
バースデー・パーティー
1
もし、人生に最高と最悪があって、死ぬ時にどっちだったか選べって言われたらどうする? どうだい? なあ、兄弟? って、俺、兄弟いないんだよ。ひとりぼっちのクソ野郎さ。おまけに早漏なんだけどね。
まあ、死ななきゃわかんねえよな。
俺の人生は最悪だったかな? まだ死んでないけど。あ、これマイク、入ってるんだ? あんまりでかい声で言えないよね。あからさまに人に最悪って言うもんじゃない。最高じゃないけど、中間ぐらいと言えるといいよね? ハロー? もしもし? 聞こえている? あー、あー、俺の声は聞こえる? みんな俺のダイヤルにチューン・インできてる? もう少し待たなくちゃっていうんだったら待つよ。俺の声が聞こえたら嬉しいね。
誰か聞こえるかな? 誰か俺の質問に答えてくれない? 俺って死ぬのかな? いきなりか。というか、いきなりで悪いんだけど、俺は死ぬんだよね。聞こえる? 総理大臣にも聞いて欲しいんだ。スタミナ切れで疲れ切ってるって噂だけど。ピッチャー交代らしいね。辞任しろって言えばいいんだっけ? 声高に叫びたいけど、あんまりわかんないんからさ。やめとけば? 疲れるんだったら、体に良くないし。俺、頭悪いからあんまり言えないけどさ。中学校もまともに出てないし。義務教育って何?って感じだもんな。
とにかく、俺は、死ぬってわけです。
どうだい? 喋れるだけマシか。もし、人生が、クソ過ぎたら、言葉なんて出ないよな? 聞こえる? ああ、そう。ただ、俺、喋れねえし。俺は灘岡という町にある灘岡国立病院の205号室って部屋にいる。4人部屋らしいんだけど、周りには誰もいないやね。いないように見えるだけかな? 優雅なもんだ。どでかい部屋を占領してるヤクザの親分じゃないけど。集中治療室に入る前に、無理だって感じで、ここにいるんだけどね。病院に運ばれる前から、救急退院の人たちがよく生きてるなって感じの顔をしてた。
俺はベッドに横になって、いろんなチューブに繋がれている。体の半分はちょんぎれちまってさ。それは大げさか。下半身はめちゃくちゃらしいんだ。でも、よくわかんないんだよね。痛みもない。苦しくもないよ。ちょんぎれてる感じがしないからさ。そんな気がするだけ。口にすげえでかいチューブを突っ込まれて、いつだって二日酔いの気分だ。吐きそうなんだよね、このチューブ。看護師さんが俺の体温を測る。チューブをなんとかしてくれないかな? 尿瓶を取り替えてるのかな? 俺のチンポを見てクスクス笑うのはやめてくれよ。たしかに、ちっちゃいし、勃起しても小さい。それってセクハラじゃね?
どうでもいいか。たぶん、死ぬし。そうか、死ぬなんて簡単なものだな。
ある程度、受け入れてたんだけどね。簡単に言うと、俺は42歳になった時に死ぬって言われてた。灘岡の歓楽街にいる占い師にね。で、俺はトラックの運転手をしているんだけど、42歳の前日に、思いっきり事故ってこうなっちまった。占いなんてあんまり信じないタイプだけど、当たっちまったんだ。
意識はある気がするんだけどね。目はキョロキョロしているし、何かを言おうとしてるみたいだ。伝えたいことは山ほどあるよ。ありすぎて何も言えない感じなんだ。溢れ出す俺の滾る熱い想いを届けたいね。
さっさといろんなこと整理しないといけないけど、この状態じゃね。ここまでの人生か。もうちょっと生きたい?って言われたら、そんな大したもんじゃないから、そうでもないって言っちゃうし。いますぐ死にたいわけでもない。もうちょっと生きたかったかな? なあ、友達? 俺は友達いないけど。残念だね。俺はどうすればいい?
両親は14歳の時に死んじゃったし、気づいた時には、孤児院に預けられて、孤独感は増す一方で、そこが嫌で飛び出して、いまの会社の社長に拾われて、車の免許をとってからはトラックの運ちゃん。北は北海道から、南は沖縄まで、走りに走って1000万マイル。ずいぶん走ったね。もうちょっとかな? 2000万マイルぐらいにしておこう。いや、嘘はいけねえな。100万マイルとちょっとぐらいかな。とにかく走りまくった。
そのせいか、ひとりで考え事をするのが上手くなったかもしれないね。だってさ、1日12時間は車を運転してるんだからな。そりゃ、ぶつぶつ言うよね。肉体と意識を分離させることができるって言うかさ。しっかりと運転はしてるんだけど、意識はどこかにいっちゃってる。運転しながら、その日、抱いた女の子だって想像したことがあるよ。彼女のアソコの締まり具合よかったよな、とかさ。思わず、勃起しちゃったりね。恥ずかしいやね。難しいことは言えないけどね。で、40歳を超えてから、そんな能力に欠陥ができてきたのか、たまに運転してると変な意識が介入してきて、運転ができなくなるんだよね。高速道路を運転している最中に、変な考えになって頭がぶっ飛んで、側道にぶつかりそうになって死にそうになったことがあるよ。バンチドランカーみたいなやつかな?
でも、俺はこの仕事に誇りを持っているんだ。不況で仕事がないだろ? ありがたいことだよね。それで金がもらえる。いろんなことにブーブー言う必要もない。政治も社会も経済もいらない。何もいらなかったんだ。
ずっと移動ばかりしていたな。旅って感じじゃないよ。あっちから、こっちまで、移動する。ひたすら荷物を運ぶんだ。俺の愛用のトラック「希望の光」。ありゃ、大破しちまった。俺の乗ってる最高の相棒、4トントラックは、灘岡という小さな町で、ひとりの女の子を救うためにぶっ壊れちまった。
その日は東京の豊洲ってところから、8時間かけて静岡にある灘岡という小さな町のスーパーに鮮魚や牛肉などなど、食材を運んでいる最中でさ。ちょっと余計なことを考えていたら、突然、国道の道路に5歳ぐらい、いや、7歳かな、8歳、まあ、8歳だね、いや、5歳だと思うね、間をとって6歳にしておこう、それぐらいの女の子が飛び出してきて、ハッとしてハンドルを捻ったら、建築中の高層マンションに突っ込んじまって、コンクリートの壁や鉄骨でペシャンコさ。
女の子は助かったみたいだ。良かったな。それだけやね。建築中の建物がぶっ壊れたならいいのか? 夜中だったから誰もいなかったし。そういえば、俺の会社は、保険に入っているのかな? なんかぶっ壊した時の保険とかさ。そうじゃなきゃ、えらい迷惑だな。
俺は孤児院を飛び出してから、誰かに迷惑をかけたくない人生を送ろうと考えていた。だからこの仕事を選んだってこともある。だって、俺ひとりの命だからさ。俺の命ぐらい自分で預かる。車を運転し続ければ金になる。それだけだ。18歳からだから、24年か。ずいぶん頑張ったんじゃないの? 人生の半分以上は、トラックに乗っていたね。恋人は俺のトラックだった。そいつも壊れちまった。失うものもなくなっちまった。俺はゼロになった。神様にも見放されたわけだ。
どうでもいいか? あっ、そう?
勝手な独り言さ。ベッドに寝転がって、くだらない夢を見てるよ。わかってることは、もうすぐ死ぬってことなんだ。事故って救急で運ばれて、お医者さんが来て、あと2時間ぐらいです、なんてさ。耳打ちされたんだよね。あと2時間って。そりゃ、ねえよな。俺の人生はあと2時間か。なんかやっておけばよかったかな? こう、すげえことをさ。
みんなが望むような人生は歩むことができなかったような気がするね。そもそも俺は、俺の望んでいた人生を歩んでいたんだろうかって思うよ。満足な生き方をしてきたのかな? 周りから見て満足そうに見えたかい?
まだ死んでないけど。そういうことだ。死んだらどうなっちまうんだろうね? さあね。死ぬって死んだときにしかわからんもんでしょ? ここに来て、どれぐらい時間が経ったんだろう? 事故ってから、あんまり覚えてないな。体がフワフワしてるよ。この感覚は、どこかで似てるなって思ったら、射精する感じだね。あのゾワゾワした感じ。痛くはないよ。痛みはない。悲しみもない。悲しくはない。寂しくもない。寂しくはあるか。
この町にはお世話になった。いろんなことにね。最初の仕事で東京からここにきたのも、この町だった。最初に女の子とデートをしたのも、最初に女の子とキスをしたのも、最初に女の子の性器に触ったのも、この場所だったね。思い出すだけで、泣きたくなるし、ありがとうって言いたくなる。
俺にできること。そうだな、死ぬまでにいろんな人に感謝していこう。それがいい。俺が死ぬ前に、感謝しなくちゃいけない人たちがいるはずだからね。俺の2センチしかないピーナッツみたいな脳味噌で考えるかな。
まずは、両親。俺の母親。はっきり覚えてないんだよね。いつも家にいなかったし。浮気ばかりしてたよ。浮気をしてることが生きがいだったんじゃないかな?
俺の父親。こいつも覚えてない。大学出身の建築家だったらしいんだけど、一悶着あって、警備員になっちまった。俺に何も教えてくれなかったな。ネグレクトで暴力好きだったね。いつも俺をいじめていたような気がするよ。そうそう、殺意なら覚えたかもしれないね。ベロンベロンに酔っ払った父親の車に乗った母親。高速道路で交通事故さ。俺と同じだ! 親父に聞けばよかったかもな。事故って死ぬってどんな感じ? それぐらい教えてよ。まあ、死ななきゃわかんねえか。俺が死んだら聞くとしよう。天国にいればね。
そっちはどうだい? 楽しいかな? 辛いことばかりだったかな? はっきり覚えていないから感謝のしようがないな。とりあえず、産んでくれてありがとうと言っておく。
それから孤児院の先生だ。いい人だったな。ただ、孤児院の女の子に手を出して逮捕されたんだよね。それが14歳の時。きっかけってわけじゃないけど、それで俺たちはみんなバラバラになっちまった。なんか心が砕けたんだよね。俺は、孤児院を逃げ出して、いろんなところをねぐらにしたよ。漫画喫茶とかさ、とにかく寝場所を探して、その日暮らしだった。そんな人生もありがたいよね。なんでも社会勉強だ。ぜんぶに感謝するよ。ほんとだったら、いまごろ刑務所で看守の女の子の尻でも触ってるんだろうか? あるいはオカマの兄ちゃんにオカマを掘られたりさ。どこへ行ってもいろんなことがあるね。
トラックの会社の社長。俺は16歳の時には、新宿でドラッグの売買をしていた。というか、ドラッグってわかってなかったんだ。小麦粉だと思ってたよ。塩とかさ。それが覚醒剤だなんてね。いろいろあって警察とすったもんだを起こしてたら、助けてくれたんだよね。それ以来、ずっと俺を育ててくれた。
俺にとっての親父かもしれない。たくさん怒られたような気がするけどね。いい経験だったかもしれないな。とにかく、あのビル、どうしようかな? 俺が壊しちまった。最後まで迷惑をかけたのは社長だったんだろうな? なんとかなってくれないかな? ただでさえ、仕事が減っていると聞いたし。うまくいって欲しい。親父さんには感謝だ。
灘岡にも感謝だ。ここで初体験をして、初めて彼女もできたんだよ。その子の名前は今でも覚えてる。「花井花子」さんっていうんだ。変な感じなんだけどさ、俺の知り合った女の子って、みんな花井花子って名前なんだよね。いや、兄弟でもないんだ。みんな同じ名前なの。灘岡に多いのかもしれないね。ただ、花井が多いのはわかるけど、花子まで多いって、なんかあるよな? その人たちにも感謝をしなくちゃね。そうだな。死ぬまで退屈だから、女の子ことを考えようか。楽しい経験から、そんなことないよなって経験までしたよ。その子たちに感謝しよう。
最初の花井花子さんなんだけど、俺って変でさ、女の子と真剣に付き合う前に、最初にエッチしちゃった女の子がいるわけ。その子が花井花子さんだった。俺が18歳の時に27歳の女の子だったな。その人に感謝の言葉を捧げてみようじゃないか。そこから死ぬまでに、今まで知り合ってきた花井花子さんに感謝をしよう。3人ぐらいだけどね。それが終わった時に死ねたらいいかもな。
彼女たちに感謝し終わって死ねたら、俺は満足かな? うん、イッツ・オールライト。
2
悪夢を見ないタチだが、現実は最悪なもんさ。やることなすこと上手くいかなくなると自殺したい気分になるよね? 18歳の時はそんな感じだった。死んじまえたらよかった。生きてることに破滅的だったんだよ。
なんか言えたらよかったのにね。自分の言いたいことがさ。クソみたいな世の中だとか。それが見つからないほど頭が悪かったのさ。吐け口を見つけたけど、吐き出せない感じかな? 世界を終わらせる言葉が出るはずなのにね。喉の奥の方に逃げ出して、引っ張り出せないのは、俺が臆病だからなんだろう。俺にはひとりぼっちが似合っていた。
だからトラックの運ちゃんは、俺にとっては天啓みたいなものだったよ。ひとりきりで何かをする。すべて俺に跳ね返ってくる。それでいいんだって思ってた。隠れんぼと同じだね。俺の得意な遊びだったし。小学校2年の時は、夜中まで隠れて警察のやっかいになった。俺の親父はネグレクトだったから、俺を引き取りに来たのは、浮気帰りの母親だった。母親は家に俺を置いていくなり、また浮気相手のところに行っちまった。
その話をしたいんじゃない。
18歳で免許をとって、初めて東京の豊洲にある会社から荷物を背負って、トラックを運転して灘岡のスーパーまでひとっとび。社長……親父さんっていうんだけど、俺がひとりでいるのが好きだってことを知っていたみたいでさ。俺が免許を取った時は喜んでくれたね。俺もようやく1人前になるのかって嬉しかったよ。涙が出てきたぐらいさ。
無事に「スーパー三好」というところに荷物を届けた。もともと社長のルートなんだ。俺に譲ってもらったわけ。んで、帰ろうと思ったんだよね。初めての仕事にしては上出来だった。ちゃんとスーパーの店長にも挨拶できた。三好さんという人なんだ。ハゲてて、小太りで、黒縁メガネ、頼りなさそうな感じだね。でも、優しい人だよ。それで十分さ。
で、帰ろうとエンジンをかけたら、エンジンが火を吹いたんだよね。いやー、びっくりだよ。ミサイルみたいに火を噴いて、ボンと音を立てて、排気口から煙を吐き出した。社長のお下がりのトラックを使っていたからさ。年季はかなり入っているし、20万キロは走っているからね。かなりのオーバーホールが必要だったわけだ。ぶっ壊れ寸前さ。
