『逆転のトライアングル』ワリカンできない三角関係
日本公開中。カンヌ大賞受賞、アカデミー作品賞候補で話題のスウェーデン監督作。豪華客船が難破した先の島で金持ちとスタッフの立場が逆転するダークコメディなのだが、二転三転していくジェンダー要素も面白い。
※以下ネタバレ
「性的モノ化」の逆転劇
物語のはじまり、男女カップルのカールとヤヤは「おごりおごられ」論争で喧嘩する。高級店を好むヤヤは、恋人よりも稼いでいるが、ワリカンを嫌っている。一方のカールはジェンダー論を用いて「対等な関係」を求めていくのだが、男性のタクシー運転手から「闘わなければ奴隷だ」と促されたからか、彼女に激昂し、フェミニズム的な取りつくろいを捨てる。
この作品が面白いのは、カップルを同業者にしているところだ。ファッションモデルとは「若い女性のほうが儲けられる」珍しい職種。劇中「男は女の3分の1の収入」と語られるが、実際、経済誌Forbesのモデル年収ランクは女性しかいないのが常々。「逆転のトライアングル(経済生態系)」とも言うべきジェンダー賃金格差の背景があるから、カールの「男らしさ」コンプレックスはよりこじれる。
二人に共通するのは「性的モノ化(sexual objectification)」される立場だ。「美しい見た目が一番」なモデル業でセクシャルハラスメントや美容整形指示が跋扈していることは序盤のオーディションシーンで示される。
ただし、態度には差がある。ヤヤのほうが自らの「性的モノ化」を割り切れているようだ。妊娠出産でキャリアが途切れることを想定している彼女は「トロフィーワイフ=金持ちの自慢用の美人妻」の座を狙っている。船上でもモーションをかけた金持ちから高級時計をもらってみせた。女性ゆえに「性的モノ化」の暴力性に慣れざるえをえなかった境遇もあるだろうし、リューベン・オストルンド監督が指摘するように、女性のほうが性的価値を錬金しやすい現実もあるだろう。
「別れる前提のInstagram彼氏」と告げられたカールは、本気で惚れさせようとする「男らしさ」勝負に出る。この野望は、流れついた島で少し叶う。ここで権力を握ったのはアビゲイル。清掃員として金持ち客から受けつづけた加害をやり返す中年女性だ。特権性が逆転したことで、男たちの性的価値が武器になる状況が生じる。美しき容姿を持つカールは「性的にはナシ」なアビゲイルに色じかけして実質的に買春し、ヤヤの嫉妬を買うことになった。皮肉にも「男らしさ」をかなぐり捨てて自らを「性的モノ化」した結果、三角関係ができあがったのである。
「男らしさ」レースの末路
ラストの激走の状況は不明だが、監督が好むファンセオリーは「『男らしさ』獲得のために走っている」解釈だという。想像するに……みずからを「性的モノ化」したカールは、男たちから娼夫として嘲笑される立場に耐えかね、アビゲイルの公式彼氏になろうとした。つまり「男らしさ」の尊厳のために、今度はヤヤと別れたがったのだ。しかし、絵に描かれたロバのように「主導権を握りたいけど勇気がない」から、アビゲイルにやってもらおうとする(絵の場面でヤヤが二人に目をむけイチャつきに気づいたのは、あの語りでカールを想起したからだろう)。でも、彼もギフト商人と出会って元の世界に戻れることがわかったのなら、ヤヤとつきあったままの方がいい。だから破局計画を止めるため激走した……こう考えればカールの「男らしさ」レースの弧が綺麗に閉じる。
あるいは、単に破局計画を止めるため向かったら悲鳴を聞いたとか、ヤヤがアビゲイルを殺すと想定したケースでも良い。どのみち、タクシー運転手から「愛してるなら闘え」と助言された彼は、闘い方をまちがえた。「男らしさ」にこだわって右往左往したから恋人を失う。
「寛大」な階級意識
ヤヤとアビゲイル、女性同士の関係も秀逸になっている。この二人、一応好意は持ちあってた設定らしい。いびつに思えるが、ヤヤにしても「性的モノ化」街道に思うところはあったはずで「男の上に君臨するあなたの母系社会はすごい」賞賛には本音もあったのかもしれない。
しかし「元の世界への入り口」であるエレベーターを発見したことで、従来の格差が露見する。ヤヤは歓喜するが、アビゲイルからすれば、ゴミのように扱われる元の世界になんて戻りたくない。遭難者に食料をわけあたえるため身体を酷使したから、むち打ち症も患ったようで、肉体労働への復帰も難しくなっていそうだ。だから隠蔽のため発見者を殺そうとする(結局、元いた海浜に商人が来るから無駄なのだが)。映画の正解というわけではないのだが、脚本におけるターニングポイントは「これで子どもに会えるね」と微笑まれた時だ。
「子どもはいない」と返されたヤヤは、なにかほどこそうとする。子育てによるキャリア中断を前提とする人生観を持っていたこと、相手の犠牲=身体ダメージを知ったことも働いたのかもしれない。そうして序盤の「友だちには寛大な太っ腹」自称を証明するかのように、アシスタントにならないかと申し出た。これは「寛大な思いやり」と言えるが、受け手によっては「優越感=階級意識のあらわれ」とも言える。船上でロシア人女性がスタッフに強いた「我々の贅沢を味合わせてあげる」パワーハラスメントが良い例だろう。格差に敏感になっていたアビゲイルにとって、アシスタントは「下の立場」の使用人だ。おそらく、ただ感謝を示すか「自分の動画に出てこの体験を語ってくれ」みたいに対等な提案をしたほうがマシだった。ここで、冒頭の「おごりおごられ」論争にまいもどる。カールから「対等な関係」を求められたヤヤはワリカンを拒み、エレベーターで決裂した。異性対象の「性的モノ化」を生存術にしてきたのであろう彼女は、物語の最後、またもエレベーターでコンフリクトを発生させ、同性相手にもワリカンができなかった。
ヤヤの「寛大」な申し出が、殺害をとめたのか、それとも、格差をつきつける最後の藁になったのか。永遠にわからぬまま映画は幕を閉じる。
誰がロバなのか
プロット構造から考えてみることはできる。この作品、ヘンリック・イプセン『民衆の敵』が踏襲されているのだが、アメリカの有名ドラマ『ザ・ソプラノズ』式でもある。あの島で、男たちは躊躇しながら石をとり、ロバを殺した。ヤヤが描いたロバの絵は「脚を密着させている」弱き獲物だと語られる。最後、石を持つアビゲイルが苦悩しているあいだ、ヤヤは脚を密着させる。つまりヤヤがロバである。
エンディングの Fred again.. feat. The Blessed Madonna「Marea (We've Lost Dancing)」 は、あのエレベーターでかかっている音楽なのだという。監督いわく、屋上プールのBGMでもあり、中年層からしたら疎外感を抱かされる選曲だ。アビゲイルにとっては、自分がなんの役割も持てない「元の世界への入り口」を意味する。中々エグい演出だが、リリック自体は、キャラクターたちのすれ違いと喪失にあっているように思う。
よろこびます