
爆走熱烈純愛青春譚
1
2020年2月29日の徹底捜索。
ご覧の通り、俺の住んでいる灘岡の町には何もない。思い出したくない思い出は別だけど。クールキッズな俺には、18歳になる3月2日が待ち遠しくてたまらない。
大人たちが曰うクソみたいな戯言に満ちた世界で頭がイッちまうなんて馬鹿げている。理由なんてなくなって、生きているんだ、バーカ。Let's Go Crazy!! バチバチに決めようぜ。ハイになっちまうんだ。
それでも空を見上げれば、俺たちは何かに支配されている気になってチンポが痛くなる。空を探しても俺たちには太陽が見つけられない。たとえ、太陽を見つけたとしても俺たちの人生は輝かないだろう。でも、瞬間、瞬間をクソみたく生きていたら、あと10秒で世界が変わる気がする。たった10秒で。
バーカ。灘岡湖から立ち上る霧のせいで霞かかっているからだよ。
現実(オチ)なんてそんなもの。
生きている価値なんてどこにも無いのは、死ぬ価値がどこにもないからじゃなくて、俺たちは信じることも、愛することも忘れて、ファックだけ貪り合って、傷つけてすがりつき合って、そうでしかないって時に、俺たちはどんな夢も諦め切れなくなって、早すぎるスピードで生きまくって、フリークたちに囲まれて銃殺されて死んでいるからだ。わかる? わかんねー。どうせ、ヒップスターに囲まれてクールに決めて奴らに弄ばれるんだ。俺たちは誰も信じちゃいないのさ。
俺たちの信念3箇条。
1 誰にも理解されない。
2 誰にも共感されない。
3 誰にも愛されない。
誰にも理解できない言葉で、誰も信じることのできない言葉で、誰にも愛されない言葉で、世界を紡ぐ。そうすりゃ、レイプよりもマシなことが起こるのさ。そんなこと誰が言ったけ? この俺さ。この場所にいる俺だ。この瞬間、いま、ここに、俺の敵はいない。
4A-G型1.6リッターDOHCのエンジンを積んだ真っ赤なボディのトヨタ・カローラ「AE86」、通称「ハチロク」があればさ。エンジンをギュンギュギュンと町を蹂躙したいな。誰も知らない明日へ。さあ!
見てみなよ。この廃車置場。あらゆるぶっ壊れた車が縦に横にきっちり並んでいる。いくつかの廃車に廃車を組み上げた塔まである。俺の親父は中古車売買の会社を経営している。ぶっ壊れた車、良心的には使える車、まったく使えない車、赤、青、黄、虹色よりもすごく、虹色に染まっていて。俺は感慨にふける。ここが俺たちの世界だ。
「兄ちゃん、兄ちゃん!」と16歳のレディボーイ花井花子はあどけない真っ白な顔で叫んだ。「今日も追い返したよ! パイパン変態カップルだけど、そいつら車を探して『ハチロク』の前にきたから、スパナで脅して追っ払ったよ」
「兄さん、兄さん!」と16歳で身長112センチの小人のドビュッシー竹澤は、オイルまみれの黒い顔をして叫んだ。「今日もやっつけましたよ。信じられない顔をした、いかついアバズレ3人組だったなあ。会社員でボーナスが入ったからって、余裕ぶっこいて。彼女たちのオナニー的な自己慾願望は僕らの脳みそを破壊しそうさ」
「俺は7人だ。家族連れ。でかいセダンを探していたみたいだけど、でぶっちょばっかりでさ。どう考えても乗れないっての。『ハチロク』の前でじっとしてたから、お前らには似合わないって猟銃で脅したよ。DNA的に無理があるんだよなあ。悲劇のヒロインぶってさ。情けないよ」と自慢げに俺は言った。
「やっぱ、兄ちゃんはすごいな」と花井花子は笑った。
「やはり、兄さんはすごいなあ。俗悪選民思想に溢れていますね」とドビュッシー竹澤は小さい体をめいいっぱい伸ばして言った。
「よせやい」と俺は鼻を擦った。俺と花井花子とドビュッシー竹澤は廃車置場の中央にある廃車を1列に積み上げた塔のてっぺんに座っている。まるで光線銃をぶっ放すヒーローみたいな気分。俺たちは魂でつながった英雄だ。すると花井花子とドビュッシー竹澤が立ち上がった。ここから見える灘岡湖の水平線。霧で見えない向こうに何がある?
世界中の誰も知らねえよ、バーカと呟きながら俺も立ち上がる。
夕日に染まった廃車置場からガソリンの匂いがする。ここはクソみたいな場所だ。だけど俺たちの宝が眠っている。その前に自己紹介をしなくちゃね。俺は王様、17歳の廃車置場のキングさ。ここの社長の息子だ。
花井花子は灘岡の嬢王でレディボーイだ。親に虐待されてチンチンと金玉をむしり取られた。親父の性的嗜好のせいだ。親父に非合法の性別適合手術(SRS)を施され、性転換させられた。とはいえ、レディボーイじゃなくて、手術の時のミスで2センチのブツが残ってしまったのだ。だからボーイ的なレディだな。よくわかんねえや。毎日のホルモン注射は欠かせない。両親とも医者だったが、父親のDVが酷くて母親は出奔した。残された花井花子。親父は肛門性交を偏愛するド変態で、ひどい扱いを受けていた。
ドビュッシー竹澤は、俺たちの参謀長官だ。母親は、くだらない優生思想に取り憑かれてドイツのハンブルクの大学で音楽教師をしている。ドイツの方が優秀だってさ。父親はアダルトビデオの「ぶっかけ汁男優」と監督をしていた。1回のピアノ講義料が2万円。父親は1回の射精で3000円。顔だってモザイクだ。惨めな取り合わせ。最低な格差。なぜ結婚したのか不明だし、知るつもりもないが、喧嘩がいつも絶えなかった。おまけにドビュッシー竹澤は小人だった。
同情なんていらん。愛情なんていらん。いらん。いらん。全部いらん! 俺たちクールキッズは心も体も傷だらけの無敵の集団。
俺は猟銃を構えてポーズを決める。ふたりも俺に従う。わかっているんだ。俺たちの夢、83年型のトヨタ「ハチロク」に乗ってこの町を出ることを。そしてどこでもない場所に行く。永遠の希望がある場所へ。
灘岡なんてくだらない町。町のほとんどを灘岡湖が規定している。「おまんこ」、おっと失礼、イチジク浣腸みたいに北に細長くて、南に膨らんでいる。その周りを周回路が走っている。そこからさらに放射状に小さな道路が広がって町を形成している。中学校の授業で空中写真を見せながら講義をしていたBカップブラ22歳の新人教師の前で、俺は叫んだ。「まるでおまんこだ!」
「違うわ」と先生は泣きそうな声で言ったが「違うね、おまんこだ」と俺がいきがっているとドビュッシー竹澤と花井花子も同調した。ゴスペルソングが鳴り響く。「おまんこ、おまんこ、おまんこ」って新任教師は「ひどいわ!」と泣きながら教室を出ていった。お前は支配者に向かない。お前はただのアバズレ。そうして俺たちは仲良くなった。
この町の住人は240人しかいなくて、中学生は7人しかいないから、中学1年から3年まで同じ授業を受ける。同じクラスで、同じ思想で、同じくアナーキーな活力に満ちていて。同じくクソ野郎だった。
それで灘岡がどれぐらいひどい町かというと「家を出てもっとでかいところに行く」と決意する年齢になって行き着いた先が人口2534人の原谷って町だ。
俺は灘岡の中学校に在学中、猛勉強して卒業直前に、3年飛び級して、隣町の灘岡大学の工学部に通って自動車工学を学んでいる。飛び級した人間は灘岡では初めだそうだ。
親父は中古車センターの跡でも継いでくれるからと喜んでいたが、俺は興味なんてなかった。このぶっ壊れた初代83年型真っ赤なボディ(いまはくすんでるけど)「ハチロク」を改造して、花井花子とドビュッシー竹澤とこの町から飛び出していくんだ。
俺たちは義理兄妹の契りを交わした。俺たちを引き裂くものなんて何もない。俺たちを傷つける存在はどこにもいない。
そうはいっても、俺たちは実務的な作業に追われていた。この廃車置場にある初代83年型「ハチロク」が売れないようにしなくちゃいけなかった。いまは説明しないけど、理由がある。真っ赤なボディーは傷だらけだし、サスペンションはボロボロだったし、いろいろメンテナンスをしなくちゃいけなかった。しかも、日本に1台しか現存しない「ハチロク」だ。売れちまったら俺たちは自殺するだろう。「ハチロク」がすべてだった。「ハチロク」があらゆる思想だった。「ハチロク」が奪われれば俺たちの存在が奪われる! そんな強迫観念めいた感覚は、俺たちの仲をさらに強固にした。
「中古車センター」の終業のベルが鳴る。従業員たちの足音が聞こえる。
「今日も終わったね」と花井花子が言った。「兄ちゃんの誕生日が楽しみだなあ」
「そうさ。ようやく『ハチロク』を手に入れる」と俺は花井花子の頭を撫でた。彼女は猫みたいにゴロゴロ鳴いた。
俺は明後日18歳になる。性的耽溺セブンティーンからは卒業だ。あるとあらゆる堕落と自己嫉妬から逃れて、車の免許をとって、こいつを手に入れる。
俺たちの下を通っていく大人たち。俺たちは絶対的な悪意で見下している。みんな疲れた顔をしている。酷く痩せっぽちなのもいる。ひどく酷い顔をした奴もいる。みんな幽霊を知っている顔だ。でも、俺たちは幽霊を知らない。生きている限り幽霊なんて知りもしない。幽霊なんてどこにもいないのさ。
彼らが駐車場から車に乗って帰っていく音がする。俺たちは廃車のてっぺんから降りて、奴らの乗っている車のドアバターン! という音を聞くまでそこにいて、1000の罪を感じながら、空虚さを欺いて生きている。彼らが行った後、隠れていた廃車の塔から飛び出した。
「ああ、疲れた!」と花井花子が背伸びをした。レディボーイでホルモン注射にシリコンカップだから、ピンク色のけばけばセーターに張り付いた形の良いちっぱい胸は、女の子みたいに膨らんでいる。それは、俺とドビュッシー竹澤をドキッとさせる。でも、そんなの顔に出せない。厳密にいうと俺たちは「兄妹」だから。「兄弟」じゃないからね。
「終わりましたね」とドビュッシー竹澤。
「帰るのかよ、お前ら」と俺は彼らを引き止めた。「俺のアジトに行ってもいいぜ」
俺は執拗に彼らを手元に置いておきたかった。だって、花井花子は親父に肛門ファックされるだけだし、ドビュッシー竹澤は、アダルトビデオの監督もしている父親に連れられて、愛液と精液の臭いに満ちた、ファックだらけの現場で、112センチのぶっかけボーイをする見せ物になってモザイク撮影されるのだ。そんなこと許されるべきじゃない。
「兄ちゃん」と花井花子は俺の腕を握った。「私は、大丈夫」
「そうは言ってもな」と俺は心配になった。
「そうですよ。兄さん」ドビュッシーは言った。「この過酷な運命、過酷な宿命に争い、闘争の原理に打ち勝つからこそ、僕らの共同体としての血縁を感じるわけですから」
「お前ら……」と俺は2人の殉教的な精神感傷に胸を打たれた。
「兄ちゃんは無事に誕生日を迎えて、免許をとって、私たちを迎えにきてくれればいいんだから。それであたしは幸せだよ」
「花子……」俺は泣きそうになった。「ドビュッシー……」
俺たちは円陣を組んだ。「さあ、別れの前に、俺たちの合言葉だ」。俺たちは3つの合言葉をクソ高校の校歌みたいに叫んだ。
「さあ、いこう!」と俺は言った。
花井花子の目尻にも、ドビュッシーにも涙が出ている。辛い運命だ。わかっている。これを乗り越えれば、俺たちは無敵になれる。俺が18歳になればすべてが叶う。
夕日は湖に反射して灘岡を血のようなオレンジ色に染める。
俺たちにはいくべき場所さえないかもしれない。でも、信じるんだ。俺たちはいつかたどり着くだろう。名前さえないどこかへ。永遠の希望の地へ。俺たちは無敵の3兄妹。
「さよなら、兄ちゃん」と花井花子が走っていった。
「さよなら、兄さん」とドビュッシーが走っていった。
俺はその姿を見送り、狩猟が趣味の親父から受け継いだ特別式4発猟銃を空に一発撃ち込んでやったんだ。もちろん、政府の目を盗んで改造した特注品だ。
BANG! BANG! YOUR HEAD.
あんたの頭をぶち抜いてお陀仏さ。そうすりゃ、世界が変わる。あんたたちに支配されるなら死んだ方がマシだ。
そして俺はうっすら浮かぶ涙を拭いながら家に帰った。悲哀の運命に争う俺たちがヒロイックすぎて涙を止められなかった。
2
クールキッズに時間なんていらない。現在という時間はいつだって無下に通り過ぎ、過去にかっちりハマって抜け出せないまま、明日を始めなくちゃいけない。そんなのは地獄だ。時間よりも瞬間を。瞬間よりも消滅を。俺たちはゼロだ。明日は3月1日。俺の誕生日は3月2日だ。今日だって、無作為に「ハチロク」を求めるクソどもを排除して、いきがっている大人に逆らうために、俺はトレンチコートにチョッキにサングラス、『西部警察』の大門圭介みたいに孤独の猟銃を手にしている。なんでかっていうと、親父の趣味が灘岡湖の周りの森で狩猟することだったからだ。そこにはイノシシや鹿がいたりする。母親が死ぬと猟が嫌いになったそうで、それ以来、俺に猟銃が渡ってきた。
家に帰ると、トレンチコートの中に猟銃を隠し、親父に挨拶もせずに、自分の部屋入って即5秒で自涜を始めた。チンカスだらけの童貞粗チンだが、なんだかその日は、レディボーイ花井花子が背伸びしたときのピンク色の胸の膨らみが頭の片隅から離れなくて、きっとたんぽぽみたいな小さい乳輪から見えるとんがった乳首を想像して、5秒で射精してしまった。なんやそんなことってアホみたい。バッカみたい。不良品(あったもん)だ俺。白濁精液をティッシュ4枚に包み、それが憎悪の廃棄処理物となった瞬間に、俺は18歳になった時に何もかもから解放されて無敵になると信じた。
その時、部屋がノックする音が聞こえた。俺は急いで、ティッシュをゴミ箱に捨てて、窓を開けて換気をした。廃車置場から冷たくて錆臭い風が入ってくる。
「父さんだけど、いいかしら?」と親父は小さな声で言った。
「いいよ」と俺はぶっきらぼうに答えた。
ドアを開けると、頭頂部がハゲて説法好きな、宣教師サビエルと呼んでいるニンマリ親父がいた。こじんまりして小太りだ。ドビュッシー竹澤みたいに、病的に小人じゃないけど、俺の身長より遥かに小さい。黒縁メガネをかけて、何かを見通そうと躍起になってレンズは巨大にしているのに、何も見通してない気がする。猟銃をぶっ放すのが趣味なのに、何もぶっ飛ばすことができずに諦めて、フニャチン野郎になった。幼い頃から猟の手伝いで猟銃の手ほどきを受けたし、車の運転も教えてもらったけど、感謝の念は毛ほどもない。俺は親父を見下していた。灘岡の大地主だった祖父が死んで、遺産相続した巨大なまっさらな土地に、ミニカーが趣味だったせいで何万台と廃車を並べ、太陽に向かって猟銃をぶっ放すだけの自己満射精野郎だった。
そして「三好中古車販売センター」を作ることになる。母親は俺を産んだ瞬間、世紀末断末魔な雄叫びをあげて死んだ。だから、父親にとって俺はすべてだった、と思う。
父親は部屋に入ると当たりを見回し、鼻をピクピクさせた。俺は不気味に思った。18歳以下の俺の性的アウラは自涜をすると女の子にバレてしまうという噂を聞いていて、一時期インポになったことがあるけれど、それと似ている。俺が自涜したのを知っているのだろうか? 精液のにおいはしない。親父の前では非武装的な無垢を装っているのだ。
「勉強は捗っているの?」と親父は聞いた。まるで母親みたいな言葉尻だが、母が死に、親父は父性を母性に転変させ、母親的な親父へと変身した。
「まあ、だいたい」と俺は答えた。大学ではいじめられっ子だってことは黙っておいた。俺は15歳で飛び級した弱者でしかない。
「よかったわ。あなたもようやく明日には大学に通える年齢になると思ってね。飛び級したのは嬉しかったけど気が気じゃなかったわ。心配でたまらないの」
「明後日だよ。今年は閏年だから、2日は明後日になるね」と俺は息巻くように言った。
「ああ、ごめんなさい。そうだわね。最近は父さんの仕事も忙しくて」
「中古車が売れる。いいことだと思うよ。忙しくしてくれたらありがたい。学費も賄ってくれる」俺はいじらしいことは言わない。
「ありがとう。あなたには私みたいに苦労をかけたくないからね」
「ありがとう。で、なんのよう?」と俺は言った。
「明日の誕生日に」
「明後日!」と俺はイラついて言った。
「ごめんよう。ごめんよう。明後日だったわね。誕生日プレゼントだけど、前々から聞いていたけど、免許を取得するためのお金でいいの?」
そうだ。俺は免許を取らなくちゃいけない。「うん」と言った。「もう申し込んだ。後払いでいいってさ。それから……」
「なんだい、なんだい……言ってごらん、ファザーファッカーに言ってごらん!」
「中古車が欲しい」と俺は金を哀願する無垢の愛人のように言った。
「中古車? 中古車でいいの!?」
「いいよ。なんで驚くの?」
「ほんとに?」と俺の顔を覗いてきたので俺はそっぽを向いた。「いいよ」と俺はぶっきらぼうに言った。
「なんで?」
「いいったらいいんだ! マジで母親みたいな真似するなよ」と俺は言った。どうして死んだ母親のような面をするんだろう? 本来の資質を乗り越えた母性を俺にひけらかす真似はやめてくれ。
「ごめんよお。ごめんよお。新車がいいと思ったんだ。新車ならなんでも買えるよ。免許の取立てすぐは運転すると車に傷つけちゃうから安い車でいいかな? ボルボとか」
「いらない」と俺は即答した。なんで安い車が「ボルボ」なんだ? 頭がバカな奴だって、何百万円するのは知っている。
「そう? じゃあ、何がいい?」と内腿と内腿をこすり合わせて指を咥えて言った。
「おかまか!」と俺は突っ込んだ。
「ヒッ!」と親父はドアのノブに額をぶつけた。黒縁のメガネが吹き飛んだ。まったく、腐った牡蠣みたいな男だと思う。こんな存在みたいになりたくなかった。
「中古車でいいんだ。廃車置場にある『ハチロク』でいい」
「確かに素晴らしい車よ。でもね、あれは83年の車で、走行距離20万キロだし、相当なオーバーホールしないといけないけど」
「できないの?」
「そんなことはないけど、デザインも中途半端に古いし、カッコよくもないけど」
「それでいいんだ!」と俺は怒鳴った。
「ヒッ!」と親父は叫んで「メガネ、メガネ」と床を這いつくばっていた。
「やっさんか! なんにもしないよ」と俺はため息をついて眼鏡を拾って親父に渡した。
ったく、猟銃があればぶっ放したいところだけど、そんなことはどうでもいい。「あの車を直してくれればいいよ。父さんに迷惑をかけたくないんだ」
「良い子ね」と親父は眼鏡をつけるといきなり背筋を伸ばし押し付けがましい態度をとり始めた。「でも条件が一つあるんだよねー」
「知ってる。売れちゃったらダメなんだね」
「うちの会社のルールなの。予約はできないシステム。あくまでお客さんとバイヤーが直接取引をするの。だから誕生日になって、あなたが契約できるようにならないとね。もし売れたらどうするの?」
「それはなんとかならないの?」
「残念なことにそれは無理ね。中古車販売の法律があってね……」
「わかった。わかった。全部わかっているよ」だから俺は焦っているし、閏年を恨んでいるし、待ち焦がれているのだ。「でも、あの車を買うつもり」
「そんなに気に入ってるんだね」
「だって、あれは父さんの車だろ?」
「嬉しい! あれは父さんが初めて自分のお金で買った車だから」
俺が死にたくなってくるのは、どうして、トヨタの83年型「ハチロク」に無性に惹かれるかってことだった。なぜなら、あれは親父が初めて自分の金で買った車だったのは知っているし、ガキの頃、俺も乗せられたことがあるし、後部座席にゲロを吐いたことも覚えている。デザインも最悪なのは知っている。エンジンはぶっ壊れているし、取り換えるにも部品がないから修理しかないだろう。修理するということは、また近いうちにぶっ壊れる可能性もあるということだ。
そんな車で俺たちの夢、ここではないどこかのために、永遠の旅を続けられるのか?