会社に連絡したら、修理のためにJAFの人を呼んでくれたんだけど、修理するには、一度工場に行かなくちゃいけないってことになって。灘岡の隅っこの遠いところにある自動車工場にレッカーされたってわけ。
あ、ちなみに灘岡は、湖でできてる町だ。町の9割を湖が占めている。湖の周りに、周回道路が走っていて、どうなんだろうな、俺の車で一周するのに、1時間半はかかるかな。周回道路の至るところに脇道があって、それがいろんなところにつながっているって寸断だね。「スーパー三好」は、湖の西側の豪奢な住宅街にひっそりとある。とっても静かなところだ。良心的な店だと思うね。
自動車工場に行ったら、相当なオーバーホールが必要で、年代物だから、エンジンの機材を自動車会社から取り寄せて、修理するのに1週間かかるって言われちまったわけだ。代車を貸してもらえるが、どうするのって感じで会社に連絡したら、代車で帰ってきたってしょうがないから、無事に初仕事も終えたし、緊張もしてるだろうから、せっかくだから1週間そっちにいて遊んでこい、これから灘岡にはしょっちゅう通うことになるしってね。社長の粋な計らいだよ。感謝しようや。
じゃあ、代車はいらないだろうって話になって、三好さんが迎えにきてくれて、おまけに湖の東側の歓楽街のある温泉街に宿を見つけてくれた。三好さんにも感謝しなくちゃいけないね。俺は孤独だけど、いつだってピンチの時は、ひとりじゃやっていけなかった。
夏になる直前で、たしか三好さんの車に乗ってる最中に、ラジオで梅雨明け宣言を聞いた。梅雨明けを灘岡で迎えたんだ。18歳にして、初めて故郷以外で、夏を迎えたってことになるわけだ。記念的といえなくもない。そうして、大人の階段を一歩登ったよ。
三好さんに連れられて旅館についたんだけど、なかなかリッチなところだったな。俺は寝るところなんて、「ござ」さえあれば寝れる男だったから、ありがたかったね。部屋も綺麗でさ。女中さんが掃除してくれるし。金は三好さんが出してくれたんだよ。「あんたも初めてのお使いだからな」って。やっぱり感謝だよな。うん、忘れちゃいけないね。
でも、やることなんて何もない。有り金はほとんどないし。そしたら、社長から連絡があって、俺の口座に3万円を振り込んどいたから、それを使えってさ。あとで聞いたら、三好さんに旅費も払っていたみたいだ。こういうところ、俺たちクズ野郎の繋がりだ。仲間だよな。政治の世界にはないだろうね。
初めての旅行だった。灘岡の歓楽街は楽しかったよ。すげえオンボロのストリップショーとかあって。俺は社長の金が汚れることはしたくなかったから、あてどなく歩いたよ。知らない町を歩くのは気持ちいいものだ。
それで歓楽街の片隅に占いの館があったんだ。館ってつったって、すごいオンボロのただの普通の家で、表札があるんだけど、壁が蔦だらけでわかんない。とにかく、人が住めるのかって感じ。玄関にこれみよがしに看板があって、「世界一当たる! 灘岡歓楽街の占いの店」とあった。ふーんと思って、なんとなく惹かれたんだよね。占いなんてこれっぽっちも信じてなかったけど、することもなかったし、思わず家に入っちゃったんだよ。
玄関をあがるとリビングがあって、普通に子供たちがコンピュータ・ゲームしてるんだよね。俺は度肝を抜かれたんだけど、「おばさんならあっち」って子供に言われて、台所みたいなところに行った。ふーん、母ちゃんじゃないのか。まあ、いいや。というか、台所だよな。普通のキッチン。冷蔵庫があって、机があって、椅子が4脚あるって感じの。普通にシンクで洗い物しているおばちゃんがいたんだよ。俺は、家を間違えたのかなって思って、軽く謝って出て行こうとすると「まちんさい!」と声がした。「あんたは占いに来たんでしょ? 占っちゃいますよ」
俺はそうだと言った。「えーと、ここで大丈夫なんですかね。って、誰?」って。
「必ず当たる占い師。あなたは占いという固定観念に囚われているわね」と言ってきた。
そんなこと言われてもよくわからないんだけど、固定観念は確かにあるかもしれない。占いって、インドの人が着てるようなキラキラの衣装に、香のような匂いがするところで、水晶玉とか使うと思っていたしね。
「占いとは真実を見通す目なの。つまり、真実を見通すには実生活が大切なわけね。そして日々、仕事を実践することこそ大切なわけです。これは陽明学の基礎ね」とおばちゃんが皿を洗いながら言った。キッチンとの間に簾があって顔とかよくわからねえんだ。
じっと見てると、おばちゃんは小太りで、顔の造作がやたらにしっかりしてる割には、テカテカしてたな。どこにでもいる主婦って感じで年齢はあんまりわかんない。だからおばちゃんって言ってるわけだ。「そうかー」となんとなく納得していたんだよ。陽明学って言われてもよくわからないしさ。
「とにかく、普通に生活してれば占いができるってわけね」と俺は言った。
「違うわ。日常という生活を営むことによって占っているの」と言われた。
俺は部屋の中を見回した。俺は普通の生活をあんまり営んでないからわからないけど、そんなもんかなと思った。
占い師のおばちゃんがやって来て、俺に近づいて、顔をじろじろ眺めた後、椅子に座るように言った。「ちょっと待ってね。お皿洗うから」とまた台所に戻ったので、おばちゃんがお皿を洗うまで待っていたね。
「何をみたんですか?」と俺は聞いた。
「何も。なんかあるかなって」とおばちゃんはでかいケツを振りながら言った。「何も見えなかったわー。ぜんぜん見えない」
「帰っていいっすか?」と俺は席を立とうと思った。なんだか騙されるような気がした。
「まちんさい!」と占い師は言った。「ちゃんとみていたわ。もう見ちゃったもん」
「なんか……無理くり過ぎない?」
「そんなことないわよ。そこに座ってなさい。そんな焦っても人生はどこにもいかないわ。とにかく座っていればいいのよ」
そうか、と俺はなんとなく納得して、しばらくじっとしていた。隣の部屋から、子供たちがゲームをして楽しんでいる声がした。おばちゃんはずっと皿洗いをしていた。
「その前にお金もってる?」とおばちゃんは言った。「うちは前金なのよ」
「持ってますけど」と俺はポケットにしまったくちゃくちゃの3万円を取り出した。
「じゃあ、1万円」
「何もしてないですよね?」と俺は呆れながら言った。「なんかしました?」
「占いしたから。しちゃったから」
「はっ?」
「もう占っちゃったから」
「よくわかんないけど、さっきこれからって言ってませんでしたっけ?」
「私はせっかちなのよ」と言ってきた。「してないのにしてるっていうわけ」
「なんか違わない?」と俺は言った。
「人生なんてそんなものよ」とおばちゃんは言った。「占いは一陣の風のようなもの」
俺はなんだか訳がわからなったし、文句も言えたけど、仕方がないかと思って、1万円を渡した。かなりな出費だよね。
「皿洗いをしながら答えてあげるから」と言うので、俺は椅子に座ったまま待ってた。
「そうね。まず大切なのは背筋を伸ばすこと。んで、あなた童貞よね?」と言った。
「それを当ててどうするんです?」と俺は聞いた。「たしかに、童貞ですけどねえ。もうちょっとマシなことあるんじゃない?」
「でも、あなたにマシなことってそれぐらいじゃない? 総理大臣でもないしさ」
そうかーと思わず納得した。でも、ちょっとびっくりしたよね。当たっているからさ。
「まあ」と俺は言った。「すごいね」
「わかるわよ。精液くさいガキだと思った」
「いちいち鼻につく気がするんだけど」
「気にしないの。で、あなたはいろいろな人生があった。くだらない人生がね」
「そりゃ、あるわね。くだらないかな?」
「歳はいくつ?」
「それを当てるのが占いじゃないの?」
「そこまでわからないわよ」
「そんなもんかね? 18歳です」
「童貞は卒業したいわよね?」
「たしかに。でも、いずれは、ですかね。自然な感じでいいんじゃないですかね」と俺は言った。俺っちは性欲がないと思ってた。それ以上に、生きていくのに精一杯だった。
「6日後に卒業するわ」とおばちゃんの声が聞こえた。「あっという間にね」
「ほお」
「どこにいるの? あなた観光客?」
「そんなもんですけど。友達の家に居候してます」と試しに嘘を言ってみた。
「嘘はいけないわね」とおばちゃんはそれを見抜いた訳だ。俺はまいったなと思ったね。ということで、理由を説明することになる。
「そう。じゃあ、相手は旅館の二女ね。女将をしてる女の子。なかなか可愛いわよ」
俺は女将の顔を思い出そうとしたが思い浮かばなかった。というか会ってもない。「なんでまた女将さんなんです?」と俺は聞いた。接点がなさそうだったから。
「花井花子だからよ」とおばちゃんは言った。「言わずもがな、花井花子だからね」
「えっ?」と俺は聞いた。「なんです?」
「はない・はなこ、だからよ。お花の花に、井戸の井、そしてお花の花、子供の子って書いて、花井花子さん」
「誰がですか?」
「女将がよ」
「はあ。花井花子さんだと俺は童貞を卒業できる。あんまりよくわかんないけど」
「そうよ。あなたはこれから42歳で死ぬまで花井花子という女性としか付き合えません。かわいそうだけど、ありがたいわよね」
「えっ、俺、42歳で死ぬの?」と俺っちは驚いたね。42歳で死ぬの? マジ?
「うん」と彼女は満面の笑みになって簾から顔を覗かせた。テカテカで真っ白だったよ。
「うんって。そんなにドヤ顔で……」
「人間の人生なんて、そんなもんよ」
「そんなもんかな?」
「まだ時間があるからあんまり気にしないことね。それまで花井花子さんと付き合うわ」
「ひとりってことですか?」
「そこら辺、知りたい?」
「知りたいっちゃ知りたいですけど」
「3人ね。これから出会う花井花子さんは、あなたが東京に帰るときにはお別れするの」
「なんでまた?」
「理由を知ったら面白くないでしょ?」
「よくわかんないですけど、占いってそれを知ることじゃないんですかね?」
「占いとは謎なのよ。謎があるから面白いのよ。その謎を謎にすることが占いでもある」
「なんだかなあ。いいや。で、その花井花子さんに童貞を捧げると。俺はどうすれば?」
「ほったらかしにしてればなんとかなるわ」
「乱暴な答えですね」
「人生なんて乱暴だもの」
「そんなもんすかね? とにかく花井花子さんに会えばいい訳ですね?」
「そう。あなたにとっては重要な人物ね。あなたは死ぬまでずっと、花井花子さんと付き合うわけだから。最初って大切でしょ?」
「ふーん」
「みんな別れちゃうんだけど」
「俺は結婚しないんだ」と俺はちょっと残念に思った。結婚なんて考えてないけどね。
「しないわね」
「それは答えていいんだ。俺の人生には、重たい答えだと思うけど」
「明らかな答えは言っておく」
「知らない答えは答えないと」
「そういうことね」
「なんか違わない?」
「人生なんてそういうもんよ」
「ふーん。俺は42歳で死ぬ」
「死ぬ」
「あと24年後に死ぬのか。長いようで短いような……そんなもんかな?」
「あっという間よ」
「俺はそのためにどうすればいいの?」
「どうもしないことね」
「どうもしない」
「そうすればなんとかなるわよ」
「すげー、適当だなー」と俺は背もたれに寄りかかって両腕を頭で組んだ。
「人生は適当だから」
「いいか。とにかく6日後の人生がわかってよかったよ」と俺は言った。
「それから条件があるんだけど。とにかく、花井花子さんを傷つけないようにすること。あなたは彼女のために尽くすのよ。そうすれば42歳まで生きられるから」
「そうじゃなきゃ?」
「6日後には死んでるわね。の垂れ死んでるわよ。あなたは42歳まで生きるか、花井花子さんに愛想をつかれた瞬間に死ぬの」
俺は旅館に帰った。なんとなく女将さんのことが気になって、旅館のあちこちを探すんだけど、どこかにいるわけでもないし、フロントにメガネをかけたハゲたおっさんがいて、夕食のことを教えてくれた。女将さんのことを聞いていいのかわからない。仕方ないので、部屋に戻ってじっとしていた。夕食は美味しかったよ。灘岡湖の名物の牡蠣が美味しかった。特に何も起きない1日だった。
露天風呂に入って、部屋に戻ってみると綺麗に布団が敷いてあったので、眠ることにした。眠る前に自分の人生について考えてみた。42歳で死ぬのか。そんなもんかね。42歳ってことは、普通に考えれば早いわけだし、なんかあるんだろうね。どんなに考えても答えが出なさそうなので考えるのをやめた。天井から吊り下げられた雪洞ライトを見ながら、1万円、大きかったと思った。なんで死ぬかぐらい聞けばよかったな。
3
俺っちは夢を見ないのが特技だ。夢を見ると、大体嫌な気分になるだろ? そういうのがないってのは、人生にとって大きなことでもあるね。ストレスフリーな人生を歩むのもいいかもよ。でもさ、その日は夢を見た。久方ぶりだね。だけど、どんな夢かわからないんだな。夢を見たって感覚はわかる。でも、説明はできない。目を覚ましたら、朝方の4時ぐらいに起きたんだ。珍しいよね。俺っちは、眠ることに関してはプロだと思っていた。トラックの運ちゃんは眠ることを大切にする。そうしないと仕事に支障が出るからね。社長から、眠ることについては鍛えられるんだよ。鍛えられるといっても、別に何かをされるわけじゃないんだけど、眠るには、気合が必要だって言われてね。
そんなわけで、朝方、さくっと目が覚めた。そんなことはめずらしいことだった。俺っちの睡眠は、水牛なみにしっかりしているからね。親父にぶん殴られている頃はよく目が覚めていたような気がしたけど、そんな気持ちだったのかな? とにかく、目が覚めた。ひょっとしたら、初めての旅行だったから、緊張でもしてたのかなと思いつつ、フロントに行くと、朝の食事はまだですというので、お風呂でもいかがですか、屋上露天風呂があるんですと勧められて、風呂に入った。なかなか綺麗だったよ。ひとりっきりで屋上露天風呂なんて優雅なもんやね。灘岡湖が見渡せた。灘岡のいろんなところが一望できた。旅館のそばに森みたいなところがあって、ちょこっと切り開かれているみたいで、明かりが灯っているところがあった。なんやろうな? お風呂を出た後、気になって聞いたら、恋愛成就のお寺だってことだった。
