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Vaundyは、何を革新し、何のために戦うのか。「replica」「HEADSHOT」の先へと続く第2章の歩みについて。

【7/28(日) Vaundy @ 幕張メッセ 展⽰ホール 9~10ホール】

Vaundyの幕張メッセ公演「Vaundy one man live "HEADSHOT" at Makuhari Messe」を観た。「HEADSHOT」、つまり、証明写真というテーマを掲げた今回のライブは、初期の曲、『replica』期の曲、そして2024年に入ってから発表された新曲で構成されたもの。これまでの歩み、そして、自身のキャリアの第2章を邁進する彼の今を克明に映し出した、まさに総力戦とも言える渾身のステージであった。


大前提として、まず、Vaundyのキャリアにおける第2章とは何を意味するものであるかについて振り返っておきたい。遡ると、彼は、2022年の年末の「紅白歌合戦」に出場した後のインタビューで、自身のキャリア戦略について次のように語っていた。

こないだの紅白までが僕にとっての「10代」だと思っているんですよ。あそこでやっと僕の第1章が終わったっていう。やっと第2章に突入する感じがしていて。

ここからは、なんでこれが生まれたのか、達郎さんの音楽は、オフコースは、なんで生まれたのか。はっぴいえんどは何をしてきた人たちなのか。そういうのを勉強しつつ、俺ってやっぱりこのあたりの、メロディとリズムが直面した直後の音楽が好きなんだなって最近気づいたので、それをどうやって自分の音楽にしていくかっていうのが第2章でやっていくことですね。

第1章でVaundyを知らしめる、「俺がいるぞ」っていうのは少なからずできたかなとは思っているんですけど、第2章からが戦争ですよ。戦い編ですね。その先、第3章で日本のポップスを侵略して、第4章で世界に知らしめていく。

「ROCKIN'ON JAPAN」(2023年3月号)


明確な意志をもって自身のキャリアの第1章にピリオドを打ち、2023年の幕開けと同時に第2章へと突入。そして、第2章の活動のプロローグとして位置付けられているのが、2023年11月にリリースされた2枚組のアルバム『replica』であった。

2020年5月発表の前作『strobo』より後にリリースされた楽曲(その中には、”花占い”、”踊り子”、”裸の勇者”、”CHAINSAW BLOOD”をはじめとした輝かしい代表曲が多数含まれている。)をDisc 2にまとめた上で、彼はそれを「おまけ」と言い切り、2023年の春以降に制作した新曲(および、新録曲)のみで構成したDisc 1によって、日本人のポップ・ミュージック観の大胆な革新を目指した。

『replica』、特にDisc 1の楽曲においては、「オリジナルはレプリカの来歴から生まれる。」というテーマが色濃く打ち出されている。長年にわたって国内外の先人たちが築き上げてきた長大な文化史にリスペクトを持って向き合い、無数のリファレンスとサンプリング元を掛け合わせることによって、音楽の新しい可能性を追求し、そして、文化史を次の未来へ向けて更新する。それが、彼が提唱する「レプリカ理論」であり、その理論を大胆に体現した楽曲がDisc 1に凝縮されている。

もちろん、国内外の先人たちの表現をただ単にトレースするのではない。日本の音楽の独自性(例えば、刹那のエモーションを的確に射抜く歌謡性を帯びたメロディなど)と、グローバルのシーンの最前線で求められている要素(サウンドやリズム、構成など)を繋ぎ合わせることで、J-POPを一気にグローバルの水準へと引き上げてみせる。そうした野心がDisc 1の全編に滲んでいて、まるで、歴史と現在と未来、日本と世界がこの一枚を通してクロスしたかのような感覚を覚える。彼は、「レプリカ理論」を提唱した渾身の勝負作『replica』Disc 1について次のように語っていた。

みんながDisc 1を理解できて好きだと思ったら、ポップスが変わる。

「ダメ」ってなるか「好き」ってなるか、ほんとに二択で。でも、それがポップスのあり方だと思います。Disc 1を好きになった人がいたら、「これの元の人たちがいるんですよ」って言いたい。ニルヴァーナ、ブラー、オアシス、レディオヘッド、デヴィッド・ボウイ、ザ・ビートルズ。それこそブッダ・ブランドも、細野晴臣さんも。意外と知らない人も多いんで、このインタビュー読んだ人たちに「あ、こういう人たちがいるんだ」って知ってもらえたら、僕がポップスのハブとしての役割を果たしてるなと思うし、それでもいいかなと。