「兄ちゃん」と花井花子の声が聞こえる。「あの車がいいな」
「兄さん」とドビュッシー竹澤の声が聞こえる。「あの車なら僕たちを楽園に運んで行ってくれるよね?」
「ああ」と俺は言った。「あの『ハチロク』に乗ってどこまでも行っちまおう」
わかっているよ。お前たちが望んでいるんだ。俺たちの契りの強さを怒り狂った勃起チンポみたいにみんなに見せよう。
「わかったわ。そこまでいうのなら。明後日の午前0時に契約書を用意しておく」と親父は言った。「特例だけど。あなたが車を乗れる年齢になったら即契約できるようにしておくわ。そして自動車学校だけど」と親父は心配そうに言った。
「明日から大学は補講があって、そのあとはテストで講義がないから、合宿免許でとれると思う」と俺は言った。
親父が気にしているのは、俺が大学の講義を休んでしまうことだ。俺のことなんてどうでもいいのだ。
俺が生まれた誕生日が幸いしているのか、2月の後半から3月の半ばまで、大学は補講期間と試験期間になっている。そこから春休みになる。俺はこのことを予想して、春から夏の前期の間に取れるだけ単位をとってしまって、後期は必修科目の試験しかない。講義は8つあったが、8つともレポートなのでなんとかなる。たまに、いきなりゼミの補講なんかも入って、学校に行かなければいけないが、その時だけ抜け出せばいいし、自動車学校の許可が取れると聞いている。自動車免許の合宿も朝から晩まで講義や実習づけではないので、レポートはその合間にでも書けばいい。最近はバカな教授が多いから、メールでよこせと言ってくるし、それなら合宿所のWi-Fiを借りてネット経由で送れば問題ない。俺のMacBook Proやルーターは持ち込み可能だともパンフレットで読んだ。
主だった理由はそれじゃない。合宿免許に行きたいのは、ただ、最速12日間で免許が取れると聞いたからだ。自動車教習所の用意する簡易の宿舎は、噂では地獄みたいなところらしいが、普通に免許を取ろうとすると1ヶ月かかってしまうし、春休みには大体多くの大学生が、同じ歳のくそったれどもが、自動車学校に入学して、教室がパンパンになって、くじ引きで講義を受ける羽目になってしまうのだ。なんで免許取得の講義を受けるためにくじ引きをしないといけないのか。そんなクソみたいな制度があるから日本はダメになる。文句を言っても仕方がない。それだったら多少の苦労もいとわない。
そんなことを親父に説明すると、急に安堵の表情をした。「あなたがしっかりしてくれて助かるわー」と俺の顔を撫でてきた。脂くさい手だ。「やめてくれよ」と跳ね除ける。
「心配で、心配でしょうがないからさー」って親父はドスを効かせてきた。「あなたはまだ甘ちゃんの童貞のクソガキだからね!」
こいつ、いつか殺してやると思ったときに、LINEの着信の音がした。俺は親父の目を見て、そのままスマホをポケットから取り出してアプリを開いた。花井花子だった。そこには「助けて。パパに殺される!」とあった。理由はわからないが、俺はいてもたってもいられずに、親父に部屋から出ていくように言った。
親父は急かされたせいか、マスター・キートンみたいな格好になって「約束ね。学校はちゃんといく。それで免許も取る。じゃあ、車の契約書は用意しておくから」とそそくさと出ていった。
俺はそれどころじゃない。肛門性交好きのクソ野郎が花井花子に手を出そうとしているのだ。「既読スルー」は嫌いなので「いま行く」と打ち、チョッキを羽織り、トレンチコートにサングラス、タンスに隠しておいた猟銃を手にし、寒空の外に出て、ママチャリに乗ってサドルを乱暴に踏みつけた。
星が冷酷なほど綺麗だった。
3
自殺的な虚無を欺いて、俺は灘岡国道16号線をチャリンコで走りまくる。あらゆる時代の支配者が俺を懐柔させようとするが、そんなものに負けるわけにはいかない。光よりも早く。俺たちが想像するよりも早く。ライパチのセンター前ヒットよりも早く。空気を切り裂いて真冬の夜を進む。頬に当たる風が痛い。どうでもいい! ペダルを漕ぎ続け、左足から右足を動かすだけだ。次々にLINEが入ってくる。
「パパがチンチンを私に触らせようとする」と花井花子から文言が送られてくる。
「わかった」と俺は即レス童貞男になる。
「パパがチンチンを私にしゃぶらせようとする。コキ倒してくるの!」
「わかった」
「パパがチンチンを私の肛門に入れるの」
「うるせえ! チンポばっかやん!」って突っ込むほど焦っていた。
自転車を漕ぎまくり、灘岡湖の南から西へと向かう。俺の家は灘岡湖の南に位置していた。灘岡湖は巨大な湖だ。人口は240人しかいないのに、湖は65平方キロメートルもある。「ハチロク」に乗ったって、1周するのに1時間かかってしまう。俺たちの夢はそんな時間じゃ消えないことはわかっているが、光があっという間に消えることは知っている。だから、光よりも早く生きるんだ。
俺の家から、灘岡湖の西側にある豪奢な家々が並ぶ、花井花子の家、「花井医院」に行くまでにはチャリンコに乗って30分はかかってしまう。それまでに、なんとかなるだろうか、と焦りと緊張で心がダイナマイト100万発で爆破という感じだった。俺たちの同志が殺されようとしている。乳輪がたんぽぽみたいに花開き、乳首の小さいピンク色のレディボーイ花井花子のジャガーのような肉体に傷がつくのはいたたまれなかった。
右目に湖岸を意識しながら走りまくっている。マスの養殖をしている漁業関係者が酒盛りをしながら、焚き火をして踊っている。まるでヒグマの交尾のように見えた。救われないファックをして何になる? 俺の目にはうっすら涙さえ浮かんできた。もっと早く。もっと早くだ。時間を超越したい。世界への叙情的な最悪嫉妬で俺は乾いた唾を飲み込みながら走りまくっていると、ようやく細かい路地に入った。ここはでかい家(といっても俺の家よりはでかくない)が、林立している。灘岡西区2丁目。
2丁目に唯一あるスーパー酒井の横に「花井医院」がある。立派な2階建の洋館みたいな家だ。家の中央をぶち抜いて太陽の塔を模したモニュメントがあって住みにくくて仕方がないだろうけど、性病患者がたくさん訪れるメッカとしてのモニュメントになっている。ここは内科だけど、性病科、というかそっちが専門だ。だからなのかとても静かだ。まるで電気ショックしかやらない精神病院の監獄みたいに。
俺は「花井医院」の玄関の前に自転車を放り投げ、猟銃のありかを確認すると、ダッシュで玄関に立ち、インターフォンを高橋名人並みに連打する。もちろん、返事が返ってくるわけではない。夜の9時を超えている。
「花井花子!」と俺は庭横の窓際にむかって叫ぶが返答はまったくなし。
「うるせえ!」とどこかから声が聞こえたがそんなものは気にしない。
「花井花子さーん! 回覧板でーす!」と俺のご近所的絶叫のこだまが窓ガラスを打ち破ればいいのにと思う。でも、こんなところで猟銃をぶっ放すわけにはいかない。俺は仕方なく、患者を装うことを試みた。
「花井先生!」と俺は叫びながら玄関を叩いた。「アソコが痒くて仕方がないんです! アソコから膿が出まくってるんです! アソコが! アソコが! 世紀の爆笑!」
するとドアの向かうからスリッパの音が聞こえて玄関の前で止まった。「なんですか?」と眠そうなガラガラ声が聞こえる。
「助けてください! チンチンが痛いんです! 破裂します!」と俺は叫んだ。
仕方がないといった感じでゆっくりと玄関が開いた。そこに女性が立っていた。たぶん、花井花子の親父のお手伝いの愛人で、看護師の40歳の垂れ乳女だろう。俺の顔をみるや、まるでホコリだらけの物乞いみたいに思ったのか、俺を外に突き飛ばして、ドアバターン!って。馬鹿野郎! そんなもので負けはしない。俺はドアノブをガチャガチャとかき回し、押さえ込んでいた情動を虎のようにぶつけまくり、40歳垂れ乳女に猛烈にアタックした。するとドアバターンと開くと、右半身を飛び込み選手みたいに突っ込んで、体を無理やり忍ばせドアをロックした。玄関で足をつまづき、まるでたたらをふむがごとく中に入った。「よっ、三好屋!」と声が聞こえてきそうだった。
そこで柱にぶつかった。肩をぶつけて思わず猟銃が落ちそうになった。なんでそんなものを建てるんだ! 三島由紀夫かお前は! と俺はひとり突っ込んでいたが、部屋は静かだった。リビングは待合室になっており、オレンジ色のソファーがあり、右手に受付、左手にレントゲン室、奥に診察室がある。
「なんですか?」と40歳垂れ乳女が言ったので、「花井花子はいるか?」とドス声とドヤ顔で聞いた。
「今日は申し訳ないけど受付時間は終わっています」と俺を邪険に扱う。
「うるせえ!」と俺は言った。もう構わない。どうなったって知るもんか。俺は猟銃を天井に向かって一発撃った。天井から何か破片が落ちてきて、俺の頭にかかるが、そんなものを確認している暇はない。もう花井花子はここから離れるべきだ。俺たちの理想郷への一歩を踏み出すべきだ。
40歳垂れ乳女は「ヒー」と叫びながら逃げるように受付に向かう。
俺はそいつに猟銃を向けた。「早く言え! 花井花子はどこだ?」
「あなた誰?」と震えながら女は聞いてきた。「あなた……三好中古車センターの……童貞マスカキ少年!」
「そんなものどうでもいい! 撃ち殺されたくなかったら教えるんだ!」と俺は叫んで、顔を隠せるマスクを持ってくれば良かったと後悔したが、手元にないし仕方がない。いま、この瞬間なのだ。
その女は薬棚の前に恐る恐る座りながら携帯を持って警察に連絡しようとしていたので、俺は猟銃を向けた。「撃つぞてめえ!」と黙らせた。その女は、諦めた様子で震える指で診察室を指差した。あいつらは診察室で、花井医院長が曰う、「愛のレッスン」を繰り広げているはずだ。「だって、パパが『愛のレッスン』と称して肛門を舐めまくるの」と花井花子の言葉を思い出した。「そうしないと女性ホルモンくれないの」
俺は急いで診察室のドアノブを回すが鍵がかかっている。ありとあらゆることが予想できそうなことが起こっている。俺は力いっぱい何度も蹴りをいれる。びくともしないので、猟銃を一発撃ち込んでドアノブを壊し、俺は助走をつけてドアにドロップキックをかました。ドアの蝶番が外れて、しばらく揺れていたが、やがて俺の方に性欲まみれの芸者のごとく倒れてきた。そいつをかわして急いで立ち上がり診察室に入った。
診察台の上で四つん這いの花井花子。ピンクのフリルのついたスカートを履いて、ガードルにこれまたピンクのストッキングを履いていた。そこから綺麗なピンクの肛門をこちらに見せている。「姉さん、まるで100万匹のイソギンチャクが蠢く名器だ」とポルノ男優みたいに呟いたが、馬鹿みたいだった。
そこに診察着を着た花井医院長が、肛門に薬らしきものを塗って聴診器を耳に当てていた。凄まじいメンソールの匂いがした。このハゲ、児童相談所行きのロリコンだと思う。どうやら肛門に聴診器を当てているせいか、こちらに気づかない。花井医院長はハゲ上がっていて(だいたい親父はすべからくそんなものなのか?)、小太りで、メガネをかけていた。俺の親父そっくりだ。聴診器で何かを確認し、花井花子の肛門に薬を塗っている。その度に、花井花子は微かに震えながら喘ぎ声を上げていた。それを聞くたびに猛烈な嫉妬が襲ってきた。四つん這いになって見える肛門からぶら下がっている胆嚢のような陰嚢はすでにない。それはメフィスト的な悲劇かもなと思う。去勢された犬のように呪われているのだ。それこそ花井花子の存在証明だ。誰にも文句は言わせないさ。俺は花井医院長に近づき肩をポンポンと何度か叩いた。
そして振り向いた瞬間に、猟銃の銃床で思いっきりぶん殴った。花井医院長のメガネがぶっ飛び、眉間から血が飛び出した。そのまま診察室の奥まで吹っ飛んだ。俺は急いで花井花子に近づいた。
なんでか知らないが上半身はバニーガールだった。耳当てをしていて、クリスマスの衣装みたいだ。貧相な文化祭で息巻いた男が喫茶店だとか称して女の羨望を集めるために女装しているくそったれな格好だったので、泣きそうになったが、胸のところだけ穴が空いていて、ピンクの乳首と優しく膨らんだ乳房が見える。小さなタンポポ乳輪だった。それは予想していたが、乳首も小さく可愛くて、性的情動がわずかながらに腰にきてそのままずり落ちそうになる。花井花子は泣いていた。俺は肩を抱き「大丈夫か?」と言った。
花井花子は唇を噛んで小さく頷いた。
「薬を塗られてなかったか?」
「あれは挿入前の儀式だから」
「儀式って、バカ。もっと早く連絡しろ」と頭をポンポンと叩いた。
「だって……」
「言い訳は後で聞く」
その瞬間、俺の背中に花井医院長が覆いかぶさってきた。ライオンのような唸り声を上げていた。憎悪の帰結を導くメフィストの叫び声という感じで恐怖さえ覚えたし、俺の首を絞め始め、両足で俺の体をガッチリとロックしてだいしゅきホールドをかましてきた。お前は売れない新人ソープ嬢か!
