[4]流山市の中学校の生徒数予測はけっこう当たる??
段落を打ち込むときに気づいたのですが、今回のはほぼぜんぶ方角が入っていますね。入っていない「おおたかの森」「おおぐろの森」「常盤松」中学校は、第1弾で紹介しています。すべて流山市でいう中部地域ですね。こういうの、面白いです。せっかくなので、この学校名が何を意味するのかもご紹介しましょう。
流山市の小中学校の予測どうなっているのnote、ついに今回でラストです。1本目は8ヶ月前に投稿し、ノリでぜんぶのExcelをつくった(12月中旬)のに文章を書き"始める"までに時間がかかってしまい…長かったです。これだけ時間がかかっていると、いろいろ改善点も浮かんできて、修正しようか迷っているところです。6月あたりになれば来年度の予測も出てくるでしょうし、どうしましょうか。
今日もよろしくお願いします。
各学校の予測
※今回もグラフの右側はそろっていますが、左側がバラバラなので、見るときに年だけ注意してください。
あと、これまでのnoteを読んでくださったやさしい皆様なら感じると思いますが、グラフがかなりきれいで文章の内容が少し異なります。
南部中学校
わたしの住んでいるまちでもそうなんですけど、昔からあるまちの中心部って、どこに若い世代が住んでいるのかわからないけどずっと子どもが多いですよね。しくみは東京都心と似ているのでしょうか。
流山北小学校と流山小学校の全域、そして来年度に開校する市野谷小学校の一部の児童が通います(おおたかの森小学校からはいるのでしょうかね?)。とくだん学区が広いわけではありませんので、昔から栄えていた場所なのでしょう。
おおぐろの森中学校が分離開校する前年(2021年)におおたかの森中学校に生徒数を一度抜かれましたが、その年以外は手元にあるデータでは20年近く流山市で最も生徒数の多い中学校です。しかし、おおたかの森中学校は800人近くに、おおぐろの森中学校と後述する南流山中学校は1000人を超えるため、横ばいの南部中学校はもうすぐ1位ではなくなりそうです。
「南部」は流山町で見たときの南部地域にある学校のためだと考えられます。南流山中学校もありますが、こちらのほうが開校が後の時期です。
北部中学校
開校した年は不明でした。ですが、1960-69年頃の航空写真に北部中学校の位置に学校があることが確認できました。そして江戸川台小学校の沿革に「昭和34年4月開校 北部中学校と新川小学校の校舎を借りて授業開始」とありました。なので1959年にはあったことがわかりますね。
(わたしの予想だと、新川小学校は開校して150年と歴史ある学校なので南部中学校と同時期ではないかと考えています)
主に新川小学校と江戸川台小学校の児童が通います。地図で見ると西深井、西初石小学校の学区も含まれていますが、学区外申請でみんなが通う中学校に変更することもできます。
この20年で200人くらい生徒数が減りました。このグラフでも、同じような傾向が見られるでしょうか。新川小学校は小規模特認校となり、江戸川台小学校の学区は建て替えや活性化が進んでいます。なので、人口は減少するというより入れ替わっているイメージです。
推測になりますが、「北部」も流山町でみたときの北部地域にある中学校という意味でしょう。
東部中学校
1974-78年ごろの航空写真に現在地にあるのが確認できました。開校した年は不明です。
向小金小学校と東小学校の児童が通います。どちらの児童数も横ばいと言われているので、少し減少はしますが中学校にも同じような傾向が出ています。とはいえ、流山市では規模が大きめの学校です。
柏市や松戸市に近いこの地域は流山市内で「東部地域」と呼ばれていることから、この名前になったと考えられます。
東深井中学校
北部中学校から分離しました。沿革に新入生の数と卒業生の数が記録されていたので、それを基に生徒数を推定したグラフを作ってみました。他で使っている数値と違う上に2年生の生徒数は合っていないので、だいたいの形、雰囲気だけ感じてください。
ソース:東深井中学校の沿革
日付:不明
グラフの作り方
1.入学式の数値を1年生の枠に、卒業式の数値を3年生の枠に入れる
2.1年生の数値を1年後の2年生の数値の枠に入れる
3.2014年以降は流山市が公開している数値を使用
3.グラフ作成
1980年代後半は生徒数が1000人近くいたそうです。沿革によると1学年8クラスあった時期もあったそうですね。昔は1クラスに40人以上いたので、今の大規模校よりもさらに詰め込まれていたのでしょうか。