「ROCKIN'ON JAPAN」(2023年12月号)

ベストヒットアルバムとしての性質を帯びるDisc 2ではなく、大胆な革新性に満ちたDisc 1をもって日本のシーンに対して勝負を仕掛ける。それは無謀な企みにも思えたが、実際に今作は大きな反響をもって日本のリスナーから受け入れられ、また、ライブの面においても、同作を冠した初のアリーナツアー「Vaundy one man live ARENA tour “replica ZERO”」は大盛況となった。


しかし、『replica』は、第2章の始まりの号砲に過ぎない。『replica』 を完成させたことで一定の手応えを得たVaundyは、2024年に入って以降、「レプリカ理論」をさらに大胆に発展させながら、新たなオリジナリティの獲得と確立を目指して走り続けている。その過程で生まれたのが、”タイムパラドックス”、”ホムンクルス”であり、どちらも、楽曲の構成・構造やサウンドのテクスチャーなどにおいて、これまでのJ-POPから大胆に逸脱する野心作でありながら、アニメ作品とのタイアップを追い風にして大きなヒットを記録している。これは本当に凄いことだ。この夏のインタビューで、彼はこう語っている。

だから『replica』のブラッシュアップが現在進行形で行われているというか。確実に今、僕の中では進化を感じています。明らかに『replica』で1回昇華したからこそ、今、こういう新曲ができていて。タイアップの作り方も変わったし、作るのが簡単になったぶん、その余地に面白いものを入れられるようになりましたね。

「ROCKIN'ON JAPAN」(2024年9月号)

この2曲が当たり前のようにヒットしているということは、かつてと比べて、私たち日本人のポップ・ミュージック観が次第に変容しつつあるということであり、それはつまり、Vaundyの野心的な企みは着々と進行中であるということでもある。先ほど引用したインタビューの中で、彼は「第2章は戦い」であると発言していたが、実際に彼は今のところ、その戦いに鮮やかに勝ち続けていると言っていいだろう。


前置きが長くなったが、このように絶好調のモードで邁進を続ける中で行われたのが、7月末の幕張メッセ公演「HEADSHOT」だった。結論から書いてしまえば、圧巻のライブだった。うまく言葉で説明するのが難しいけれど、ライブの快楽や高揚、興奮や感動を、つまり私たちのライブ体験そのものを、根本的にアップデートしようとするような果てしない野心を感じてならなかった。凄い、以上に、新しかった。『replica』、および、その後にリリースされた新曲群が、音楽作品の革新であるならば、直近のツアー、また、今回の幕張メッセ公演を通して、彼はライブ体験の革新を進めている。そう、強く感じた。

会場の中央に設置された格闘技のリング風のステージ。360度を囲むオールスタンディングの観客。物理的な近さ故に、これまでのライブ以上に、細かな息遣いや歌唱表現の繊細なニュアンスが手に取るように伝わってくる。また、ビジョンこそないものの、それぞれの曲のパフォーマンスにおいて観客がフォーカスするべきポイント(つまり、聴き所)が明確で、歌声とサウンドが高い解像度でクリアに伝わってくることも相まって、最高に心地よく気持ちいい瞬間が最初から最後まで途切れない。

1対1で語りかけてくるような親密な距離感が全編に通底しつつ、同時に、ひたすらに熱い。楽曲のジャンルやテイストを問わず、全ての歌に並々ならぬ熱量が滲んでいて、音源とは似て非なる熱烈なエネルギーを各曲から感じ取ることができる。また、ただただストイックに音楽に徹するバンドメンバーの姿勢も印象的で、もちろん、その姿勢はVaundyも同じ。コミュニケーションそのものが目的なのではなく、演者と観客がそれぞれに音楽にまっすぐに徹することを通して、結果として深く繋がり合う感覚を得られるような、あまりにもピュアで豊かな充実感に満ちた時間・空間だった。