ふーん、とか言いながら、俺はちょっと興味が湧いた。生まれてこのかた、お寺なんて行ったことないしね。どうせすることもないし。占いのこともあったし、それにしてもあんなヤブな占い師じゃ、人生の無駄かもしれないと思いつつ、お寺に行ってみたんだ。
宿のすぐそばにあって、結構な坂の階段があって、それを登っていくと、どこにでもあるお寺だった。敷地はそんなにデカくないね。境内があって、その近くに絵馬を掛けるところがあって、そこでお互いの名前を書くと恋愛が成就するとのことだった。俺の相手は誰もいないから、興味もない。俺は、敷地内を1周して、賽銭箱に10円を放り投げた。俺っちは信仰はないけど、お寺に来るとなんとなくしたくなるよね。それで帰ろうと思ったら、女性がいた。大きな二重の目に、小さな鷲鼻に、口が分厚かった。胸がやたらに大きかった。彼女はジャージを着ていた。俺は、そうか、こんな朝方に恋愛の成就を願ってるんだと思った。えらいもんやね。女の子がこんなところに来て見果てぬ恋に想いを馳せるか。えらい、えらい。それぐらいだったかなあ。んで、すれ違うときに、声をかけられた。俺はびっくりしてそっちを見た。
「あなた、うちの旅館の石鹸使ってるのね」と女の子が言った。
俺は彼女の顔を見た。すぐにわかったよ。泣きはらしているってこと。頬が真っ赤に膨れている。涙の跡が見える。カラスが鳴いてる。空は青くなる。今日も暑くなりそうだ。
「はい」と俺は答えた。どうしてそうなったのかは聞かなかった。聞くのは野暮だよな。「どうしてわかるんですか?」と聞いた。
「だって、ここの温泉街の旅館は、みんな使っている石鹸が違うからさ。あなたウチの旅館の石鹸を使ってるわね?」と言った。
俺は腕の匂いを嗅いでみた。そうかと思った。石鹸の匂いでわかるもんなんだな。
「ねえ、坊やは失恋って知ってる?」と彼女は言った。「まだ知るわけもないか。ごめんね。変な質問しちゃって」と言って目をこすりながら境内に向かって行った。
彼女はレモンみたいないい匂いがした。
その日の朝食はバイキングで、うまそうな白米や、カレーライスや、オムライスや、ご飯ばっかやな、とにかくいろんなものがあった。あんまり俺っちの生活でお目にかかるもんじゃないな。改めてスーパーの店長には感謝しなくちゃと思った。そこら中のものを漁って食ってると「坊や。やっぱりここに泊まりに来てるのね」と声がした。
神社で会った女の子がいた。彼女はしっかり白粉をして、着物を着ていた。「それにしても欲張りね」と彼女は微笑んだ。
俺は口にスパゲッティーを突っ込んだままじっと女将さんを見ていた。たしかに、欲張りといえば欲張りと言えなくないね。
「いいのよ。さっきは変なところ見せちゃったわね」と言った。「内緒にしておいてね。そうしておいてくれたら嬉しいけど」
俺はなんだかわからずうなずいた。口に頬張っていたものを喉に突っ込んだ。どうしようか迷っていたけど、これだけは聞かなくちゃと思ったわけだ。「あなたの名前は、花井花子さんですね?」ってね。
「どうして知ってんの?」と答えた。
事情は説明できないから、「なんとなくですね。俺の旅人としての感というか。年がら年中旅をしてるんで。格好も花井花子さん的というか」と適当なことを言った。
「あなた変わってるわね」と笑った。
「まあ」と俺は彼女をじっと見つめた。かなりの美人だ。化粧をすると目鼻立ちがくっきりする。この人が俺の初めてになるんだろうか、うーん、ちょっと信じられないやね。
「どうしてそんなに見つめるの?」と笑いながら聞いてきた。
「あなたが綺麗だからです」って矢継ぎ早に言葉が出てきた。そんなこと言うつもりはなかったんだけどな。
「やっぱり変わってる」と彼女はクックと笑顔になった。「ここは花井旅館っていうの。っていうか、知っているでしょ?」
「そういえばそうですね」と俺は言った。たしかに看板に「花井旅館」ってあったな。
「花井って名字は灘岡に多いのよね。理由は知らない。名字は仕方がないけど、名前は嫌いなの。だって、花子なんて名前は誰でもつけそうじゃない? それで花井花子」
「そうですか」と俺はフォークを皿に置いた。やたらに手持ち無沙汰になった。
「あなた、東京でトラックの運転手をしてるんでしょう?」
俺はうなずいた。間違いじゃないからね。
「それで車の修理をお願いして1週間ここにいるのね。三好さんはここのご贔屓だから」
「三好さんもよく使ってるんですね?」
「そうね。毎年家族づれでここに泊まりに来るの。いい人よね」
「そうですか」と俺は答えた。んで、何かを待ってる自分がいる。ソワソワしてるわけじゃないけど、何かが起きそうな気がしてる。俺にしかわからない何かだ。変な感覚だ。たかだか占いで言われたことだぜ? それを信用するのかい? 俺は自分に問いかけた。
なのに、俺の何かは誰にも止められない感じだ。なんだかいてもたってもいられずに、俺は辺りを見回すと、でっかい食堂の壁にポスターが貼ってあって、花火大会があると書かれていた。ドンピシャで今日みたいだ。
「今日、花火大会があるんですね」と俺は言ってポスターに指をさした。
彼女もそちらの方を見て言った。「そうよ。町をあげての花火大会の日ね。灘岡湖花火大会。町の名物なの。行ってみるといいわよ。灘岡は初めてなんでしょ?」
「はい」と俺は言った。
「あなたのことよく知ってるわよ」
「え? 俺がハンサムだってことで」
「違うわよ。ああ、つまりね。スーパー三好に荷物を卸す人は、豊洲にある会社の社長さんだったから。宿街にも卸してて、お世話になったわ。業者を変えちゃったけどね」
「俺の親父だ」
「お父さんなの?」と彼女は俺を見つめた。
「違います。えーと、なんていえばいいんだろう。俺を育ててくれたっていうか」
「そうか。あなたは、なんか複雑な感じの家庭の子なのね。当たってる?」
「そうかもしれないです」
「よかったら、花火大火に行ってみる? 温泉街の観光協会のツアーで、花火大会を観に行くの。観光協会が用意したバスに乗って、湖岸で間近に花火が観られるわよ。受付は締め切っちゃってるけど、今年はお客さんが少ないから、いまからでもエントリーできると思うよ。私に言ってくれれば大丈夫だから。旅館ごとに持ち回りで、毎年、案内係はそれぞれの旅館の女将がやるのよ」
「今年は花井さんの番なんですか?」
「花子でいいわ。花井さんだといっぱいいるから」と彼女は可愛らしく笑った。白い歯が綺麗に並んでいた。「花子もいっぱいいるけどね。今年は、私たちの番じゃないの。花井旅館はお留守番ってところね」
「あの」と俺は言った。すげえスムーズに次の言葉がでた。俺は相手が知らない人だと喋りにくいんだけど、信じられないぐらいに次の言葉がでた。まるで占いに誘われるように。あるいは、彼女に誘われるように。「もし、よかったら花火観にいきません?」
俺の言葉を聞いて目をパチパチさせてる。「私を誘ってるの?」と彼女は微笑んだ。
「ぶっちゃけ、そう言うことだと思います」と俺は言った。
「おかしな人ね。朝方だけど、私、言わなかったっけ?」
「失恋したってことですよね。でも、また次がありますよ。だって、次がないと生きてることにならないから」
「なんだかやたらに哲学者さんなのね」と彼女はクスクスと微笑んで軽く咳き込んだ。「失恋したばかりの女の子を誘う男の子って初めて見たわ。あなたいくつ?」
「いくつに見えます?」と俺は言った。灘岡の人には、みんな年齢を当てられるような気がして、ちょっとこそばゆかったんだ。
「ホステスか」と彼女は突っ込んだ。「そうねえ。私よりもどう考えても年下ね」
「花子さんが思っているよりも、年上ですよ。誰が考えてもね」
「どうして?」
「あなたに恋をする人間ですから、年上になると思います」
「本当に変わってる」と彼女は言った。「あなた、宿帳に年齢書いてるでしょ。免許書も確認したし、だから知ってるわよ。あなたは私より年下で18歳。私は27歳だから」
「女将さんですよね?」
「そんなこと言ったかしら?」
「だいたい、俺ぐらいになると、わかります」と俺は言った。占い師のことを信じてみようと思ったわけだ。「女将さんの顔してるし、女将さんのような喋り方だし、女将さんのような服着てるし、俺は女将さんが好きなんで。俺ぐらいになると2500人ぐらい女将さんのことを知っているんで、すぐに見分けられます。才能といっても良くて」
「よくわかるわね」と彼女は笑いを堪えている。「当たってるけど。ちょっと怖いわよ」
そのとき、なんとなく、気づいたんだよね。俺は、誰かが笑っている顔が見たいんだなって。そうしたら、俺も、その人も幸せになれる。そうさ。俺は死ぬまでに人を幸せにしようと思ったんだ。なんか雷に打たれたような気持ちになった。俺の使命だってね。
「積もる話もありますよね?」と俺は言った。「お話を聞きますよ」
彼女は今度は吹き出した。「27歳になれば積もる話もあるわよ。わかった。朝のこともあるし。なんかの縁かもね。2人で申し込んでおこうかな。今年は旅館も本当にお客さんが少ないから、私ぐらい出ても平気でしょ。いいわよ。デートしてあげる」
俺はびっくりして思わず立ち上がった。
「なに驚いてんのよ? あなたが誘ってきたんでしょう?」と彼女は肩をあげた。
俺は椅子に座った。「そうですね。じゃあ、花火大会にいきましょう。ちなみにひとつだけ条件があるんです」
「何?」と彼女は思わず笑いそうになった。
「デートをする場合は、俺と手を繋がないといけないんです」と俺は馬鹿なことを言った。だいたいデートなんてしたことがない。でも、占いを信じたら、なんとかなるような気がしたよ。俺の思ったように動けばいい。
「どう言う領分よ、それ?」と彼女は呆れた。「相当な男性主義なのね」
「違いますよ。俺が死んじゃうからですね」
「あなた馬鹿よね?」
「よく言われます。100万回ぐらい。言われ過ぎて困ってるぐらいです」
彼女は笑って「わかったわよ。でも、私フラれたばかりよ」と言った。
「気にしないことですよ。女将さんにだって、きっと明日がありますから」
俺と女将の花井花子は、占い師に誘われるように、花火大会に行くことになった。不思議な気がするね。人生は誰かに、決められなくたって、自分で決めようとしなくたって、思わず決まっちゃうもんだな。神様っているもんだね。神様って誰だかわからないけど。イッツ・オールライトってことさ。
4
俺の初めてのナンパが、まさか旅先の旅館の女将さんなんて誰が想像するんだろう? 綺麗な人だったからいいのか。そんなもんかね? 24年前? ずいぶん昔のような気がするね。でも、ありありと覚えている。それが良いか悪いかわかんないけど、ある種の記憶はずっと消えないんだろうな。それがいまでも俺の魂のかけらになっている。そして俺を癒し続けている。そして俺は生きてきた。
観光バスの中で、俺と女将さんは手を繋いでいる。彼女の手は柔らかくてツヤツヤしてる。窓際の席に彼女が座って外を眺めている。俺の方から仕掛けたのに、俺が緊張してじっとりと手が汗で湿っているぐらいだ。彼女は頭を窓に押し付けて気怠そうにしていたので、俺は話しかけづらくて黙っていた。
彼女は青色のワンピースを着ていて、長い髪の毛をポニーテールにしていた。まいったね。俺は何をすればいいんだ? 俺のしたいことって何だ? 彼女はまるで俺の話を拒否しているような気さえした。そうだよな。俺に「失恋って知ってる?」って涙を流しながら聞いたんだから、彼女は心に傷を負っちまったんだろう。さすがに俺みたいな馬鹿でもわかる。どうしてそんな彼女をナンパしたのか。占い師のおばちゃんが言ったからもあるけど、何だかそれが必然な気もしてきたよ。俺のできることは限られているけど、誰かが、悲しい想いをして欲しくないんだって。
バスの中ではたった一言だった。「ずいぶん綺麗な町ですね」って俺が言っただけで、彼女は「そうね」と頷いて返しただけ。
やばいよな。女の子にこんな悲しい顔させているなんて、占い師に言われたじゃない、花井花子さんを悲しませたら死んじまうってね。さて。それでも、町は美しいね。こんなにも色彩豊かな町だとは思わなかった。
バスは灘岡砂丘の入り口にある駐車場に止まった。俺たちはバスを降りた。彼女は律儀に俺の手を握っていてくれた。砂丘は広いやね。何でも日本3大砂丘らしい。湖は海の水も流れ込む汽水湖なので、南の方は海に繋がっている。もともとは海の一部だったそうだ。そこに川の水が流れ込み、地殻変動で、おできのような形になって、ちょんぎれそうになったまま、湖になったというわけだ。海に面した砂丘が湖さえ取り囲むようになったのは100万年前ぐらいだそうで、湖に隣接している砂丘としては珍しいし、日本一の大きさだそうだ。何だか圧倒的な光景だったね。砂を踏み締める音が心地よいね。雲が向こうまで見える。空は夕方へ差し掛かろうとして、西側は紫色になっているね。空が暗くなってく。やがて花火が上がるんだろう。俺と女将さんは手を繋ぎながら湖岸まで歩いた。相変わらず、彼女は何も言わない。
俺は、焦ったね。焦ったね、俺は。なんとかしなくちゃって思うわけよ。俺だって男の子だぜ。でもさ、よく考えたら、この18年間、女の子のことなんて考えたことがなかったわけだ。だって、俺は生きるのに必死だったからね。もちろん、意識しないわけじゃないし、アダルトビデオで一発とかあるけど、そんなもんだからな。さて、どうすべかね。
まだ花火が上がらない。少し時間がかかるみたいだ。テキヤの兄ちゃんたちが、屋台を出している。いい匂いがするね。イカ焼きの匂いがする。フランクフルトを焼く匂いがする。メロンソーダの匂いがする。
「何か買いますか?」と俺は言った。何だか間抜けな気がしたけど。よく考えたら俺金ないな。まさか金くれなんて言えないよね?
