参与、貴族の継承事情など色々あるのだが……『HOTD』の場合、奇しくも今年の映画『NOPE/ノープ』と同じセオリーが乗っかっている:異種族を従属させられると思い込む高慢は死を呼び起こす。戦を始めたのはヴァーガーであり、もとをただせば「ドラゴンを征服できると思っていたターガリエンの傲慢」である。原作の記述どおり、王が崩御し「嵐が吹き荒れ、ドラゴンが踊った」。
デイモンはドラゴン
二人の少年と異なり、もっともドラゴンと近しい「ドラゴン男」こそデイモンである。人間界では暴力的コミュニケーションでおそれられながら、言葉なくドラゴンとつながり、ドラゴンを尊重し唄で魅了しようとする。ターガリエン例外主義vsウェスタロス伝統の文化戦争じみていた『HOTD』において、彼こそ古代ヴァリリア文化主義の象徴ともとれる。
面白いのは「ドラゴン男」が人類たる隣人を崩壊に導く暴力装置になっていることだ。今回「血の生贄」の唄を歌ったデイモンは、オットーに「息子が従者になるくらいならドラゴンに喰わせる」と啖呵を切るが、その後レイニラの息子がヴァーガーに呑み込まれてしまう。首絞めDVの要因については、制作者の解説を見るに、最愛の兄の死亡、「玉座=兄の承認を奪った者」とも考えていたレイニラが殺戮ではなく和平交渉を選んだ失望、軽視する予言の存在により兄から継承者として信頼されていなかった事実を突きつけられた人生最大の絶望……といったフラストレーション蓄積の結果らしい。まぁ、悲しいことながら、妻への暴力発露そのものが「兄に継承指名されなかった理由」である。
元々、TV版デイモンは「命をかけて兄と姪に尽くす男」であり「少女の憧れを利用して洗脳する児童性虐待者」である。トラウマを与えた姪との関係をロマンチックにも映していって最後にDVを持ってくる構成は、視聴者に「虐待加害者に誘導され魅了される被害者心理」追体験をさせる試みだったそう。つけたすなら、DV加害者が被害者に対し愛情と加虐を共存させる状態も描けているだろう。
コントロール不全カルマ
ショーランナーが「レイニラと叔父の結婚は間違い」と発言して物議を醸しもしたが……思い起こされるのは、簒奪政局がほぼ確定したep7において、悲劇を巻き起こすパートナー選択が連立している点である。アリセントとラリス、レイニラとデイモン、エイモンドとヴァーガー。これら三組、「制御できるはずがない暴力」を選んでしまっている。だから、ep9と10では、殺戮を望んでいなかったはずの三人が「暴力」にひきずりこまれていく。
ep7で必要だったのは、ヴァリリアとウェスタロス、あるいは、ともに平和志向の「王権」レイニラと「法と秩序」アリセントの結託だった。もちろん、二人はエイモンド、ルークを謝罪させあい、息子たちにトラウマと遺恨が残らぬよう努めるべきだった。エマ・ダーシーが語ったように、刃傷事件では、意図的に翠親子を拷問と孤立、感情爆発に追い込んだレイニラが明らかなる罪を犯している。アリセントの場合、その前段階で子どもたちの関係を引き裂いたことが過ちである(まぁ大概、後妻の子をネグレクトし、目をうしなった次男に心配の声もかけず、長女の口車に乗せられて拷問で脅したヴィセーリスのせいだけど)。二人そろって子どもたちの争いを決定的にするカルマを蒔いたからこそ、ついに復縁を遂げても、コントロール不全な息子たちによって殺戮に巻き込まれていく。
ナイメリアの海
悲劇的で皮肉なのは、二人の誤ったパートナー選択は「さみしかったから」ということである。解説を聞くにレイニラは見捨てられ不安の解消、アリセントは孤独の埋めあわせ。政治的動機も大きいが、二の次に思えた。この消極的な湿り気が『HOTD』と言える。
簒奪後、アリセントから送られたページで涙したレイニラにも同じことが言える。キャストいわくアリセントは焦って出した流れらしいが、手紙だとオットーに修正されかねないし、ep8でレイニラが「ドラゴンバック」の会話を覚えていることも確認済みなので適切な選択。ep1でレイニラが「これであなたは忘れない」と直言して破ったページなため「あなたとの愛を忘れていない」というメッセージは20年越しのレスポンスになっている。
「女性主人公二人がお互いを取り戻そうとしつづける物語」と主題宣告された『HOTD』だが、スルーラインになっているのがこのページである。内容は王女ナイメリアの逸話。征服を逃れるため人々をつれて海をわたり、ドーンにたどり着くと、決して戻らないために船を燃やし尽くした。同じシーンでレイニラがアリセントに語った言葉とリンクしている。'Position(王位)'について心配された彼女は、頭を乗せていた親友の膝の上こそ好きで安心できる'Position(場所)'だと返す。そして冗談まじりに願望を明かすのだ。「二人でドラゴンバックで飛んで、雄大なナロウシー(海)を見て、ケーキを食べるだけでいい」。
その後のレイニラは「水=自由」に焦がれる哲学をにじませながら「焔=自己犠牲」に向かい、アリセントは「義務」に奉じながら「自由」だった頃の思い出を20年間保管していた。結局のところ、お互い本当に求めていたのはナロウシーの約束、王宮からの脱出と考えられる(余談:レイニラから海への逃避願望を語られつづけたサー・クリストンは、自分が駆け落ち相手に足ると誤解した)。前述の主題どおり、主人公二人はお互い酷いことをしても求めあう。親子で殺されかけたあともアリセントは相手を善き女王と祝福するし、簒奪されたレイニラも「オットーの条件をのめば(アリセントからの)愛が手に入れられる」と揺らいだという。人生において安心できる愛着関係を築けた相手はお互いしかいないから心の聖域になっている……みたいな感じなのだろうし、それはそのまま「玉座より仲直りを欲している」と語られた両者の像の反映である。
消極的で湿り気にあふれた主人公二人は『GoT』の女性キャラと比べて「主体性がない」と不評も買ってきた。友情から真なる敵対、玉座の奪い合いに向かわなかったこともサプライズだろうし、ドラマのエンジンがゆるいことも確かだろう。しかし、それこそ『ゲーム・オブ・スローンズ』との対である。男権主義のもと動くアリセントは暗殺を企てる男性陣のなか「ゲーム」を否定し「殺人を渋ることは弱さではない」と主張する。長子(女)ではなく長男主義のドリフトマーク継承を押し通したレイニラも、統治に乗り気でないのに戦争に向かう男性陣のなか和平に動く。平和な王朝に生まれた主人公たちは玉座のゲームを望まず、むしろ玉座から離れたがり、世界からしたらちっぽけな親友との復縁を希求している。彼女たちが血気盛んなデナーリスやサーセイと異なる理由は『ハウス・オブ・ザ・ドラゴン』の出発点がそのままアンチ・ゲーム・オブ・スローンズ(玉座争い)だからである。ここで、製作陣より「『GoT』との違い」として喧伝されたフェミニズムが生きてくる。レイニラとアリセントを引き裂いたのは家父長制であり、戦争に向かう二人が囚われるのも家父長制である。だからこそ、征服から脱出し、決して帰らぬため船まで燃やしたナイメリアこそ二人のヒーローなのだ。
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