「てめえ」と言いながら、俺はそいつを振り落とそうと躍起になったが、花井医院長の体が予想よりも軽いことに気付いた。軽すぎて羽みたくくっついてくる。太くてざらざらの爪の短い指が俺の首に食い込んできて、息ができずに失神しそうになったが、俺は背中に手を回し、そいつの診察着の襟首を掴んで、柔道の一本背負のように診察台の上に放り投げた。その男はまるでゴムまりみたいにバウンドしていた。その瞬間、悲哀以上の情けなさが襲ってきた。
親父の力ってこんなものか? 渾身の力のはずなのに、なんだか泣けてくる。あるいは俺が強くなったのか。
花井医院長は診察台で怯えている様子だった。黒いメガネは半分ぶち壊れ、片方の縁が取れている。
俺は猟銃を一発窓にぶっ放し、それからもう一発を書棚に撃ち込んだ。圧倒的に支配するために。有無を言わせないために。
「もう、お前のところに花井花子は任せられない!」と叫んだ。
花井花子は恐る恐る、俺の方に近づき、iPhoneで録音していたらしい声を再生する。聞きしに勝るおぞましい内容だった。いずれにせよ、あいつが、花井花子をいたぶっている証拠が出てきたわけだ。
「こいつを警察にバラすぞ」と脅した。「彼女を保護する」
すると、花井医院長は首を振った。要するに降参だと表明しているのだろう。
「俺の猟銃をバラすつもりか」と脅した。顔もバレてしまっているから、こっちだって通報されたら困る。でも、あいつらは社会的信用を得ようと躍起だ。だから何も言わない。大人なんてそんなものだ。俺のプレモダン的な政治手腕に義理の念を覚えてしまう良心はあるのだ。診察室の上でただ震えている。
「行くぞ」と俺は花井花子の腕をひっぱった。一瞬、びくんとなって、何やら親父に気を遣っている様子だったが、俺は花井花子を見た。「こんなこと許されるわけないだろ。俺のところで匿ってやる」と言うと、力を抜いて俺についてこようとしたが、流石に胸が見えているので、花井医院長に近づき、そいつの診察着を毟り取って、花井花子の肩にかけてやった。「これを着なよ」と俺は言った。「お前の愛を見せつけるな」
「ありがとう。兄ちゃん」と涙声で言った。
「お前が帰る場所はここじゃない。帰る場所は、俺たちの誰も知らない理想郷だ」と俺は鼻息荒く言った。
「うん!」と花井花子はいやらしく笑った。「連れて帰って」
ちょっと腰砕だ。胸がドキドキする。なんや綺麗や、綺麗やで。綺麗やで妹!
俺たちは悪意や親たちの利権に苛まれて、いやというほど世界のクソッタレのシステムを知らされる。でも、そんなのはウンザリだ。玄関で40歳の垂れ乳愛人が震えている。そいつを無視して俺たちは病院を出た。放り投げた自転車を起こし、ケツに彼女をのせて、俺たちは出発した。
星々が瞬いている。星が光速で落ちてきそうだ。でもいい。俺たちは光より早く生きているから、そんななものはただのゴミ屑だ。
「兄ちゃんありがとう!」と花井花子が俺の首を抱きしめがら言った。「大好き!」
「苦しい! 死ぬ!」と俺は叫んだ。
「ごめん、ごめん」
「気にするな。それより……よく」と言ったところで口籠った。あの格好を見て、聞いていいものか迷った。
「あの人、私の肛門に聴診器を当ててる間は私が何をしているか知らないから、あの格好で、兄ちゃんにLINEを打ったり、あいつのクソみたいな喘ぎ声を録音してたの」
チャリンコは、細い路地を抜け、大きな周回道路に出る。湖に反射している星が綺麗だ。風が冷たくて心地よい。よくよく気がついたら、猟銃を4発もぶっ放していた。特殊な猟銃で4発仕様だったが、弾切れだ。後で弾丸を補充しないとな、と思った。
「兄ちゃん、もっと早く!」と笑いながら言った。「もっと早く」
家に連れて帰ろう、と思った。その時、俺の携帯にドビュッシー竹澤と花井花子のグループにLINEが入った。俺と花井花子は顔を見合わせ、自転車を止めて、携帯を見た。
ふたりで「アッ!」と言った。
「兄さん助けてください! 性的ぶっかけボーイをさせられそうです。もう嫌です。もう自殺したいです。『ホテル灘岡』の205号室にいます。乱交パーティー……」というところで、文面が切れていた。
俺と花井花子は顔を見合わせた。どうするもなにも、助けないわけにはいかない。俺たちは一心同体だから。ふたりで頷いた。
それにしても、どうして一晩で、こんなに立て続けに事件が起きるだろう、と思って空を見上げた。神様は酷なやつだ。俺の誕生日には事件が尽きない。
4
到着した「ホテル灘岡」。茶色のレンガ造りの20階建てのでかいホテルだ。人が少ないせいで、政府の要人がお忍びでここに泊まる。大抵は愛人かセックスフレンドを連れて。ここは湖の西側の豪奢な家々の中央に位置している。その横には「灘岡サンシティー」という25階建ての分譲マンションがある。再開発が進んでいるが静かなところだ。ホテルの屋上にはヘリポートがあって、てっぺんは変なライトがチカチカしている。耳をすませば、乱交パーティーのファックの声が聞こえる。大人たちの臭い口臭と、クンニやフェラをしまくっている奴らの喘ぎ声が。
最低最悪の気分だ。やつらはクールキッズたちのルールを知らない。俺たちの作戦を知らない。ドビュッシー竹澤をいたぶっている奴らを全員ぶち殺してやりたいが、散弾銃の弾丸は切れている。ここは頭脳戦だ。
「205号室だっけ、兄ちゃん?」と花井花子が言った。診察着を着ていて膝下まで隠れているのだが、足元だけは、ピンクのストッキングが見えた。靴も履いてないし、所々が破けている。破けたところから白い餅肌が見えてカビの生えた生ゴミみたいだ。
「まず靴を仕入れよう」と俺は提案した。
「ホテルでスリッパを借りられるよ」
「よく……知ってるな」と俺は言葉を濁した。「どうして?」
「だって、あいつは、あいつは……」と花井花子は悲しげな顔をした。
「わかった。それ以上言うな。お前は笑っている方がいい。こっちは弾切れだ」
「あたしみたいに玉切れね!」と花井花子は楽しんでいる様子だ。
まったく分裂しているな。花井花子はあてにならないから、俺が作戦を考える。自分を信じろよ、と言い聞かせる。こっちは大門圭介だぞ。渡哲也だって真っ青だ。さて、診察着のレディボーイとトレンチコートにチョッキにサングラス、弾切れ散弾銃を持った間抜けだ。明らかに怪しい。さて、どうやって侵入するか、と思った矢先だった。
花井花子は、ホテルの駐輪場にいる案内係に、診察着の前をはだけて、タンポポ乳輪の乳房を見せつけていたのだ。
「花子!」と俺は叫んで近づいていったが、後の祭りだった。と、思うでしょ?
ニヤついた花井花子の乳首を凝視していた案内係は俺を見ると「ヒッ」と叫んだ。俺はそいつを睨んだ。
「何してるんだ?」と花井花子の耳元で囁くように言った。
「だってこうすれば、大体教えてくれるよ」
「お前……普段、何やってんの?」と俺は呆れて言った。
「熱烈純烈立ちんぼ」
「もういい!」と俺は熱烈純烈嫉妬してしまうじゃないか。
「とにかく、このお兄さんに言ったよ」と花井花子は案内係の方を向いた。純朴そうに見えるニキビ面の男だ。アルバイトだと思っていたが違うらしい。「部屋とかフロントに行っても相手にされないから、こういう人が情報を握っているんだよ。経験済みだし」
「そうか」と言ったが経験済みの内容については聞けなかった。「なんて?」
「205号室のこと」
「お客様は本日の205号室に用事があるんですね……」と言い澱んでいたが、何が行われているか知っているらしい。
「そうだ。コスプレで来いという命令でね」と俺はとっさに嘘をついた。
「そうですか。では、入り口を入って、フロントは無視して、そのままエレベーターか階段でお上がりください。部屋に入る合言葉は、『菜の花や月は東に日は西に』です」
「蕪村の句だろ?」と俺は言った。
「兄ちゃん、頭いい!」と花井花子は俺の頭をポンポンした。世話が焼ける可愛いいレディボーイ。シリコンおっぱいで誘惑可能だ。
「そうです。合言葉を作って用心しないと警察のガサが入りますから。ご存知ではなかったのですか?」と不審そうに見つめた。
「いや、知っていたさ」と俺は嘘をついて地面を見つめた。
小さな嘘の連続が俺をクソみたいな大人にする。俺の魂を暗黒にする。
そしてしばらく間が空いた。ベルボーイはニヤニヤ笑っている。俺はその時気づいた。そうか、こいつが裏を引いている理由は、こうやって小銭を稼いでいるのか。試しに2万円ほど渡してみると驚くほど従順な犬になった。出発するとき、金を持ってきて正解だったな。そして、こいつに話をして正解だった。連続正解! さすが、花井花子というべきか。だが、なんだか複雑な気分だぞ?
俺と花井花子は正面突破で、そのまま、フロントを通り過ぎた。入り口付近に靴箱があって花井花子はスリッパを履いた。フロントにいるババアは、俺たちの顔を見たようだったが、どうやら慣れているらしい。金勘定に忙しいみたいだ。灘岡は薄汚い。こんなクソな行為を平気で容認している。金のために。たった少しの金のために。
世界のルールを知らないクールキッズにはそんな理屈は通用しない。俺たちは、俺たちのルールで永遠の楽園を目指す。
「兄ちゃん、こっちだよ」と花井花子は、餌をもらおうとしている犬のようにはしゃいでエレベーターに案内する。
エレベーターに入ると2階のスイッチを押し、俺たちがゆっくりと上の階に上がっていくのを待ちながら、手持ち無沙汰に「女性ホルモンはどうする?」と訳のわからないことを俺は聞いた。
「心配しないで。あたしなら隠し場所を知ってるから」
「知ってる?」
「ホルモン注射は、使用量とか、所持量とか病院ごとに決められていて、あのクソ親父は政府に内緒で隠していたの。倉庫街の倉庫にある」と花井花子が言った。
「そうか」と言って、少し悪意のニヤつきをした。まだ新鮮なおっぱいが見えるんだなと思った。「足元は大丈夫?」
「さっきスリッパ借りたし」
「そうか……」俺は純粋桃色乳首を想像して勃起しそうになった。
エレベーターが2階に着くと、俺たちは足音を立てないように部屋を探した。絨毯の敷き詰められた廊下を擦るように歩いた。205号室の前についた。バロック調のやたらに重厚な入り口だ。どうするかと思った矢先には、花井花子がインターフォンを躊躇することなく押していた。
俺たちは用心を知らないクールキッズ。明日なんてどうでもいいんだ。
数十秒後にはインターフォン越しに声が聞こえた。「誰?」とくぐもった男の声が聞こえた。「菜の花や月は東に日は西に」と花子が即答した。
「ちょっと待って。今日は、女4人対男5人じゃなかった?」と部屋の奥に何かを確認している声がした。「オタク何しにきたの?」と声の主が言った。野太い声だった。
「私たちはエロ本の取材できました」と花井花子が言った。
「どこの?」
「『灘岡緊縛至上主義』です」とさらに花井花子はてらいもなく嘘を言った。
「緊縛はしないけど。そんなエロ本あったかなあ。それに取材は我々がすでに入っている。アダルトビデオの撮影だよ」
「ええ、それを取材させていただく。撮影現場を密着するんです」と俺もとっさに嘘をついた。心が汚れていく気がする。
「ああ。誰を?」
「ぶっかけ汁男優ボーイドビュッシー竹澤です」と花子が言った。
「息子のことか」と声が聞こえた。「あいつは小人だからマスコミに人気があるんだ。でも、そんな取材は頼んでないけどね」
「オタクの会社の部長に許可を得てると編集長から聞きましたけど」
「ああ、そう。でも、大丈夫? ここマジモンだからさ。取材だからといっても乱交してもらわないといけないよ。リアリティー出ないし。それが命だからさ」
俺は一瞬戸惑った。世紀の童貞でチンカスだらけの俺は実際の現場で乱交をしている姿を想像して緊張したが、花井花子が「アナルならいけます。あたし、レディボーイだから」と満面の笑みで答えていた。
「今日はそっちの撮影はないけどねえ。あくまで男女同士で、息子がぶっかけになるんだけど。わかった。ドアを開けよう」と言ったので俺はグラサンをかけた。大門圭介! 俺はお前になる。俺は正義を完遂する!
ドアがガチャリと重たい音を立て、相手が顔を出した瞬間やにわ、俺は猟銃の銃床で頭をぶん殴った。間抜けなデジャブが頭をかすめてアホくさくなった。
「ギャッ!」と声がして、その男がもんどりうっているのが見えた。俺はドアを蹴り飛ばし、弾切れだけど、猟銃を構えながら突進した。「てめえら! 撃ち殺すぞ!」と威勢よくリビングまで駆け込んだ。そこで見たのは、112センチの小人のドビュッシー竹澤が、ボンテージ姿で、喘ぎ声を出して泣きながら、ひたすら勃起したペニスをしごいている姿だった。その周りを男女が取り囲みセックスをしている。どうやらかなりの時間が経ったらしくて、ひたすら精液と愛液の匂いがした。その横にカメラマンがいて、ドビュッシー竹澤を撮影していた。
「おい、静かにしろ! ぶっ殺すぞ!」と俺は声高に言って猟銃を壁にドンとぶつけて激しい音を出した。
何人かの男女が恐る恐るこちらを見る。セックスは止まった。立ちバックをしている男女とソファーで正常位をかましている奴らだ。俺は思った。すべからくこの時間帯において、世界のすべてのセックスは中止すべきだと。セックスを廃止しろ! カメラマンが恐れ慄いていたが、体勢を立て直し「なんだ!」と声を張り上げた。俺が猟銃を構えると黙った。「殺すぞ!」と言った。
「兄さん! 僕をあからさまな性的行為から救ってくれるんだね」とドビュッシー竹澤が鼻をすすりながら言った。
「ったく、迷惑をかけるなよ。それからその逸物をしまえ。しかしでけえな」と思わず感心してしまった。
「でしょ?」とドビュッシー竹澤は言った。
「兄ちゃん!」と花井花子がツッコミを入れた。「しかし、でかいわね」
「それはいい! とにかく俺に言え。なんだって助けてやるさ」
「兄さん! で、どうして花井花子までいるの? なんかありました?」
花井花子は裾が黒く汚れた診察着を着ながら俯いている。
「さっきは花井花子を助けていたんだ。あのクソ変態医院長からね。いろんな事件がダダかぶりだよ、まったく」
「そうだったんだ。大変だね。ありがとう」とドビュッシーは泣いていた。「兄さん、チンポが痛くて痛くて痛くて……」
「わかった。ここから逃げよう。俺たちの楽園のために」と俺が言った。
カメラマンが動こうとしたので、すぐに「少しでも動いてみろ。容赦なく撃ち殺すぞ!」と俺は怒鳴った。
俺が2人を連れて立ち去ろうとした時、猟銃で頭を殴ったドビュッシー竹澤の父親が、花井花子に倒れるようにかぶさってきた。「キャッ」と言って花井花子はその父親の顔面を殴り、俺はそれに続くように銃床で追い討ちをかけた。父親が無残に倒れる瞬間、花井花子の診察着を引き摺り下ろし、彼女の胸をあらわにした。ちっぱい可愛いおっぱい。
「おお」という男たちの歓声とともに、ドビュッシー竹澤が、「ごめんね!」と叫びながらドビュッシーした。まあ、射精した。「ごめんよ。ごめんよ。あんまり綺麗な乳首だから!」とドビュッシー竹澤は泣いていた。その瞬間に俺は猛烈な嫉妬にたけ狂った。俺は、想像だったのに! と思ったがそんな場合ではない。間抜けだ。すべてが。
床に倒れて苦しんでいるドビュッシーの父親は、まるでハンを押したように、小太りで、ハゲていて、しかも黒縁のメガネをかけて小柄な男だった。「お前、まさか三好中古車センターの!」と額から血が出ているところを抑えながら立ち上がって、また花井花子に襲いかかろうとしたので、俺が猟銃を構えると両手を上げて静かになった。「本物だぞ」と脅した。押し付けがましい脅しだが、弾切れなだけにバレたくない。花井花子はiPhoneで、写真を何枚も撮影した。
「おい! あんたは10代の息子を使って、乱交パーティーで射精させ、しかもビデオ撮影までしてる! これをバラされたいのか?」と俺は為政者のごとく堂々と曰った。
「何が目的だ!」と父親が口角唾飛ばしながら叫んだ。「脅しなんて通用しない」
俺はそれに答えず他のチンポ半立ちの男たちや、やけに垂れ下がった乳房の女たちがこちらに近づかないように用心しながら、「ドビュッシー。そのボンテージの上に着る服を早く持ってこい」と言った。
ドビュッシーは、服を探したが見つからなかったので、その場にあった誰かのバスローブを着るように言った。
「ここから出ていくぞ」と俺はみんなに言った。「花子。服を着ろ」
花井花子は残念そうに診察着を着た。2人は俺に近づいてくる。俺は散弾銃を構えながら、少しづつ後退りした。
「こんなことをしてただで済むと思うなよ」とドビュッシー竹澤の父親は言ったが、「あんたが16歳の息子を虐待してることがバレたらどうする?」と言うと黙ってしまった。
「ただとは言わない。今日の撮影に関しては金を払う」と俺は言って札束を一つ用意してカメラマンに投げた。まるで犬のようにそれに食らいつく男。金だけはいつだって持ってる。馬鹿みたいな気分になる。金なんだよ。この世界。社会都合なんだよ。この世界。大人は都合が悪ければすぐに黙ってしまうものだ。金に生かされてる馬鹿野郎どもだ。
俺たちは乱交しているリビングを抜け、玄関でドビュッシーにスニーカーを履かせ、そのまま廊下に出ると一気に走った。
「行くぞ!」と俺は言った。「俺に続け!」
「兄ちゃん!」花井花子は言った。
「兄さん」とドビュッシー竹澤は言った。
どうやら物音に気付いた他の泊まり客がドアから覗いていたが、ドアを叩いて引っ込ませ、そのまま階段を走って降りていった。診察着を着た花井花子、バスローブのドビュッシー竹澤と猟銃を持ってトレンチコートを着た大門圭介のような俺。西部警察じゃないか。でもいい。これですべてが終わりだ。
俺たちは一階につくとそのままフロントを走り抜け外に出た。案内係が2万円を持ってニヤついていたが、そんなのは無視して、入り口付近の生垣に隠しておいたチャリンコにみんなをのせた。ドビュッシー竹澤はケツに、花井花子は俺の前にのせた。3ケツはきついんだけどね。
「一旦、避難しよう」と俺はもうすでに荷重オーバーの自転車を支えながら息を切らして言った。心臓が爆発しそうだ。というか、重たすぎるぞ。なんで俺がこんな目に?
