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『シビル・ウォー アメリカ最後の日』ショットの魅惑
内戦映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』で繰り返される "shooting" という言葉には、二重の意味が孕んでいる。戦場で交差する銃撃と写真撮影、このどちらも英語で "shooting" なのだ。メタ的には、もうひとつ加えられる。映画を撮る行為も "shooting" である。この三つ目こそ、重要な裏命題だ。アレックス・ガーランド監督いわく、フランシス・コード・コッポラ作『地獄の黙示録』を筆頭とした多くの戦争映画は、戦場を「ロマンチックで魅惑的」に描いて観客を興奮させるため、実態的な反戦映画ではなくなっている。この罠から抜け出そうとする『シビル・ウォー』とは「反・戦争戦争な真・反戦映画」のこころみである。ゆえに、ポピュラー音楽が違和感をうながすかたちで流されたり、ドキュメンタリーとニュースの映像技法がとられたりしている(選曲については、日本版パンフレットに寄稿させていただいた)。
銃撃の"shooting"
まず銃撃、つまり殺戮の "shooting" の面を探ってみよう。とは言っても、内戦の背景となる情報は限られている。大統領は特別な党派性は帯びておらず、シンプルにファシストだ。任期制限をこえた三期目、FBI解体、民間人空爆、ジャーナリスト粛清といった情報だけで憲法をやぶった暴君とわかる(ついでに、俳優がほのぼの政治シットコム『Parks and Recreation』でおなじみのニック・オファーマンという出オチ)。
内戦下にあるアメリカ合衆国は、最低でも四派閥にわかれている。劇中フォーカスされるのは連邦政府と戦う西武勢力。それぞれリベラルと保守の代名詞たるカリフォルニア州とテキサス州からなる連合であるから、大統領打倒のため民主党と共和党が結託したかのような「ファシスト対民主主義」構図の訴求となっている。
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政治性は排除されているわけではなく、不穏に香らされていく。描写の半分が現実世界の出来事の反映だそうだ。キルスティン・ダンスト演じるリー・スミス躍進のきっかけとなった「アンティファの虐殺」は、実在の極左団体の名が使われている。非白人の遺体の山をつくっているジェシー・プレモンス演じる男は、カンボジアに存在したクメール・ルージュのオマージュとのこと。大統領殺害の作戦はまるでオサマ・ビン・ラディン殺害のネプチューンスピア作戦だ。エンドロールの笑顔のショットは、麻薬王パブロ・エスコバルの遺体写真の参照が認められたが、同時に米軍によるアブグレイブ刑務所捕虜虐待のリーク写真を思い出さないほうが難しい。つまるところ『シビル・ウォー』とは、アメリカ国外で起きていった殺戮を国内へと埋め込むシミュレーションなのだ。英国知的階級左派の監督らしく、アダム・カーティス作ドキュメンタリー『Hypernormalisation』を喚起させるアプローチで、The Sucide「Dream Baby Dream」がかかるラストはトリビュートとの説もある。
論争必須の問題作として売り込まれた『シビル・ウォー』だが、蓋を開けてみると、政治状況の設定が大きな反発を呼んだわけではなかった。監督が「瞑想」と例えたように、コンセプト先行で記号的な映画であるから、真面目な批判も出にくいだろう。むしろ賛否を集めていったのは、作り手から「ヒーロー」と謳われていたジャーナリストの造形であった。
写真撮影の"shooting"
大統領暗殺の「キルショット」を目指してロードトリップに出るジャーナリスト四人組の特色とは、政治性の欠如である。字義通り報道に命を賭けているというのに、目的や信念がほぼ明かされない。こうしたバックボーンのなさにより、衝動的なジェシーとジョエルは違和感や不快感を抱かれやすいキャラになっている。
背景にあるのは、本作を「ヒーローとしてのジャーナリスト賛美」としたガーランド監督の意思だ。政治的分断が叫ばれて久しいこの10年、信頼をなくした報道機関も偏向を批判されがちになっている。政治風刺漫画家のもと育った監督は、映画をもって、バイアス排除につとめる「報告」主義の古典的ジャーナリズムへの回帰を主張する。
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「報告」主義報道として最も象徴的なのは、夢やぶれたベテランと夢あふれる若者、リーとジェシーの対比だろう。無謀なジェシーは防具なしで暴力現場に入る危険をおかし、助けてくれたリーを写真に撮る。ともにロードトリップに出ると、後輩は拷問現場におびえて写真を撮れなくなり、先輩から「撮るとき疑問や私見を抱くな」と助言される。かけあいのなかで「相手が死んだら写真に撮る」ともほのめかされた。道中、この師弟の行先は真逆となる。リーはスランプを深めていき、自身の信念に反して師であり恩人の遺体写真を消してしまう。ジェシーは次々と「キルショット」の撮影にのめり込み、恐怖体験によって「生きてる実感」に目覚める。ついにワシントンDCに突入すると、先輩が崩れ込む一方、後輩は夢中で撮影をつづける。兵士の言うことを聞かず銃撃に突っ込んだジェシーは再びリーに助けられ、今度は命を落としてしまった恩人を撮影することになる。そのまま大統領室へ向かい、暗殺の瞬間の「キルショット」をカメラにおさめる。疑念も私見も抱いていなさそうなジェシーの表情は、かつてのリーの生き写しかのようだ。
リーとジェシーの師弟関係は、プロフェッショナリズムのバトンタッチであると同時に、非人間性の継承かのようだ。なんだかジャーナリスト賛美というよりホラーに感じられるのだが、これこそガーランドが尊ぶ「報告」主義報道の抽象表現なのかもしれない。成長を遂げたジェシーは、クリスマス廃墟で出会った兵士と同じ反射的 "shooting" 観に到達したのだ。「あいつらが撃ってるから、俺らも撃つ(撮る)」。