「まだいいの。花火がもう少しで上がり始める。それまで湖を一緒に歩いてくれない?」と彼女が言った。「私は歩きたいな」
そうだよね。イカ焼きぐらい我慢しよう。別に食わなくたって死なないし。俺たちは湖岸を歩いた。湖はデカくて美しい。水平線が見えない。果てしなく続く。汽水湖だから、磯の匂いもする。ただ、海と違って波はない。穏やかだ。ずっと静かにそこに佇んでいる。波のない海っていうのか。こんな場所もあるんやな。なんか本来あるべきものが根こそぎ取られたような気がするし、それが正しいことのような気もした。そういや、俺、海なんて行ったことないなと思った。そうしたら、俺、自分が望んで何かをしたことないなって。俺は、こうしたいと思って生きてきたことはなかった。いつだって成り行きだった。女将さんと歩こうと決めたことだって、占い師に決めてもらったのかもしれない。
俺たち2人はテキヤの兄ちゃんの声とか、砂丘を歩いてくカップルの騒ぎ声を聴いていた。いろんな匂いが混じっている。祭りだね。ガヤガヤと喧騒が胸をざわつかせる。俺は何かを言わなくちゃって思ったんだ。何だか彼女、不幸な気がするし。あんまり幸せな感じしないよね? 占い師に女の子を不幸にしたら死ぬって言われたことが、さっきから頭を駆け巡ってるし、とにかく、俺が嫌だった。俺は女の子を不幸せにしたくない。
「俺はいままで自分で決意して、何かをしたことがないんです」と俺は言った。
「どういうこと?」と彼女は俺の顔を覗き込みながら言った。彼女はサンダルを履いてて、俺の肩ぐらいの身長だった。大きな二重の目が俺をじっと見つめてる。何だかこっちが恥ずかしくなるぐらい凛としている。
「なんていうんだろう? 自分で決めて、何かを行動したことがないっていうか。湖を見ていたらそんな気がして」
「だってあなた18歳でしょう。そんなものよ。これからじゃない?」
「でも、何だか、ちゃんと生きてんのかなって。俺、孤児院で育ったから」
「そうなんだ」と彼女は言った。
「両親が14歳の時に、車の事故で死んじまって、親類もいないから孤児院に預けられて、ただ、孤児院では年齢も上の方だったから、なんだかいづらくって、そこを飛び出して、東京の新宿で売人の真似事をしていたんです」と俺は言った。まいったな。俺、自分のこと話したいわけじゃないのにな。
「麻薬を売ってたの?」
「うん、というか知らなかったんです。とにかく売って来いって言われて渡されたブツが覚醒剤だった。それでお金にして、ピンハネされて、少しの金で、ネットカフェとかその辺をねぐらにして、ある時、警察に補導されて……というか逮捕ですよね、裁判所送りって時に、助けてくれたのが社長だった。面識まったくないんですけどね。どこかで俺が馬鹿みたいにヤクを売っているのを見て、悲しくなったみたいで。で、俺を拾ってくれて、自分の子供のように育ててくれたんです。あんまり話してくれないけど、どうやら俺が社長に拾われる前に、離婚した奥さんとの間に息子さんがいたみたいです。でも、すぐに死んじゃって。18歳になるまで面倒みてくれて、免許を取ったら会社に雇ってくれて、それで初めての仕事でここにきて、可愛い女の子と手を繋いでる。旅館の女将さんと」
「不思議な人生ね」と手をギュッと握った。
「湖を見ていると、俺は、何かをしたのかなって思ったりしたわけです。自分で考えてっていうより、仲間に助けられたなって思うんです。みんなに救われたような気がしてて」
「私もそう思うわ。私はお姉ちゃんがいて、彼女が旅館の女将になるはずだったんだけど、病気で死んじゃったの。白血病だった。それで私が跡を継ぐことになった。お母さんも体が強くないから。高校を卒業したらすぐに旅館の跡を引き継いだ」
「そうですか。夢なんかあったんですか?」
俺たちはゆっくりと湖岸を歩いている。砂丘を踏み締めるたびに、足跡がついて、夏の風に巻き上げられて消えていく。
「夢は、お嫁さんになることだったかな?」と彼女は微笑んだ。「私にはそんな大層な夢はなかった。普通の人生を求めていた。うーん、そんな感じね。ただ、いきなり女将に選ばれて、それで旅館の跡をついで、必死に働いていたら、27歳になっちゃった。だから夢なんてないの。あなたは?」
「俺も夢はないっすね。女将さんと同じで、生きるのに必死だったから。でも、周りの人のために生きようって、何となく思ってます。社長の笑顔とか見てたいんですよ。迷惑かけたし。あなたの笑顔もそうです。笑ってくださいよ」と俺が言うと笑顔になった。
「そうそうその笑顔です。そうやって笑顔を見て、生きたいなって思ってるだけなんです。若造なのはわかってるし、世間知らずなのも知ってるけど、人を笑顔にしたいのは何歳になっても変わらないから。特技だし」
「そうね。私もそんな気がする。『住めば都理論』ってところね。私も働き始めて、お客さんの笑顔とか感謝の言葉とかで、生きているような気がするな」
「ちなみに、これまでの人生で一番、笑顔にしたい人は誰だったんです?」と俺は聞いた。会話が少し弾んでる気がする。
「そうね。私は……これ内緒よ?」
「もちろん」
「私は、うちの旅館の板前の子に恋をしたの。板長に弟子入りしてきたのね。まだ坊やって感じだったけど、同い年だった。3年前の話ね。あの人の笑顔を見たくて、一生懸命働いているような気がした。それで、1年前に、あの人から声をかけられた。ずっと働きづめで恋なんてしたことないし、初めての経験だったから、心臓が飛び出しちゃう気がして。でも、彼は一生懸命だし、すごく素敵な笑顔だったし、いつも私を笑顔にしてくれた」と口から心臓が飛び出す仕草をした。
俺は笑った。「じゃあ……あの時は」
「そうね。失恋っていうのかしら? わかんないな。なんて言えばいいんだろう? あの人、いま、病院なの。不思議なものね。あの人も白血病になって。末期って言われて。意識がなくなりそうになったり、ならなくなったりして、時間はないなって感じ。その時に言われたの。俺と別れてくれって。新しい人を見つけた方がいいって。私はそんなことないって言おうとしたけど、よくわかんなくなっちゃって。私もどんな状況かはわかっている。お姉ちゃんと同じ感じだから。今は病院にいていろんなチューブに繋がれてる。時間の問題だって」と彼女は言って目を拭った。
泣かないでよ。俺は言おうとした。俺っちはどうしたらいい? こんな時にどんな言葉をかけてあげられる? どんな言葉をかけてあげたら正解なんだろう? 彼女を笑顔にしろよ。それぐらいならできるだろ?
そんなこと考えてたら、晴れ雨が降ったんだ。最初はパラパラだったけど、いきなり大雨になった。でも、空は青空とオレンジ色の空のまま。雨粒は弾丸みたいだ。俺は空を見上げた。晴れ雨は本当に晴れた空から降るんだなって思った。青空がのぞける空から槍みたいに雨の粒が降ってくる。口の中に入ってくる雨水がやけに苦かった。
カップルやテキヤの兄ちゃんは叫びまくってたね。砂丘に寝っ転がっていた恋人たちはびしょ濡れになって、逃げ回ってるけど、笑っている。湖岸に出ているボートからはシャンパンを開ける音がする。俺は思ったよ。幸せなんてそんなものかな? 雨が降るだけで幸せになれる。でも、そんなもんだろうなって納得したよ。俺たちは些細なことを幸せにするんだって。ちょっとしたことだよ。それが人生を変えてくれる。だからこそだ。どんな人間にだって幸せになる権利があるって。
そんな雨の中でも、俺たちは手をつないでただ黙って歩いていた。手と手の隙間に水滴が流れていく。涙みたいだ。湖岸の真っ白な砂が真っ黒に染まってく。悲しいやね。
服がびしょ濡れになっちまって、俺のティシャツも花子さんのワンピースも。彼女のワンピースから下着が透けて見える。胸が意外と大きいですねって言おうとしたけど、さすがにぶっ飛ばされるような気がしたから言えなかったな。彼女のポニーテールの先っちょから水が滴っている。俺たちはびしょ濡れになったままただ顔を拭いながら歩いていた。
雨が止むのはあっという間だった。本当に何事もなかったように。でも、俺たちはびしょ濡れだ。そして花火が上がった。花火といっても最初は煙玉みたいなものだった。空が明るいからね。余興みたいなもんさ。みんな騒ぎ立てている。今日は特別な日になるような気がしたよ。晴れ雨だって降った。
そして、湖の水平線には虹ができていた。どでかい虹だ。湖の端っこから端っこまで虹が見える。俺たちはちっぽけに思える。歓声が上がる。みんな虹に目を奪われてる。花火なんてそっちのけだ。そりゃ、余興に興味がないよなってさ。俺たちだって手を繋ぎながら、虹を見てる。湖にアーチをかけてる虹。何かが繋がっていく。何かが繋がってる。空を見てるわけじゃない。でも、目の端っこに夕闇が近づいてくることを知っている。やがて夜が来る。そして花火が上がるだろう。
虹はそこにかかってる。煙玉の花火が上がっている。なんか、心がざわつくんだよ。あんまりうまく説明できないけど。これって、このままじゃダメだよなって? このままにしていたら、きっとダメになるよなって。虹が消えちまう前になんかしなくちゃって。
「板前さんのいる病院ってどこなんですか?」って俺は女将さんに聞いた。
「病院? ここの近くだよ。砂丘を出て、歩いて5分ぐらいなんだ」
「行きましょう」と俺は言った。
「どこへ?」
「病院へ」
「どうして?」
「うまく言えないけど、そのお兄さんに会いましょう。なんか言わなくちゃいけないんですよ。このままじゃダメだって思うんです。お互い満足してるわけじゃないですよね? それってダメですよ。俺、そういうの悲しいってわかってるから。俺、そんなことさせられないから」と俺はいうやいなや、彼女の手を思いっきり引っ張った。そして砂丘を走り出した。背中に花火の音が聞こえる。
「ちょっ」と彼女は言ったけど、俺と一緒に走ってくる。濡れた砂丘はまるで雪みたいに柔らかくて、ズボズボ足が沈んでいくけど、俺は構わず走り続けた。このままじゃダメだよな? 絶対、ダメだよ。俺たちは不幸せになるために生きてるんじゃない。もちろん、幸せになるために生きてるわけでもない。でも、どっちかと言われたら、幸せになるために生きなくちゃ。彼女は板前の兄ちゃんのところに行って、何かを語りかける必要があるって思ったんだ。俺に大したことはできないかもしれない。何もできないかもしれない。だけど、ふたりを会わせることはできる。
俺には、やるべきことがあるんだ。
5
不幸ってなんだろうな? 病院についた時は、板前の兄ちゃんは亡くなってた。夕方に容体が急変したらしい。何度も旅館に連絡があったようだ。顔に白い布巾をかぶせられた兄ちゃんがいる。兄ちゃんの家族がいて、びしょ濡れの俺たちが病室に入るとびっくりされたけど、それどころじゃないって感じだった。それに隣には女将さんがいる。当然だけど、女将さんのことは知っているみたいだ。
俺は彼女の手を離そうとした。だって、彼女は俺のそばから離れなくちゃいけない。そうあるべきだと思ってた。でも、彼女は俺の手を握っていた。ずっと。強く。ずっと。
「離さないで」と弱々しく女将さんは言った。「私のそばから離れないで」
俺は彼女と一緒にバージンロードを歩いている花嫁とお父さんみたいな感じでゆっくり兄ちゃんのところに近づいた。俺はどうしていいのか分からずに、一緒に歩いたよ。ずいぶんな距離な気がしたね。なんか波が打ち寄せていてそこを歩いている。たった数メートルが歩きにくい。ベッドの脇に来ると「顔を見てやって」とおばちゃんが泣きながら言った。兄ちゃんの母さんか親戚だろう。
女将さんはベッドで眠っている兄ちゃんの白い布巾をとった。顔は真っ白だったな。人間って死ぬと、こんなにも皮膚が白くなるんだな。頬がこけて、やたらに病気であることを主張してくる。髪の毛が、サッカーボールの黒いところみたいに、ところどころに寂しげに生えているけど、髭だけはしっかり生えてる。生きているのか死んでいるのかよくわからない。掘りが深くてかっこいい兄ちゃんだったよ。女将さんはしばらく眺めていた。
「あなたが外出している間に……突然だったわ。ある程度わかってはいたから、いつでも準備はしていたけど」とおばちゃんが泣きながら言った。「最後は幸せそうだった」
女将さんは兄ちゃんのそばに近づいて顔を右手で撫でた。左手は俺の手を握っていた。まるで恐る恐る新しい生物を触る女の子みたいだった。新しい生物って言ったって、死んでいるんだけどね。ずっとね。ずっとだ。
女将さんは兄ちゃんの唇を触った。「この人の唇が好きだったんです」と言った。「彼が語ってくれる言葉が好きだった。優しい言葉が。彼が私をずっと支えてくれたんです」
声が震えてるわけじゃない。泣いてるわけでもない。神社の境内で見せた弱々しい感じじゃない。ただ兄ちゃんのそばに立っていた。どれくらいなんだろうな。気づけば、病院の窓がいつの間にか、真っ暗になっていた。そこに花火が上がって、ドンって音がして、弾けてる。俺はそっちの方を見る。窓から見える花火。いろんな色が空を彩っていく。虹みたいやね。それが粉々になって消えていく。俺の顔が窓に写っている。俺の顔はまだ真っ白くない。頬だってこけてない。だけど、花火と重なり合うと、自分の顔が骸骨に見えたりした。俺はいつか死ぬんだろうって思った。それはいつかくるものなのだ。そして首を振った。みんな窓の外を見てる。
「そうか、今日は花火大会の日だったわね」とおばちゃんが言った。「記念的よね」
「そうですね」と女将さんが唇をギュッと噛んで言った。悲しいんだろうな。辛いんだろうな。すげえわかる。彼女はそれでも俺の手を離そうとしなかった。だから俺はギュッと握ることにした。手から伝わってくるんだ。俺の胸のあたりに、辛いとか、寂しいとか、悲しいとか、そんな気持ち。看護師さんがいたので「すみません」と俺は聞いた。「花火ってもっと近くに見に行けるんですか?」
看護師さんは別に俺が誰だろうとどうでもいいみたいで、にっこりした。「今日は特別に屋上を開放しているんですよ。他の患者さんもいて、リラックスしていますが、もしよかったら見に行ってください」と言った。
俺は彼女の顔を見た。彼女の目は虚空を彷徨っていた。悲しいということを通り越して、ブラックホールみたいに虚無に見えた。何かを失ってしまった顔。それ以上、失い続けると取り戻すことができない。それは違う。違うんだ。そうだ。俺は、こんな時にここにいるじゃないか。それに彼女を不幸せにしたら俺が死ぬんだろ? 俺は彼女を壊さない。壊してたまるか。俺は彼女の手を握ったまま、黙って病室の外に連れていった。
「ちょっ」って声がしたけど、俺は彼女を強引に連れていった。おばちゃんたちは何も言わなかった。俺は近くの看護師さんに屋上への行き方を聞いて屋上に行った。
ちょっとした住宅街みたいなところにある病院の屋上で花火を見てる。花火が煌めいている。患者さんがいたるところにいた。まるで野戦病院みたい。車椅子に乗った人、頭に包帯を巻いた子供、松葉杖をついた人、いろんな人がいた。みんな怪我をしているのか病気の人なんだろう。俺は女将さんの手をつかんだまま花火を見ていた。ドンという音。パラパラと静かに。砂浜にいるカップルのように騒ぎ立てる感じじゃない。みんな静かだ。
ここが死の世界だなと思った。そうか。みんなそれぞれの幸せを願ってる。それが叶わなくてもいつかやってくると信じてる。死んでもそれは変わらない。死んでも幸せを待っているんだな。だから生きているんだ。
俺と彼女はずっと花火を見ていた。どれぐらいの時間かな? 最後にスターマインって虹のように湖の水平線から滝みたいな花火が見えた。その時、彼女が「これで最後だよ」って言った。「花火大会の見どころなの」
そして、いろんな色が弾けまくった。スターマインの火花の雨。何尺玉という大きな花火が何発も空を上がっていく。俺たちの存在が消されてしまうぐらい強く。強く。俺たちは色の洪水に飲まれていく。空に花火が上がって弾けていく。いろんな色、微かに香る火薬の匂い。パチパチと拍手の音がした。やがて真っ暗になった。空には星が見えたけど、花火の煙で、まるで銀河系を見ているような感じだった。社長に連れて行ったもらったプラネタリウムだと思った。すべてが遠くに行っちまったんだ。花火大会は終わったんだ。
「小さな町にしちゃ、ずいぶん立派なショーだな」と俺は感心した。
「どうしたの?」と女将さんは言った。