西深井小学校と東深井小学校の児童が通います。ここの学区、東武野田線で区切られているのかと思いきや車通りが多い道路で区切られています。いちど歩いてみましたが、たしかに古い道で歩道が無く、でも車にとってはこの道しかないので危険でした。
森や畑だったところが市街地になっています。土地区画整理事業は行われていないからか、昔の畑や道の区画をそのまま住宅地になっているところもあります。不動産屋さんが森を購入して、数十軒、数百軒と建て売りしているところが今でも多いイメージです。
東武野田線東側は昔はほぼ家がありませんでしたが、今ではもう建てる場所は見当たらないです。森を切り開けばできそうなところもありますが、流山市の政策で自然を保護しているので難しそうです(運河駅南側にはマンションができるそうです)。西側は昔と変わらずな雰囲気ですが、線路や道路の近くは開発されているところが少しずつ増えています。
なぜ「東」深井中学校なのか、いろいろと調べてみました。昔は、全体が深井という地名でした(いま物流基地があるところあたりが由来?)。でも、新田開発で西深井が独立しました。(じゃあ深井中学校でいいじゃんと思いましたが)中学校の住所が東深井なので東深井中学校となりました、という考察です。
もう一つ考えられるのは学校ができた順番です。東深井小学校が昭和49年、
次に東深井中学校が昭和52年、そして西深井小学校が昭和54年に分離開校しました。東深井小学校に続く中学校だから東深井、なのかもしれないですね。
八木中学校
なんだかよくわからないのでそのまま引用してきました。南部中学校くらいに歴史のある学校です。さいきん武道館を改築していて、木造のかっこいい建物ができていました。
長崎小学校と八木南小学校の児童が通います。流鉄から東武野田線の豊四季駅あたりまで、横に長いです。八木南小学校の児童数が増える予測が出ているけれどだんだんと遅れていっているのが、中学校のグラフにも映っています。
先日市野谷小学校の許可区域が発表されて、八木南小学校の児童が移動することができるようになりました。いまの生徒数は市内では少ないグループですが、セントラルパークあたりの人口は確実に増えるので、生徒数の増加が見込まれます。しかし、教室数はそこまで多くはないのに増築等の話はまだ出てきていません。
むかし流山市ができる前は「八木村」がありました。学区でいうならば、八木北小、おおたかの森小、小山小、八木中、東部中あたりです。八木村にできた中学校なので、学校名にそのまま残っていると考えられます。
南流山中学校
南部中学校から分離開校しました。学区の東側は昔からあるまち、北のほうは昭和48(1973)年にJR武蔵野線南流山駅が開業してからできたまち、南のほうはTXが開通してから土地区画整理事業が行われたまちです。2024年、この学校は鰭ヶ崎に移転します。
もともと(現在は)南流山小学校と中学校が隣接していますが、小学校のほうが区画整理で子どもが大きく増加しています。そのため、小学校を分離させようと土地を探していたら、小学校の南に調節池がありますね。ここを小学校にしよう!と思いましたが、工事に時間がかかりそうで待っていたらパンクします。なので、隣の中学校を第二小学校にすることになりました。
移転する先は東洋学園大学流山キャンパスの跡地です。宮園のすぐ下、南流山中学校学区の東端です。英検会場などとして使われていましたが、流山市が買い取って中学校に改修しています。ものすごく遠くなるし生徒も増えるので、自転車置き場が多いです。
南流山小学校と鰭ヶ崎小学校の児童が通います。令和6年度からは、南流山第二小学校も追加されます(細かいこと言うと、第二小の卒業生が入ってくるのはその次の年からですね)。どの小学校の児童も増加しているので、移転先の教室数はとても多いです。将来的には小学校と同じ48教室まで作れるそうですよ。
「南流山」は流山市の南にあることから名づけられました。駅が設置されたことによる市街化によって開校した学校なので、南流山駅、南流山〇丁目、のように中学校の名前も付けられたと考えられます。
西初石中学校
2015年におおたかの森中学校が開校するまではおおたかの森駅あたり(旧番地:西初石5,6丁目)までが学区でした。小山小→西初石中の子どもがいたということです。2012年のデータによると、13%(77/614)人が学区外から西初石小に通っている児童がいたそうです。
しかし、小学校は2014年にピークが来るのかと思いきや、2020年ごろにピークが来ています。それに伴う中学校のピークは今年ごろでしょうか。宅地開発などを調べてみましたが、波が来た原因と言い切れるものはわかりませんでした。
