『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』 期待はずれなアウトロー
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が大変なことになっている。大ヒット作の続編なのに大コケした。OP興行収入も観客評価もDCワースト級に入る。理由は、観れば察せられるだろう。客層と相性が悪いミュージカルジャンルな上、折角キャスティングしたレディー・ガガに下手な歌を課したことで高揚が制限されている。ストーリーにしても「前作の答え合わせ」的な法廷劇だから「一見さんお断り」体制だ。大予算の続編大作としては狂気の沙汰である。なんでこんなことになったのか? 簡単に報道をまとめると、前作『ジョーカー』を大ヒットさせたトッド・フィリップス監督がかなりの創造・編集権利を握り、スタジオの意見を聞き入れずにビジョンを貫いたらしい。
公開後の混乱でひろまったのは「ファンへの反論」説であった。前作は、追いつめられて殺人を犯す社会的弱者男性の物語が共感を呼んでいったことで「インセル映画」とも呼ばれていた。このレッテルに否定的だった監督が続編を反論にあてたのではないか、というわけである。当のフィリップスは否定している。実際、受容面に関心がなくても観られる犯罪映画になっていると思う。
犯罪を娯楽にするアメリカ社会
『ジョーカー』シリーズの特色は、左派的視点による社会批判だ。マーティン・スコセッシ作品をベースにした第一作では、ホアキン・フェニックス演ずる主人公アーサー・フレックを追いつめた要因として、貧困や精神疾患への支援欠如や銃社会の問題が強調されている。『フォリ・ア・ドゥ』の現実パート、つまりアーカム・アサイラムにおいて参照されているのは、キャストにすすめられたというフレデリック・ワイズマン監督作『チチカットフォーリーズ』だろう。虐待を行う精神病棟を映したドキュメンタリーで、サウンドやショット、看守の言動が『フォリ・ア・ドゥ』のそれと似ている。
『フォリ・ア・ドゥ』がスポットライトをあてるのは、連続殺人犯の「セレブリティ(有名人)」化である。たとえば『ジョーカー』の主人公アーサー・フレックの参考にされた犯罪者は、治安が悪化していた80年代ニューヨークの地下鉄で絡んできた黒人青年たちを射殺したことで祭りあげられたバーナード・ゲッツ。「セレブ」になったこの白人男は、比較的軽い罪に処されたのち、市長選挙に立候補した。
エンターテインメント業界も無関係ではない。犯罪大国たる米国では、注目を集めた事件の裁判がよく中継されるし、情報も豊富に開示される。そのため、実録犯罪を題材にした映画やTV番組、ドキュメンタリーやPodcastの文化が厚く、コレクター市場やファンコミュニティも発展している。『フォリ・ア・ドゥ』では、模範囚として過ごしていたアーサーのもとに犯罪娯楽化の波が押し寄せていく。意図せぬ「セレブリティ」化と精神病院での虐待、裁判の重圧が合わさり、ジョーカー復活の扉が開かれるのだ。
カリスマ殺人鬼ごっこ
『フォリ・ア・ドゥ』が想起させる存在は「セレブリティ」連続殺人鬼の代表格、テッド・バンディである。1970年代、30人以上もの女性を殺害したバンディは、史上はじめて中継された裁判をショーにして自己弁護していった。カリスマ的な美男でもあったため、熱狂的な女性ファン層を形成したらしい。傍聴に通いつめた女性の中には、刑務所でバンディの子を妊娠したキャロル・アン・ブーンもいた。出会いこそ逮捕前だったものの、彼女が夢中だったのは、彼個人というより脳内でつくりあげた理想像だったと言われている。事件を取材したステファン・G・ミショーは、バンディとブーンの関係をこう定義した。「フォリ・ア・ドゥ(妄想が複数人に感染する共有精神病性障害)」。
