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サブゼミと僕と根っことか

カバーが弊息子にヒットしている

先日、こんなつぶやきをしていた

このことを書きたいとうずうずしていたのだが、
いつの間にか、年を越してしまっていた

先日から家を探検して回っている弊息子に
落合陽一さんの「忘れる読書」がなぜかヒットしていて
高確率で、カバーだけを持って、嬉しそうに歩き回っている
もう少し大人になったら読んでみると良いよ
ただ、この本は読み聞かせには不向きだと思うよ

サブゼミ的だと思った”はじめに”

サブゼミについての説明は省かせてもらう
気になる人は
”中央大学””教育学ゼミナール””サブゼミ”とかでググってもらうとよい、かもしれない。
たぶんなんかしらわかると思う。

さて、”はじめに”で僕はこの本に”サブゼミ”を思い出させられたのだが
それはこの文言

今の時代に読書をする意味は何かと問われれば、第一に「思考体力をつけるため」、第二に「気づく力をつけるため」、第三に「歴史の判断を学び今との差分を認識するため」と私は答えるでしょう。
落合陽一「忘れる読書」(PHP新書)p.3

全然本を読まない、田舎者の大学生が
中大でサブゼミに出会って、そこでみんなと話すために本を読み始めたことを思い出した。

そう、みんなと話すための下地があまりには僕にはなかったのだ。
教育についてもそうだし、社会についてもそうだし、
どの話題についても圧倒的に不足していた。
教養がない、ということを痛烈に感じたのだ。
(ちなみに落合さんは教養を「ある程度多数の人がベースとして知っている(べき)知識」とおっしゃっています)

そこでニコニコして、単位が取れれば良いと考えるくらいの〇〇か
教養がないことに気づかないくらい教養がなければ、
本を読むこともなかったが、
サブゼミ1年目に心の師と呼べそうな4年生に出会っちゃったもんで
(その人の分科会には怖くて入れなかった)
本を読む生活が始まった、のかもしれない。

点と点をつなげる、ということ

落合さんは本の序盤で
大事な能力について語る中で
「抽象化する思考」「気づく能力」「点と点をつなげる」
と言っている。

サブゼミもそうだし、サブゼミに入っていなくても教育学科の人たちは
誰もが能力が高くて、
これは真っ向勝負してもなんも跳ねないな、と
思っていて
目先を変えたり(普通のことを表現を変えてキャッチ―に仕上げる)
原稿の言葉遣いをポエティックにしたり(読んだときに気持ちいい語感を意識する)
本文より注に力を入れたり(当時、注のことを副音声と考えていた)
していたわけだけど、

一番力を入れていたのが、
ある分野の人とまた別の分野の人の考え方の共通点をつなげて
これって各々見てる世界は違うけど、同じ世界線にいるよね、と示すこと
ひどくペダンティックだけど楽しかった。

点と点をつなげる、の集大成は
卒論の序章で、
シュタイナーのスピリチュアルな部分を現代科学で翻訳したい
という生意気なことを言っています。

プラクティカルではない卒論を書くことで、うまく同じように評価される人が少ないフィールドに立ってみたり
<サブゼミ論文を1シーズンで3本書いた>ということで、論文賞を頂いたり…
(プラクティカルなことに興味を持てなかったこともありますが)

自分でストーリーを練り上げる

落合さんは教養を
「自分でストーリーを練り上げる力」と同義とも言っていて
ある事実とある事実を繋いで
自分のストーリーへ高める、ということも話されています

サブゼミってこういうことだったよな、と。

わからないことが何か、ということに気づいて
本を読んで、
それを誰かに話して
誰かの話を聞いて
また本を読んで

このループの中で自分のストーリーを練り上げていく

たぶん、このループが足りなかったら
誰かに寄っかかっているだけのストーリーだとか
誰にも寄っかからない自分だけの殻に閉じたストーリーだとか
で生きていたんだろうな、とつくづく

今も、自分は何かを無批判に受け入れていないか、とは疑問に思うことはありますが。

フックを頭にたくさんかけておく、ということの大切さ

これからの時代、クリエイティブであるための知的技術は、読後に自分の中に残った知識や考えをざっくりと頭に入れ、「フックがかかった状態」にしておくことです。何となくリンクが付いているような状態で頭の片隅に残しておけば、いずれ頭の中を「検索すれば」わかるからです。
落合陽一「忘れる読書」(PHP新書)p.54

サブゼミで他の人のレジュメを読んだり発表を聴くと
その人自身の考え方だけではなくて
参考図書も知れるし
その場にいた人の考えも知れるし、
その場にいた人の考えの元になった情報も知れるので、
一石で何鳥も仕留められるわけです

でも、処理も追いつかないし
その場で興味を持っているかもわからない
でも、頭には残っているので、
なので、保留して頭にフックをかけておく。

後々、「あ、アレってサブゼミで聞いたやつだ、聞いたやつか?」となって調べたり学んだりする
(2022年のいまだってたまにコレがある)

頭の中にフックをずらーっとかけていて
普段はかかっていることを忘れているフックもあるのだけど
興味や必要が起こったら
僕は都度、リアル世界でググる

フックをかけておくと無駄な記憶領域を使わないというメリットもあると思うのです

さらに言うと、フックをかける癖のある人って
刹那的に情報処理をしないのですよ、多分
興味が<ある><ない>の二項対立ではなくて、
<興味があるかもしれない>という場合にフックがかかることが多い
結構<あるかもしれない>が<ない>に分類されて捨てられちゃう人が多い
もったいないよね

フックをかける癖は確実にサブゼミのおかげだと思う
縦横無尽に言葉と概念と想いと知識が飛び交っていたので。

中締めを作らないとヤバイ

ここまで2300字を超えたので
一旦中締め
自分の根っこの部分にサブゼミが深くかかわっていたことを思い出す
そんな誕生日前夜


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