![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/168222203/rectangle_large_type_2_b3eabbd60c2965d5353e186533b0b794.png?width=1200)
蛍の一撃:球を受け取って
画像:ImageFXで作成*内容と画像は不一致。
1960年、日米安保条約改定を巡る国民的な動きが、社会全体を揺るがしていた。菊地は札幌の予備校に通っていたが、全国で繰り広げられている政治闘争の熱気に圧倒されていた。特に、浅沼委員長刺殺事件を受けての街頭での反応や、それに続く緊迫した学生運動、そしてベトナムへのアメリカ軍派兵といった国際情勢に強い危機感を抱いていた。
ある日、安保闘争を巡る視察のため、菊地は大江健三郎の作品について深く思索しながら、街角を歩いていた。目の前で、数百人規模のデモ行進が行われているのを見た。その中で目を引いたのは、若者たちの情熱的なスローガンと、時折見せる無言の決意だった。多くの人々が自身の意見を表現するために集まっていたが、同時にその後ろには、無数の無名の「犠牲者」が思い浮かべられた。その姿勢に、菊地は自分の生き方をどうするべきかを強く問われたような気がした。
大江健三郎の決意
その時、菊地は改めて思い出した。大江健三郎の作品『政治少年死す』のことだ。作品は、1960年に社会を震撼させた浅沼委員長刺殺事件を描いたもので、犯人は当時17歳の山口二矢という少年であり、その姿を通じて、大江は日本社会の闇を告発しようとしていた。しかし、その作品はすぐに右翼からの激しい抗議を受け、結局は『文学界』二月号に掲載されたものの、謝罪と共に封印されることとなった。
封印された作品の中で、大江は彼の視点から見た戦後日本の病理、政治的な青年の死を描いていた。菊地は、大江の作品が封印される経緯を知り、彼の苦悩と決意を深く感じ取った。それと同時に、菊地自身もまた何かをしなければならないと感じていた。
『政治少年死す』の自費出版
1961年に発表された『政治少年死す』の封印にショックを受けた菊地は、友人の高井と共に、作品を世に出す方法を模索した。自費出版という形を選び、大江の無念を晴らすとともに、自分自身の声を社会に届けようと決意したのだ。高井の兄が、封印された『文学界』を持っていることを知った菊地は、それを活用するため、まずはそれを参考に自分で作品を出版する道を歩み始めた。
タイプライターを使い、文字を一字一字丁寧に打ち込んでいく作業は、想像以上に骨の折れるものであった。それでも、菊地は途中で投げ出すことなく、作業を続けた。写植機を使うわけでもなく、すべて手作業で作り上げていったその過程は、菊地自身にとって大きな意味を持っていた。完成した原稿は、製本業者に依頼し、自分の手で作り上げた小冊子のようなものだった。それが自費出版として世に出ると、高井と共に、札幌と東京の大学寮などで売りさばく活動が始まった。
「右翼思想に一矢を報いる」
右翼からの激しい抗議を受けるかもしれないという恐怖を感じながらも、菊地はこの活動に全力を注いだ。大学寮に潜り込み、友人たちに声をかけ、黙々と売りさばいていった。大学寮にとっては、旧制高校の名残が色濃く残る場所であり、政治的な言論の自由と共に、思想の交流が活発だった。そこで売りさばいたことが、菊地にとっては、単なる販売活動以上の意味を持っていた。それは、政治的な立場を超えて、青年としての自己表現の手段でもあった。
その自費出版は完売し、菊地はその後に来る時代の変化を予感しつつも、大江健三郎の作品が持つ意味を再認識した。その時、菊地は、「右翼思想に一矢を報いた」という感激に包まれると同時に、ただそれだけではない、もっと根本的な問題があるのではないかという疑念を抱くようになった。
安保闘争の後
1960年の安保闘争は、日本にとって戦後最大の大衆政治運動だった。多くの市民や学生が集まり、激烈な抗議活動が繰り広げられた。しかし、安保闘争の後、日本の社会は少しずつ疲弊し、政治的な緊張感が薄れていった。高井もまた、その後の社会的な空気に流されていった。彼は北海道大学を去り、再び自分を取り戻すべく、医学の道を志す決意を固めた。
「趣旨があれば趣旨を」という言葉を胸に、高井は札幌医大に進み、地域医療に尽力する道を歩んだ。菊地は二浪を経て、ようやく大学に進学することができた。しかし、その後の大学生活でも、社会的な不安定さは依然として続き、1970年の学生運動に巻き込まれていく。
1970年の学生運動とその後
1970年、安保条約更新に対して激しい学生運動が展開され、左翼団体が主導する過激なデモが街頭を席巻した。菊地もその渦中にいたが、次第にその運動に対する疑念が強くなった。左翼運動の暴力的な手法や、目的を見失った闘争に疲れ果て、菊地は一度その道を離れることを決意する。
その後、社会は着実に変化し、情報化社会が進んでいった。企業は次々と新しい技術を取り入れ、ビジネスの世界は大きく変わろうとしていた。菊地はこの新しい波に乗り、起業家として成功を収めることになる。その成功は、あの時代に培った経験が大きな糧となったからこそ可能だった。
社会の在り方を考える
歳月が流れ、ビジネスに成功した菊地は、どこかであの時代の熱狂を感じながらも、冷静に社会の在り方を見つめ直すようになった。企業活動を終えた後、社会の価値観について深く考えるようになり、「あの頃の闘争が、今の自分を形成した」と心の中で認識する時が来た。彼はテレビを見ながら、酒を飲みながら、世界の闘争を思いやり、「ふつふつと」湧き上がる感情に対し、何度も自分と向き合った。
「社会はどこに向かうのか」「個人として、社会の中でどう生きるべきか」—その問いが、菊地の心の中で消えることはなかった。時折、あの時代の出来事が脳裏に蘇り、今でも政治活動の意識が「火種」として、菊地の心の中でくすぶっている。