『フォリ・ア・ドゥ』において、アーサー・フレックを一度も本名で呼ばないハーレイ・リー・クインゼルが求めていたのは、己の理想に叶う「セレブ」としてのジョーカーであった。ひとつの大きな問題は、彼女のアイドルがカリスマ殺人鬼にはなろうとしてもなれないことである。たとえば、テッド・バンディは、高い知能を持ち、共感性に欠けていて、人を操るのがうまく、良い評判を築き、計画的に凶行を重ね、逮捕されても冤罪説をばらまくしぶとさを持っていた。これら属性の対極にあるアウトローこそ、本作の主人公である。人恋しさを抱える不器用で気弱な男で、カリスマとしてのイメージは発狂して殺害を犯した瞬間それっぽく見えたにすぎない。劇中、ジョーカーを演じることにしたアーサーは、威勢よく自己弁護に挑んだものの、自分を暴行した看守がジャッキーを殺すとすぐ観念する。役から降りて自分の限界と殺人の責任を認めたその瞬間、リーの愛を失ってしまう。
神話になるには小者すぎる男
『ジョーカー』シリーズの核心とは「憧れの存在になりたい」欲求ではないか。もっと言えば「なりたくてもなれない」悲哀と無情だ。ロマンチックな曲ばかり歌うアーサーは、人を笑わせて愛される姿になりたい、けれどなれない。力について歌うリーにしても、特別な存在になりたいけどなれない。二人とも十分に狂っていて、社会の「普通」からはずれてしまったというのに。
本作を結構楽しんだ身としても終盤は説明しすぎで出来を損ねているように感じたし、続編としてもっと他にやりようがあったのかもしれない。ただ、アーサー・フレックとは稀代の犯罪者に「なりたくてもなれない」のだと徹底的に主張するような姿勢には、奇妙なせつなさを感じてしまった。というのも、トッド・フィリップス監督は、今作を語る際、ドキュメンタリー制作のルーツに触れていた。『ジョーカー』に影響を与えた学生時代の初作『全身ハードコア GGアリン』に登場するパンクロッカーは、稀代の犯罪者たち以上にアーサーと似ている。
「ステージに立っていなければシリアルキラーになっていた」。1993年作『全身ハードコア』の主人公、GGアリンが憧れていた存在は、アウトロー歌手ハンク・ウィリアムス、そして有名連続殺人鬼ジョン・ウェイン・ゲイシー。狂信的な父親に虐待されて音楽に目覚めたというこのパンクロッカーは、良くも悪くもショーマンだった。脱衣や脱糞、自傷行為など、過激なパフォーマンスによってファンを獲得していったのだ。逮捕されると知名度があがり、テレビに出たりしていったらしい。とは言っても、主に求められていたのは、音楽そのものではなく「衝撃」ショーにすぎなかった。フィリップスは、出会いざまに「人生で一番悲惨な光景を目撃した」と回想する。コンサートを一時間遅らせていた薬物依存症のアリンがようやくあらわれたと思いきや、階段から転落して動かなくなってしまった。怒った観客たちは、監督が言うに「チケット代の価値」を得るためがため、意識を失った歌手にむらがってはリンチしていった。
ドキュメンタリー撮影後、アリンはオーバードーズで急死してしまう。フィリップス含めたオーディエンスは「もっと大それた死に方すればよかったのに」と失望していった。
取材者によると、GGアリンは「神話の地位を得るには無茶苦茶すぎた」。自己破壊的な見せ物で注目を集めたものの、機会を活かせるほどの才や頭はなかったし、不幸中の幸いとして凶悪犯罪までは記録されていない。十二分に狂って身を滅ぼしたのに、ハンクにもゲイシーにも「なりたくてもなれない」男だったのだ。元バンドメイトは、生前の活動について辛辣なコメントを残している。
たぶん、『ジョーカー』の主人公も「大した」存在じゃなかったのだ。アーサー・フレックの物語は、GGアリンのように「期待はずれな」最後を迎えることで、なにかに「なりたくてもなれない」アウトローの悲哀と無情を貫いている。せめて、追悼しておこう。