「何でもないですよ」と俺は言って、彼女をきつく抱きしめた。だってさ、ダメだよ。人間は泣きたい時に泣くもんだから。そうだろ? 彼女は我慢してるんだ。そんなことよくないよなって。何を言ってるって? そんなの俺に聞くなよ。俺だってよくわからないんだ。こんな時にさ、感情が表に出ないなんて、体や心や、夢や、希望や、絶望や、ありとあらゆるものに良くないんだ。
「泣いてください」と俺は言った。彼女の湿った髪の毛の匂いがした。旅館のシャンプーの匂いだった。とても小さな体だった。ぶっ壊れそうだった。「泣かないと死にます」
「私じゃないわよ。あの人が死んだの」と彼女は俺の胸に顔を埋めていた。しばらくすると俺の胸で肩がヒクヒク動き出した。やがて大きな振動になった。彼女は思いっきり泣いていた。「死んじゃったよお。死んじゃったの」と彼女はずっと大声で泣いていた。
俺はずっときつく抱きしめていた。壊しちゃいけないけど、壊してもいいってね。
他の患者さんや看護師さんやお医者さんは、ゾロゾロと戻っていく。時々、誰かに肩を叩かれたような気がした。気にするなよってね。俺たちは、花火の痕跡が消えちまうぐらいまでずっと抱きしめ合っていた。その日が消えちまわないように願いながらね。
その後、2日間は、かなり忙しかったみたいだ。俺と女将さんは会うこともなかった。なんせ自分の旅館の社員さんが亡くなったわけだし、それなりに、忙しかったような気がする。俺は何だかどうしていいのか分からないし、社長やスーパーの三好さんに連絡したりして、あてどなく町を歩いたりした。もう一度、お寺の境内に行ってみた。絵馬があったから、ひとつ買って、花井花子の名前と板前さんの名前……聞いてなかったんで、彫りの深い恋人さんと書いて飾っておいた。俺には祈ることもできないし、懺悔だってできないし、謝ることも、怒ることも、泣くことも、何にもできない。俺は部外者だったしね。何だかそれがやたらに悲しかったよ。彼女の一部になれたらよかったのかもな。
そして、ホテル滞在の最後の日の夜になった。フロントの人から呼びだされて、トラックの修理が終わったこと。明日の朝にはできているので取りに来てくださいと連絡があったと教えられた。社長に連絡をして戻ることを伝えた。スーパーの三好さんに連絡をしたら、無理だったらもっといてもいいよと言われたけど、俺は早々に帰ることにした。お金を払ってもらうのも申し訳ないし、俺はトラックに乗ってひとりで旅を続けたい気分になっていた。フロントの人が気を利かせて、チェックアウトの時にタクシーを呼んでくれることになった。料金はいらないってね。
俺はその日の夜、部屋で片付けをして、最後に布団を敷いてくれた女中さんに感謝の念を言って眠った。その日も夢を見た。ただ、どんな夢かは相変わらず分からなかった。それがわかればいいなと思ったけど、くだらない夢だったら嫌だし、明日は明日、また何かが始まるなと思った。それで目を覚ましたら、なんでかよく分からないけど、朝4時だった。なんかの奇跡かね? んで、フロントに行って、最後に屋上露天風呂に行っていいですかと言って、許可を得て風呂に行った。
屋上露天風呂からの眺めはバッチリだった。屋上なんで素っ裸でもバレないのもいいね。灘岡湖がどこまでも見える。花火大会のようにウキウキした感じはしない。静かに佇んでいる。まるで死んだ兄ちゃんみたいだ。でも、生きている。死んでいるはずなのに生きている。そうだな。俺は死んでいくのに生きているんだ。その理解不能な感じ。なんとなくわかったよ。そして、青い空がわずかに見える。いい気分だったね。俺は欄干に顎をつけてずっと湖を眺めていた。飽きないな。ここが俺の第2の故郷になりそうだ。そうしたら、ひとりお客さんが来たような気がした。しばらく湖を眺めて湯船に浸かろうと思ったら、そこに女将さんがいた。彼女は裸だった。胸元にタオルを当てているけど、くびれた腰に陰毛がきれいに生えそろっているのが見えた。髪留めで髪を持ち上げていた。相変わらず胸がデカかった。俺は当たりをみまわした。どうしていいのか分からず、その場に佇んでいた。いや、わからないでしょ?
「早く来ないとバレちゃうから」って囁くように女将さんは手招きをして湯船に浸かった。「ねえ、こっちに来てよ」
「どうしたんですか?」と俺はバスタオルで前を隠しながらいそいそと近づいて小声で聞いた。「何かありました?」
「いいから」と俺の手を握って湯船に一緒に浸かった。「番頭さんにバレたら怒られちゃうから。それからタオルは湯船につけないでね。お風呂に入る時のルールは守りましょ」
「少しは楽になった感じですか?」と俺はちょっと躊躇ったけど、タオルを湯船から出した。それを絞って頭に乗せた。
「そうね。お葬式も終わって、彼の部屋も片付けて、初7日も済ませた。何だかあっという間だったな。忙しかったし、お客さんの相手もしていて、気付いたらもう何もない感じ。なんか心が空っぽになっちゃった」
「そんなことないですよ」と俺は速攻で答えた。「きっと、いまでも花子さんの心の中にいてくれるから。彼はいてくれますよ」
「どうしてそんなことわかるの?」と彼女は大きな目で俺を見た。湯船の中で揺らめく彼女の裸がやけにリアルだったな。
「お寺の境内に、絵馬を置いておきましたよ。花子さんと板前さんのことを書いて。だから、きっと、ずっとそばにいると思います。ふたりは永遠に一緒です。これで失恋はなかったことになりそうですね」と俺は言った。「だって恋愛成就のお寺ですよ」
彼女はひたすら笑っていて胸が揺れた。
「そうですよ。ずっと笑っていてください。美人が泣いたらいかんのですよ」と俺は戯けて見せた。「誰だって泣いちゃいけない」
「今日で、帰っちゃうんだよね。寂しいわ」と彼女は唇を噛んだ。彼女の癖みたいだ。
「俺も寂しいですね。でも、また何かを始められそうです。それに花子さんを最後に笑顔にすることができた。それだけで満足です」
「私をナンパするつもりだったのにね」と彼女は言った。「ごめんね。私のことで迷惑をかけたのかな?」
「どうでもいいんですよ。悲しい想いにさせたくないだけです」と俺は言った。
「もっと近くに寄っていい?」と彼女。
「いいですよ。どんとこいです」
彼女は俺のそばに寄って肩に頭を乗せた。そしてためらわずに俺のペニスを握った。ちょっと待って。危ないことになるって思ったね。すぐに水硬作用を起こしたよ。俺たちは抱き合った。キスだってまともにできないんだぜ? 彼女はそれを許してくれた。そして俺の逸物を彼女の性器に入れようとしたんだけど。俺、初めてだったんだよね。ちょっと戸惑っていたら、彼女が優しく入れてくれた。そして俺の耳元で「あなた、初めてなの?」と呟くように聞いた。俺はうなずいた。「実は私も」と吐息を吐いた。「優しくね」お互い額をつけて顔を見合った。ちょっ、くすぐったいのでやめてくださいって言いそうになっちゃった。俺は疑問に思った。3年も付き合って、そんなもんかな……そうか色々あるもんな、人生って。俺っちには分からないんだ。だって俺は恋や愛も知らないもんな。でも、そんなの聞くの野暮でしょ? 俺は野暮な真似はしないの。絶対にね。
「私が怖かったの。だってみんなそんなものでしょ? 別におキャン気取ってるわけじゃないし、でもね」と彼女は言った。
「いいですよ」って俺はキスをした。「何も言わなくて。何も言わなくていいんです」
「そのまま腰を動かして。私を抱きしめていて」と彼女は言った。
それで抱きしめていた時間が10秒だったってのは、笑っちゃうよね。俺って本当、ツイてないのか、人生に恵まれてないのか。どこまでも決まらんもんだ。
俺が射精した後も、ずっと抱き合っていた。彼女はずっと俺の体を抱きしめていた。「ありがとう。いろいろ助けてくれて。あと10分ぐらいで、夜があけるのよ。町が一番綺麗になる。この旅館の最大の見せ場よ。湖の水平線から太陽が登るの」
俺たちは裸のまま、欄干に行ってその様子を見ていた。彼女は裸なのを気にしてない様子だった。まあ、いいか。見せたいやつには見せておけばいいんだ。そして朝日が登るのを見た。オレンジ色の光が湖を彩り、俺たちを覆っていく。それはとても優しい光だった。暖かくて、柔らかくてどこまでもいけそうな気がした。ああ、これが生きてるってことなんだってね。そうか、俺は生きている。
「それにしてもあなたって早いよね。早漏の気があると思う。たぶん、だけど」と彼女はニコニコと悪戯っぽく微笑んだ。「あんまり他の女の子に迷惑かけちゃダメだよ」
「それは言わないでください」と俺はずっと太陽を見ていた。悪い気分じゃないよ。別に悪いことしたわけじゃないしさ。
「でも、あなたでよかったと思う。うん、心は寂しいけど、何かが変わった気がする。次は素敵な人を見つけるわ。もうちょっと我慢できる人」と彼女は俺の頬にキスをした。
「そうですよ。きっと見つかります。だから自分に期待してください。自分を信じて」
人生って下らないことばかりだけど、いいことだって起こるよね。10秒ぐらいでしかなかったとしても。それは言わないでいて欲しいけどさ。その時、俺はずっとそう思ってたよ。太陽が登っていくのを見ながら、人生って悪くないって。さあ、白紙の未来だ。
俺たちふたりはオレンジ色になって、もう一度、抱きしめあった。
「新しい1日が始まりますよ」と俺は言った。「今日も素敵な日でありますように」
6
病院のベッドで寝ている。いろんなチューブに繋がれている。ちょっとくすぐったいね。俺は死のうとしている。たぶん、もうすぐだ。死ぬときには自分の人生が走馬灯のように蘇ってくるって聞いたことがあるけど、そんな感じかな? 花井旅館の女将さんってどうなったんだろう? あの後、っていうか、童貞を捨てたあとね、すぐに彼女は仕事に向かって、俺はタクシーに乗って出発した。なんて言えばいいんだろうな。別れの挨拶もしなかった。気まずいといえば気まずかった。別れって苦手だよ。言葉が見つからないんだ。あれ以来、会ったことも、旅館に近づいたことさえない。俺は社長のルートを引き継いで、「スーパー三好」にはしょっちゅう行っていたわけだ。会おうと思えばできたけど、彼女は新しい一歩を踏み出したわけだし、俺も新しい道を見つけたような気がした。俺が行っちゃいけないような、ね。何より彼女は新しい人を見つけるって言ったから。そりゃ、俺が行くのは間違いさ。
野暮なことはしない。それが俺の信条だ。
でも、最後ぐらい会いたいよなって思う。俺の体はめちゃくちゃになってるし、死ぬだけだもんな。最後ぐらい、感謝の気持ちを伝えたいやね。さっきも看護師さんに肩を叩かれて寝ないようにってさ。寝たら死ぬよって。どうせ、死ぬのにね。あれが夢ってやつか。初めて夢を見たって気がするな。でも、その夢が童貞を失うって夢も変なもんかね。
首が動くのかどうかわかんないけど、俺は、窓の外を見やった。そんな気がする。そこには、外が見える。ここの病院が灘岡のどこかわかんねえけど、花火が見えるような気がする。綺麗な花火だ。花が開いて落ちていく。いくつも花火が上がってる。いま起きていることが本当のことのような気がする。花火が上がってるかどうか、看護師さんに聞きたかったけど、言葉がでないんだ。そういや、あの時も、板前の兄ちゃんの前で、同じような状況だったよな。言葉が出ないんだ。
兄ちゃんも何かを言おうとしていたかもしれないな。死んじゃったけど、まさか俺もこんな状況になるとは思わなかった。あの時、兄ちゃんは何を考えていたんだろうな? きっと自分が幸せだったとか、そんなこと考えていたんだろうか。そりゃ、あんなおっぱいのでかい女将さんだったらね。いま、死ぬってことを改めて考えることになるなんてな。兄ちゃんと同じ考えであったら嬉しいよ。でも、兄ちゃんは一発やれてないってことは後悔してるのかもな。そりゃ、悪いことをしちまった。俺が彼女の処女をいただいちまったわけだ。ごめんな。そっち行ったら謝るよ。
死ぬのは悪くないってことやね。
生きてる方が死ぬよりも楽だなんて思わないよ。同じぐらいきついし、辛いもんだなって思う。嫌な思いもいっぱいするしさ。
まだ死んでないんだけど。死んでみないとわからない。死んでみたらすべてわかるか。
みんないつか死ぬんだ。だけど俺の想いが、この世界に残ってくれたら嬉しい。恋とか、愛とか、希望とか、そんなもの。
それにしても、42歳でこんなことになるなんてな。占い師のおばちゃんに言われたわけだし。当たる人だったんだね。もうちょっと真面目に話を聞いておけばよかった。それから、信仰深く生きるべきかもな。神様ぐらい信じておけばよかった。どこかのね。
不思議な気がするよ。42歳で死ぬって言われて、そりゃ、そんなこと忘れてたけど、42歳まで生きてみてなんとなく、これで終わりなのかもなって思ったりするね。なんだかジグソーパズルがあるべき場所に戻ってく気がする。人生ってさ、ジグソーパズルがバラバラになっていくのを元に戻す作業なんだな。それが一枚の絵になった時、俺は死ぬ。
それにしても花火が綺麗だ。
湖から漂う磯の匂いとか、そんなものまでするね。あの時は、晴れ雨が降って、女将さんと手を繋いで、なんとなく生きているって実感して。ああ、悪くないよ。こんな気分。
その時、「どちらさまですか?」と看護師さんの声が聞こえた。
何やら客人みたいだ。珍しいね。友達少ないしね、俺は。ちょっとしたやりとりが聞こえる。あんまりうまく聞こえないけど。
「訳ありの知り合いです」と声が聞こえた。その声は聞き覚えがある人だった。さっき、夢かうつつの中で、聞いていた人の声。声質が低く変わってる。だけどわかっている。
その人が俺のベッドに近づいてくるのがわかる。なんとなしにだけど。でも、その人は確実にやってくる。俺のベッドの手すりを持つのがわかる。ベッドが少し揺れた。悪いな。もうちょっと近づいてくれないかな。目が見えにくいんだ。徐々に見えてくる。初体験の花井花子さんだ。だって、花井旅館の石鹸の匂いがする。良い匂いだ。
ごめん。あんまりうまく聞こえねえや。俺、笑ってるかな? こんな惨めな格好で申し訳ないね。会いたかったよ。
「やっぱり、あなただったね」と声が聞こえた。「テレビのニュースであなたの会社の名前が出ていた。不安に思ってきちゃった」
そうか。こんな時に再会するなんてな。うまく目が見えないけど、あの時のまんまだな。着物を着ているような気がするけど、ちったあ、女将さんらしくなったんじゃない?「ごめんね。こんな時にしか会いに来れなかったわ。いろいろ話したいけど、なんて言うか、これが正解な気がする」と彼女は言った。「あなたはそこにいる。嬉しいわ」
俺はうなずいた。
「ちゃんとそこにいて、私を見ている。ちょっとおばさんになっちゃったけど」
「そんなことないですよ」と俺は言った。いや、言ってねえな。でも、そんなことを伝えたかった。「すごい綺麗なままですよ」
「ありがとう。相変わらずね」と彼女の顔に見える皺が時の刻みを教えてくれた。
「俺、あれから変わったような気がします。女将さんに会ってさ。うまく言えないけど、大人になったんです。もっとマシな考えができればよかったけど、それは変わらなかった。相変わらずダメな人間ですかね?」
「そうでもないよ。あなたは立派だと思うわ。女の子を助けたんだってね? あなたらしいわ。24年ぶりの再会ね」
「24年か。あっという間な気がするし、そうでもない気がします。時間って残酷だし、優しいですね。でも、相変わらず美しいですよ。それから外に花火が見えません?」
「見えるわ」と彼女が言ったような気がした。「あの時と同じ感じがするわね」
「そうですか。花火が見えて嬉しいですよ。俺、もう何も見えなくなってきてるから」
「本当はね、病室で泣きたかったんだ。あの人の前で、少しでも悲しんでるのを感じて欲しかった。でも、泣けなかった。どうしてかしらね? なんか許せない気がしたの。変な表現だけど。泣いちゃいけないってね。だから、泣くこともないのかなって思ったの。でも、あなたが手を握ってくれたおかげで救われた。あなたが私の固い心を吸い取ってくれているような気がした。だからあの時、花火が見える空の下で泣くことができたと思う」
「そうか。よかったですね」と俺っちは言った。よかった。俺の人生が少しは役に立ったみたいだ。俺の行動や、俺の考えが、少しでも役に立ってくれたら嬉しいよね。思うんだ。俺の感じたことが誰かに伝わってくれて、その人が感じたことが変化したり、満足だって思ってくれたら、最高じゃない?
