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人生に乾杯 2

6月26日の手術は午後3時ごろから始まり、夜前に終了した。ICUで寝かされたらしく、気づくと個室には赤い文字のデジタル時計があって、おぼろげに今の時刻を知らせてくる。夜中2時ごろに起きたのは憶えていて、その後は40分刻みくらいに起きた。ああ、何時になったらここから出られるのだろう、と思いながら赤い文字盤を眺めた。

このころの自分には症状が深刻だという意識はなかった。翌日自分の病室に戻った瞬間はおぼろげながら覚えているが、何しろ、元気になったらパン屋をやろうかくらいの気持ちで、自分のいる業界に戻る気はなかったくらいだ。失語症が酷かった5ー6月は、家族の言ったことにオウム返しにすることで精一杯。入院2週間前の6月12日には、自身がいるリスク・コンサルティング業界大手の東京オフィスヘッドへの採用面接(電話)があったのだが、前年に2度面前で会って互いを知っていたイギリス人(在シンガポール)相手に、この時はほとんど応答することができず、チャンスを棒に振ってもいた。9月の退院後、彼と、自分と会社をつないでくれた元同僚(在香港)にお詫びをした。あの時は申し訳なかった、と。個別に心温まる返事をもらった。後々、心の優しさは日本人も外国人も変わらないと思った。

で、6月。週が明けた29日(月)、Raffles Hospitalの脳神経外科の執刀医と肺を担当する腫瘍外科医の面談が別々にあった。入院時と同じく、まだ言葉が不自由な自分に代わり妻が同席してくれた。自分の頭はクリアとはほど遠かったとはいえ、その時に驚いたのはとにかく説明が細かいこと。開頭した時に患部から水分がワッと出てきた、ガン細胞がこう分裂することでこういう症状になる、分子診断をするのに米国の研究所に生検を出す、ターコット症候群の可能性がある、などなど。細胞レベルからの説明は、どれも医療情報は患者自身のものであることを意識していた。相手の説明がすべて英語なのは苦労したし、米国暮らしが長い妻でさえ専門用語になるとスマホのGoogleに頼っていたが、それでも日本の医療に慣れている我々からすれば"jaw dropping"だった。とにかく入院翌日に開頭するなど、日本では多分ありえない。2019年のS状結腸がんの時は、午前中に街中のクリニックで診察し、同日午後に同じ医師の執刀だった(ここはシンガポールの医療システムが関係するので後述)。

腫瘍の生検は米国のTempusとCarisという2研究所に出すことになった。S状結腸がんの生検はシンガポールの別の場所に保管してあったが、これも合わせて送った。結果は、のちに成田病院での治療の確かさを裏付けるものになったが、9月4日(金)にビデオコールで日本の我々とシンガポールの病院をつなぐまで待たねばならなかった。

(写真は2020年1月6日、長野・白馬にて。続く)