パン屋のフランス人のピエロ
私たちの小さなテーブルの周りには、小さな白パンと、彼が手の平から出した特大の薄桃色のラナンキュラスが散らばっていた。
彼の掌は泉のようだった。
なんでも作れそうで・・・、でも胡散臭いから神様ではないだろう。
彼は昼のロマンチックを知り尽くしているような、パリが故郷の男だった。
私は白昼夢のようなこのひと時の証人を作りたかった。
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新しい幼稚園での勤務に馴染めなかった私はトイレで時間を潰す方法を考えていた。
仲の良い同期が転勤することがなければ、この退屈な仕事もまだ続けられたかもしれない。
私は東京駅の地下鉄のある駅に勤めていた。
その駅には有名なパン屋があった。
私はそこで休日1人でパンを窓際のはじの席で食べていた。
その店のパンはとても大きくて、そのパンを好きなようにお客がちぎってレジに持っていく。
それでとっても安い値段がつけられる。そんな良心的な値段で有名なパン屋だった。
その日は日本ではとっても珍しいサーカスの日。
私はサーカスを見たい気持ちを抱えながらも、持っているパンの美味しさと仕事の苦しさの間で涙を流していた。
それはそれは派手に泣いてしまっていた。
そんな時唐突に目の前に金髪の男性が現れた。
私の落としたパンのかけらを拾って「どうしたんだい」といった。
私は「ありがとう」といった。でも泣いてパンを齧り続けるだけだった。
男性のRの発音が独特だったので、その男性がフランスから来たのだと私はわかった。
そのフランス人はいった。
「君には恋人がいるのかい」
私はこたえる「いるわ」
そうしたらフランス人は「じゃあ君がここで泣いているということは、君はその恋人と・・・。」
別れた方が良い、と言わせたいような口振りだった。
私はそれを無視してこう返した。
「ここのパンが美味しすぎて泣いているの。それに新しい職場にうまく馴染めなくて。」
私は手元のパンを見つめていた。そしてふと目をあげた。
そうしたら私の目をあげた先にいたのは、一段さがったところにあるテーブル席に座る、1人の女性だった。
「なんだ、白昼夢でもみていたのか・・・」
とても不思議な気分になった。白昼夢なんて見たことがなかったから。
その頃には外でサーカスが始まっていた。窓から大きなピエロたちが見える。
彼らは帽子の中からとてつもなく大きな自分の耳(ウサギに似ている耳)を出したりしまったりしている。
そんな黄色と青のピエロが2人見えた。出店も出ていたがどの食べ物よりもこのパン屋の方がずっとずっと美味しいと言うことは間違いなかった。
この店はフランス人がフランスパンを買いに来るんだ。
それにかたちの綺麗なパンを選んでとっていいなんていう気前の良いパン屋なんだ。
そう思った矢先、気がついたらさっきの男が目の前に座っていた。
「僕がいなくなったと思ったろう」
私はうなづいた。でもその時にふと気がついた、自分の右の上の(半階高くなっている)方の席で、昔の高校の同級生がこちらを見て、私がフランス人にナンパされているということを見ていたことに。
私はこの場をクールにやり過ごすことにした。
「夢を見ていたと思った」
そうしたら私が机の上で書いていた、涙のしみた連絡帳の文字がフランス語に変わっていった。
その上から私がペンで日本語で書いてもフランス語になってしまったのだ。
私はおかしい、おかしい、と思いながら、職場のトイレを思い出していた。
汚くて使えなかったり故障したりして使えない小部屋が8部屋中6つもある、汚いトイレ。
そのトイレのあるところに私は明後日帰らないといけない。
明日は友人の結婚式があるからここ東京にきた。連絡帳を書くという仕事を持って。
目の前のフランス人を見た。そうするとこんな様子だった。
大きなウサギの毛でできたような首巻きを頭の後ろから前に動かしたと同時に顔に美しい化粧が施された。
そして首巻きを後ろにもどすと彼の首巻きは消え、天然パーマの博学そうで女なれしていそうな男性の顔が現れた。
私は
「一瞬で・・・」
と言葉を漏らした。
また目を閉じてもその少し胡散臭くて賢そうで顔の整ったメガネヅラのフランス人は目の前にいた。
でも私はその時から、次は彼がどんなマジックを見せてくれるのか胸を躍らせていた。
私はその後電話で昔の恩師を呼んだ。
彼を見て欲しかった。
白昼夢のようなこのひと時の証人を作りたかったのだ。
彼は私を次々に笑わせるような技を披露した。
店の中でやるにはいささか派手すぎるようなものだったが、周りの人は列を成して次の自分の番に買うパンを見定めるので夢中だった。
そこでの人気メニューは長くつながった茶色いパンで、ミルフィールのように3段に重なっていて間にチョコクリームの入った実にふっくらとしたパンだった。それをお客はトングで無造作にちぎってかっていく。値段の付け方はなんて適当なんだというくらいに。
彼は昼のロマンチックを知り尽くしているような男だった。
たとえ周りが明るくても、サーカスのように周りが騒がしくて興味をそそるものがあっても、女性に彼の手に注意を向けさせることはお茶の子さいさいのようであった。
私たちの机の周りには彼が手の平から出した特大の薄桃色のラナンキュラスが散らばっていた。
彼の掌は泉のようだった。なんでも作れそうな、でも胡散臭いから神様ではないだろう。
彼はいろんなものを見せてくれるが言葉では私を誘うようなことは言わない。
そのかわり、君の見ている世界はほんのー部屋の世界に過ぎないということを見せつけてくれているようだった。
彼はふと席を立った。
「僕とくるかい?それとも・・・」
私は付き合っている人がいたから
「いかないわ」と言った。
その声を聞き終わらないうちに彼はサーカスの中へと紛れ込み、姿を消そうとしていた。
彼が向かったのは地下鉄だった。
地下鉄の壁を叩いて私は彼を探した。
彼はきっと壁の中にいると思ったから。
ごく小さな壁の穴からネズミが顔を出した。
そのネズミが彼だった。
サーカスの日にだけ現れるネズミのようだった。
顔には化粧、首には首巻きをしていた。
でもすぐに壁の中に引っ込んだ。
「さよなら」
私は自分から男の人を走って追いかけたことがなかった。
そして真昼間のロマンチックを見せつけられたこともこれまでそう多くはなかった。
次の日の友達の結婚式で、私は色とりどりのバラの花を見たがそのどれもが死んでいるようで全く美しく見えなかった。
あの日パン屋で彼が手の平から生み出して私が涙を与えたラナンキュラスの方がずっとずっと美しく、生きているように見えたからだ。
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