「だから、あの時、決めたの。初めての人はあなたにするって。そうしないといけないような気がしたのね」
「俺っちはまったく役立たずだったけど」と俺は笑った。「かっこつけて、必死こいて、10秒でおしまいなんて、間抜けだなって思いましたけどね。でも女将さんの体は柔らかかったです。生きててよかったかなって思った。いま、幸せですか?」
「そうね。素敵な人を見つけたわ。子供が2人できて、ふたりとも成人しちゃった。不思議なものよね。誰かが跡を継いでくれたらって思っていたんだけど、ふたりともやりたいことがあるって家を出て行った。そんなもんかなって思ったりしたけど、でも、新しい女の子が入ってくれてうまくいったの」
「よかったですね」と俺は言った。「万事が丸く収まって何よりです。そうすれば俺っちの人生も救われるかな。それから女将さんに言わなくちゃってことがあってさ」
「私も、立派な人間になろうとしたけど、うまくいかないこともあった。あなたの言葉が励みになったわ。いまでも、旅館に来るお客さんの笑顔が満足になる。でもね。残念な話なんだけど、3ヶ月後に閉店するんだ。この時代に旅館を経営するのは厳しいのね」
俺は、なんだか会話が噛み合わないのが気になった。俺がしゃべっていること伝わってるのかな? 俺のことが少しでも伝わってくれたら嬉しいんだけど。もっと話してくれ。
「子供たちが旅館の跡を継がなくてよかったかな。いまの女将は新しい旅館に再就職したの。それから、私の新しい人も板前さんだった。何の因果なんだろうね。旅館を畳むって決めて、旅館の近くの料亭で働いてる。そんな話、いいわね。なんとかやっていけそう。でも、あなたに言いたことがあって」
「俺も言わなくちゃって思ってるんですよ」
しばらく間があったのかよくわかんないんだ。時間の経過がうまくつかめない気がする。前に進んでいるのか、後ろに進んでいるのかわからなくなってきた。女将さんのことがいまでも好きだ。俺、たぶん、そうだね。
「ありがとう」と彼女は言った。でも、その言葉は、俺の言葉を受けてのありがとうじゃなかった、そんな気がした。
「ありがとうございました」と俺は言った。
ありがとうなんてサヨナラと一緒だから。お別れなんて言わないでくれよって俺っちは言いたかった。だから、そのまま話を続けることにした。俺は、占い師に42歳で死ぬって言われたんだ。びっくりだよね。それで、こうなっちまった。たぶん、死ぬんだろうなって思うよ。でも、後悔とか、残念だって思ってないんだ。そりゃ、まだやれることがあったような気がする。結婚もしてねえんだからさ。花子さんの子供みたいに、優秀な息子か娘がいて、俺っちを支えてくれたらよかったよなって思うけど。でさ、その占い師に話を聞いたら、女将さん以外に、もう2人、花井花子さんと付き合うって言われたんだ。うん、でね、実際、その通りになったんだ。もし、よかったら俺の話を聞いてくれないかな? くだらなかったら申し訳ないんだけど、俺の話を聞いてくれたら嬉しいよ。
あれから俺は東京に帰って、それから灘岡と往復するようになって。それで、灘岡で恋人ができたんだよね。生まれて初めての恋人って感じかな? その人の話を聞いてくれよ。女将さんとおんなじ、花井花子さんの話なんだよな。なんだか複雑だけど、そういうことなんだよね。ハッピーな話をしよう。
「ありがとう」ってずっと言い続けて女将さんは泣いている。
いや、そこまで感謝されると嬉しいよ。照れちゃうね。俺の話を聞いてくれたら嬉しい。最後まで話せたらいいな。つまらなくなったら言ってね。でも、飽きさせないように、ちゃんとする。俺の最後の話だ。ずいぶん、迷っちまったけど、この話は誰にもしたことがないんだ。聞いてくれたら嬉しいよ。
花火が窓に写っていた。まだ花火が続いている。花火が終わるまでに話し終えられたら嬉しいね。また花子さんを抱きしめられたらな。花井旅館の石鹸の匂いが懐かしいよ。
実はさ、俺も、一番大切な時に泣けないことがたくさんあるよ。でも、あの時は思いっきり泣くことができたな。思いっきり。
7
正真正銘の初恋は20歳だった。遅すぎるかと思うかね? どうなんだろうね。でも、人を愛するのに歳なんて関係なくね? 俺はようやく「愛」に目覚めたんだよ。女将さんのおかげかもな。愛する人を前にした時の胸のうずきとか、いまでも忘れられないしね。てか、初恋の前に童貞捨てるのはどうよって感じだけどね。そんなこともあるのさ。で、初めて付き合った人も花井花子って名前だったんだな。しかも灘岡にいる人だった。
俺は晴れて大人になった。20歳の時に会社の社長が俺を祝ってくれた。成人式まで連れていってくれた。必要ないって言ったのに、俺のことを息子みたいに扱ってくれる。感謝しなくちゃな。紋付まで買ってもらって、俺は写真を撮った。記念写真はいまでもあるよ。キリッとした顔に、鶴田浩二みたいな顔して、カメラを見ている。その先は、どこを見てるんだろうな? きっとどでかい未来さ。俺の遺影にして欲しいな。俺は愛されることを望んでいた。愛されながら愛することを望んでいた。遺影にぴったりだろ?
女将さんと別れて、俺は東京に戻り、何事もなかったようにトラックの運ちゃんとして働いていた。北海道から沖縄までトラック「希望の光」に乗って走り回ったよ。女将さんの思い出はずっと忘れられなかった。たった10秒とはいえ、性器の感触とか。そんな記憶がこびりついているね。その頃かな。俺は運転中に、物思いにふけるようになった。問題ないさ。簡単に言えば、右脳で、記憶を掘り返して、左脳で、道路を見てるって感じかね。どっちがどっちかはわかんないけど。高速道路のサービスエリアで座席にもたれかかって、仮眠をとってるときなんか思い出したりしたよ。18歳の1週間の思い出をね。そんな時、俺の心は愛に満ちた。愛に満ちることで、俺はなんだかひとりぼっちな自分が許せるような気がしたんだ。俺は大丈夫。このままでいいよってね。わけもわからず、寂しさが襲ってくる時もあったけど、それでいいと思っていた。悲しくなんてないよ。俺は俺のままでいいのさ。俺は俺のままで。
んで、スーパー三好さんの仲介で新しい配達先を紹介してもらったんだ。俺の初めての顧客っていうかさ。そこもスーパーだった。店長さんは、三好さんのいとこみたいなんだけど、すげえよな。三好さんの親類はみんなスーパーを営業してるんだからね。その店でレジ打ちをしているパートの女性の娘さんだった。俺は一目で恋に落ちちゃった♡。
えっ、恋ってこんな感じかなってさ。まるでスタンガンで撃たれたような気がした。電気ショックさ。俺の心は砕けちまった。俺の体はバラバラになっちまった。
レジ打ちをしているパートのおばちゃんが花井さんなんだ。名字を聞いた瞬間に鳥肌が立ったね。その人となんかのきっかけで飯を食うことになった。大したもんじゃないんだけど、デニーズかなんかで軽く飯を食ってる時に、娘も同席していいかって話になって、どうぞって伝えたら、その子が現れた。もう大体わかるよね? 花井花子って子なんだよ。その瞬間に身体中に電撃が走ったわけだ。電撃が走ったから花井花子さんだったのか、花井花子さんだったから電撃が走ったのかわからなくなるんだけど、そういうことだよ。人生って本当にいろいろあるやね。
二重の大きな目に、小さな鷲鼻、大きな唇。どっかで見たことのあるような人だったね。その人が俺の前の席に座った。最初はなんでもないって感じだったね。向こうにしちゃそうだろうけれどさ、俺にしちゃそうもいかないわけだ。これは運命だと思ったね。
一緒に飯を食って、彼女はナポリタンのスパゲッティーを食って、俺はラザニアとかその辺だよ。味なんて覚えてないね。ああ、この子、きっと花井花子さんだって思ったんだよね。んで、俺のものにしなくちゃいけないと思った。俺が奴隷になるんだってね。
女将さんの場合は、あの人、きっと新しい人生が待ってるような気がしたけど、彼女の場合は、新しい人生の一部に俺がいるような気がしたわけだ。俺が彼女の一部になるってことさ。そんなの怖くないよ。怖くない。
それで運がいいことに、あるいは占い師が言ってたことが巻き起こるわけだよ。パートの花井さんに連絡があって、急遽店に戻らなくちゃいけなくなった。他のパートさんの気分が悪くなったとかそんなことだったね。それで「ごめんね」とか言われて、彼女は先に帰っちまった。さすがに、「帰れ」とまでは思ってなかったけど、ラッキーだったね。俺の些細な人生に感謝しなくちゃ。
というわけで、俺と、その人は一緒になった。彼女はワンピースを着ていた。なんでか、俺が恋をするときって夏になるんだよな。まるで夏を生きている虫みたいだね。
その子が俺の前にいた。最初は話すきっかけもなかったけど、俺っちは諦めの悪い男でね。俺は諦めの悪い世界チャンピオンさ。まずは確認しとかなくちゃって思ったわけ。
「あのー」と俺は言った。
彼女は俺の方を向いてにっこりして髪をかき上げた。「なんでしょう?」
「花井花子さんですよね?」と俺はいきなり言った。こういう時ってカマスことが大切だよな。奴隷になるにはこっちからが鉄則だ。
「どうして知ってるの?」と彼女はナポリタンを突くフォークを止めた。口の端にケチャップがついている。可愛いやね。
「花井花子さんって顔をしてるから。たぶん、どの角度を見ても花井花子さんですね」
彼女は最初はびっくりしたような顔をしたけど、やがて笑顔になった。
「どういうことなの?」
「いえ、花井花子さんだなって思って」
「私がその名前だったらどうするの?」
「俺と付き合いません?」
彼女は目をぱちくりさせた。「で?」
「俺、占い師なんです。その人のことがわかるっていうか。いきなりで申し訳ないんですけど。あなたのこと大体わかるから」
彼女は笑った。「どういうことなの?」
「そうですね。まず右手を見せてもらいますか」と俺は言った。こういう時はスキンシップが大切だからね。まずは俺のものにするための第1弾はスキンシップ。触りまくれよ。いやらしくなくね。この辺が大切さ。そっと、さっと。覚えておいてくれよな、兄弟。
で、彼女は戸惑いながら、俺に右手を見せた。俺はすぐさま掴んだ。ああ、この柔らかさだって思った。花井花子さんの柔らかさだってね。何気なく差し出した手に俺の心は満たされることになった。
俺はその右手をじっくり見ていた。綺麗な手だった。シワひとつない。27歳だなと踏んだ。女将さんと同じだったし、占い師のおばちゃんも匂わせていただろ? 俺は永遠に27歳の女の子と付き合うもんなのさ。
「名前は花井花子さん。年齢は27歳。すっぴんが綺麗です」というか、彼女はすっぴんだったからそれはわかるわね。そういえば、女将さんもすっぴんだったな。うん、俺って花井花子さんに関しては人生がわかる。当たりくじしか引かないくじをしてる気分だね。
「年齢まで当てちゃうんだ」と彼女は驚いた顔をした。「すっぴんが綺麗だって言ってくれて嬉しいけど。化粧水をしたりしてるから、すっぴんじゃないんだよね。ナチュラルメイクなのよ。他に当てられる?」
「鼻の頭にニキビがある」と俺は言った。「それが可愛いと思います」
「まいったな。これそんなに目立ってる?」と彼女は鼻の頭の小さなニキビを触った。
「目立っていますね。可愛いですよ。あんまり触らない方がいいですね」
「どこに自分の顔にニキビができて可愛いと思う女の子がいる?」と彼女は言った。「やだな。無印の化粧水とか使っているんだけど、ノンアルコールの化粧水でも、ときどき出ちゃうんだよね。なんかずっと鼻のここにできるんだ。家族みんなここにできるのよ」
「答えを教えてもらっていいですか。その次をお答えしますよ」
「せっかちね」
「せっかちな占い師なんです」
彼女は鼻を触りながら笑顔になった。ずっと見ていたい。俺は花井花子さんを、って、誰でもいい。ずっと笑顔にしないといけない。そうしないと死んじまうって教えられたから。死なないために笑顔を見続けるんだ。
「花井花子は正解。年齢も正解。でも、この辺なら、母さんに聞けばわかるでしょ? それとも私があまりに普通だったから」
「いえ、普通には見えません。ゴールデンデラックス級に可愛いと思います。いままで生涯で会ったことないです。ニキビ込みで」
「目的でもあるの?」と彼女は笑い続けた。
「その笑顔を見たいので僕は存在してるんです。付き合ってください」
「あなた変わっている」と彼女は微笑んだ。「出会って30分ぐらいしか経ってないよ」
「デートしません?」と俺は言った。こういうのは単刀直入がいいのだ。若い子に言っておくよ。何度でも。女の子を誘うときぐらいはズバッとね。心にナイフを突き刺すんだ。
「それより、もうちょっとあなたの占いを聞きたいかな。それ如何ね。名前と年齢ぐらいだったら誰でもわかるじゃない?」
そこで俺ははたと止まった。たしかに花井花子さんと27歳というのはわかるけれど、それ以上は可愛いということと、俺が一目惚れをしたということしかわからない。
俺が悩んでいると、「あんたその先を知りたい?」と声が聞こえた。頭の奥の方だ。脳みその端っこの方ね。「あなたがそれ以上知りたいなら、教えてあげなくもないけど」
