君は一蘭なんて行かない
「どうして博多なのに一蘭なのよ」
三軒目のバーで意気投合した女は、MIU MIUのハンドバッグを小さく振り回しながらそう言った。僕としては、一体どうしてその不遇なMIU MIUが引きちぎれんばかりに振り回されているのか理解しかねた。
「どうしてって。いま見るからに空いていて、いつだって美味しくて、うるさくなくて、隣の客に絡まれることもないし、おまけに水がうまい。完封だ」と、僕は答えた。彼女は老いたフラミンゴみたいな色をしたハンドバッグをだらりと下げ、上目で睨みつけた。酔っ払っているのかもしれない。先程のバーでは彼女が僕より先に店の中にいたから、どれくらい飲んでいたのかもわからない。僕と彼女は二人でヴヴ・クリコを一本シェアしたから、それで酔っ払ってしまったのかもしれない。何にせよ、わからない。僕たちは今日はじめて出会ったし、名前すらもわからないのだ。
「私は生まれてこの方34年間、博多で育ってきたの。一蘭なんてね、昔々に付き合っていた彼がアルバイトをしていたときに、あの最低なヤツのせいで、仕方なく二度か三度は行ったことは認める。でもね、成人してこのかた、一度だって私は一蘭になんて行ってないわよ。私は一蘭になんて行かないの」
「君は一蘭なんて行かない」と、僕は彼女の言葉を繰り返した。英語の第二文型を学習する中学生のように。
She never goes to Ichiran.
Nevermore, nevermore.
「あなたもしかして、観光の人?」
「いや、西区に住んでいるよ。君と違って、12歳の時に引っ越してきたわけだけれど」
僕たちは一蘭の目の前でするための会話としては世界で三番目くらいに相応しくない内容を交わした。僕たちのすぐ側を、カップルが二組と中年の男性が一人通った。世界はみんな一蘭を求めているのだ。西区民も、博多区民も、おそらくは北九州市民もそうだろう。
「とにかく」と、彼女はアイフォーンをMIU MIUから取り出し構えた。MIU MIUには、アイフォーンと小さな財布とリップが入ったらもう一杯なのだろう。多分六十回くらいは振り回された、哀れで健気なMIU MIU。「歩きましょう。馬鹿げているわ」
「賛成だ」
きっと彼女の提案は、この世のあらゆる馬鹿げたものごとのうちでは最高にアグリーアブルなものだった。僕はただ、彼女がアイフォーンで調べているどこかしらの行き先へ(画面を覗き見したかったけれど、これ以上MIU MIUが振り回されることになるのは避けたかった)一緒に歩いた。彼女は猛然と、億単位の商談を逃したあとのキャリア・ウーマンみたいな勢いで、ハイヒールをアスファルトに突き刺して歩いた。
中洲の街に輝くいくつものラーメン店の看板が、人生を流れ過ぎて行ったあくまで事後にしか感知できない幸運のように、僕の視界から去っていった。