「どうされたんですか?」とドビュッシー竹澤は言った。
「なんでもない。とにかく猟銃に弾なんてなかったのになあ。あいつらは俺の仮の状態に恐怖していたんだよ。いわば脱皮前のガラガラヘビにね」と俺は言った。
「そんなことよくできますね。さすが兄さんです」とドビュッシーは永遠の誓いを俺に立てているようだった。
「ありがとう兄ちゃん」と花井花子が言った。「大好きよ」
「いや、お前の勇猛果敢なエロティックサバイバル術には助けられたよ」と俺は死ぬほど息を切らせながら言った。
花子は笑って「もっと乳首を見せたかったな」と俺たちを嫉妬させた。
「ごめんね。花井花子」とドビュッシーは言った。「ごめんね。あんまり綺麗な乳首だから……」
「いいの……いいのよ……」と花井花子が言った。「タンポポ乳輪とピンク乳首は、男どもを春に誘うから」
その愛情臭が俺の鼻についたが、「お前は売春捜査官か!」と俺はツッコミ、みんなで笑い、自転車を漕ぎ出した。「俺の家に帰ろう。明日は俺の誕生パーティーをするんだ」
「3月2日は、明後日じゃないの?」と花井花子が言った。
「明日の、と言うか、明後日の午前0時に、『ハチロク』を予約するからさ」と顔中を汗だくにしながら微笑んで言った。
自転車はゆらゆらと揺れながら、ジューンバグのように動いていく。俺たちに明日はないんだ。今日を生きれば明日になる。明日を生き残れば明後日になる。だから、今日をがむしゃらに生きまくるんだ。
「兄さんはとうとう18歳になるのかあ」とドビュッシー竹澤が感嘆の声をあげた。
「誕生日プレゼントは何がいい?」と花井花子が首元に抱きついた。汗の匂いとメロンの匂いがした。
「危ない危ないから! それは明日でいいさ。今日は帰ろう!」とフェラがいいかなと思いつつ、俺の野心は心に閉まって半ば勃起しながら言った。
明日のことは明日考えるんだ。
今日だけを必死に生きよう。
明日までは長すぎる。
明日を生きるまでに、俺たちの両目は燃え尽きてしまう。
そう思いながら俺はとてつもない重たいサドルを踏みつけまくっていた。
5
俺は花井花子とドビュッシー竹澤を家に連れていった。家は「三好中古車販売センター」から少し離れた家屋で3階建ての金のかかった家だ。祖父が作った古風な家をリノベーションしている。玄関の前にはオロオロしたネグリジェを着た親父が待っていた。
「待ってたのよお」と俺に泣きついてきた。そして油塗れの手で猫みたいにジャレてきた。「あなたこんな時間までどこ行ってたのよお? またハゲ散らかるわ」
「ああ、わかったわかった! 俺は飼い猫じゃねえ」と俺は顔を振りながら言った。「お前の愛情は脂くさいな、もう」
花井花子とドビュッシー竹澤は笑った。
「心配だったのよ。誰かにレイプされたんじゃないかって」と親父は、ハゲ上がった頭に、頭頂部の残りの薄い髪にカールを巻いていた。どう考えてもマトモじゃない。
「それになんて格好してるのかしら。大門圭介じゃない」と言って周りも見回した。「あらあ、花子ちゃんに、ドビュッシーちゃん、お久しぶり!」
「ちっ」と俺は舌打ちをした。こいつの父性の変転の末にたどり着いた粘着質な母性にはうんざりしている。性転換したわけでもないのに思想的、性格的、体の資質も転向を遂げた。それは奇跡なのだ。
「こんばんは」と花井花子が言った。
「こんばんはです」とドビュッシーが丁寧にお辞儀をした。
「それにしても不思議な格好してるわね」と親父がまじまじと2人を見つめた。
たしかに、俺はトレンチコートにチョッキに猟銃にグラサンで、花井花子は診察着で、ピンクのストッキングを履いてスリッパだし、ドビュッシー竹澤は、頭を油で固めまくって、しかも、大人用のバスローブを着てスニーカーを履いているが、バスローブが体のサイズに合わずに、ウェディングレスを着たジュディ・オングみたいになっている。しかも中身はボンテージだ。こんなティーンは世界中探してもいない。
「どうしたの?」と親父は聞いてきた。
「いろいろあって」と俺は言葉を濁した。顛末は説明できない。「彼らと一緒にしばらく生活したいんだ」
「なんでまた?」と親父は死ぬほど心配そうな顔をして聞いてきた。
「明後日から、俺は合宿免許で免許を取りに行くし、その合間に、大学のレポートとか提出してもらうのを手伝ってもらおうかってさ」とあまりの嘘で笑いだしそうになったが、大学とか合宿免許とかそんなことを言っておけば親父は騙せる。
「そうなの? そんなことしてくれるの! 優しいわね」と112センチのドビュッシーを抱きしめた。「あなた汁男優みたいなスペルマの匂いがするけど、性行為をしてきてないわよね? ウチは性行為禁止だけど」
「いえいえ、わけがありまして」とドビュッシー竹澤は苦笑いをした。
「あら、花子ちゃん! またおっぱい大きくなったんじゃない?」と親父は花井花子にも抱きついた。
「三好父さん大好き! うん、おっぱい大きくなったかも」と親父を抱きしめた。
この天真爛漫な父母性に俺はうんざりしつつも、それがなんとなく俺たちを繋げていることに気づくと変な気がする。なんやかんやと親父を説得すればなんとかなりそうな気がした。大人なんて騙せばいいのさ。
「父さんに相談があるんだ」と俺は言った。
「何? かしこまって」と親父は答えた。
「明日、誕生会してくれる? 彼らと一緒に祝おうと思ったんだ。今日は前乗りだよ」
「あら、いいわよ。どんどん泊まってって。部屋は何個もあるし、3人で一緒にって……あなたの部屋は大きいから使えるわね。でも珍しいわ。あなたが誕生会と言うなんて」
「どうでもいいだろ。俺は18歳になるしさ。俺にとって大切な儀式なんだ。友達もいるし。それに、『ハチロク』の販売宣誓書へのサインの立会人になってもらいたい。だろ?」と俺は親父のバカな顔を見つめた。
「保証人がいるのは事実ね。本当は20歳以上の大人がいいんだけど、なんとかするわ」
花井花子とドビュッシー竹澤は嬉しそうに顔を見合わせた。
「兄ちゃん!」と花井花子が言った。「お誕生日おめでとう!」
「兄さん!」とドビュッシー竹澤も言った。「ハッピー・バースデートゥー・ユー!」
こんな時間が永遠に続けばいいと思うよ。そうであればどんなに幸せなんだろう。俺たちはどうせクソやろうだから。
「まだ早いよ」と俺は照れた。
「あら、そうなのー」と親父が答えた瞬間に、俺は嬉しすぎて小躍りして、思わずこいつを殺したくなってきた。
「でも彼らも学校があるでしょー」
「あたしは通信制だし、3月1日から春休みだから」と花井花子が答えた。
花井花子は親父の性具でしかなかったから、高校にも通わせてもらえなかった。それで通信制の高校に通い、テレビを観ながら親父のチンポを擦り倒して勉強する羽目になった。哀れなレディボーイ。
「僕は……」とドビュッシー竹澤が言いかけて、言葉に言い淀んだ。
そうだった。ドビュッシー竹澤は親父に中卒にされたんだ。母親はドイツにいるネグレクトババアで、いまハンブルクに住んでいる。とりあえずだったが、ピアノのレッスンとかで、ドイツに留学させられることになっていた。ちなみに、ドビュッシーの「月の光」の演奏が天才的だから、彼はドビュッシー竹澤と呼ばれている。本名は知らない。
「親父、ドビュッシーは中卒だから、学校がないんだよ。来年の春まで、何もないんだ。18歳になって晴れて、母親のいるドイツにピアノ留学するんだよな」とドビュッシーに向かって言った。
ドビュッシーはなんとなく悲しげな顔をしたが「ええ」と笑ってうなずいた。どうしたんだよ、112センチのぶっかけボーイ、それにお前は天才ピアニストだろ?
「そうなのね。わかったわ。ご両親に連絡しなくて大丈夫?」と親父は尚も心配そうに言った。「迷惑はかけられないからね」
「いいよ」と俺はぶっきらぼうに答えた。「俺が話をつけておいた」
「でも、私から……」
「いいんだよ!」と俺は言った。
「ヒッ」と親父はのけぞりながら、カールをグルグル巻きにした。
大人と付き合うのはうんざりだった。そうやって俺たちの心をすり減らしていく。しかも、俺たちをどれだけ傷つけているのか知らないんだ。俺たちの傷の深さを。
「それより、あなたたち荷物は何もないのね」と親父は言った。
「いや、俺の家で全部用意するって伝えたからさ。許可をもらってる」
「そう。なんとかならんでもないけど。そうねえ。花子ちゃんは、私の奥さんの服を着ればいいし、ドビュッシーちゃんは、小さい頃のあの子の服を着てもらえばいいわね」
「ありがとう、おばちゃん!」と花井花子が言った。
「誰がおばちゃんや!」と俺はツッコミを入れた。「親父だぞ」
みんな笑った。
俺たちはジッパー・ブルースを歌うつもりはさらさらない。星が落ちてきそうな世界で、ただ、生きて、死んでいくだけさ。
「わかったわ。まだ寒いから、玄関にいないで、家に入りなさい。部屋に案内するわよ。花子ちゃん、あとで一緒にお風呂に入ろうか?」と親父は言った。
「ありがとう、大好きなおばちゃん!」と花子が笑った。
「誰がおばちゃんやん!」と親父がツッコミを入れる。
俺は親父の堂々ったる変態ぶりにあきれ返るが、こいつはすでに母性で出来上がっているのでどうでもいいのだろうな。
俺は空を見上げた。空には月があった。俺たちならなんとかやっていける。大人たちを騙して生きていくんだ。
結局、俺の部屋が3人の泊まり場所になった。小さなベッドが2つある部屋だ。正直記憶にないが、俺たちは双子だったそうだ。そして俺たちが産まれた時に、片方の子供と母親は一緒に死んでしまった。それでベッドがふたつある。心配性の親父が気を使いすぎて、20年ぐらい先のことを見越して母親が妊娠中に買ったベッドだ。俺は俺の双子の兄に思いを馳せる。ひょっとしたら、俺たちは2人揃って灘岡を「ハチロク」に乗って飛び出したかったかもしれない。永遠のサイアミーズ。兄さんは何を考えてる? 俺たちは引き裂かれ、あんたは死んだ。俺は生きてる。それはどういう意味だ? なあ、兄さん?