俺は当たりを見回した。誰かに語りかけられている気がしないでもない。あの占い師のおばちゃんの声だった。
「どうやって俺に語りかけてるんです?」
「テレパシーみたいなものね」
「都合の良い流石ぶりですね」
「ようやくわかった? 私は普通じゃないんだから。あなたは花井花子さんと付き合い続けるの。そうしなくちゃいけないから。それは私の義務でもあるから、教えておいてあげる。ちなみに口座番号を先に言っておくね」
「なんで?」
「だって、1回、1万円だもん」
「ちょっと待って。メモるから。俺は急いで作業着の胸ポケットからメモを取り出した。
「何してるの?」と花井花子さんは言った。
「あー、あなたのことを書くんですよ。あなたのことを占っているんです。大体わかりましたから。もうバッチリです」と俺は嘘を言った。頭の中に矢継ぎ早に声が聞こえる。なんだけ知らないけど、口座番号が教えられた。そして彼女のことを教えてもらった。
「ふむ」と俺は言ってメモを見ていた。「だいたいわかった」
「どう? わかる」
「住まいは灘岡湖の四方上町の近く、4畳半の家賃2万5千円、風呂なしのアパートですね。最近できたアパートだけど、施工ミスで傾いている。事故物件ですが、あなたはそこを気に入って住んでいる。介護の仕事をしている。無印が好きで、部屋は質素そのもの。テレビぐらい。宇多田ヒカルが好きでよく聴いている。体重は42キロ。Bカップ」
彼女はしばらく黙っていた。少し戸惑っているように見えたけど、にっこり笑った。「体重と最後は余分じゃない?」
「つまり、俺のタイプだってことです」
「なんだか、すごいのかすごくないのか……当たっているわね。さすがよね。でも、その辺も知ることができわけじゃない?」
「彼氏がひとりいる」と言った瞬間に俺は凍りついた。えって? 彼氏いんじゃんみたいな。でも、俺の言葉は止まらない。「その彼氏のことでちょっと困っている」
「ふーむ」と彼女は言った。「それから?」
「俺ならあなたを救えるわけです。彼氏は嫉妬深くて、タトゥーもしている。ちょっと暴力的なところがある。どうして好きになったかっていうと、同級生で幼なじみだった。なし崩し的に付き合い始めて3年。告白は向こうからですね。結婚も考えているけど、どうしようか戸惑っている」と俺は矢継ぎ早にいって、自分で驚いてるんだから、びっくりするよな。俺の頭に占い師のおばちゃんがマシンガンみたいにどんどん言ってくるのをメモっていただけだからさ。自動筆記やね。
俺は頭の中に語りかける。「この人じゃないんじゃないの? なんか違わない?」
「知らないわよ。あなたが一目惚れしたんでしょ?」と占い師が言った。
「そうだけど」と俺は呟いた。俺のつけ入る隙ないんじゃないって感じで。
「あなたは花井花子さんの笑顔を見てなくちゃいけないの。そうしないと死ぬわよ」
「わーた、わーた」と俺は呟いた。
「1万円、1週間以内に振り込んでね」
「あー、もう」と俺は言った。せっかちな女の子って、まったく困ったもんだ。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです。どうです? 俺とデートしませんか?」と俺は言った瞬間、泣きそうになったよ。アホじゃん、俺?
彼女は黙っていた。「なかなか鋭い指摘ね。お母さんにも言ってないことを当てている。ただ、まだ信用できないっていうか」
「だから、俺とデートすれば解決しますよ」と俺は言った瞬間に、うなだれてきたよ。
「彼氏いて、結婚前なのに、デートしなくちゃいけないんだ?」と彼女は呆れたように微笑んだ。「あつかましいのね」
「だって、そうなんですもん」と俺は言った。「はい、笑ってください。あなたの笑顔がすべてです。とにかく笑ってください」
「しょうがないな」と彼女はむせるように笑いながら言った。「いま、ひま? 夜から仕事だから、私の部屋なら案内できるけど。もうちょっとあなたの話を聞きたいわね。なんかいろんなこと相談できそうね」
うーん、俺って、すげえ人好きになっちゃったな。こう見えて、人見知りなんだけどね。占い師のおばちゃんによると相手はすげえヤクザっぽいからさ。俺っちは喧嘩はまったくだめな平和主義者なのよ。
まさか、そこからいろんなことに巻き込まれるなんて、想像もしてなかったよ。
人生っていろいろさ。それは知っておいてくれよな。たださ、全部許せることが大切だね。イッツ・オールライトって言えないとな。ボブ・ディランだって歌ってるよね?
8
俺が驚いたのは、占い師のおばちゃんが言った通りだったね。4畳半の家賃2万5千円、風呂なしのアパート。施工ミスだと思うけど、ほんとに家が傾いている。試しにフローリングの床に5円玉を立ててみたら、転がったよ。ライク・ア・ローリング・ストーンってところやね。部屋、キッチン、バスルーム、押し入れぐらいで、ほぼ何もない。飾りっていえば、壁に宇多田ヒカルのポスターが貼ってある。こたつが一脚。カーテンはブルーで花柄。本棚にちょこっとCD。宇多田ヒカル、中島みゆき、aiko、浜崎あゆみ……普通じゃん。人形なんかない。スヌーピーもいない。ミッキーマウスだってない。小さな4段タンスが台所のそばにある。色もクリーム。笑っちゃうね。まるで普通だ。テレビもない。匂いもしない。ほんとに質素っていうかさ。そうか介護の仕事って聞いたし、金ないのかもな。趣味だったら申し訳ないけど。だけど、くまモンのクッションが2つある。台所すぐに風呂場があって、トイレを借りた時に歯ブラシが2本あるのを見た。
やっぱり、俺は好きになっちゃいけない人を好きになったみたいだ。それってどうなんだろうね? 花井花子さんと付き合っていれば、人生丸く収まるんじゃないの? 人生わからんもんやね。人生って、そんなこと起こらないってことが起きたりするんだよね。逆に、起きて欲しくないことが起こったりするもんさ。愛したらいけない人を愛しちまう。初恋が禁断の恋ってやつさ。恐れ多いね。
「今日はあの人、帰ってくるかどうかわからないの」と花子さんはお茶を出してくれた。
俺たちはこたつ机を挟んで対面で座っていた。クッションは横に避けたよ。なんか使ったら悪いような気がしてさ。
「占いの続きを聞かせてほしいな」と彼女は言った。「私の何がわかる?」
俺っちは目を閉じて頭の中を覗いた。俺の脳みその奥は、占いの館のキッチンがあって、占い師のおばちゃんがそこにいる。「彼女、なんか求めてるみたい」と俺は言った。
「知らないわね」
「それは答えたくないってことかね? それともまったくわからないってことかね?」
「後者ね。だって、知らないもん」
「すごい占いやね」
「そういうもんよ」
「じゃあ、どうするかな?」
「自分でなんとかしなさい」
「ひどいね」
「ここまでくればなんとかなるわよ」
「そんなもんかね」
「そんなものよ。とにかく振り込んでね」
俺っちはため息をついた。さて、どうしますかってことだ。あとはこっからどうやって彼女を笑わせ続けるかってことだ。
「その男はあなたを傷つけている」と俺は言った。とりあえず、そんなこと言っとけばいいような気がしてさ。
「あなたじゃなくて、花子でいいわ」
「花子さん、その男とは別れた方がいい」
「いきなりね」
「だって、俺の彼女になるわけですから」
「よく、わかんない」と彼女は吹き出した。「私、まだあの人のこと好きよ」
「だって、暴力ふるったりするわけでしょう。たとえば、顔以外のところとか、あえて目立たないところとか殴ったりして。いつも機嫌が悪いっていうか」とまた適当なことを言った。「何かを抱えていますね」
「そうね……暴力したいからしたいわけじゃないと思うのよね」と彼女はしんみりとした声を出してお茶をすすった。
えっ? 当たってんだ? 俺っちはそっちにびっくりしたね。
「俺だったら、あの人とは別れてもっとマシな人を見つけますね」
「たとえばどんな人?」と彼女は俺の顔をのぞいてきた。
「俺みたいにバックハグができる人ですね。抱き枕よりも優しいと評判の」
「何それ?」と彼女は笑顔になった。
「いつも笑っていますか?」と俺は言った。「さっきみたいなちょっと疲れた顔しているのって、間違っている気がするんですよ。やっぱり、笑っているのがすべてだから」
「それは女性だから笑うべきだってこと?」
「違いますよ。誰だろうと笑うことが一番です。世界には笑顔が足りないんですよ」
「優しいね」と彼女は目をパチパチさせた。
俺はお茶を飲んだ。そうだよ。俺は思うんだよね。みんなの笑顔がすべてなんだって。みんながひとりぼっちで苦しんでいるのを知っているから。みんなが孤独になるのを拒否しているから。ひとりぼっちと孤独は同じじゃない。ひとりぼっちに慣れすぎて孤独になって悲しくなるんだ。みんなが苦しんでいるなんてダメだよ。みんなの苦痛を分けてよ。腑分けしていい。俺が受け止める。みんなが笑顔でいたいよ。俺のことなんてどうでもいい。どうせトラックの運ちゃんだし。
「俺たちはふたりでひとつなんです。悩んでいるなんてだめですよ。その苦しみにチューン・インさせてください。俺っちのピーナッツぐらいの脳味噌で共有させて欲しい。お願いだから笑ってください。世界中が悲しみで満ちていても。どんな凄惨な事件が起きても。銃弾が飛び交っていても。どんなに汚い言葉が飛び交っていても。たとえどんなに辛くても。あなたのそばにいますよ。大丈夫、大丈夫、大丈夫。心配しないで。イッツ・オールライト。ボブ・ディランだって歌うぐらいですよ。俺がそばにいる」と畳み掛けた。
すると彼女はちょっと面食らったような顔をしていたけど、徐々に表情が崩れてきた。目からポロポロこぼれてくるものがあった。彼女は泣き出し「ありがとう」と言った。
「泣かないで♪」と舘ひろしばりに歌った。
俺はさ、泣かせたいんじゃなんだ。笑わせたいんだよ。笑わせないといけないし、そうしないと死んじゃうからさ。ここで、バックハグかましたいんだけど、うまくいかせられない。だって相手がいるしな。しかもヤクザっぽいって怖いよね。なにより、拒否されるのが嫌だった。もし、大嫌いだと言われたら。もし、触られたくなかったら。俺は悪魔になる勇気はないからね。だけど強くなりたい。強くなりたいんだ。誰よりも強く。彼女を守れるほど強くなりたい。
「何か事情があるんですね?」と俺は言った。「話を聞かせてください」
彼女は頷いて、ハンカチで目頭をこすりながら、俺に語り始めた。どうやら、本当に彼氏に暴力をふるわれているってこと。それから、それが最近激しくなってること。それから他に女の子がいるみたいなこと。他に女? おいおい。医大を卒業して、研修医になったのはいいけど、金がないから、金だけを無心してくること。エトセトラ、エトセトラ。
俺は怒りに満ちてきたね。俺みたいに頭が悪いやつだってわかる。彼女がすごく辛いって知っているよ。彼女の仕事を聞けばわかるだろ? 俺と似たようなもんさ。肉体労働だ。安月給だ。重労働だ。彼女は誰かの死に直面することもある。辛いことばかりだ。世界中の苦しみを背負ってしまうこともある。思わず泣き出してしまうこともある。
「わかりますよ。たとえば、ここの近くにあった灘岡湖の桟橋に座ってひとり、湖を見ながら泣いていたんですよね。喪服を着て。介護している人が亡くなったりとか」
ここまでくると完全に妄想の域だけど、なんとなく俺っちは、その人の人生が見えてくるような気がした。
「どうしてそんなことまでわかるの?」と彼女は鼻をすすりながら言った。
「だって、あなたは俺のものになるんですから」と俺は言った。どうやら当たったみたい。すごいね。ピーナッツぐらいの脳味噌がショートするぐらいに妄想を働かせている。
「あなたFBIの人みたいだね」と彼女は涙を拭ったが頬に涙の跡が見える。
「何ですか、それ?」と俺は聞いた。
「プロファイリングをする人に似ている」
「そんなもんですか。とにかく、悩みがあったら教えてください」と俺は言った。
「あの人と別れる理由が欲しいの。私があの人を愛しているのを止めたいの。愛が溢れてしまうの。あの人を愛しすぎている。だけど、もうあの人には何を言っても無駄」
ここまでくれば俺っちの勝ちだね。じゃあ、どうするかってところだけど、浮気現場を抑えればいいと思った。現行犯逮捕だ。
「どこで浮気されたりするんですか?」
「ここで。あの人、これみよがしにそうするから。私がわかっているのにそうするんだ」
「いつ帰ってくるのかわかりますか?」
彼女は時計を見た。「いつかはわからないけど、いつも、あと1時間もすれば」
「じゃあ、俺と一緒に浮気現場を押さえましょうよ。そうすればあなたも納得できる。あなたが何かされたら俺があなたを守るから」
「たぶん、ぶっ飛ばされると思うけど。彼、趣味で総合格闘技しているから。素人の大会で優勝したことがあるけどね」
なんだかどうしようもない感じがしてきたね。でも、やるっきゃない。俺の彼女が泣きそうになっているんだからな。女の子を泣かせるなんて、ヤクザだろうが、格闘家だろうが、ダメに決まってるだろ。なあ、兄弟?
