教育って“受け取り方”を学ぶこと。本当のバカと価値のあるバカの違いからみる教育の必要性。
どうやら人間の心理というものは、自分が理解できるもの、知っているものを“価値のあるもの”とか“必要なもの”と判断するし、知らないものや見たことがないものを“無価値で必要のないもの”と判断するらしい。
キングコング西野さんがよく言う
理解できないものを詐欺や宗教で片付ける
というのはまさにそのことを表しているわけだけど、その知っているか知っていないかの差というものは、人生を左右するほどの大きなものだということを大勢の人は“知らない”。と思う。無知の知ってやつなのかな。
大学入試センター試験が「大学入学共通テスト」という名前に変わった。
詳しくはテスト内容を見ていないからわからないけど、今までの詰め込み式の理解や暗記を評価するものではなく、思考力や判断力を問うような問題が増えたという。
それを
国の教育の進化
と捉えると聞こえがいいけど、どうもそこに違和感を感じるわけです。
■そもそも教育は受動を学ぶもの
教育っていうものを考えてみた時“受動を学ぶか能動を学ぶか”の差は大きいと思っていて、例えば包丁というものを目の前にした時「これは料理する時に使ったり、時々袋を開けたりするよね」と理解するということは、受け取り方を理解しているということで、包丁の受け取り方の理解を間違えるとそれで人を刺したり、動物を刺したりする。
2ちゃんねるという掲示板が、犯罪を助長するみたいな叩かれ方をして、やれ規制だ、やれ実名でやらせろなんていう議論が巻き起こったことがあったけどこれもまさに包丁を目の前にした時の”受け取り方”の問題であってインターネットを手にした時の理解の仕方がきちんと教育されていれば使い方は誤りづらい。”づらい”と書いたのは、カッとなって包丁をかざしてしまうことは人間だれでも可能性があるから”づらい”くらいなんだと思う。
柔道だって初めに受け身を練習する。それは、投げられれた時に大怪我をしないように学ぶわけで、その理解ができるかどうかは教育を考えた時に必要な議論だ。
受け取り方の教育。おそらく、ほとんどの家庭で受け取り方の教育はされていなくて、学校で覚えてきたことを”何かに使う”という能動的なことしか伝えられていない。しかも親の経験の中だけでだ。”学んだことを何かにつかう”というのは、いたって一般的な方向性なのかもしれないけど、先述した包丁や2ちゃんねるのようなことを考えてみると
出来事や学びを目の前にして、それをどう理解してどう受け止めるのか?
というところまで深堀しなければ、結局、何かを学ぶ機会があったとしてもそれを「無駄なものだ」とか、「社会にでるのに必要ないだろ」と受け止めてしまう”バカ”ができあがってしまう。
■バカの種類
何を隠そう僕自身が理解できないバカであったし、今もまだまだ学びが必要なくらいだけど、理解ができないバカは、包丁を人に向けて振り回す。人を刺すことで受ける自分への何らかの社会的リターンと、刺す時の感情との価値的判断を大きく間違うからだ。先に理解していればその行為がいかに馬鹿げているのかに気づくけど、学びが少ない分理解できないのが現状としてある。一方、理解できないバカだったとしても価値のあるバカもいる。それはバカを貫き通したバカだ。ものぐさ太郎のように、バカも貫き通すとそれが価値に変わる。天才とバカは紙一重とはそのことなのかもしれない。
「勉強ってなんでするんですか?」という問いに「勉強したほうがいいからだよ」とか「とりあえずやりなさい」とか「宿題やったの!」と短絡的に子どもたちへ返答していると理解できないバカになりやすいし、バカな親である可能性が高い。なぜか?それは「なんで勉強しなきゃいけないのか?」という問いに対してきちんと答えられないということは、勉強の必要性を知らないし、その理解のまま子どもたちへ教育をしているということになるからだ。詰め込み式の勉強だろうが、暗記だけの勉強だろうが、知識はないよりもあったほうがいい。それは先に述べたように
理解するため、思考するための材料になるから
もちろん、理解しながら勉強することがベストっぽくて、アナロジー(推論)というものがしやすくなり、「包丁ってもっと便利な使い方あるよね」「インターネットってこうやって使ったらもっと便利に使えるよね」という能動的な態度を作り出すことができる。でも、詰め込み式だったり暗記だけだったり、そもそもバカを貫きもせずに学びもせず「なんで勉強しなきゃいけないの?」と中途半端に学びを放棄した先には、”理解できないから理解を他人の言動や行動に委ねる”し”知らない、理解できないものを詐欺や宗教で片付けるようになる”という未来が待っているわけです。
■必要なのは両方
大学入試センター試験が共通テストに変わる際、「知識の詰め込みや暗記の詰め込みは必要ないよね」というものが議論にあがったのなら、そこには少し危険を感じる。それは、ここまで述べてきたように
思考力や判断力の材料になるのが、知識や経験
だからだ。りんごしか知らない人の目の前にりんごが置いてあったらそれはりんごでしかないんだけど、ジュースやジャム、りんご以外の果物や世界の料理などを知っていれば、りんごはなんにでも化ける。(もちろん、それが犯罪に使われることもあるけど)
ロールプレイングゲームのレベルアップのように、知識と経験があるからこそ人は理解の幅が増えてレベルが上がる。それなのに「勉強って何で必要なの?」といってる中途半端なバカはレベルアップもしない、しようとしない、アリアハンの周りをぐるぐると回り続けてスライムとずっと戦っているのだ。その中で、何かしらの問題があって学ぶことができないのであれば行政がサポートする必要があるし、周りの人間がサポートすればいい。と思う。
ニーチェが言った”超人”になるためには学び、そしてそれを材料にして思考したり判断したりして真理をさぐったりしなければいけないし、それがあるからこそ新しいものをつくったり、古いものを改善させたり、なにかとなにかを組み合わせたりできるわけです。でも、ほとんどの人がやってしまっていることは”末人”のための勉強や学び、そしてそれを教育するための親なのだろう。
それが教育に対する違和感。共通テストに対する違和感。
考え方はいろいろあるだろうけど、勉強するということはそんなことなんだろうと感じている。