見出し画像

Short Story:春の音

「若草山に行きましょう」

報告会議を終え、帰り支度を始めたとき、由香は誘ってきた。

* * *

由香は大学院を卒業した後、東京の研究所に勤めていた。その研究所から関西の提携先研究所に派遣された。朝倉は、当時、その研究所で外部から委託された事業研究を遂行していた。

事業を委託した団体は街の中心部にラボラトリーを用意していた。事業の性質上、少数のスタッフが入れ替わり立ち替わるように、作業をこなしては集い、会議を開く。由香は調査研究員の要として常住していた。朝倉は定期的にラボを訪れては、由香からヒアリングし、調査資料を受け取り、指示を出したり、意見を聞かれたりしながら、調査事業の指示を出していた。

由香は慎ましく冷静だった。しかし、時に快活な振る舞いを見せていた。仕事ぶりは、核心を掴む能力が高いのか、こちらの望むことを、脳内をスキャンし、読み取るように察知し、手早く仕事をこなしていく。

事業が進むにつれ、ラボに訪れるに連れ、由香は時にいたずらっ子のような表情を見せ、時に甘えるような仕草を示し始めた。朝倉は戸惑いながらも、そのまま由香を受け入れている。

事業調査を開始してからまもなく、別の調査事業で東京へ出張することになった。それを聞いた由香はうらやましげに訴える。

「いいなぁ、私も行きたい」

一緒に行ける訳でもないので、無言でいると、いたずらっ子のようにお土産を強請った。店の場所を示し、欲しいものを示した。

東京から帰り、お土産を渡すと、理知的な由香が子供のように喜ぶ。その落差に朝倉は戸惑った。

調査事業が進捗して行くに連れ、ラボに通う気持ちがどこか浮いてきている。打ち合わせをするとき、由香の気配を身近に感じだした。その気配にどこか快い香りが漂ってくる。朝倉は次第に快い香りに長く浸りたい気になってきていた。心にどこか密かな華やぎが宿している。

夏前に事業を進めていたが、年度替わりを前にして、事業は2年目に入ろうとしていた。年度末の報告をホテルの会議室で終え、会議の報告資料を束ねると、由香は強請るように、

「ねぇ、若草山に行きません?」

朝倉は若草山を耳にはしており、若草山について書かれたものを読んでいたが、実際に行ってみたことはなかった。会議が午前中に終わり、帰ると別の仕事が待ってはいたが、由香の申し出に乗ることにした。

春日大社までタクシーで行くことにした。窓外の風景を見ながら、由香は身を乗り出すように眺める。由香は心を浮かしているのが分かる。反対側の風景に興味があるときには、身体をすり寄せて見ようとする。

春日大社にお参りした後、川筋を上がって行く。由香は奈良の歴史について聞いてきたが、パンフレットに書かれていることも理解できていない。

「あまり知らないのね」

朝倉は地元近くとはいえ、専門分野ではない。むしろありきたりのことさえ知らないと言った方が良い。由香はあからさまに揶揄ってくる。

「お仕置きしょうかしら」

朝倉はこのような状況になったことはない。もう現実ではなく、仮想的な世界を生きているようだ。

由香は朝倉の手を取り、若草山の石段を登り始めた。

「さあ、しっかりと上がりましょう」

朝倉の息が切れかかっている。日頃運動していない朝倉は由香に着いていくのがやっとである。

歩き疲れ果てたとき、若草山の斜面に並んで座った。由香は取り留めもない話をしてくるが、困らすような思惑が見え透いている。不意に鹿が歩み寄ってきた。由香は驚き、あざとく身を寄せてきた。餌を持っていないことを知ると、鹿は歩き去って行った。

「可愛いけど・・・やはりね・・・」

安心した由香は横になるように促した。空をゆっくりと移動する雲を眺めながら、由香は手を伸ばしてきた。二人は手の指を繋ぎながら過ぎ去っていく雲を見送っている。爽やかさを先取りする風が吹いている。

朝倉はこんな情景を考えたこともない。この娘の脳裏にあるものを覗いているだけなのだろうか。この娘の人並み以上の夢見る強い能力が、彼女の中に幻影を生まれさせ、朝倉の脳裏に投射させているに過ぎないのか。

「帰りましょう」

二人は若草山の頂上まで歩いて行く。頂上から帰ろうとするとき、一段と風音の強い突風未満の風が吹いた。

若草山を後にして、宿舎への分かれ道で、由香は黙ったまま、何かを言い出そうとしている。

「明日ね」

思い切るように由香は歩いて行った。

事業は2年目に入っていたが、中間の事業報告を受けた委託団体から注文が付いたが、拍車をかけた由香は、疾風のように仕事を片付けていく。朝倉も追われるようにタスクをこなしていく。時折、打ち合わせるとき、由香の仄かな香りが漂ってくる。その香りは朝倉の脳裏に染み込んで行く。

やがて仕事が終わり、由香は東京に帰っていった。朝倉は仕事の合間に、あるいはふとした瞬間に、由香の気配に押され、ふとした恍惚感を覚えることがあった。

「あれは幻想だったのか」

ある日、メールが届いた。

「出張で奈良に行きます。同行してもらえないでしょうか」

朝倉は心がはやったが、事業調査のヒアリングに重なっていた。由香の出張は短期だった。都合を付けるにも余裕がなかった。

由香は出張から東京に帰り、絵葉書をくれた。

「ご一緒していたようで、楽しかったです」

絵葉書の写真を受け取ったとき、若草山にいる由香が朝倉の脳裏に侵入して来ていた。朝倉には由香の指の感触が繰り返されていた。それはなんとも言えない気持ちの良い幻影となり、春の音とともに住み着いている。

---V1:終わり

*本NOTEは下記を翻案したものである。
・中村真一郎(1994)「1990奈良・古都と生霊」『現代美女双六』河出書房新社、p. 111-114。※1918年(大正7年)-1997年(平成9年)。