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アメージンググレイスが流れてくる

画像:YouTube「アメイジング・グレイス / 本田美奈子.」から。

男は、昔から伝統的な仕事を重んじるタイプだった。管理職に就いたばかりのころ、彼は常に決断を下す責任を感じ、部下たちの意見をまとめながら、仕事を着実にこなしていった。部下の一人、性急派の女性部下—彼女はいつも新しい挑戦を求め、従来のやり方を打破しようとしていた。もう一人は事務系で、仕事を着実に進めることを重視する保守派の女性。その他にも、彼女のように中立的な立場を取る部下もいたが、やはり、意見の衝突は避けられなかった。

ある休憩時間、オフィスの一角で、音楽の話題が持ち上がった。テレビの音が小さく流れ、アメージング・グレイスのメロディーが流れていた。男は音楽に疎く、特に歌にはあまり関心を示すことがなかったが、女性部下の一人が「この歌、アメージング・グレイスって言うの。讃美歌よ。」と話した。彼女は信仰深い家庭で育ったため、讃美歌の存在には馴染みがあった。

「へぇ、そうだったのか。」男は無関心な様子で答えたが、その瞬間、テレビから流れる「アメージング・グレイス」のメロディーが、何かしらの重さを持って心に響いた。

その頃、男は仕事においても大きな選択を迫られていた。性急派の女史が常に新しい方法を求め、挑戦的な方向性を主張する中で、彼は伝統的な手法を維持し続けていた。彼のやり方には無理がないと考えていたが、女史は「変化が足りない」と強く反発し、ついには管理職に直接抗議を行った。

女史は結婚を控えており、結婚後は夫と共に転任先へ赴任することが決まっていた。そのため、彼女にとって仕事の選択が重要だったが、男は現実的な判断を下し、性急派の女史の要求を受け入れなかった。女史はその決断に納得がいかず、さらに強く抗議した。

その後、仕事の流れが決まると、事務系の女性部下が淡々と進める仕事に対して、女史は次第にエネルギーを失っていった。男の決断が彼女にとっての希望を打ち砕いたように感じられた。

そして、結婚式が迫ったある日、女史は男に結婚式の参列をお願いした。しかし、男は仕事が立て込んでいたこと、気分が優れなかったことを理由に、参加を断った。女史は失望し、結婚後、彼女は退職して京都に移り、子供を授かり、幸せな家庭を築いた。

時が経ち、男は年末近く、仕事で東京に出張することになった。仕事を終え、ホテルに戻る途中、ふと街頭テレビの前を通りかかると、画面に本田美奈子の姿が映り、その声で「アメージング・グレイス」が流れてきた。男は足を止め、何気なくその歌に耳を傾けた。

そのメロディーは、彼の心に深く染み込んだ。かつて仕事のことで意見がぶつかり、あの時、結婚式にも参加できなかったあの女性部下のことが、ふと心に浮かんだ。女史は結婚し、子供も生まれたが、何年か後に血友病を患い、若くして亡くなったという知らせを聞いた。男はその時、初めて自分が彼女に何かできなかったことを悔い、彼女の人生の最期を思い、胸が締め付けられる思いだった。

本田美奈子の歌声が、遠くから、そして近くから響くように感じられた。曲の中に込められた静かな悲しみと希望、それが男の心を揺さぶった。あの時、もっと彼女に寄り添うことができたのではないか、もっと理解し、共に歩んでいけたのではないかと思うと、後悔が込み上げてきた。

男は静かに立ち尽くし、曲が終わるのを待った。アメージング・グレイスの歌声が流れ去ると、街の喧騒が再び彼を包み込んだ。しかし、彼の心の中には、もう一つの時間が静かに流れ続けているような気がした。