映画撮影の"shooting"
戦争報道、つまり銃撃と写真撮影の "shooting" 観点への批判については後述するが、個人的に、その二つを映画撮影としての "shooting" 面が凌駕してしまっている印象を持った。というのも、この作品、作り手の意図どうあれ「ヒーローとしてのジャーナリスト賛美」以上に「映画についての映画」になっているのではないか。そもそも掲げられた大志とは、ガーランドが長年愛憎を抱いてきた『地獄の黙示録』へのアンチテーゼ、つまり観客を陶酔させてしまう戦争描写の回避だ。実際、さまざまな試みが散見されるのだが、根本的に立ちふさがる問題は、すぐれた映画作家ならすぐれた「キルショット」、つまり見る者を興奮させる画を撮ってしまう性である。この信念と欲望の相反こそ、歴代の名匠が取り組んできたものではないのだろうか。劇中すぐれた報道写真家になると同時に "shooting" のアドレナリンに取り憑かれてしまったようなジェシーの物語は、映画作家の自問自答の産物にも感じられる。演者ケイリー・スピーニーの発言どおり「良くも悪くも」憧れのヒーローを継承してしまったのがジェシーの人生である……もしかしたら、コッポラのあとを追うガーランドのように。
『シビル・ウォー』ジェシーの変化を『ナイトクローラー』のルー・ブルームと比較する意見もあるが、より近いのはジョーダン・ピール作『NOPE/ノープ』の老いた監督や、スティーブン・スピルバーグ作『ファベルマンズ』のサミーではないだろうか。どちらも、カメラを通してでしか危険な現実を体感できない映画人だ。彼らにとっての撮影とは、自分を解放してくれる芸術であると同時に己を囚える呪縛である。『NOPE』の監督は、死ぬとわかっていながらエイリアンを撮りつづける
『シビル・ウォー』は、観客を陶酔も興奮もさせない反戦映画になれたのか。個人的には否である。たしかに『地獄の黙示録』のスタイルとは異なるが、結局、時代も異なるのだ。自分にとっての『シビル・ウォー』とは、2020年代式にアップデートされた陶酔と興奮の戦争映画である。ロードムービーとしてはPinterestやTumblrにぴったりなまどろむ美しさを持ち、戦場描写面にはFPSゲームのごときクールな臨場感をたずさえている。というわけで「反・反戦映画な真・反戦映画」の大志は未達成としたいが、失敗したからこそユニークな映画だとも思う。あえて不用意なことを言ってみると、陶酔も興奮ももたらさない映画はおおむね駄作ではないだろうか? この作品は駄作ではない。
報道写真家にとっての "shooting"
以上が映画としての感想なのだが、報道の観点では問題も残るので、最後にプロの意見を紹介しよう。『シビル・ウォー』への主たる批判とは「報道の客観性を中立主義および受動性と履き違えている」というものだった。以下、紛争地での誘拐や逮捕の被害経験も持つ二人のフォトジャーナリストの発言を紹介する。
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リンジー・アダリオは、アフリカや中東、ウクライナなど、20年以上にわたり米国外の人道危機を撮影したフォトジャーナリストである。New York Times記者団としてのアフガニスタン、パキスタン取材「Talibanistan」によりピュリッツァー賞受賞。1973年アメリカ生まれ。
「『シビル・ウォー』で感じた大きな問題は、戦争写真家が命を危険に晒してまで仕事をしている理由が一切描かれないことです(中略)よく聞かれるんですよ。『アドレナリンラッシュのためにやってるの?』と。こうした発想を助長する映画に思えました。キャラクターの動機は描かれず、美しく撮られた戦争ロードトリップが映されるだけです」
「私が報道写真家をやっている理由は、政策に影響を与え、世の中に情報を提供し、誤解や偏見を正し、人権侵害や戦争犯罪を記録して歴史資料として残すためです。これが私が命を懸ける理由です。取材対象となるような事態がつづかないようにするためでもあります。戦争特派員の目的とは、不正義をなくし、現状を報せ、アメリカの外交政策がもたらしたものを周知させることにあるのです」
「『シビル・ウォー』の戦場描写は優れていましたが、人間関係については今ひとつでした。ほとんど兵士とジャーナリストで、一般の人々の存在と余波が欠けていました。内戦を傍観しようとしている町はありましたけどね。私がこの戦争報道に命を懸ける理由の多くは、民間人にあります。一般の人々こそ、記録され、語られなければならないのです」
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キャロライン・コールは、35年にわたり紛争地をふくむ米国内外を取材する現Los Angeles Times専属写真家である。リベリア内戦取材でピュリッツァー賞を受賞。1961年アメリカ生まれ。
「私の使命は、現場に行けない人々の目となることです」「写真とは証拠です。何が起きたのか、そしてそれがどのように影響したのかの記録となるのです。(映画の「ただ出来事を記録する」リーの哲学とは異なり)明確な目的意識を持っていれば、自信を持って現地の人々にアプローチできます。仕事をしに来た者だと理解してもらえるようです」
「(劇中危険な経験によって「生きる実感」を得た)ジェシーのような捉え方はしません」「アドレナリンラッシュのために報道写真家になろうとする人もいるのかもしれません。しかし、私にとっての意義とは、歴史の目撃者たること、取材した人々や出来事にふさわしいイメージを残すことです」
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