人生に乾杯 11
大卒後に就職した新聞社で、数年後に入ってきた後輩2人と、先日荻窪で旧交を温めた。僕の体調を気遣い、わざわざ地元まで来てもらった。後輩とは付き合いが長く今はいい友だち。自分のシンガポール時代、日本に帰国しては年に1、2回東京で一緒に飲んだ。太田侑也さん(「ゆうくん」、仮名)は1年後輩だけど、大学生活で「寄り道」があり僕より数年上。入社後は別の競合へ移った敏腕だ。こちらが何を言っても「そうだよね、そうだよね」という返事が、その柔和な表情から出てきて、「人たらし」というのに近い。最近は、本人曰く「あんなに嫌いだった」釣りにハマっている。もう1人の佐藤珠希さん(「たまちゃん」、こちらは本名)はゆうくんから数年後に入社、ゆうくんと一緒に県警担当になった。当時から2人の方がよほど仲が良く、僕は後になって2人に入れてもらったという方が正しい。そのたまちゃんも本社へ転属する直前に競合へ移った。近年は会うたびに「社畜ですよ、社畜」が口癖だが、それでも社内会社の雑誌編集長を順調に上がっていくたびに感服する。
夕方の寿司屋で待ち合わせ、話を始めて小1時間くらいたったところで、僕の入院期間の話になった。ゆうくんが「どうして2か月かかったの?」と聞いてきた。放射線や科学療法など病院内のスケジュールを説明し始めると、「いやそうじゃなくてさ、2か月という病院の判断基準な何なの?3か月、1か月というのはないの?」という。はっとした。と同時に、彼の質問に対して自分の心に沸きあがるドキドキ感に驚き、「ネタを取るってこういうことか」と妙に納得してしまった。自分は取材相手からネタを取るのが下手だったが、目の前のコヤツは上手い、なにせ超が付くほどの敏腕記者だ。本人がどこまで意識しているか定かではないが、彼の術中にはまった人は数知れない。
心の中で病院滞在中に考えていたことを反芻してみた。「なぜ2か月か?」は確かに自分の中で疑問としてあったし、答えらしきものも出ていた。周りを見ると、脳震盪で2週間で退院する人もいれば、脳腫瘍(がん)で3か月以上入院やリハビリ生活を送る若い人もいる。療法士に叱咤激励されながら頑張る姿は、見ていて胸が締め付けられる。しかし、その期間の長短については残念ながら、誰かに指摘されるまで意識化したり(再)発見したりできていなかった。
入院当時に考えていたのはこういうことだ。患者をとにかく待たせないシンガポールは「はい手術」「次照射」となるので議論の対象としては別になるが、日本で脳腫瘍になると術後の入院期間は、まずは放射線を当てる期間から導き出される。がん治療で用いられるのは「局所的照射」と言われる基準。年間の最大吸収線量は100gy(グレイ、だいたいシーベルトsvと同じ)だから、これを1日当たり許容量まで下げると1回当たり約3gy。専門外サイトで恐縮だが東京都中央卸売市場のデータを見ると、3gyは「脱毛、発熱、感染、不妊」などの症状が出るレベル。30回分でワンクールとなる。週末は体を休めて週5日とすると、開始から6週間で終了になる。僕は7月14日に入院し、「2週間の新型コロナ対策隔離を経過させて」(病院関係者)同月30日に照射を開始し、9月10日に終了。で、翌日退院した。
(放射線に関する「吸収線量」についてのデータなどは、自身が勉強不足です。読者の方々にはご自身でお調べいただければ幸いです。)
実際の照射は極めて短時間で済むのだが、前作業が面倒くさい。まずプロセス開始前に顔の形をした「アミアミ」お面(「シェル」)を作る。これを毎回顔に被せて固定し、その上で緻密な計算を経て照射する(照射が終わると「アミアミ」模様が顔に残るが、当時は病院内なのでまだ良かった)。照射に際しては、顔や体の位置を毎回微妙に調整するので、これもやっかいだ。大人が2人掛かりで「動かしまーす」「マーク合わせますね」などと言いながら、ベッドに仰向けになった自分を少しずつ動かしてくれる。こちらは動いてはいけない。一旦ドーナツ型の装置に入っても、画像診断から少しでもズレていることが分かるとベッドごと出てきてやり直さないといけない。
照射時間自体は2、3分だろうか。前半戦の23回は眼の瞼に光が反射するようでまぶしかった。光の点滅がなくなったのは24回目からで、その回の終了後に技師に伝えると「え〜光が見えるんですか?」と驚かれた。「え〜」って何なん?自分は特異体質なのか?
退院直後には夢にも思わなかったアルコール、後輩との寿司屋会食ではビール小瓶と日本酒を少しだけ頂いた。通院する三田病院の医師から「絶対に飲み過ぎないこと」を条件にOKが出たのだ。「昔は浴びるほど飲んでたのに〜」とたまちゃん。帰り際、隣のテービルに座っていたいた品の良さそうなご夫婦から「テレビ見てますよ」と彼女に声をかけてきた。ゆうくんと2人で「?」となっていると、彼女、TVK(テレビ東京)のモーニングプラスFTに時々出ているという。「だから目立つの嫌なんですよ、もう!」と当人はご立腹。僕らは2人でニヤニヤしていた。
(写真は2014年6月26日、石巻市立大川小学校の震災跡。目黒時代にお世話になったS家旦那さんが宮城県東松島市出身で、そのご縁で自分の帰国時に案内してもらった。左から旦那さん、自分の娘、旦那さんの実母。実母とご実家にも大変お世話になった。この場をお借りして御礼申し上げます。右端の人は不明。写真は今見ても、命とはかくも儚いものかと思い知る。続く。)