花井花子が親父と風呂に入っている間に、俺とドビュッシー竹澤が部屋で2人になった。こいつのことが気になっていた。
「ごめんな。親父狂ってるよな。花井花子と風呂に入ってるなんてな。でも興奮しないんだ。あいつ母親が死んでインポになってから変な母性に目覚めちゃって」
「父性的母性には憧れます。カント的というか。花子ちゃんも花子ちゃんだから。気にしないと思いますよ」とドビュッシーは言って濡れた髪の毛をかき上げた。
「花子ちゃんか」と俺は僅かながらの嫉妬を込めて言った。「仲がいいな」
「だって、同い年ですし」
「そうか」と俺はベッドの毛布の襟元を触っていた。「そういえば、ドイツ行きのこと、ちょっと困ってたみたいだけど。母親に呼ばれてるんだろ? 俺たちの夢のために言い訳ばかり考えなくちゃいけないよなあ」
「気にかけてくれたんですね。兄さん」とドビュッシーは言った。「でも、ダメでした。僕の夢なんてもともとないようなもんですよ。壊れてしまったんです」
「ダメ? 壊れた?」
「僕じゃ身長が小さすぎてプロにはなれないって」と静かに言った。「あなたは役に立たないから来るなって。金もかかるし。僕が変な人間だから」
「そうか」と俺は静かに答えた。「お前は変な人間じゃねえよ。俺たちの仲間だ。結局、母親はなんて言ってるんだい?」
「実は、離婚したんです。去年の秋に」
「そうか。悪いこと聞いたな」と俺は言った。「お前を粗末にする奴は許せないな」
「でも、それで永遠の楽園に向かう理由ができたんです。決心が鈍っていた時期もあったから。逃げ出そうとしていたから」
そうか。俺はドビュッシー竹澤の小さな112センチの体を抱きしめた。あいつは泣いていた。しくしく俺の胸の中で。心の底からだ。俺たちは傷つけあって生きている。そうして永遠に忘れられない傷をつけられることになる。そんなところから解放された世界へ。もっともっと自由な世界へ。
そこにドアを開けて花井花子がやってきた。体から湯気が立っている。
「いいお風呂だった」とピンクの花柄のパジャマに着替え、髪を束ねていい匂いがする。性的な匂いが静的に漂っている。
「おおー」と俺とドビュッシーは声をあげた。「天才ストリッパー花子! ヒューヒュー! ちょっと脱いじゃって!」
花井花子の体は、まるで見たことない母親みたいだった。胸が膨らんでいて、もちろんアソコの2センチの膨らみはない。モリマン程度だ。だから、女の子そのものだった。
「あたしも混ぜてよお」と俺たちのベッドに飛び込んできた。肘に柔らかい胸が当たって憤怒の性欲が湧き上がってきたが、俺はドビュッシー竹澤と花井花子を抱きしめた。花井花子のシャンプーの匂いがする。
俺は花井花子の濡れた髪の毛に鼻を埋め、思わず母さんと呼びたくなったけど、それを抑えた。「お前たちは仲間だよ」と答えた。
「兄ちゃん、ありがとう」と花井花子が言った。「明日の誕生日楽しみだな」
「兄さん、ありがとう」とドビュッシー竹澤が震える声で歌った。「ハッピー・バースデートゥー・ユー」
「早いよ。明日だから。盛大なパーティーをしよう。それから、『ハチロク』を買う予定だ。俺たちのおかげで売れ残ったなあ」
花井花子とドビュッシー竹澤は顔を見合わせて笑った。「私たちの防衛戦略の結果ですね」とドビュッシー竹澤が言った。
「まあな。俺たちが守ったんだ。夢を。明日への夢を」と俺は言った。「明日の夜。パーティーが終わってから、誓約書を書くから、立ち会ってくれよな。『ハチロク』を手に入れよう。そして永遠の希望の地へ」
2人は泣いているようだった。俺さえ泣いている。でもまだだ。まだなんだ。
「それから明日、誓約書にサインをしたら、俺は合宿免許に出る」
「うん」と花井花子とドビュッシー竹澤がうなずいた。
「しばらく留守にする。ひょっとしたら、お前たちの親父が探しに来るかもしれない」
「大丈夫ですよ」とドビュッシーは言った。「証拠がありますから」
「何日かかるの?」花井花子が尋ねた。
「免許を取るまで最短で12日。そしてその間に車をオーバーホールする。だから13日後には出発だ」
「その間に準備をしなくちゃ」と花井花子が言った。「買い物とかいろいろ」
「お金あるのか?」と俺は聞いた。
「うん、洋服は大丈夫。あたしのサイズが兄ちゃんのお母さんぴったりなんだ」
「そうか。俺が生まれた時に母親は死んでるからな。使ってくれたら嬉しいよ」
「ありがとう。それから女性ホルモンを仕入れてくる。場所はわかってるから」
「また捕まりませんか?」とドビュッシー竹澤は心配そうに言った。
「見つからないところに隠してあるし、見つかってもあたしにはこれがあるから」そう言ってiPhoneを取り出してあのおぞましい声の内容を聞かせた。
俺たちは馬鹿な花井医院長の性的な喘ぎ声に大笑いした。
「ドビュッシーは?」と俺は涙をふきながら聞いた。
「僕も洋服くれるそうですよ。嬉しいなあ。兄さんと同じ服を着れるなんて」
「よせよ」と俺はドビュッシー竹澤の頬をつねった。
「あとはピアノを弾ける場所を探せばいい。僕ならアルバイトもできるから。ドビュッシーの『月の光』で灘岡ピアノコンクール1位ですもん」
「お前のピアノは絶品だからなあ」と俺は彼の殉教的な姿勢にまた泣き出しそうになった。「こっちも安心してくれ。金ならしこたまある。3人で生活するなら十分だろう」
「あたし、立ちんぼするのかな?」
「させねえよ」と俺とドビュッシー竹澤は一緒に言った。
「ありがとう」と花井花子は俺たちに抱きついてきた。静的な性欲が湧き上がってきた。
愛? まさかな。愛、痛いよ。愛は痛すぎるから。痛いんだ。
「さあ、寝なさいよ。あなたたち!」と親父がノックもせずに部屋に入ってきた。
俺たちは8歳の子供のように急いでベッドに入った。俺と花井花子が一緒になり、ドビュッシーがもう一つのベッドに潜った。
「早く寝ないとチンポをつねるわよ」
「あたし、ありませーん!」と花子が布団から顔をだして言った。
「2センチのモノがあるじゃない? あ、でもクリトリスか。とにかく、立派な胸になったね」と親父は感心して言った。「形もさわり心地も問題なし」
「てめえ!」と俺はベッドから飛び出そうとするとドビュッシーが「まあまあ」と俺の怒りをクールダウンさせた。
「うん!」と花井花子が言った。「お母さんありがとう」
「母さんじゃねえよ!」と俺と親父は同時にツッコミを入れた。
みんなで笑った。
「明日は午前中からパーティーの仕込みを手伝ってもらうわよ」
「え? 明日の会社は?」と俺は聞いた。
「明日は特別に休みにしたの」
「親父……」と俺は静かに言った。
「あなたの18歳を祝うわよ。まあ、17歳だけど。そして18歳になった時に」
「『ハチロク』を買う!」と俺と花井花子とドビュッシー竹澤は叫んだ。うっすら涙が浮かんでいた。
「あとは俺の番だな!」と俺は言った。
「兄ちゃん!」
「兄さん!」
俺たちには時間がない。時間はいつだって急き立てる。でも、どんなに焦っても、超絶最低にくだらなくても、生きていくんだ。
その時はそう思い続けていたんだ。
6
寝ることができたのは1時間程度だった。あまり寝つきが悪い方ではないが、目が覚めてしまった。ひとりぼっちで寝ているのに慣れているせいか、3人同じ部屋で寝ていると思うと緊張する。それ以上に名状し難い緊縛感のエロスと微かな熱狂。『ハチロク』の夢。あの時の涙はまだ乾かない。夜中の2時ぐらいだ。俺はずっと目を開けていた。花井花子が俺の体にすり寄って捨て猫のように寝ている。体温が伝わってくる。思わず勃起しそうになるが我慢する。俺は変われるだろうか、と思う。俺の暗闇を見通す目には、罪の町が形作られるのが見える。たくさんのグールズどもが町を闊歩し、出口を塞いでいく。ありとあらゆる網の目を悪意と憎悪で埋め尽くし、自縛するようにすべてをがんじがらめにしていく。救いのない世界と、眠らないモルヒネシティ。俺たちは中毒になり明日も薬を求めるのだろうか? 孤独と自虐の中毒患者になるのだろうか? どんなに注射針を打ち続けても止めることはできない。俺たちの若さは燃え尽きる前に燃えてしまう線香花火と同じ気がしていた。そんなのは嫌だよ。俺は8尺玉のように爆発して燃え尽きたい。
すると花井花子が俺の腕の中でモゴモゴと蠢いた。俺はどうして寝れないのか気付き始めていた。きっと花井花子のことが。花井花子のことが好きなんだって。シャンプーの匂い。胸の高鳴りレディボーイ。まさか。まさかね。俺は一匹狼だったし。童貞だし、そんなのは俺の夢ではない、なのにチンポは勃起してしまった。花井花子が俺の胸に手を当てていた。俺は眠っているフリをした。もし、その手が俺の下半身を異常な手つきで弄り始めないかと想像しつつ。
すると、花井花子が俺から離れ、ベッドから降りていくのが見えた。俺の体温が寒くなる。凍えてしまうよ。心が寒いんだ。魂に穴が空いちまう。俺はまだ悲しみのセブンティーンなんだ。彼女は少しよたって眠そうだったが、トイレにでもいくのだろうと思っていた。俺はヨロヨロした花井花子を守らなくちゃいけない。そうだ。俺は守護者になるんだ。でも、そのままドアに向かうと思っていた花井花子は、ドビュッシー竹澤のベッドに行った。そして、ドビュッシー竹澤の耳元で何事か呟いてゴソゴソとベッドに潜り込んだ。ドビュッシー竹澤は小さく呻くように彼女を受け入れた。
俺は冷たい汗に火照った体が冷やされるのを知った。目を閉じようと思っていた。ずっと。寝てしまえば忘れてしまえるだろうと。あるいは夢かもしれないと。こんなのは冗談ではないかと。なのに、メロンの匂いが残っているんだ。花井花子が小さい声で「ねえ、いいよね?」と言った。「兄さんが寝てるからダメだよ」とそれ以上に小さい声でドビュッシー竹澤の声が聞こえた。俺の聴覚は以上に発達してしまって、なんだって聞こえる。100キロ先の悲しい犬の交尾の声さえ。「兄ちゃんなら優しいから。もっと近づいてよ」と花井花子の声が聞こえた。
俺は瞬間湯沸かし器的な憤怒と嫉妬と自己憐憫がドロドロに湧き上がり涙が溢れた。
そのままゴソゴソとベッドから音が聞こえた。「そこ触って」と花井花子の甘い声が聞こえた。「肛門じゃやだ?」と言った。「別に」とドビュッシー竹澤の声が聞こえた。「ねえ好きだよ」と花井花子の声が聞こえた。「ずっと好きだったんだから」。「どうして?」。「そんなの理由がいる?」。「僕だって」。「ようやく2人になれた」。「僕たちは3人だよ」。「2人きりだよ」。「バレちゃうよ」。「バレないよ」。「いや、やめよう」。「ねえ、抱いてよ」。「どうして?」。「好きだもん、小人のあなたが」。「じゃあ、フェラできる?」。「できるわ」。「俺、ずっとぶっかけだからオナニーしかしてないんだ」。「いいよ、勃ってる?」。「うん」。「触っていい?」。「触ってほしい」。「大きいね。擦るね」。「ああ、いいよ、花子。花子。花子」。「じゃあちょっと舐めるから痛かったら言って」。「大丈夫だよ。鋼鉄の包皮の持ち主なんだ」。「うふふ。どう? チロチロしてるけど」。「早くファックしたい」。「あたしをメチャクチャにして」
目を閉じればいい。あるいは死んでしまえばいい。これまで、俺は憎悪の概念を理解できないでいた。憎悪というのは理念だと。メタファーだとさえ思っていた。それはそこに存在しない宇宙的な意識だと。でも、それは違った。体を奮い立たせる。奮わせる。肉体の怒りだ。体が燃えている。紅蓮の炎の中で。俺は森を想像した。灘岡の森だ。何千本という森の針葉樹林が燃えている。その中で俺は燃えている。豚どもと一緒に。
3人は仲間だった。それだけは事実だった。そんなことを考えると涙が止まらない。さっきまでの涙とは違う涙だった。喜びは消え、悲しみだけが覆っていく。ベッドが少しずつガタガタ音を出し始める。俺の兄貴が眠るはずのベッドは俺も久しく使ってないからボロボロだった。そしてもし、兄貴に恋人がいて俺がその子を愛していたらと思った。複雑な気分だった。ベッドがギシギシ鳴るたびに「気持ちいいよ花子。イキそうだよ花子」とドビュッシー竹澤の声がした。「大丈夫だよ。もっとフェラさせて」とドビュッシー竹澤に哀願していたのは、花井花子だった。
誰が誰かなんてどうでもいい。排他的な「愛」は俺を傷つける。喘ぎ声が聞こえる。「やっぱり、バレるって」とドビュッシー竹澤の声が聞こえた。「あたしの2センチのブツを触って」と花井花子が言った。「これでいい?」。「そうもっとこすって……気持ちいいから」。「そろそろ、入れていい?」。「入れていいわ。乱暴に突っ込んで」。「入るかな?」。「あたしの唾で。そっちのほうが気持ちいい」。「じゃあ、入れるよ」。「私たち、そうしなくちゃいけなかったの。あたしたち、愛し合う運命なの」
俺は耐えきれなくなって目を開けた。ベッドが揺れながら、月明かりに照らされた花井花子の乳房が見えた。ピンク色の乳首が世界の無垢を想像させる。「揉んでよ」と言いながら、花井花子はドビュッシー竹澤112センチに騎乗位をしていた。「僕の身長じゃ届かないよ」と切ないことを言いながら、なんとか手を伸ばそうとしている。まるで落下する花井花子をドビュッシー竹澤が愛の力で受け止めようとしている彫像だ。花井花子の真っ白な小さな乳房が揺れている。腰が震えるたびに、2人は痙攣し続けていた。
憎悪というメタファーは、そこで現実を規定し、ファックを実在させる。俺は猟銃をぶっ放したかった。だけどそんなことはできなかった。俺は現実に、それを規定するメタファーに負けたんだ。俺はただ泣いているだけだった。俺の「愛」は悲しさに固定された。俺たちの夢は、俺たちの夢想は、俺たちの理想は、壊れてしまった。
めちゃくちゃに壊れてしまったんだ。
「兄さんには内緒だよ」とドビュッシー竹澤は喘ぎなが言った。「ファックし続けて。肛門をギュッとしたくなっちゃうわ」と花井花子がドビュッシーの乳首を舐めてる音がした。「ギュッとしていいから」
「ギュッとして」、その哀切と哀願と。俺はすっかりその言葉に騙されていたんだ。俺の「愛」は裏切られたんだ。そう思うと切なくて涙が熱くなる。でも、壊したくない。この関係を。永遠でいたい。
俺たちは無敵だから。無敵だったんだ!
明日には、パーティーをして、『ハチロク』を買って、そのまま合宿所にいく。俺はなんて孤独だろうと思った。孤独が剃刀みたいに喉を引き裂いていく。俺は優しい2人の排他願望の末にひとりぼっちになる。
そうしてベッドのギシギシ音を立てているのを聞いていた。
甘い匂いがずっとし続けていたよ。
パーティーはひどい有様だった。表向きには俺は笑っていた。引きつるほどに笑っていた。テンションはマックスだった。親父は母性の溢れる反吐が出そうな料理を振る舞った。午前中に2人は買い物に行った。親父は「あなたの誕生日プレゼントを買いに行ったのよ」と俺を呼び出して言った。「そしらぬ顔をしてるのよ。野暮な真似はしないこと」。それは処世訓だったんだろうか。だとしたら悲しすぎるよ。
腐りかけのローストチキンや、下痢のしそうな甘そうなケーキも、少しだけお酒を飲んでいいよと振る舞われたバドワイザーも。2人が騒いでいるのを見るたびに胸が引き裂かれ、何かがドバドバと溢れてきそうだった。18歳の誕生日が近づいているのに、何者かが俺の中に入って、俺をビリビリに引き裂いている気がした。何かを変化させるべきだろうけれど、何かが勝手に変わってしまう気がした。変化したくないのに変化する。
取り返しのつかないことが起こり、取り返しのつくことが起こる。どうでもいい必要のないことが、どんどん必要なことに変わるたびに、俺は傷ついていく。このまま死んでしまえばいいと思っていた。
2人は恋人のような雰囲気だった。
親父もそれを感じている。
仲間になんかなりたくなかった。花井花子と恋人になりたかった。変な性向じゃない。間違いなんてどこにもない。純粋桃色ピンク乳首に惹かれていたんだ。彼女が壮絶なピュアの天使ゆえだ。そしてだからこそ不純な俺の想いが、ドビュッシー竹澤を傷つけていたかもしれないことも知った。ドビュッシーを悩ませていたのは俺かもしれない。花井花子に秘密を抱かせたのは俺かもしれない。
俺は諦め、俺は服従し、俺は孤独に苛まれる。パーティー会場のリビングには蛆虫が這いずり回っているような気がした。あらゆる害虫が俺を貪っている気がした。
「兄さん」とドビュッシー竹澤が言った。
「兄ちゃん」と花井花子が言った。
「ハッピー・バースデートゥー・ユー」と親父と一緒に合唱した。
俺は白々しく憎悪に満ちた笑顔を振りまいた。まるで病害みたいだ。俺の骨は誰も彼にも吸い尽くされ、ごみにされて捨てられるのだろうと思った。
誕生日プレゼントをもらった。
「兄さん」と泣きながらドビュッシー竹澤は言った。「僕たちの理想のために」
「兄ちゃん」と泣きながら花井花子は言った。「あたしたちの無限の夢が叶うね」
ドビュッシーから、合宿所で読んで欲しいと、チェーホフの『三人姉妹』の入った短編集をもらった。3人に掛けているのか。でも、俺はそこにいない。嫌味か? 花井花子は変わっていて、「TENGA」だった。どうしてそんな時に性具なのかわからないけれど、10本詰め合わせをくれた。「コキ倒していいから」と花井花子が笑った。親父はただ笑っていた。「おめでとう」
「おめでとう!」
俺はただ笑っているだけだった。
その日の夜、合宿所にいくための支度をした。心は弾まなかった。やめてしまおうかと思った。何もかも捨て去ってしまいたかった。悲しかったのは俺以外の2人とも親父の暴力的な父母性というべき俗悪性に囚われて、すっかり安心しきってリラックスして、恋人同士になっていたのだ。それを見ているだけで泣きそうになった。
俺は一人で部屋にいて服を準備している最中に泣いた。そして脱力した体を支えるように猟銃を手にして口の中に突っ込んでみた。銃口は冷たい。月明かりが綺麗だ。いや、まだだ。引き金を引くには早い。理想はそこにある。そこにあるはずなんだ。
大門圭介! 俺はお前みたいな孤独な王様になりたい。
俺の孤独を無駄にしないでくれ。
そうして俺は「ハチロク」の販売契約書にサインをした。2人は手を合わせて飛んでいた。まるで苦い砂糖をなめた新婚カップルみたいに。そして2人が連名となって、保証人のところにサインをした。
「さあ、これであなたも大人になったってことね」と親父は言った。
「おめでとう」とドビュッシー竹澤と花井花子は言った。
俺は静物画のように静かに微笑み「ありがとう」と答えた。
「どうしたの、元気ないわね。合宿所なんて大したことないから。あなたならできる。実地も講義もある程度こなせちゃうと思うよ」
「その母性丸出しの親父面はやめろ」と言ったが、いつもより弱々しかったのか、親父は突然俺の頭を撫で出した。
「なんだよ!」と俺は親父の腕を離した。
「あなたに忠告がある」そう言った時、無言の支配力を感じて、俺たち3人は黙った。「これであの『ハチロク』をオーバーホールしたいと思います。明日には自動車修理工場に出します。車が納品されたら、あなたのものになるでしょう」
「分かった」と俺は目を逸らした。親父は俺の顔を両手で挟み、真正面に据えた。
「変な話だけれど、あなたは何かを失った。それは悲しいこと。いや、まだ気づいてない。でも、やがて、失ったことに気づくでしょう。それが何なのか、あなたは見つけることになる。18歳。『ハチロク』。それはあなたが死へと向かうことでもあるの。あなたが死を意識することでもある。いま、私が言っていることは理解できないかもしれないけれど。その気持ちを大切にしてほしい。おめでとう。その言葉こそ、死への出立への誘い。そして、大人になって元気な姿で戻ってくるのね。そうしたらまたアドバイスするわね」と親父は言った。
「もういいよ」と俺は苦笑い、親指を朱肉につけて、誓文した。俺はどこにいく? どこに行けばいい? 理想なんてあるのだろうか? もうゴミ屑の町を出るしかないのか? そして大人たちにレイプされて、フリークスの一員になるのか?
