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ディグダの誘惑は脳に刺さる甘さだった
画像:くなんくなん・つぶやき
浩平(こうへい)は甘いものが大好きだった。だが、就職してからの1か月間、彼はその欲望に向き合わなければならなかった。新人研修の一環として、食生活を見直すように指示され、甘いものを断つことになったのだ。研修中、彼の食事にはありきたりな料理ばかりが並び、デザートもなかった。日々のストレスと共に、甘いものを食べられないことが、どれほど苦しいことか、彼は身をもって知ることとなった。
研修が終わり、やっと自由を手にしたその日。浩平は昼休みに街を歩きながら、ふと目に入ったのが、新しくオープンしたドーナツショップだった。店の前には何十人もの行列ができており、その熱気に心が引き寄せられるようだった。
店の名前は「ディグダドーナツ」。その特徴的な外見からも、何か特別なものだと分かる。まるでポケモンの「ディグダ」を模したようなシュー生地の小さなドーナツが、もちもちのポンデリングの上に乗っているのだ。
店内に足を踏み入れると、温かい香りと甘さに包まれる。色とりどりのドーナツが並び、その中で誰もが「ディグダドーナツ」を手にしている。そのビジュアルに圧倒されて、浩平もつい目を奪われた。カスタードとホイップが絶妙に絡み合ったそのドーナツは、見ているだけで心が癒されるようだった。
「ディグダドーナツ、どうぞ!」店員がにこやかに渡してくれる。その瞬間、浩平は何とも言えない安心感を覚えた。長時間の会議や研修で疲れ切った身体に、甘いものがこんなにも癒しを与えてくれるとは。まるで、ほっと息をついて、やっと生き返った気分になるような感覚だ。
一口、二口、次々に口に運ぶと、まず最初に感じたのは「激甘」なカスタードの味わいだった。甘さが頭を包み込み、まるで甘い雲に包まれるような感覚に襲われる。こんなに甘いものを食べるのは久しぶりだ。ポンデリングのもちもち感と、シュー生地のホイップの軽やかさが絶妙に絡み合って、どんどん食べたくなる。まるで、心の中に溜まった疲れが一瞬で消え去ったかのような心地よさを感じた。
だが、最初の一口を超えて、次第にその甘さが深く、浩平の意識に入り込んできた。カスタードの甘みが、何とも言えない強さで意識を支配し始める。ふわりとシュー生地の甘さが絡むたびに、浩平の頭の中はじんわりと甘い世界に引き込まれていった。それはただの甘さではない。甘さが彼の脳に直接、刺さるような感覚。
その瞬間、浩平は自分の中で何かが解放されるのを感じた。まるで閉じ込められていた囚人がやっと解放されたかのような感覚だ。「むしょから出てきたばかりのような感覚」──それがまさに彼の心の中に広がった。何もかもが、甘さの中に溶けていく。仕事のことも、研修で我慢していたことも、悩みや過去の嫌な出来事も、すべてが甘い味と一緒に消えていくような感覚だった。
どんなに苦しい日々も、この一口のドーナツがすべてを浄化してくれる気がした。それほどまでに、この「ディグダドーナツ」の甘さには力がある。浩平は思わず目を閉じて、深呼吸をした。
そして、もう一口、もう一口。甘さが脳に刺さり、何度も何度も彼を癒していった。
浩平はドーナツを食べ終えて、ふと目の前を見た。目の前にいたのは、同期の女子、真理(まり)だった。彼女は微笑んで、少し距離を取ってこちらを見ている。浩平は一瞬、自分がどれだけ甘いものに夢中になっているかを見られたことを気にして、内心で少しだけ焦った。まさか、呆れられているのだろうか? そんなことを考えたが、彼女の微笑みには不思議と馴染んでいるように感じた。
真理とは、大学の学部は違ったが、教養科目で出会い、総合科目で一緒にグループキャンプをしたり、学際領域の科目で隣の席を並んで受講したりしていた。どこか気が合うところがあったのだろう。卒業が二人を少しだけ分けるような形になり、彼女が卒業して先に社会に出てしまったことは、浩平にとって少し悔しかった。しかし、それでも不思議と、二人は同じ丸の内のビルに通勤することになり、同じ街で、同じ空気を吸っているということに気づいた時、どこか安心したのだった。
卒業後、研修期間中はお互いに忙しくて、なかなか会うことができなかった。互いにそれぞれの仕事に集中していたが、その間に募る思いがあった。久しぶりに彼女に会えて、浩平の胸は少しだけ高鳴った。
真理は、浩平がドーナツを食べ終わったのを見て、にこやかに言った。「おいしかった?」その言葉に、浩平は心から頷いた。「ああ、すごく。ほんとに、脳に刺さる甘さだよ。」
真理は微笑みながら、「そうだね、あの甘さ、なんだか不思議だよね。」と一言。その優しさに、浩平の胸は温かくなる。
その微笑みを受けて、二人は店を出ると、外堀通りを並んで歩き始めた。午後の日差しが柔らかく、秋の風が頬を撫でる。だが、浩平が感じたのは、その風がただの風ではなかったことだ。甘い風──いや、あのドーナツの甘さが、まだ彼の脳裏に残っているような、そんな感覚があった。
「甘い風だな」と浩平がつぶやくと、真理は少し笑って、「ほんとだね。甘い風が吹いてるみたい。」と言った。
二人はそのまま歩きながら、何気ない会話を交わしていった。仕事のこと、街のこと、昔の思い出。それらはどれも普通の会話だったが、どこか特別に感じられたのは、浩平が微妙に感じていた感覚が影響していたからだろう。真理の言葉や微笑みが、どこか違って聞こえる。まるで、彼女との距離が一気に縮まったような、そんな錯覚さえ覚える。
甘いドーナツを食べた後の甘さが、今度は風と共に、浩平の心を包み込んでいるようだった。仕事の疲れも、研修期間の苦しさも、全てが柔らかく溶けていくような、そんな不思議な感覚。
「何だか、幸せだな。」浩平は、ふとその思いを口に出していた。
真理は笑顔で、「うん、私も。こんな風にまた会えるなんて、嬉しいよ。」と言って、さらに歩みを進めた。
その言葉に、浩平の胸はまた少しだけ高鳴った。甘いもの、甘い風、そして甘い思い──それらがすべて絡み合い、今、二人の間に新しい何かが生まれようとしていた。
そして、外堀通りの甘い風の中で、浩平はふと気づいた。あのドーナツの甘さが、ただの食べ物以上のものをくれたこと。今、彼の脳に突き刺さるような甘い感覚が、少しずつ未来へと繋がっている気がした。
彼の心は、今まで感じたことのないほどの清々しい気持ちで満たされていた。甘さに包まれた、この瞬間が続く限り──。