この指とまれ 痛快児!!
(2人)今日から始まるこのnote。初回は運営の2人の対談から始めます!
(お玉)初めまして。「人の喜ぶ人になる」そんな人生を送るお玉です。今年3月、英国の田舎町で11日泊の瞑想合宿に参加していた私は「自然はそのままで完璧に調和している。」庭を散歩しながらそう感じていました。夜明け前に鳥が囀り始め、閉じていた花は開き、蜂が舞う。彼らは誰に何を習うでもなく、その瞬間その瞬間に何をするかをきちんと理解し行動に移しているのです。自分がこの庭に放たれたとして、何ができるだろう?食べられる草も分からないし、鳥を獲る術も持たずに何日生きられるか。いや、火を起こすこともできず、すぐに凍死するかもしれない。自然の一部であったはずの人間は、近代文明発展の名の下で、自然の法則から外れた社会を作り上げ、単体では生きられない生き物となってしまったのではないか?世の中で一般的に大切だと教えられてきた価値観や常識はどれだけ生きることに役立っているのか?人類は一体何を発展させてきたというのだろう?という疑問が湧き上がってきたのです。知己を得て同じイデオロギーを有するYuppoさんとそうした様々な疑問をぶつけ合う中で、頭でグルグル考えすぎたり、2人で妄想しているよりも、small stepでよいので行動を起こし世の中に発信していこう、という自然の流れでここに辿りつきました。では、Yuppoさんからも一言お願いします。
(Yuppo)皆さん初めまして。Yuppo(融)です。友人から痛快君と呼ばれている僕は、制度や組織が中心となって動かされている世界から、個々の皆さんの人間性が中心となって動く世界になると良いと思って「ワタシ(人間としての主体性、価値観)から始めるバリューデザイン」を提唱してきました。多くの人が自分の価値観に従った自分固有の価値を宇宙史に十全に発揮できる世界ってイケてる世界だと思ってるんです。僕が感じた世界の姿をnoteで御紹介することで、「そんな世界もありか」と皆さんの世界の風通しがより良くなって、間接的にでも皆さんの価値の発揮のお役に立てたら嬉しいです。
それと、読者の皆さんの価値観もぶつけていただけたら、僕達の世界を見る眼もより開けて、皆さんとより広く大きな世界に共生できるようになると思うんです。皆さんとの世界の拡張をこのnoteで始められたらサイコーです!!よろしくお願いします。
(お玉)ああ、その通りですよね!日々刻々と生きていく中で、みんな色々な違和感を感じると思うのですが、我々はそうした価値観を世間と違うから、常識からずれているから、という思い込みで、封じ込めているように感じるんですよね。実はその違和感こそが叡智であり、5億4千万年の生命の智慧の結晶なのかもしれないなぁ、と。「この指とまれ」では、誰もが持つ、そんな違和感を価値のあるものとして大切に扱ちゃって良いのだよ、みんなでこの指に止まって、心の声とでもいいましょうか、感じるままに行動しちゃっても良いのだよ、とそんな社会に戻っていく一助になるのではないかと感じているのです。
(Yuppo)目にするもの触れるものに違和感を覚えることって、その人がその人として生きている証拠だと思うんです。だって、「そうだと思っていた○○○」って、誰かが言ったことで、その人が生きて得た直観的体験でない場合が多い。違和感てそれに対する「そうじゃない世界を知っているワタシ」の表明だと思うんですよ。その人固有の違和感が世界に多数投げ込まれることで、多くの人にとって世界がより自由になる。違和感を感じることや世界が自由になることに不安を覚える人もいるかもしれませんが実は逆。誰かの足でこの世界に立つんじゃなく自分の足でこの世界に立つ、つまり自分の世界に安心して溶け込むことに繋がる最初の一歩が違和感だと思っています。
(お玉)我々自身も、その違和感という一歩から始まって、このnote「この指とまれ」で次の行動に移したと言えそうですね。そういえば、Yuppoさんは、明日から私が参加した瞑想合宿に日本で参加されるようですね。
(Yuppo)はい。中学の頃学校で座禅の手ほどきを受け、内的世界との向き合いは外界との接触同様に有意義なことだと感じました。しかし、大人になるにつれて内的世界との向き合いが圧迫されていたことに、お玉さんが参加された瞑想体験のお話を伺って気付かされました。
(お玉)「同様に有意義」という部分に強く共感します。どちらか一方ではない、という。では、次のnoteへの投稿は、Yuppoさんが瞑想合宿から戻り、生まれ変わるというか、解脱への道を一歩深めた状態での投稿となりますね。お戻りを心より楽しみにしています!
(Yuppo)頭でっかちにならず、五感全体で生きていることを確認してきます!!
(2人)痛快に生きていきたい皆さん、この指と~~まれっ!!