どうでもいいんだ。
ハッピーなバイブスに満ちた午前0時。「じゃあ行ってくる」俺は荷物の入ったキャリーバッグを持って玄関にいた。「父さん。2人を頼む。守ってくれ」
「分かったわよ。たかが10日ぐらいじゃない。気にしないで。合宿所の人には1時ぐらいに着くって伝えておいた。警備員の人が案内するって」
「行ってらっしゃい!」と花井花子とドビュッシーが泣きながら言った。
そして俺は外に出た。真冬の冷たい風。星は墜落している。廃車置場から流れてくる錆臭い臭い。3人の「ハッピー・バースデートゥー・ユー」の合唱。すべてを失った。何もかも。俺はまた新しい道を歩くことができるのだろうか? 不安も恐怖もない世界で。
たとえそんな世界が俺の目の前になかったとしても。
7
「灘岡自動車教習所」の宿舎は、灘岡大学のすぐそばにある。教習所はそのまたすぐそばだ。俺の通っている大学が、あまりに古くなったオンボロ4階建の木造モルタル寮の建て替えを嫌がって(金のない私立大学だった)、それを格安の値段で教習所に売ったのだ。教習所がそれをリノベーションし、合宿免許のための寮にした。
免許を取るには講義と実地が必要で、いくつかの関門をクリアーし、試験を受けて合格すると初めて「仮免」という資格をもらえる。そうすると免許センターの「本試験」を受けることができる。そこで合格すれば、俺は晴れて虚飾の王様ってところだ。
寮の部屋は、流石にリノベーションを施されているので、どこかのローコスト・ビジネスホテルといった趣だ。真っ白い壁に、ギュウギュウ詰めのシングルベッド。あとは小さな机と椅子と2つの電源、膝を折り畳まないと入れないユニットバスとトイレ、東の壁に小さな窓があった。留置所の窓みたいだ。冷蔵庫もあるが、ペットボトルを2本入れたら満杯になりそうだった。広さは二畳ぐらい。とにかく圧迫感を覚えたが、どうでもよかった。何もかもどうでも。食事は、1階にある食堂で合宿所にくる奴らと一緒に食う。といっても、俺が合宿所に入ってくるのが早かったせいか人は皆無だった。
なぜなら、誰よりも早く、「ハチロク」で灘岡を出て行きたかったからだ。特別に許可を得たほどに。それは泡と消えそうだった。どうしていいのか迷っていた。このまま免許を取る。永遠の希望があるどこかにいくために。その行き先はどこだ? どこに行けばいい? たどり着いた先で、ドビュッシー竹澤と花井花子のファックの喘ぎ声を聞けばいいのか? それは俺を苛立たせ、チンポを苦痛にまみれさせた。
講義の内容は頭に入ってこなかったが、たいしたことでもなかった。あとで教科書を確認すれば済む程度だ。何も思い付きたくなかったし、何も考えたくなかった。2日間だけは集中的に講義。3日目から実地と講義のセットになる。10日目からはほぼ実地。そして11日目に卒業試験で「仮免」をとり、12日目に国の指定した免許センターで試験を受けるという流れだ。
1日目の講義が終わると俺はクソみたいな部屋に帰り、大学の単位用のレポートを少々手直し、すべてWi-Fi経由で教授に送りつけた。俺は夢見ていたから。そんなものすぐに仕上げていた。最終講義が終わる前には書き終わっていた。でも、俺のやったことに意味があったんだろうか? あの時の2人のファックの映像が浮かんでくる。月明かりの下で騎乗位をしていた花井花子と小人のドビュッシー。俺は勃起した。俺は泣きそうになって、オナニーして絶望的な気分になった。
その日の夕食はひとりだった。ひとりでいい。誰もいない食堂。料理をしているのは寮長だったが、どこかで見覚えのある顔だと思ったら、大学の同じ学部の女性だった。たぶん、アルバイトなのだろう。あるいは奨学生か。この国じゃ奨学生なんて気取った名前だが奴隷だからな。俺の学部は工学部だったので、女性は珍しかったので覚えている。
料理は魚のフライに、サラダとご飯と味噌汁ぐらいだったが、もう何を胃に詰め込もうと、どうでもよかった。飯を食い終わって、部屋に帰ろうとすると、「あなた三好君よね?」と声をかけられた。そちらを向くと俺と同じぐらいの身長に、ポニーテールに三角巾をかぶって、エプロンをつけた女性が立っていた。二重の切れ長の目に、小さな鷲鼻に、耳が猿みたいに広がっていて、分厚い唇だった。遠くで見ていたらわからなかったけれど、健康的で可愛い女の子だ。
「はい」と小さく答えた。「三好です」
「やっぱり天才君だね」と手を叩きながら唐突に言った。「18歳になった誕生日に即入居なんてあんまり聞いたことないよ」
「そうですね」と俺は同意した。「18歳になってすぐに免許が欲しかったから」
「なんかしたいことがあるんだ?」と快活な声で聞いてきた。
なんとなくそれには答えたくなかったし、答えに自信もなかった。かつての俺はそこにはいない。あんなに大きかったのに。あんなに自信たっぷりだったのに。「あのどこかで……」と一応聞いた。
「私はエミっていうんだ。名倉エミ。名前の名に、倉敷の倉、エミはカタカナ。工学部。あなたも工学部でしょ?」と言った。「我が校で初めての飛び級の優秀な学生」
「たいしたことないです」と俺は日和ながら馬鹿みたいな顔をして言った。
「謙遜しなさんなって」とニコニコしながら俺の腕を肘で突いた。
「よろしくお願いします」と俺はいささか迷惑だったが言った。早く部屋に帰ってひとりになりたかった。哀れな騎乗位を想像してオナニーをするのだ。
「珍しいよね。こんな時期に。あたしはここで寮長のバイトをやってるんだ。ここの寮はどんなに見積もっても24人しか来ないんだ。たまにカップルで免許取りに来るアホもいるけどね。あんな部屋に2人で入れるかっての。豚小屋じゃないんだからさ。今はひとりで切り盛りしてる。あと数日すると忙しくなって、他のアルバイトも来るんだけどね。そうすると時給が安くなるからさ。だから早めに来てるんだ。少しでもお金を稼ぎたいからね」と彼女は三角巾を締め直した。
俺はうなずいた。彼女も大人かと思った。
「どうだった料理? 今日の新作。ここは大学に入学してからいるし、3年目になると結構任されるからさ」と言った。
俺は何が新作かわからなかったので、適当に「美味しかったですよ。魚のフライとか」と答えた。
「そこに注目しないでほしいわね。魚のフライが新作なわけないでしょ? パン粉と魚さえあれば誰だって作れるわよ。自信作はタルタルソースなの。あれは私の3年の研究の成果なのよね」
「はあ」と俺は答えともつかぬ返事をした。タルタルソースが研究の成果なのか。
「覇気ないね」と彼女は目を見開いた。なんだかすべてが見抜かれているみたいだ。18歳少年オナニストを見つめる私立探偵少女か。「学校だと静かだけどさ、あなた肉食系だと思ってた。飛び級で鳴り物入りでやってきて、あなた正直、学校で浮いてたし、みんなに煙たがられたじゃない? でも、そんなのお構いなしって感じで、めちゃくちゃ講義に出て講師にたてついてるし」
「3年生ですか?」と俺は聞いた。
「そうよ。あなたは18歳、私は20歳で同じ学年。変だね」と笑った。ビリー・アイリッシュ並に揃っている前歯が綺麗だった。
「最初の2年は教授にひたすらいじめられたけど。食らいつくのに精一杯で、辞めさせられると思って泣きたかったですね」と俺には珍しく他人に弱みを見せた。
「でも、あなたは18歳の大学3年生になったじゃない? それってすごいことだよ」と彼女は俺の胸に指を指して言った。「あなたは覚えてないかもしれないけど、ゼミも一緒なのよ。『日本自動車工学論』。あなたの『ハチロク』の研究論文すごく面白かった。トヨタの歴史や、『ハチロク』の魅力まで結構綿密に取材してるし、論旨も明確で、説得力あったからさ。すごいなって。私の父さんが、フォーミュラ・ニッポンに参戦してるトヨタ・チームのメカニックなんだ。その父さんがすごいって言ってくるんだ」
「ありがとうございます」と俺は礼を言った。たしかに俺は「ハチロク」を研究し尽くした。俺の買った車は83年型だったが、2018年には新車が出たし、機能から構造まで研究をしていた。もちろんレーシング用の車までもだ。すべては理想のために。
でも、そんなの。すべて役に立たない。
「私の話、聞いてる? 馬鹿みたいな顔してる。何かあった? 好きな女の子にフラれたとか?」
俺は一瞬ギクッとしたが、首を振った。「ちょっと疲れただけです」
「そうだよねえ。あなたいつもひとりで頑張ってるし、こんなけったいなところ嫌だよね。それに明後日から人もくるし。でもさ、なんかあったら相談してよ。父さんも感動するような人がここにいるんだから」
「わかりました」と言って部屋に帰ってベッドに寝転んでやたらに低い天井を眺めていた。なんだか不思議な気分だった。
次の日の朝の講義が始まる前も彼女は食堂にいて、俺に新作料理を食わせたが、大概はソースとか、ドレッシングとか、はっきり言って評価に困ってしまったが、うまいことはうまい。そう答えると彼女の唇がめくれて真っ白な前歯を見せて笑った。講義はどこかで聞いたことがある内容ばかりだと思っていたら、一般道路での運転規則程度なら、すでに勉強していることに気づいたのだ。すべては夢のためだったから。それが終わると、パソコンをチェックし、どの教授からも返信があって、「合格」と書いてあった。最終講義すらまともに聞かないで書いたレポートだぞ。アホな奴らだ。すると花井花子からLINEが入っていた。「なんだか寂しい」と書いてあった。俺はそれを「既読スルー」した。答えるのは俺じゃないと思ったから。俺じゃない。俺じゃ。俺じゃないんだよ、もう。
夕食もまだひとりだったが、名倉エミがやってきて、「今日の料理はいかが?」と聞いてきた。
その日はデミグラスソースのかかったハンバーグとポテトサラダ、小鉢に入ったおしんこ、ご飯と味噌汁と簡素だったが、うまかった。今までの人生で料理の味なんて考えずに生活してたからな。
「素敵なソースだと思います」と俺は答えた。今度は間違えない。
「うーん。ソースは市販なんだけどね」と彼女は答えた。
「料理はアウラでできてる」といつもの言い訳がましい自分になった。
「何それ?」
「ウォルター・ベンヤミンです。人工物だろうが、創作物だろうが、料理それ自体に旨さが宿る。それはあなたの腕だってことですよ。きっと才能があると思います」とけっこう真面目に答えた。
「作ったのはお味噌汁の味噌なんだけどね。そんなものにアウラなんてあるのかしら? まあいいや。君に才能があると言われると嬉しいね。天才だから」
俺は天才じゃない、ただの馬鹿野郎だ、と思っていたが黙っていた。
「明日から一足早く君は実地だね。それから入学生が来るからさ。ちょっと煩くなるよ」
「慣れてます」と俺は答えて「ごちそうさまでした」と言った。
「ちょっと待ってよ。まだお腹減ってる?」と俺のティシャツの袖を握った。
「そうですね。そんなに品数はないので」
「明日からの新入生のための新作料理食べてく?」と彼女は聞いた。「明日から人が増えて、教習所からお金が回ってくるの。あんまり粗末じゃ逃げちゃうのよ。最近の入学生は気合が足りないから。少しお金がかけられるから一品増えるの。オムレツなんだけど」
「わかりました。養鶏に命をかけたとかそんなんじゃないですよね?」と俺が答えると彼女は笑って「まあ見ててよ」と言った。まるで花井花子みたいな純真さと明るさで俺は少し悲しくなった。
オムレツは美味しかった。そういえば、生涯でオムレツなんて食べことないなと思いつつ、とにかくうまかったことは伝えた。
「ありがとう」と彼女は笑った。「あなたに言われると嬉しいわね」
なんだかずっと見ていたい笑顔だとふと思った。部屋に帰るとLINEがあった。今度はドビュッシー竹澤からだ。「兄さん、花井花子が泣いています。『既読スルー』はしないでほしいと。何かありましたか? 心配です。返信をください」
俺はそれを無視してベッドに寝転んだ。2人のファックの映像が浮かんで勃起してしまった。またオナニーをして泣いた。俺の救いはどこにある? 俺の希望は消えたか?
