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浅さを知りて、一歩目

緊張している。

6月が終わろうとしていたある日。
まだ日が長くて昼間のように明るい18時過ぎの北鎌倉駅ホーム。
何年かぶりに伺う珈琲屋さんに緊張している。

2011年からその存在を知っているけれど、初めて伺ったのはいつだったか。

まだ珈琲が飲めなかった頃、タイはバンコクにある紀伊國屋書店。これから始まる長旅のお供となる本を探していたとき、カフェ開業特集の雑誌を手に取っていた。
掲載されていたその暗がりの珈琲屋に惹かれた。珈琲よりも、一緒に写ったトリュフチョコが美味しそうだな、と思ったことを昨日のことのように覚えている。
珈琲も飲めないのにそんな雑誌を買ったのは、大学生時分で進路に悩みながらも「いつか」という思いが一応あったのだろう。タリーズでアルバイトをしていたから、「カフェ」というものはその頃から好きだったはず。

初めて伺ったのがいつなのか、やっぱり思い出せない。
大学在学中か、就職してからか。
たぶん在学中だと思うけれど…確信はない。

たいていはマイナス寄りの状態で訪れる。
何かに悩んでいたり、落ち込んでいたり、なんとなくモヤモヤが溜まっていたり。その最寄駅から、すがるように少し足早にお店まで向かったものだ。
嘘みたいだけれど、入店する前まで頭痛がひどかったのに、お店を出る頃にはすっかり治っていた、なんてことが何度かあった。精神的なストレス由来の頭痛なのか、緊張による肩回りの凝り由来の頭痛なのか、なんにせよ癒されて解(ほぐ)されて治ったのは間違いない。

そのお店にとって自分はただのお客さんのひとり。
話すわけでも、名乗るわけでも、なんでもない。
ただの飲食店とお客さんC。それ以上でも以下でもない。
注文をして、珈琲を作ってもらって、飲んで、お金を払って。
余計な話は一切しない。
「ごゆっくり」と供され「ごちそうさまでした」と退店する。
それだけでこんなにも心身が癒されるなんて、よく考えたらおかしいと思う。
知らないうちに、珈琲に覚醒作用のある何かを添加されているのかもしれない。
あるいはその場にいるだけで回復効果のある結界でも張られているのだろうか。

北鎌倉に住み始めてからは一度も行けていなかった。最後に伺ったのは引っ越す直前の2020年9月だった。
物理的に距離が遠くなっただけではなくて、営業日がうちと丸被りでもあって。
日々の忙しさ、余裕の無さも相まって早3年と9ヶ月。こんなに間を空けたのは初めてではないだろうか。
とあるきっかけを強引にきっかけ足らしめる口実として、かつ梅雨のシーズンが終わって珍しく営業後の仕込みの必要がなかった、この土曜日。
これは今だ。今しかない。
そう思って店を出て、北鎌倉駅ホームのベンチにひとり座っていた。

緊張していたのは、嵌(はま)るか怖かったからだと思う。
嵌る、というのは、今の自分と、お店が嵌るか、ということ。
4年弱も経ってしまうと、自分もそのお店も大なり小なり変わるもの。そのお店のことを自分の想像で実際以上に美化している可能性も十分にある。私はネガティブなのだ。
臆病な私は自分にとってのその大切なお店が、そうじゃなくなってしまうかもしれない、というのが怖かった。「拠り所」を失うのは、とても怖い。

最寄り駅に着いて、やっぱり足早に改札を抜け、駅ビルを尻目に街に出て、見慣れた住宅街をするすると抜けていく。

浅さを知りて

見慣れたドアを開けた。
見慣れた人が、聞き慣れた声色で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
なんとなく声を出さずにおずおずと会釈をして、店内を見回す。
2組ほどお客さんがいた。どこに座ろうかと逡巡し、いつもの入り口から一番遠い席に吸い込まれるように座る。座り慣れた席なのだ。

珈琲とスパイスが織り混ざったような香り。ああこの香り。知っている。
アナログでアコースティックなbgmと壁の向こうの作業音。
手触りの良い古材のテーブル、座高の低い椅子。硬い床。
何も変わらない。何も。
全身の私が思い出す。今までの全てを思い出す。間の空いた3年9ヶ月のみならず、13年分の、きっと走馬灯というのはこれだ。死ぬ間際に見るものだと思っていたけれど、ぶわっと脳に押し寄せる。
その安心感に、積み重なったお店の歴史を勝手に想像する。
言葉より先に涙が滲む。飲食店でこんなに目頭が熱くなるのは初めてで、自分に驚いた。

同時に思う。
浅いなあ。自分も、自分のお店も、浅すぎる。
何を考えていた。
あまり高望みしないマイナス思考な自分は、最近の状況に少し満足感を覚えていた。一応生業として食べられている。少なくても、お店を大切に思ってくださる方がいる。十分だ。本当にありがたい。
多くを望むべき、とは思わない。他店と比較するものでもないこともわかっている。
しかし確かに「浅いなあ」と思ってしまった。これはなんだろう。

いやいや。今はくだらない自責よりも、ただここに浸るべきだ。
本を2冊、ノートを1冊持っていったが、とてもそんな余裕はなかった。
ただお店を感じたいと全身が訴えていた。
何もしなかった。スマホも一度も起動しなかった。したくなかった。
ただただ、居た。

深煎りのブレンドと、チョコレート菓子。
こんなに美味しかったっけか。
今の私にとって、完璧だった。
この珈琲、お菓子、そしておかわりで頂いたカフェラテも。
自分のお店を始めたからだと思う。
「完璧」をご提供するのがどれほど、どれほど、どれほど、どれほど…どれほど大変か。
飲食物そのものだけではない。
その場の空気感と、人と、私自身とお店の積み重ねすらも、含めての「完璧」だった。
死ぬまでにあと何回来られるだろうか。
死ぬまでに他にこのようなお店に出合えるのだろうか。
死ぬまでに、こういうものをご提供できるお店になれるだろうか。

「きっかけ」足らしめたものも買い求めて、お店を後にした。
きっと私はまた「嵌るだろうか」なんて愚問を胸に抱きながら、何年後かにおずおずと扉を開けにくる。その時を想像するだけで、すでに胸はかすかに高鳴っている。

"下手糞の 上達者への 道のりは 己が下手さを 知りて一歩目"
ということだろう。
次は、恥じない自分で訪れることができるように。
この気持ちを忘れないように。

(お読みになったあなたがこの珈琲屋さんとお知り合いだったとしても、どうか当店の存在は伝えないでください。私はただのお客でいたいのです)

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