雰囲気としては東深井と似ています。1960年ごろの航空写真と比較すると、森と畑の線がそのまま住宅地になっていることがわかります。まちの端っこ、まちと自然の境界に学校があります。おおぐろの森中学校が開校するまでは大畔も学区でしたが、小中学校が大畔にできるために変更となりました。(たしか、大畔に住む子どもたちは、どちらの学校に通うかは選択できます。)
西初石小学校の児童数は市で比較すると真ん中くらいですが、中学校は市で最も少ないグループにいます。近い生徒数には八木中学校、東深井中学校があります。西初石中学校の学区が狭いというわけではありませんが、学校より西側が自然が広がる地域なので、今後も小規模な学校になりそうです。
おわりに
ここまで読んでくださりありがとうございました。Excelの上手な使い方がわからないし文章も書きなれていないので、このnoteを通して見やすいものに成長していれば嬉しいです。最初のほう、さっき読み直して全力で修正して更新しておきました。
さいごに、この調べ学習のまとめとなる考察を書きます。最後の引用部分だけ読んでもらえば嬉しいです。
考察
■子どもの数が増加している地域について
中学校の予測の変化があまり大きくないのは、中学校ならではの理由があると考えられます。そもそもこの予測は6年分を行っていて、6年後の中学一年生は今年の小学一年生です。流山市は増加見込みを子どもの年齢が低いほど多く予測していて、10歳を超えると1%ほどに設定されています。
つまりは、学年が上がるほどに精度が上がるということです。7歳ならばたくさんの人数が入ってきますし、そのぶん予測値から外れる確率も上がります。住宅だって、住みたい人がいても社会状況によっては人手が足りないなどの理由で土地が一定のペースで開発されることはないです。
マンションならば「おおたかの森〇丁目に○○戸建てます、○○年○月に入居開始します」と数年前には言えますが、一戸建てとなると分譲されても住み始める時期はバラバラです。ここが、予測を難しくさせていると考えられます。実際、初期は30年で住宅地が埋まると考えていたのが、今は5年の均等割りです。その結果、八木南小学校では毎年下回る数値になっていますが、足りなくなっては困りますから多く見積もられています。
そして、特に難しいのが商業地域です。商業施設ができるのか、はたまたマンションができるのかがわからないです。竣工する数年前には通知がいくようにはなっていますが、商業施設ができて人はほぼ住まないだろうと読んでいたのにマンションができると聞いたときにはもう。
小山小も最初から大規模校にする想定で作ればよかったのかもしれません。しかし、おおたかの森の戸建て地域だけを見ていれば、2階建てのユニークな校舎だけで足りる、という当時の感覚がわかるかもしれません。最初の計画では、東武野田線で真っ直ぐ学区を区切ろうとしていました。
■流山市全体の特徴
宅地開発が行われていれば子どもの数は増加し、その後に減少します。そして宅地開発が終わって一定期間が経つと、横ばいになります。いつ、どのくらいの値で一定になるかは今はわかりません。もしかすると、減少の傾きが止まらないかもしれませんが、どこかで一定の値に必ずなります。
その一定の値になるためには、そのまちの力が必要となります。たとえば小山小は駅が近く、校舎がオシャレで、市の政策も良いです。だから、その地区には多くの人が住もうとし、子どもの人口が多い値になります。逆に魅力、そのまちに住む意味がないと人は住むことはないですし、人口は減る一方です。
で、これをClaude3にまとめてもらうと、こういうことです。
この調査をやってみての感想
昭和⇔平成⇔令和⇔西暦 の計算が瞬時にできるようになりました。
趣味で都市計画を学んでいるので、自分の知識がまだまだだなと感じました。今後は、なぜこのまちに魅力があるのか、行政の負担と喜ばれるちょうどいいラインがどのあたりにあるのかを調べてみたいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
参考文献
流山市公式ホームページ
主にくらしの情報>教育・学校 からです。
柏市立第二小学校
wikipedia
千葉県 流山区画整理事務所
地名など
全体のもくじ
だいたいの雰囲気で分けました。4本ぜんぶで18000文字くらいあります。
その1
その2
その3
その4 この記事です。
流山市の中学校の生徒数予測はけっこう当たる??
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