夾竹桃の花② 御幸橋
1958年(昭和33年)朝倉拓は広島から西にある小都市の高校に入学した。朝倉拓の叔父は小学校の校長をしている。朝倉拓も教員になりたかった。日本には、戦前、中等学校教員養成機関として官立の高等師範学校ー東京高等師範学校、広島高等師範学校、 金沢高等師範学校、岡崎高等師範ーが設けられていた。
高等師範学校は学制改革により大学となった。朝倉拓は広島の高等師範学校を元とする大学の教育学部を念頭に置き、英語が好きで、得意だったので、英語教員を目指していた。
雑誌『英語研究』を購読していた。毎月、添削問題に応募し、時に入賞もしていた。英語に限らず、猛勉強し、念願の大学に入学できた。
朝倉拓は大学の近くのアパートに1室を借り、歩いて大学に通い始めた。教育学部は森戸道路と言われる通りに面していた。両端にメタセコイアが植栽されている。そこを歩いては教室に向かう。
アパートの周りは原爆投下の影響を受けたエリアの臨界地にあったが、倒壊後まもなくして建築されたのか、少なからずの家が戦後の間もない様式で建てられていた。壁のほとんどは板張りで、屋根は日本瓦で覆われていた。アパートの周りは畑が敷地のように区切られており、家が二・三区画の間隔を置きながら建てられている。
アパートも2階建てになっているが、アパートの南側には畑地をおいて2階建ての一般家屋が建てられている。比較的大きな家であった。大学に通うときに側の道を通っていく。脇道から出ると、大通りに出て、まっすぐ進めば、御幸橋に出る。
御幸橋は原爆が落ちたときに、多くの被害者が集まった場所がある。今はもうその跡形さえも消え去り、そのことを書いた看板だけが掲げられている。人々は橋を黙々と、あるいは明るく談笑しながら、歩いて渡っていき、電車が行き交う。御幸橋の下を京橋川が流れていく。
※御幸橋の写真はWikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%94%B0%E7%94%BA_(%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82)から。
御幸橋手前の交差点を渡って大学に歩を進める。大学へ向かって行く途中、電鉄会社の車庫がある。被爆電車として有名になった電車も現役で、乗客を乗せて走っている。被爆電車(650形電車)は原爆投下3日後(8月9日)には、焼け野原の中一部区間で、若い女性の運転士と車掌により運行を再開し、人々を鼓舞し、街の復興に貢献したことは語り草である。
広島には太田川の支流である7つの川が流れており、デルタ地帯を形成している。京橋川の隣を流れている元安川を登ると、本川(太田川)の川上を登っていったところに天満川と合流する。その合流地近くに、「原爆スラム」と言われる地域があった。後に、そこに住んでいた一人の少女の物語『夕凪の街 桜の国』が作られる。今は、再開発事業が実施され、高層アパートが建ち並んでいる。川の流れを思い起こしながら、朝倉拓は大学に通っていく。
ある日、夕刻前に帰る日があった。間借りアパートの手前にある2階建ての家の玄関で中年女性が掃除している。
「こんにちは」
挨拶すると、
中年女性は驚いたように
「あ、こんにちは・・・」
と返す。背後に中年女性の視線を感じながら歩を進めていく。アパートの手前で後ろを振り返った時には、中年女性の姿はもう見えなくなっていた。
夾竹桃の花① https://note.com/tsutsusi16/n/n9cb954d68557
夾竹桃の花② https://note.com/tsutsusi16/n/nfaa2383b6842 これは②
夾竹桃の花③ https://note.com/tsutsusi16/n/na11e000c2c34
夾竹桃の花④ https://note.com/tsutsusi16/n/n73ddebdb2e8a