実地もたいしたことはなかった。だいたい、親父に頼み込んで社員さんに簡単な運転を習っていたのだ。敷地だけは馬鹿でかいし、親父は俺の頼みを断れない。まったく役に立たないと思いこみすぎていたが、実地はその10分の1程度の力で習得できた。講師に褒められたが、クソみたいだし、俺以上に運転技術の下手くそな講師、講義も退屈で、料理だけはうまいという無意味な合宿だ。まるで料理を食べに来ているみたいだ。
実地に入ると人が増え始めて、アルバイトも来て、名倉エミと話す回数も減ったが、彼女が忙しく動いている様子を見ていると心が弾んでいることに気づいた。まるで母親みたいだ。会ったことないけど。こんな母親だったら楽しいかもしれない。彼女の働いている姿が類型を逸脱するほど綺麗だと初めて思った。それが母性なのかもな。「真の美しさは類型に宿る」とトヨタの創業者が言っていた気がしたが、どうやらそれは男性的な論理らしい。人間は思想を凌駕する、か。そして食事が終わると、あいも変わらず俺のところに来て、新作料理を食べさせてくれた。だいたいソースとかドレッシングが新作なのだが、不味くはないが、なんて言ったらいいのかわからないし、とにかく間抜けな答えはできないと思い始めていて、俺は慎重に答えを選びながら言った。彼女はその度に俺の間違いを指摘して笑顔になった。どうでもよくないことが、どうでもいいことに気づいた。
10日目の午前中には、すべての実地も、講義も終わってしまった。俺はもっと難しいこと、あるいは順風満帆にいかないことを想像していたから、まったく予期しなかったことだった。なんでもそんな生徒は初めてらしい。ここでは飛び級はできないそうなので、家に帰らないで、「仮免」を取ってしまうまで、適当に過ごしていいと言われた。
することもなかったし、やたらと狭くて寒い部屋でじっとしていた。趣味はないから何もすることはない。明日の午後までどうするんだ、なんて泣きそうになる自分もいた。こんなにも賭けていたのに。あまりにも呆気なさすぎる。そして俺は弱すぎる。
それから、名倉エミと会話をしている自分を思い出して、何かが変わっていくことに気づいた。腐っていた魂が生き返ったような気がした。というか、「ハチロク」などいらなくなってきたことに気づいたのだ。いや、それほど熱意を持って「ハチロク」のことを考えなくなった。そうすると毎晩のように蘇ってくる、ドビュッシーと花井花子のファックの映像が徐々に薄れていった。LINEはすべて無視し続けた。何回も何回も来たと思うけど、それさえもどうでも良くなってきた。あんなにふたりのために躍起になっていたのに。猟銃さえぶっ放したのだ。
その日の夜、俺から名倉エミに声をかけた。片付けをする夜の9時には彼女がひとりになることを知っていたのだ。彼女は石鹸で洗った手をエプロンでゴシゴシ拭きながら食堂にやってきた。
「どうしたの?」
「いや、新作料理でも食べたいなって」
「さすが、天才さんね」と彼女は言った。「実地も、講義も完璧だってね」
「いや、そんなに」と俺は謙遜をした。というよりみんなを見下していたかな。
「すごいわよ。私は見てたよ。縦列駐車を2秒でできるなんてね。信じられない。メカニックの娘の私でさえ縦列は嫌いなのに。講師のおじさんが驚いてた。まるでプロのレーサーみたいだって」
「そうですか」と俺は言った。プロのレーサーなんて想像したことない。
縦列駐車は、中古車センターで習った技術だ。見栄えやスペースの関係でそうなっているのだが、中古車センターの車は縦列も、横列も、もちろんそうでない納車方法も車と車を徹底的に寄せるように指示されているし、とにかくミリ単位で行わなくちゃいけないから、手厳しくしごかれた。
「そういえば『三好中古車センター』の息子さんだったなって。と考えると、違う?」と彼女は俺に顔を近づけた。少しシトロンの匂いのするチークの入った頬に、リップを塗った唇がキラキラしていた。彼女の目に俺の目が写っていた。その質問に特に驚きはしなかった。敷地内だし想定内だ。
「内緒にしておいてほしいですけど」と俺は静かに言った。
「飲酒とか喫煙とかは未成年ってよく聞くけど、車の運転の未成年なんてあんまりねえ。いつ頃から運転してたの? 正直に」
「12歳から」と俺は下唇を噛みながら言った。「もっと前かも」
「で、すごい腕だってこともわかった。『ハチロク』も運転できるの?」
「いや」と俺は言った。あれは俺たちの理想だったから。恐れ多かった。それにぶっ壊れて動かなかったというのもあるけれどね。
「スポーツカーは?」
「まあ、多少は」
「本当にすごいよ! 動画を携帯で撮ってたの。勝手にごめんね。あんな美しい縦列駐車を連続で見せられるんだもん。それを父親に見せたの。そうしたらすぐに返信があった。あなた多分、すぐに免許を取りそうだし、もしよかったら、父のレーシングチームに遊びに来ない? すぐにってわけじゃないけど、レーシングカーの研究もできるそうだし、もっといえばレーサーにだってなれるかもしれない」と彼女は興奮気味に話した。「あなたすごい才能だよ。気づいてないかもしれないけど。やっぱり天才はなんでもできる」
俺はびっくりしてなんて答えていいのかわからなかった。レーサー? メカニック? なんだか想像もできない世界だ。
そして黙っていた。電気の消された食堂は一部だけが光っている。俺と名倉エミはそこにいて、新作料理について、あるいはプロのレーサー、レーシングカーについて話をしていた。俺と名倉エミは見つめ合っている。話すことも、目配せすることも、言い訳することもなくなっていた。いたたまれないわけじゃない。そうしなくちゃとさえ思ったんだ。俺は彼女の顔に唇を近づけてキスをした。とても静かなキスで、そんなもの存在しているのかわからなぐらいだった。
「ねえ」と彼女は上目遣いで俺の首に手を回した。「あと2日であなたがいなくなるのが寂しくなってきたよ」
「僕は……」
「ずっと見てたんだ。あなたが年齢のせいで、大学で他のバカに無視されて、いじめられても平気な顔してるの。だって同じ工学部で同じ講義を受けてるんだもん。ぜんぶ知ってるよ。いつも下唇噛んで強がっているし、負けない気持ちも感じた。他の男の子と違ってた。そしてあなたには才能がある。レーサーとしての才能があると思う。私の好きな父親にそっくりだよ」
その瞬間、俺は父親という言葉が出てきて、嫌悪の感情が湧き上がってきた、俺にとって親父は、欲望やら暴力の吐口の対象だが、彼女はそういうわけじゃなかった。単純に父親を尊敬しているのだ。そんな人間を初めて知った。
「好きな人いる?」と彼女はシトラスの匂いをさせながら聞いた。潤んだ目に俺が写って濡れて溶けて彼女の一部になっている。
俺は首をふった。いなかったわけじゃないのに、あるいは俺の手に入るかもしれないのに、もういない。どこにもいない。
「じゃあ、片付けが終わってから部屋に行ってもいい?」と名倉エミは俺の耳元で囁くように言った。「今日、泊まっていいかな?」
クールなキッズに時間はない。
8
獄窓みたいな小さな窓から差し込む月明かりの光が細くて薄い。いまにも消えてしまいそうだ。そうならないように祈りを捧げよう。真夜中午前2時。目は冴え渡っていてどうにもならない。俺の骨なんてゴミになって埋められるんだろうとずっと思っていた。なのに、誰かがそばにいて、誰かが何かを想ってくれて、そうすれば、諦めたことも、絶望だって、光速よりも早く希望に変わる気がした。それを信じればいいだけだった。
名倉エミが隣にいる。細い月明かりが伸びて、彼女の裸の背中を照らしている。まるで何かの女神だなと思った。スヤスヤ眠っている。俺は何かが変わることを感じている。それがいいのか悪いのか全然わからないのに、そうせざる負えないことだけはわかる。俺は彼女の髪の毛に触れた。柔らかい感じ。その匂い。起こしたくないと思う。
俺は汚いシミのついたやたらに低い天井を眺めていた。人生なんてあっという間に変わるんだと思う。さっきまで、全然違うことを感じていたのに、まったく違うことを求めている。自分の知らない俺がいる。
まさかな、って思うよ。俺の初めてファックする相手が彼女だったなんて。そんなわけないよなって思っていることが、あっという間に起こることに驚いている。俺はどうしたらいいのだろう? 今日には「仮免」の試験がある。そしてその次の日には、本試験があって、俺は免許をとるだろう。そして「ハチロク」に乗って永遠のどこかへ行こうと思っていた。そのどこかは、俺の求めている場所じゃないことにも気づき始めて……。彼女はどうする? 俺、彼女を愛してるんだ。なんて……なんとなくの混乱。でも、嫌いな感覚じゃない。自涜するよりマシだ。
LINEが入った音が携帯からした。その時初めて、素直に携帯を取ることができた。LINEを見ると、ドビュッシー竹澤と花井花子のグループからだった。この10日間まったく見てなかった。最初の4日間はマメに送られてきていたけど、5日目からまったくなくなっている様子で、波を打つように、連続で来たかと思うと、まったくこない時間もあった。LINEはほぼ花井花子からだった。それは寂しいという気持ちから、見せかけの優しさへ、自己憐憫、それから俺への怒りに変わっていた。
「兄ちゃん、これも読んでないんだね。ずいぶんいろいろ送ったよ。でも無視しているんだね。どうしてなのかは聞かないよ。でも、一応言っとく。ドビュッシー竹澤と私の父親が、兄ちゃんの家にやってきて、私たちは拉致られた。灘岡湖の倉庫に。お父さんが殴られて気絶したよ。もしみているのなら、帰った方がいいと思う」という文面だった。
俺は冷や汗が出てきた。襲撃されたんだ。どうするもなにも、俺は急いで着替えた。
「むむむ」と名倉エミが俺の着替えの音に気づいてむっくり起き上がって目を擦った。「どうしたの?」
「起こしてごめんなさい。今からちょっと自宅に帰らなくちゃいけなくなったんです」と俺は言った。
「どうして? 何かあった?」と心配そうに名倉エミが言った。毛布を胸元まで上げて綺麗な形の乳房を隠した。肩口の鎖骨が見える。鎖骨の凹んだところに光が差し込んで影になっている。綺麗だと思う。
「行かなくちゃ」と俺は言った。
「ダメだよ。寮を勝手に抜け出すことになるし、それは禁止されている。おまけに午前2時だよ。明日っていうか、今日だけど『仮免』の試験でしょ」と毛布を被りながらスルスルとブラジャーをつけた。彼女は花井花子とは違っておしとやかな女性だと思った。おしとやか、初めて知った言葉だ。俺の世界は暴力だけだったしね。
俺は彼女の肩をがっしり掴んだ。「お願いです。行かせてください。説明はあとでするけど、かならず、明日の『仮免』の試験までには戻ってきます」と言った。
俺は彼女をじっと見つめた。彼女は俺の言葉を拒否するように首をふった。
「ダメだよ。人生が無駄になっちゃう」
「たとえそうだとしても」
「どうしても行かなくちゃいけないの?」
「うん。友達が大変な目にあってるから」
「戻れる?」友達のことは聞かなかった。
「今日の朝には。だから新作料理を作ってくれたら嬉しい」
「他に女の子とかいるの? 私じゃヤダ?」と唐突に聞いてきたので、厄介なことだと思いつつ「そんなことないです。ただ、友達がピンチなんです」
「それは説明できないことなんだね?」
「いまは。だけど必ず。だって、僕の童貞あげたんですよ」と俺はピエロみたいに戯けた。そんなことしてる暇はなかったのに。
彼女は笑った。「そうなんだ。天才君もいろいろあるね。わかった。その割には上手だったけどなあ」と彼女は返した。
この辺は花井花子みたいに一筋縄ではいかない。俺の心は見透かされている。
「バレるとめんどくさいから、裏口からでてくといいよ。カードリーダーで管理されてるから私のカードキーを貸してあげる。ちょっと待って」と名倉エミは言うと、毛布に包まったまま、机にあったスヌーピーの柄のポーチをあさって、カードキーを取り出して、俺に渡した。
「ありがとう」と言って、俺はそれを受け取り、少し戸惑いながら頬にキスをした。目的は違うかもしれない。目的なんてないかもしれない。でも、俺たちは永遠の兄妹だった。
「かならず戻ってくる?」と彼女は聞いた。
「僕を信じて。それから、免許をとったら、お父さんのレーシングチームの見学に行っていいですか?」と言った。なんだか、その場を取り繕うのに長けたヒモ男みたいだったが、そんなつもりはなかった。もう俺の夢は潰えた。だけど新しいことが見つかったんだ。それは悲しいことかもしれないけれど。
「ありがとう!」と彼女は毛布をずり下ろして俺に抱きついた。「お父さんもあなたのことを気にいると思う」
ブラジャーの感触や、胸の膨らみ、腕の感触、陰毛のさわさわした感じ、すべてがありありとそこにある。失いたくない。ここまで生きてきて、なんだっていいと思っていた。どうなったって知るもんかって。でも、彼女のおかげで、目的はだいぶ変わってしまったことに気づいたけど、根本は変わってないことに改めて気付かされた。俺の兄妹。俺は行かなくちゃ。仲間のために。行かなくちゃ。明日のために行かなくちゃ。
「ありがとう」と俺は出ていこうとした。
「待って。必ず返しに来ないとダメだからね」と笑った。「約束だよ。好きだから。私を好きにさせるなんて罪だからね。それから帰ってきたら付き合ってって言ってね」
俺も笑って「愛してる」なんて馬鹿なことを言った。でも、間違いじゃないな、と思った。間違いじゃないことを言うことは気持ちがいい。
全速力のチャリンコ。石のようにはねるジューン・バグ。雪がちらついている。早くしないと積りそうだ。俺は全速力でチャリンコを漕いでいた。あと2日経てばそれが「ハチロク」に変わると思うと不思議な気持ちになった。また歳を取って、俺の嫌いな大人になっていく。そしてふと俺の助手席には名倉エミが乗っていると素敵だなと思った。
俺は何かが決定的に変わってしまった。もう取り返しがつかない。
そんな感傷的な気分を振り払って、俺は急いで自宅に向かった。チャリンコ置き場に自転車を投げ捨てると、いつの間にか車庫ができていた。びっくりしたが、微かに「ハチロク」の真っ赤なボディが見えた。俺はそれを尻目に、急いで家に入ると、玄関先で親父が頭から血を出して倒れていた。「親父!」と俺は急いで抱きかかえた。相変わらず貧相な体だ。ただ呼吸はしっかりしている。意識を失っているだけだ。微かに呻き声をあげたあと、俺の腕の中で目を開けた。「帰ってきたの? ロミオ」と弱々しく言った。
「誰がジュリエットや!」と俺はツッコミを入れたが馬鹿馬鹿しくなって「大丈夫か?」と聞いた。
「うーん、かなり痛いけど。金属バットで頭を殴られたの」
「血が出てるから救急車を呼ぶよ」
「たぶん、そんなに大事に至ってないと思う。あの2人が連れていかれてしまった」
「誰がきたの?」
「わからない。いきなり男2人組に襲われた。マスクをかぶっていて誰だかわからなかった。みんな私と同じ背丈だった」
「ああ、なんとなくわかる。気にしなくていいし、誰だかわかった」と俺は答えた。親父なんてみんなそんなもんだからな。ドビュッシー竹澤と花井花子の父親なのは事実だろう。「親父、どこに連れて行かれたかわかる? なんか言ってた?」
「たぶん、灘岡湖の倉庫街だと思う。あいつら、K―4番ってでかい声で馬鹿みたいに言っていた。たぶん、強盗じゃないと思う。そんな失敗しないからね」
「K―4番。なんとなくわかる。あの辺、ドリフト野郎が集まるから。俺、社員の人に誘われて遊びに行ったことがある」
「本当に車好きよね。どうするの?」
「助けに行く」
「警察呼んだほうがいいんじゃない?」
「いや、親父にも迷惑がかかる。黙って匿ってもらっていたから。逆にあいつらが警察を呼ぶかもしれないけど、どうする?」
「そんなことわかってるわよ」と親父が言った瞬間に俺は泣きそうになった。「これから警察に唾つけとくわ。何年あなたの父親をしてると思ってるの?」
「親父」と俺は親父を腕の中から落とした。後頭部を床にぶつけた。
「ちょっと、あんたもう少し優しく扱いなさいよ!」と親父は怒鳴った。
「ごめんごめん。でも、チャリンコじゃ間に合わなさそうだ。どうすりゃ……」
「これ使いなさい」と親父は血のついたジーンズのポケットから「ハチロク」の車のキーを俺の右手の掌の上に乗せた。
「これ……」
「今日、納車されたの。あの2人、泣きながら喜んでたよ」
「わかった」と俺は下唇をギュッと噛んだ。
「運転はできそう? っていうか、できるわね。徹底的にしごいたもん」
「ああ。俺を誰だって思ってる?」と俺は笑った。「運転なら神より巧いさ」
「そうね。無敵の車王子ってところかしら」
俺は親父をソファーの上に寝かせて、頭にガーゼを当てた。あんまり動かさないほうがいいだろう。まだ血が出てる。俺は自分の部屋に行って、チョッキを来て、普段は使わない飛び出しナイフも用意し、猟銃を持った。銃弾を4発込めて。そしてトレンチコートを着て、サングラスをかけた。大門圭介! もう後戻りはできない。
自分の始末は自分でつけなくちゃいけない。自分でケツを拭かなくちゃな。
リビングに戻ると親父の意識は完全に回復しているようだった。俺の姿を見て「ダメよ。猟銃だけは使わない」と言った。
「わかってる。安全のためだよ」と言ったが、そんな保証はどこにもなかった。「それから車ありがとう。今日の午後には『仮免』だから。明後日には免許が取れると思う」
「じゃあ、バレないようにしないとね。その辺、なんとかしておく。『中古車センター』の社長をしてると警察と癒着するんでね」と堂々と言った。
「俺さ、いま気づいたんだ」と俺は笑いを堪えながら言った。
「何を?」
「親父って悪い奴だなって」
親父は笑った。「だてに一代で財産築いてないよ。行ってきなさい。連れて戻ってくるの。調べてみたら、あの子たち虐待されてたんでしょ。だからここに連れて来た。あの子たちから聞いたわ」
「まあ、ね」
「じゃあ、そのことも含めて私たちで匿うこともできるわよ。実はあれから証拠を探しててね。彼らから預かった証拠を隠してある。警察が来たら使うわ。あなたのことは隠すけど。めちゃくちゃごまかすけどね」
「ありがとう」そんなこと親父に初めて言ったな。
「もし、うまく行かなくて……」と俺が言うと「もし、なんてそんな言葉はこの世界にないよ」と親父は言った。
俺は笑って頷いた。そして、そのまま、キーを持って外に出ていった。
新しい車庫は、ずいぶん立派だった。3000人ぐらい乗っても大丈夫な作りになっていた。そこに赤い83年型「ハチロク」がある。真っ赤なボディに横長のランプ。新調されたナンバープレート。
1983年の徹底捜索だ。中曽根康弘首相は、B級役者の大統領と意気投合して「ロン・ヤス関係」だなんだの馬鹿な身振りに終始していた。そんな保守とキッチュな時代を画するような斬新のボディとどこまでもいけそうなオーラを纏った車だ。俺はそいつのドアを開ける。新品の牛皮の匂い。親父は改造までしている。涙が出そうになってくる。俺は行かなくちゃいけない。このオーバーホールされた「ハチロク」に乗って。猟銃を後部座席に放り込んだ。
アクセル全開に吹かせて。俺はあいつらの元に行くだろう。あいつらを救うんだ。
そしてエンジンをかけた。この感触。ドドドドと体が震える。あるいは俺が身震いしているかもしれない。それはこの車に乗れた喜び、あるいは何かがあって、この車を失ってしまうかもしれない恐怖を感じたからだった。恐怖と恍惚がない混ぜになってる。
そうだ。これだ。どうでもいいんだ。
俺は行くんだ。ゆっくりと車庫からでた。1速で唸りをあげる。こんなにも心地よいバイブは初めてだ。そして俺は周回道路にでた。湖岸にある倉庫は、ここから20キロ近く離れている。
ぶっ飛ばしちまうぞ。俺はアクセルを踏み、2速、3速、4速まであげた。時速100キロで周回道路をぶっ飛ばす。キュルキュル回るエンジン音。最高のバイブス。
最初で最後かもしれない。俺の永遠の希望への旅だ。いや、行き先はわかっている。もう、永遠ではない。ひどいことが待ってるかもしれない。俺を傷つけるかもしれない。だからこそ、そこに行くことができるんだ。
「ハチロク」は風を切ってビュンビュンと音を立てた。
9
「灘岡倉庫街」は「中古車センター」からだいぶ離れた海の近くにある。倉庫街の入り口側は無人のでかい駐車場になっていて、ドリフト族のメッカになっているが、今日は誰もいないようだ。まるで世界が終わったみたいに。俺は、だいたい彼らが改造車を隠すところに「ハチロク」をおいた。警察には見つからないだろう。俺は猟銃を持ってサングラスをかけて車から降りた。
そのまま駐車場を突っ切って、倉庫に張り巡らされたフェンス、しかもめちゃくちゃに切り刻まれて穴の開いたところから忍び込んで倉庫街に入る。俺は街灯に照らされた倉庫の列を抜けて行く。倉庫はAからMまで横に列があり、縦に10個並んでいる。まるで幽霊の町だ。整然とお墓が並んでいる。ここが俺の墓場かもなって思う。それもいい。それにしても静かだ。
なあ、神様、俺の何を欲しがってる?
