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成田悠輔氏の祝辞「ニコ没」の真意

YOUTUBEで、バンタンの卒業式での、成田悠輔氏による「ニコニコ笑いながら没落しよう」という祝辞を見ていて思ったのですが、

卒業生にはどのように聞こえたかな?と。

「夢をもって社会に出ても、一部の幸運な人以外はグダグダの人生にしかならないんだから、小利口になるのはやめて失敗してもいいじゃん」と聞こえたのではないでしょうか。
一方で、ひょっとすると「やりたいことをやってみて、無理だと思ったらいつでも諦めていいんだよ」と聞こえた人もいたのではないでしょうか。

もし、そう聞こえていたのなら、それは間違いだと思います。

僭越ですが、超簡単に補足すると、「ニコ没」の主人公となるのが、かの「渋沢栄一」の孫の「渋沢敬三」でした。

渋沢栄一はご存じのように、日本の「資本主義の父」と言われ、数多の会社を創業した実業家で、まもなく「お札」になりますね。その息子は篤二といって、父親の重圧からか、人が良く人望が厚いのに遊び呆けてしまいます。孫の敬三はやはり、栄一や渋沢一族からの軋轢を感じながらも銀行経営や大蔵大臣まで務めた人物です。

その敬三が、日銀総裁時に戦後処理として、軍需公債償還のための緊急金融政策として「財産税」を断行したのです。つまり、日本の復興のためにお金持ちから財産を奪う制度を作ったんですね。それは同時に、自分たち渋沢家一族の財産も取り上げ、身内をも没落させることになったのです。これが「ニコ没」の概要です。

敬三に対する、渋沢一族からの、幼いころからの期待と責任の入り混じった視線は、がんじがらめに敬三を縛っていたのでした。じつは若いころから学者になることを夢見ており、まだ日本にはない国立民族博物館をつくりたいという壮大な構想のあった敬三にとって、銀行や大臣職などは本来やりたい仕事ではなかったのです。

「ニコ没」が歴史となった今では、もしそのまま財閥が残っていれば、あれほど戦後に新しい事業が立ち上がらず、復興が遅れることになっただろうと評価されてはいますが、「没落」が「失敗」か「成功」なのかは見方によって容易に変わります。特に歴史の転換期にはそうです。

さて、成田氏の「ニコ没」の引用には、日本への現状認識への危機感が伺えます。
過激発言炎上の後、拡散されることを想定した上で、その危機感を伝えるため、高齢層の耳には、はっきり「ニコ没を見習うように」と促し、若者層には耳障り良く「失敗を恐れず狭き門を行け」と背中を押すように説いたのです。もっと言えば、その階層に対し同時にかつ効果的に響くための隠喩として「ニコ没」と選んだのでしょう。成田氏らしい、洞察を含んだ選択と言えると思います。

ところで、敬三の晩年は孤独なものだったようです。生まれ育った環境である経済界に身を置きながら、一方で学問を通じて日本を復興させようとして家まで潰したのです。それが「ニコ没」の真実でした。
その決断はきっと、身近な人の愛情に勝るぐらいの、凄まじい「自負」をもっていなければ不可能だったのではないでしょうか。

つまり、もっとはるかに大きなもののために、自分の人生のすべてを投じたのです。それがネーションであり、「日本人とは何か」という学問を極めることであったのでしょう。

それこそが、成田氏が伝えたかった物語の理由なのだと思います。


では、続きはまたの機会に。


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