なお、今回のライブで初披露された新曲”GORILLA芝居”では、事前に撮影した映像と幕張メッセのライブ映像をシームレスに繋げることで、ライブ中に同曲のミュージックビデオをリアルタイムで完成させる、という新たな試みがあった。やはり、というべきか、Vaundyの実験精神は未だ衰え知らず、それどころか、常に私たちの想像を軽々と超えていくから凄い。

約90分という観客の集中力が最後まで持続する尺で、長いMCや映像演出はなし。ステージの装飾や特効などの演出で足し算を重ねていくのではなく、繋ぎ目や転換を感じさせないワンカットの展開の中で、常に音楽を主軸に置き、ライブ表現全体をシンプルに洗練させ、本質を研ぎ澄ませていく。必要なものだけがあり、それ以外は何もいらない。そうした潔さを全編から感じた。ライブの快楽や高揚、興奮や感動が一つの巨大なストーリーとして繋がる感覚。約90分にわたって聴覚と視覚をジャックされたような、非常に鮮烈なライブ体験だった。改めて、あまりにも新しい。

何より恐ろしいのは、これが完成形ではなく、その先のさらなる覚醒の予感を漂わせていること。常に自己批評と自己研鑽を繰り返していくVaundyだからこそ、今後は、このライブを一つの基準としてさらに進化を重ねていくはず。11月から始まる次のツアー「Vaundy one man live ARENA tour 2024-2025」は、いったいどうなるのか。現段階ではもはや想像すらできない。


最後に、もう一つ。数ある楽曲の中で特に深く心に響いたのが、一番最後に披露された”僕は今日も”だった。彼いわく、セットリストの選曲は信頼するクルーに任せているとのことだが、これがとても素晴らしい選曲だったと思う。

この曲は、Vaundyの楽曲の中では珍しく、彼自身のパーソナルな心情が滲むナンバーである。Vaundyはこの曲の中で、まるで自分語りのように《もしも僕らがいなくなって  いても  そこに僕の歌があれば  それでいいさ》と歌う。この言葉はまさに、次の世代への継承を想起させるもの。先人たちが更新してきた文化史に「レプリカ理論」をもって向き合い、その歴史の延長線上に新しい音楽を生み出すVaundyの営みは、きっと、この先の未来の表現者たちにとっての創造の指針や糧となる。僕は、あの日、ライブでこの曲を改めて聴いて、そうした果てしない未来を想像した。また、”踊り子”の中にも《僕らが散って残るのは  変わらぬ愛の歌なんだろうな》という一節があったことを同時に思い出したりもした。

また、そうした未来を見据えた眼差しはライブにも通じるもので、かつてVaundyは、インタビューでこのように語っていた。

あとは子どもたちが俺のライブを観た時に、将来こういうヤバいアーティストになりたいっていうでかい目標になれるように、僕がなるべくすごい人でいなきゃいけない、これからのもの作りの未来のためにも。なんか勝手に背負ってるんですけど、でもそれぐらいやらないと自分のもの作りの質がどんどん低下していっちゃうし、これから目指していく人が、中途半端な覚悟でもできるようになっちゃう。それはもったいないし、絶対やっちゃいけない。

「ROCKIN'ON JAPAN」(2023年3月号)

冒頭で引用したように、彼は自身のキャリア戦略について、「第2章は戦い」であると発言していた。それはいったい何のための戦いなのか、という問いに答えがあるとしたら、僕は、Vaundyは、これから先の未来における創作活動や表現活動の発展のための戦いに挑んでいるのだと思う。Vaundyは、とても大きなものを背負っているし、また、背負うべき存在なのだと、強く思う。

最新アルバム『replica』も、今回の幕張メッセ公演「HEADSHOT」も、第2章の歩みにおける一つのプロローグ、通過点でしかなく、未来の創作活動や表現活動のための戦いは、まだまだ始まったばかりなのかもしれない。Vaundyにしか描けないビジョンがあり、同時に、彼にしか切り開けない未来があるとしたら、これから引き続き全力で支持したい。



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松本 侃士
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