とんでもない嘘ならあげるよ。
俺は慎重に歩きながら、電灯に照らされ、シャッターの下されたK―4倉庫という場所に立つ。でかい真四角の箱。しばらく佇んで、そのままシャッターに耳を当てていたが特に声も聞こえなかった。いきなりシャッターを開けて正面突破は危険だと思ったし、開ける場所はここではないので、裏にある小さなドアから忍び込むことにしたが、そこは2重ドアになっている。ひとつ入るとシャッターを開けられるスイッチがある配電盤があり、もうひとつのドアの奥が倉庫になっている。どちらも普段は鍵がかけられているはずだが、ひとつ目は鍵がかかっていなかった。俺がここに来ることを知っているのだろう。上等だ。ふたつ目は鍵がかけられていて入れなかった。無理やり入ろうと思えば入れるが、中の状況がどうなっているかわからない。おそらく正面から入ることを誘っているのだ。どうする?
迷っていたけど仕方がない。そのまま俺はシャッターを開けるスイッチを押した。シャッターが開くゴゴゴという音が聞こえた。そしてゆっくりと歩き、倉庫の角に立ち、しばらく誰かが出入りするのか確認していたが、その様子もなかったので、ゆっくりと倉庫に入った。リノリウムの床。ゴムの匂い。中央に、ドビュッシー竹澤と花井花子が裸にされてロープで縛られて座らされていた。彼らは殴られていたのか、顔がいたるところ真っ赤になっている。俺は泣きそうになった。なんで自分の親父がこんな風に子供をめちゃくちゃにしなきゃいけないんだろうなって。どうして俺たちはこんな仕打ちを受けちまう?
そして猟銃を構えながら、そのままゆっくりと彼らに近づいて行くとドビュッシー竹澤が俺のことに気づいて目を見開いた。
「兄さん!」と声がした。
花井花子はぐったりしていたが、その声に顔をあげて俺の方を見るとすぐに泣きそうになった。ここの倉庫は医薬品がいたるところにあるが、一角に白いヴェールのようなものがあって、俺はそいつに近づいてそれを剥ぐと、ホルモン注射に使われる薬剤だということに気づいた。ここは花井花子の親父が借りているのだ。これが花井花子に注射していたやつかもしれないと思うと、あいつが急に不便に思えてきた。
俺はとにかくふたりを黙らせたくて、口に人差し指を持っていくが、「今は誰もいないよ」とドビュッシー竹澤が言った。花井花子も「2人はどこかに消えた」と言った。
「見張りは?」と俺は聞いたが、「2人だけだよ」とドビュッシー竹澤が言った。花井花子が「バカ親父のせいなの。あいつらが兄ちゃんのお父さんを殴った」と言った。俺はその言葉を信じて(疑う理由もなかった)、彼らに近づいた。俺を誘っているような気がしたのに、ここに誰もいないのはどういうわけか気になったが、ふたりが心配だった。身体中いたるところ殴られているようだ。擦り傷とあざだらけだったので、俺は自分が情けなくなったし、LINEも「既読スルー」にしているんじゃなかった。一回でも連絡を入れておけばよかったのだ。「大丈夫か」と俺は膝を地面について言った。
ふたりはうなずいた。背中合わせに座らされ、両腕をそれぞれの背中に押しつけられてロープで縛られている。口を塞がなかったことに疑問を持ったが、口角に傷がついていて、おそらく外されているだろうと思った。俺は飛び出しナイフでロープを切った。
ドビュッシー竹澤と花井花子を解放した。2人は泣きべそをかいて俺に抱きついた。
「兄さん。ありがとう」と俺にタックルをするように両足に抱きついたドビュッシー竹澤が言った。「免許はいいの?」
「気にするな」と俺はドビュッシー竹澤の裸の背中をポンポンと叩いた。そして花井花子が「兄ちゃん、ありがとう」と言いながら、俺の背中から抱きついた。俺はまるでサンドウィッチみたいになって緊縛されたレタスのように圧搾されているが、何より2人が無事でよかった。
「お前たちを連れてきたのはクソッタレの親父なのか?」と聞いた。
「うん。兄さんのお父さんは無事?」
「ああ、ちょっと怪我をしているみたいだけどね」と俺は答えた。
「兄ちゃん、ずっと、ずっと待ってたんだよ」と泣きながら裸の花井花子は答えた。
「悪かったな」と俺は言った。一時期の気の迷いですべてを見失うところだった。もう大丈夫。しかし、こんなに簡単でいいもんだろうかと思った。神が試練を与えることを俺は知っている。その時だった。花井花子が俺の股間に手を当てた。
「ねえ、兄ちゃん、聞いていい?」と花井花子が言った。
一瞬、何をしているのかわからなくて不思議な気がしたが、「どうした?」と尋ねた。
「兄ちゃんの誕生日の前の夜、兄ちゃんとあたしとドビュッシーで寝ていた時、あたしがドビュッシーとファックしていたの知ってたでしょ?」と言った。
俺は驚いて花井花子の顔を見た。「何を言ってるんだ?」と言った。
「それで怒ったんでしょ? あたし知ってる。兄ちゃんがあたしのこと好きだって」
そう言うと、俺の上半身にロープを巻き出した。意味がわからなかったが、それを振り解こうとすると、すぐに112センチのドビュッシー竹澤が俺の足元をガッチリとロックした。俺は身動きが取れない。
「どう言うつもりだ!」と怒鳴った時、「はい、カット!」という声が背中からした。
シャッターが締められるのと同時に、ドアからドビュッシー竹澤の親父と花井花子の親父が出てきた。そしてカメラマンがひとりいた。そいつがカメラを回している。
「今の救出シーンは良かった。でもアダルトビデオはここからどんでん返しがあるんだよ」とドビュッシー竹澤の父親が言った。「撮影を再開しよう」
「何を言ってる?」と花井花子を見ると、俺のズボンを下ろして、パンツを下ろした。俺はなんとも間抜けな格好だった。そしてそのまま俺のペニスを咥え出したのだ。「やめろ!」と言って上半身をくねらせたがロープでどうにもならない。かなりきつく緊縛縛りをしている。そういやアルバイトで緊縛ショーをしてたっけなと思った。
花井花子の親父が近づいてきて「あんたはとんでもないことをしたけど。こんなことになるなんてね」と言って、俺のチョッキにしまっておいた猟銃を取り出して、いきなり俺を殴った。「お返し」と言った。
サングラスがぶっ飛び、俺の額から血が出た。「最近はスプラッターものが流行ってるんでしょ?」とドビュッシーの父親に向かって花井花子の親父が言った。
「そうですよ。花井さん。しかも素人ものでね。ちょっとサスペンス要素が入っていると売れますよ。ここにぶっかけボーイもいるし」とドビュッシー竹澤の父親が言った。「おい、カメラ回しておけよ」
カメラマンが俺の正面に回ってきて、俺のペニスを咥えている花井花子の様子を撮り出した。俺の両足を抑えていたドビュッシー竹澤が俺から離れ、ペニスをしごきながら勃起させた。
「兄さん。ごめんね。僕たち父さんに逆らえないんだよ。だって僕はぶっかけボーイでしかないんだ」とドビュッシー竹澤は言った。
俺のペニスから口を外した花井花子は言った。「ホルモン注射だってしないといけないし。ねえ、勃起しないの、兄ちゃん?」
「お前ら、何考えてるんだ?」と俺は叫んだが、その度に花井花子の親父は猟銃で俺の頭を殴った。だが、悲しいのか、悲しくないのか、それほどの力じゃない。あるいは俺のアドレナリンが出ているせいか痛みを感じない。あいかわらず親父というのは力がない。そして花井花子の父親は、左手に猟銃を持ったままズボンを下ろして、勃起した短小包茎のイチ物を四つん這いになっている花井花子の肛門に入れて腰をカナブンみたいに動かした。花井花子は喘ぎ声を出し始めた。
「いいねえ。近親相姦に猟銃をぶっ放すイカれたやつ! 最高の絵が撮れそうだ!」とドビュッシー竹澤の父親が飛び跳ねた。
俺はなんとなくわかった。そうか。こいつら初めから……。
花井花子は喘ぎながら俺に言った。「兄ちゃんがあたしを好きだってわかったから、ちょっと嫉妬させたの。もうたまらないでしょ。あたし、兄ちゃんのこと好きだよ。ほら、咥えてあげる」と俺のペニスの先っぽを舐め出した。「あたしの夢は潰れたの」
「兄さん、あの夜は演技だったんだ。だって、俺、ぶっかけボーイだし基本的に、ひとりぼっちがいいんだ」とペニスをずっとコキ続けた。「僕の夢なんてなかったんだ」
「いいよ! いいよ! 最高の絵だ!」とドビュッシーの親父が叫んだ。カメラマンが食い入るようにファインダーを見つめている。
俺は泣きそうになった。ようやく、何かを掴みかけていた。ようやく、何をすべきかわかってきた。でも、この状況になって、すべてが台無しになっていくことに気づいた。
流石に俺の勃起し始めたペニスを見て、花井花子は「大きい」と言って舌で舐め始めた。ドビュッシー竹澤はひたすらコキまくっている。花井花子の親父は、猟銃を俺に向けたまま、ひたすら、自分の息子の肛門にペニスを突っ込んでアヘアヘ顔をしている。俺は花井花子の親父の猟銃がゆらゆら揺れているのをみた。相当、力が緩んでいる様子だ。
「なあ、花子」と俺は花井花子に囁くように言った。「このロープをほどいてくれないかな? 口の奥に入れてやるよ」
花子は俺のペニスから口を放し、「嬉しい! 喉の奥まで突っ込んで!」と言ってロープを緩めた瞬間だった。
俺は花井花子のクソ親父の猟銃を掴み、そのまま振り回し簡単に猟銃を奪って、銃口を向け「やめてくれ!」の声を聞く間もなく、クソ親父の頭をぶっ飛ばした。
脳みそが飛び散って、血があたり一面に飛び散った。それらは花井花子の背中や俺の顔にかかって、首なしの死体が後ろに倒れた。
これがリアルだ、と俺は小さく呟いた。嘘っぱちじゃいられない。
花井花子は俺から離れ、震え始めていた。そしてすぐに、逃げ出そうと背中を向けたドビュッシー竹澤の親父に猟銃を撃ち込んだ。そいつの心臓に穴が開き、何かを言っていたが前に倒れた。そしてもう一発、カメラマンのカメラ目掛けて撃ち込んだ。カメラを潰すつもりだったが、銃弾はカメラを突き抜けて、その男の頭をぶち抜いた。あっという間に3人殺してしまった。
ほんとに。あっという間だった。
コンクリートの床は血だらけで、赤色や黄色の脳髄だらけだった。3人の大人が死んでいる。花井花子はお姉さんずわりのまま、2センチのものをさすりながら、ひくひく泣き始めた。そしてドビュッシー竹澤もコキ続けていた手を止めて泣き始めた。
俺はパンツを上げてズボンを履いた。花井花子に近づいて立たせ、顔を手で拭いてあげた。「なあ、泣くなよ」と俺は言った。
そしてドビュッシー竹澤のところに行って頭を撫でた。「お前も泣くな」
「兄さん」とドビュッシー竹澤が死後硬直したようなペニスから手を離した。「ごめんよ。合宿所に行っている間に、もうダメになっちゃったんだ。僕たちは兄妹じゃないって思ってしまって。怖かった」
「わかってる。俺が悪いんだ」と目を閉じた。「お前らのせいじゃない。お前たちを疑っていたんだな、きっと。お前たちを信じることができなかった」
「兄ちゃん、兄ちゃん」と花井花子は泣いていた。「本当はあんなことするつもりもなかったの。だってあたしたちひとりぼっちになったから。兄ちゃんがいないときにあいつから連絡があって……。こうしたらまた元の3人に戻してやるって」
「わかってるさ。愛してるんだろ? ドビュッシーのことを。さっきのは嘘だろ?」
「兄ちゃん」
「わかってるって」と俺は言った。「自分のことを信じろよ」
「うん」と花井花子がうなずいた。「兄ちゃんはどうするの?」
「さあな。親父に説明するよ。あいつだったら信用できる。ここいらは中古車センターのシマなのさ。この辺には中古車が倉庫に眠っているからね」と俺は言った。「行くぞ」
「うん!」と2人は笑った。
でもわかっている。もう帰れないことを。支払った罪は贖われなければならない。そうだ。必ず。そう、永遠の場所に来たのだ。ここが、っていうのはあまりにもみみっちいけど、ここが俺たちの辿り着く場所だった。ただし、俺以外はまだ行ける場所がある。
「花子。倉庫の裏に車を隠しているんだ。『ハチロク』は見ただろ?」
「うん、なんて立派な『ハチロク』だったんだろう!」と叫んだ。
「兄さん、これで理想郷に行けるんだよね」とドビュッシー竹澤も言った。
「そうだな。花子に鍵を渡しておく。エンジンぐらいかけられるよな?」
「うん! 兄ちゃんに教えてもらったし」
「やっぱり僕たちは兄妹だね」とドビュッシー竹澤は言った。
「そうさ。俺たちは兄妹さ」と言った。「ここを片付けなくちゃいけないが、俺たちじゃできない。親父に頼むさ。お前ら、先に車に行ってエンジンをかけてくれ。それにしても、あの音は最高だな」
「大丈夫なの?」と花井花子は言った。
「大丈夫だ」と俺は言った。「親父に連絡しして片付ける。あいつは悪意の塊だからな」
「兄さん、ごめんね。もう誰の命令なんて聞かない」
「支配者に支配されるなら死んだほうがいいさ」と俺はトレンチコートを花井花子に被せた。「それにしても随分うまい特殊メイクだよな。近くで見るとバレバレだ」
「知ってたんだ!」と花井花子は言った。
「なんとなくね」と俺は言った。そうでもなきゃ、口が痛くて、俺のチンポなんて咥えられないだろうな。「行くんだ。シャッターは開けないほうがいい」
「わかった」とドビュッシー竹澤が言った。「花子、行こう」
俺はキーを花子に投げた。花井花子はそれをキャッチして俺に拳骨を見せた。2人はうなずいて出て行った。俺は猟銃を持ったまま下を向いていた。血と脳髄と死体。現実は知っている。このままじゃだめだってことも。なら、することは、わかっているだろ?
弾丸はあと一発ある。それがどこにぶっ放されるのかもわかってる。俺がすべてを仕組んだってことでいい。証拠は消しちまおう。こうなるってことは、なんとなくわかっていた。お粗末な人生のお粗末な結末。だから、顛末を簡単に書いて下書きにしておいたメールを親父の携帯に送った。ふたりのことをよろしく頼むって。まるで親父ヅラだな。
俺たちは、いつかきっと、救われるだろうと思っていた。なんだか得体の知れない何かに。きっと救いならそこにあるだろうと思っていた。でも、そんなものはなかったんだ。ただ、俺なら2人だけは救うことができる。それが唯一、わかったことだ。
俺は口に猟銃を突っ込んだ。10日前のはギャグだったんだな。笑えてくる。狂おしいと思っていた自分が馬鹿だった。親父、ふたりとも、ごめんな。それから、エミさんに祝福を。そういえば、エミさんになんて言えばいいんだろうな。あのカードキー、どうやって返そうかな。きっと怒られそうだ。気にするなよ。なんとかなるさ。きっと。
ねえ、エミさん?
なあ、理想郷はどこにある?
なあ、希望は見つかるのか?
なあ、絶望はどこにいけば見つかる?
さあ、最高のファックをしよう。
生きてきて、何もかもわからなかったけど、それでいい。死んだらわかるさ、そんな声が聞こえた。
なあ、神様? あんたに会いにいく。
指先が震えていたけど、俺は目を閉じエミさんの裸を思った。笑顔や、本当は不味い料理や、暖かくて優しかった性器のこと。そしてみんなのことを。さあ、消しちまえ。目を開けた瞬間に引き金を引いた。音は聞こえなかった。意識は一瞬でぶっ飛んだ。
俺はここにいなかった。
星よりも早く「ハチロク」に乗って走っていた。永遠の希望のその先へ。
みんな、俺のことを好きでいてくれたら嬉しい。あと俺の存在を忘れないで。
「ハチロク」のエンジン音は綺麗だった。
俺が生きてきた中で聴いた最高に素敵なメロディだった。
(了)