立命館のタテカンはつまらない。
今朝、立命館大学の北門にこんなものがあった。
タテカンの製作者はタテカンという媒体を理解できていない。
縦書きなのか、横書きなのか、どこから読んだらいいのか、意味不明の寄せ書きは読み手を困惑させ、主張が通らない。
タテカンで表現できる情報量をはるかに上回っている。
今回の場合はタテカン自体が物珍しいため、立ち止まって見る人が多く、Twitterでも話題になったので、たまたま注目されたのだろう。
製作者はタテカンの特性を理解した上で表現するべきだ。
そもそもタテカンは、公共の場で不特定多数に表現できる媒体である。通行人が一瞥しただけで内容を容易に理解できるものであるべきだ。
学生のお遊びで書かれていると誰もが理解できるので、いくら当局の間違った判断を批判しようとも、冗談だと真に受ける者はいない。
政府打倒や精神云々とミスコン中止やタバコ吸わせろ云々がどういう因果関係なのか通行人には理解できず支離滅裂であり、ネタであるとしか思えないのである。
こうなるとタテカンを作成した意義を失う。
意義のある批判も冗談の一部として取り込まれてしまったのである。
諧謔に富んだ皮肉が書けないのであれば、ネタと批判は分離すべきである。
ネタを書きたいのであれば、それをタテカンとして披露すれば良い。大学当局を批判したいのであればそれをタテカンとして披露すれば良い。
タテカン文化の伝統を引き継ぐ京大のおひざもとで拙いタテカンを設置して、おそらく同じ大学の学生が醜態を晒していることに恥ずかしさを感じる。
今回の大学当局へ問題提起できたことは評価するが、表現があまりにも稚拙であり、非常に残念である。