「ねえ、それで彼の浮気現場を見せてどうするってわけ?」と彼女が聞いた。
「彼氏に説教します。あなたはきっとそれですっぱりすると思います。保証します。そして金輪際、あの男と会わないことを誓うんです。そして別れましょう」
「そして私をどうするの?」
「あなたをバックハグしながら逃避行します、どこまでもー♪」と俺は米米クラブの「浪漫飛行」の節をつけて言った。こういう時はミュージカル風がええやね。たしか、親父さんは、東宝のミュージカルに奥さんを連れて行って、口説いたって聞いた。
「なんで、米米クラブ? とにかく、どうしてバックハグなの?」と彼女は笑った。「おまけに逃避行してどうするのよ?」
「俺のトラックで東京に行きましょう。あなたみたいな人にはバックハグなんです。前から抱きしめたら壊れてしまうから」
「どこまで本気かわかんないわね」と彼女は両手をあげた。
俺は足りない頭で考えた。さすがにどうするかなんて考えてないよな。思ったんだよ。あのヤクザ男から逃げよう。俺っちとふたりで。この町から逃げよう。そして、東京の安いアパートに一緒に住んで、バックハグしよう。鼻頭のニキビを触ったりして。そうすれば、辛いことがあっても、俺っちの胸で泣けばいい。嫌なことがあっても俺の胸にすがりつけばいい。世界中に雨が降ったとしても、君だけが太陽になるんだって、宇多田ヒカルも歌っている。抱きしめたい。愛し合いたい。辛かったら全部ぶちまけてくれればいい。俺が受け止める。たとえどんなに悲しいことがあっても。そう決心したんだ。
だって俺の彼女になるんだからさ。
「あなたが、あいつと別れられるように手助けしますよ。実際の証拠を見させられたらどうしようもない。そうでしょ?」
「でも、私にそんな辛いところ見せてどうするの? 私自殺するかもしれないわ」
「人生には、乗り越えなくちゃいけない、いくつかの困難があるんですよ。壁の前で恐れをなしていたらだめなんです。俺とだったら乗り越えられる。このままズルズル行ったらダメだ。あなたに暴力を振るい、浮気をしているなんてやめさせますよ」
俺たちは作戦を考えた。その男の浮気現場を押さえてグーの音も出せないようにしようと。そうすれば彼女は俺のものになる。彼女と一緒に見ていればいい。とっちめるのだ。
俺は携帯のカメラを用意し、彼女と押し入れに入った。そして押し入れの襖をこっそり開けてふたり顔を上下に並べて覗いていた。俺が下、彼女が上。髪の毛が鼻にかかってムズムズするね。彼女の髪の毛の匂いがした。どういうわけか花井旅館の匂いがする。
ときどき「こんなことしていいのかしら?」と彼女は静かに言った。
「いいんですよ。あいつを懲らしめてやりましょう」と俺は言って、現場に立ち会ったらどうするか考えた。俺、思いっきりぶん殴られるかもしれないなって。格闘技やってるんだろ? 俺っちはそんな喧嘩が強くないぞ。仕方がない。女の子を泣かせるなんて許されないのだ。しかもふたりの女の子を泣かせてるわけだろ? 法律上、そんなのは許されない。俺は正義の使者になる。押し入れから同じような表情をした顔がふたつ並んで部屋をのぞいている。双子の漫才師みたいだ。
「ねえ、ほんとに私のこと好きでいてくれる?」と彼女は押し入れの中で聞いてきた。
「俺を信じてください」と俺は言った。「あなたに首ったけなんで」
彼女は呆れたように言った。「だって出会って1時間ぐらいだよ」
「人生はミラクルです。1時間会えば、恋が芽生える。それは本能的なもんなんです。人間は時間に支配されない」と俺は言った。
この辺になると適当なんだけどね。押し入れの中は乾燥剤の匂いがしていたけど、俺たちは暗闇の中で見つめあってた。そうさ。俺たちはいい雰囲気。キスまでしそうさ。
その時、ドアノブからガチャガチャと音がした。事前にドアの鍵を閉めていたのだ。
「きたわ。いよいよね」と彼女が囁くように言った。「あの人は合鍵を持っているから」
俺の心臓はぶっ飛びそうになっちまった。それにしても、なんで彼女ひとり作るのにこんなことしなくちゃいけないわけ?とふと思ったわけだ。俺の人生って一体なんだろうね? いろんなストラグルに満ちてるね。
誰か教えてくれない?
9
俺と花子さんは押し入れの中に隠れて、まるでQueenの『Sheer Heart Attack』のジャケットのようになっていた。今度はマジで彼氏が帰ってきた。まず見えたのが見知らぬ女の子。すっとしていて、まるで鉛筆みたいだ。なんだか薄幸そうな顔をしている。ロクでもない男に騙される女の子って、みんなそんなもんだろうか? あるいは薄幸だから惹かれたりするのだろうか? 俺はよくわからなかった。明らかになれない化粧をしていた。ピンク色のワンピースだった。
「なんだか人がいたっぽくない?」と女の子が言ったときは、心臓が破裂するんじゃないかと思ったよ。「あなたが、こんなところで会おうなんていうから」
「仕方ねえじゃん。金ないしさ」と男が言った。はっきり顔が見えないが、両腕にタトゥーをしている。やばいな。殺されるかもな。
「でも、やっぱり人がいそうな雰囲気ね。彼女がいたらどうするの?」
「追い返せばいいさ。どうせ仕事中だけど」
その時、俺の背中で、鼻をすする声が聞こえた。わかるよ。これは明らかに彼女に対する冒涜だ。徐々に男の全体が見えてくる。男は「100円ショップ渡辺」の買い物袋を両手に持っていた。髪の色が紫だった。耳にピアスをしていた。首と手の甲にもタトゥーがあった。胸が鳩胸だった。タボダボのジャージを着ていた。ラッパーのKOHHみたいだし、格闘家の山本KID徳郁みたいに頬がこけほっそりとして無骨な感じだった。
俺は明らかに殺されるなと思った。どう考えても勝ち目がないな。どうすべ?
そして、男が買い物袋を床に置くやいなや、男は彼女にバックハグをした。俺が一番したいと思っていることを簡単に。首筋の匂いを嗅いでいた。彼女は「くすぐったい」と甘ったるい声を出した。彼女たちは転げ回った。花束が買い物袋から溢れた。それを踏みつぶした。彼女たちは造花まみれだった。
造花の花びらだらけじゃん。The Smithsのモリッシーじゃねえよ、と突っ込みたかったが、怖くてできなかったよ。
「やめてよ」ってクスクス彼女が言った。「こんなところでやめて」
彼女から吐息が漏れている。吐息が。
「いいじゃん」って男が言って鼻頭にキスしていた。俺の上にいる花子さんは「私のニキビ……」っと呟いていた。
そうやって彼女たちがいちゃつき出しているのを見ていた。俺たちふたり、それを見ていた。俺にとっては、見ず知らずの男女がいちゃつき出しているのを。俺の頭のてっぺんに冷たいものが当たる。俺は目をふと上にやる。花子さんは泣いている。
俺だって泣きそうだよ。そんなこと許されていいわけないんだ。どんな女の子だってすべからく幸せになるべきだと思ったよ。
それからよくわかんないけど、彼女が俺の背中をグイグイ押すんだよね。俺に出て行けってこと? ちょっと待って。心の準備がさ。明らかに殺されるのがわかって、そんなに簡単に出てくもんかね?
占い師のおばちゃんに、女の子を不幸にしたら死ぬって言われたしな。どっちにしろ死ぬなら出ていくべきか悩んだ。でも、一歩が踏み出せないな。絶対に殺されるし。そう思っていたら、彼女がいきなり「早く行け! この馬鹿!」と俺の尻を蹴飛ばすわけだ。俺は「ちょっと!」と言ったけど、押し入れの襖を突き破って飛び出してしまった。グルグルと回転して、ふたりがいちゃついているところに覆いかぶさってしまったわけだ。
まあ、当然、ふたりは抱き合っているわね。で、俺はその抱き合ったふたりを抱きしめている。ふたりは虚をつかれたような顔をしていたね。俺だって驚いたよ。なんでそんなことすんのって? なんでこんなことに?
「お前、何してんの?」と冷静に男の声が聞こえた。ドスは効いちゃいない。
「えーとですね」と俺は言ったが、ここで俺は負けちゃいけないと思ったわけだ。彼女に示しがつかなくなっちまう。ここは何とかこの修羅場を潜り抜け、彼女を俺のものにするべく頑張るのだ。俺は正義の使者になる。
「お前こそ何してんの?」と俺はおどおどしながら答えた。
「っていうか、お前離れろよ」と男が言った。すげえ男物の香水の匂いがする。
そりゃ、そうだ。これじゃ話にくい。ということで俺が立ち上がると、男も立ち上がった。明らかに俺よりでかいね。しかも分厚いよ。安っぽいステーキハウスの俺と神戸牛を出すようなステーキハウスのステーキぐらい違いがある。あ、俺、死ぬなって思ったね。
でも、俺は負けじと答えた。「なあ、お前彼女がいるのにそんなことしてるのかよ」って俺は言った。「何様のつもりだ?」
「お前誰だよ?」と男は今にも殴りかかってきそうだった。まいったね。闘犬だよ。
「花子さんの恋人だよ」と俺は言った。「お前と花子さんを別れさせるんだよ」
「ちょっと!」と声が聞こえた。「まだ恋人じゃないわよ! 私にちゃんと話をさせなさいよ! まったく、これだから男はダメね」
花子さんが押し入れから飛び出した。
「花子……」と男は言ったような気がした。
「どうするんだよ? お前ら彼女の家で浮気してるなんてどうかしてるぞ」と俺は恫喝した。恫喝でもねえな。精一杯脅してみたわけだ。あんまり得意じゃないけどね。
浮気相手の女の子はびくついている。
俺たちは一触即発だった。もう、これは殴り合いになるのか、包丁が飛ぶわ、血が飛ぶわ、なんて世界を考えていたわけだ。俺っちはここで死ぬことを考えたね。さすがに。
冷蔵庫のサーモスタットの音がブウウンと鳴っている。カラスの鳴き声が聞こえる。
そうすると目の前の男の顔が崩壊した。崩壊っていうか、クシャってなった。俺は誰かがハンマーで殴り倒したのかと思ったよ。そしていきなり泣き出した。最初は目ん玉からポタポタ落ちるものがあった。コンタクトでも落ちたのかなと思った。それは涙だったんだ。俺っちは度肝を抜かれたわけだ。男はいきなり、花子さんの前で土下座をし始めた。
「悪かった。花子!」と泣き出した。「俺を許してくれ!」
「ええー!」と俺は叫ぶと、花子さんがケツに蹴りを入れてきた。俺は飛び上がっちまったよ。恥骨が折れたね。2本ぐらい。
「ねえ、どうして?」って花子さんも泣いていた。「こんなにも愛してるのに」
そりゃ、そうだろう。男が浮気……よりにもよって、彼女の家でしているなんてな。それにいきなり土下座をするから、俺の方がなんとなく殿様みたいな気分になっちまった。
「謝りゃ、済むってもんじゃねえだろ」と俺が虎の威を借る狐のごとく言うと、花子さんに再び蹴りを入れられた。なんで?
「ちょっと黙っててよ。いまは私と彼の問題なんだから」と彼女は俺を睨んだ。
「あい」と俺は素直に認めた。女の子っていうのは強いやね。
「どうして? どうして? 浮気なんかしたの?」と花子さんが言った。
「なんか、でき心でさ。わかってくれよ」と土下座しながら彼女を見上げた。
「わからないわよ!」と花子さんは、相手の女の子なんか見向きもせずに、クッションを持ち出してバンバンと殴った。くまモンが歪んでいる。ゆるキャラもここじゃただのゾンビみたいな扱いを受けているね。
「悪かった。俺をめちゃくちゃにしていいよ」と謝っていた。
「俺は一体何をしてんのよ?」と叫び出しそうになったね。さすがに、大統領だってこんなに簡単に謝りはしないだろうなって。いくらなんでもいくつか言い訳ぐらい見つけておけよとさえ思ったね。バンバン叩くクッションからホコリが舞い上がる。
「ごめんな。彼女、この間まで白血病で、俺のいる病院に入院していたんだ。俺の同級生でさ、なんだか、いたたまれなくなったんだよ。だって、彼女はひとりぼっちで戦っていたんだからさ。がんばれって思っていたんだ。そうしたら情が移っちまってさ」
俺は浮気相手の彼女を見た。彼女も顔に両手を当てて泣いている。道理でね。やたらに細いと思ったよ。っていうか、そんなもんで浮気が許されるのかな? 俺は両腕を組んでいかつい顔をしていたけど、なんだか、相手の男も悪くないような気がしてきたんだな。だってさ、みんな情ってもんを持っていて、たとえ愛した女性がいたとしても、上手くいかなくなる時ってあるじゃん? 誰かを救いたいとか、誰かを守りたいとかさ。そんな時は誰だって愛したくなるもんだろ?
「じゃあ、どうして私の家で浮気なんかしたの?」と震える声で花子さんが言った。
「ごめんよ。俺は金がないし、俺の家は汚ねえし、なんとか彼女を助けてやりたかった。彼女の心を慰めてやりたかった。だから彼女は悪くないんだ。彼女はただ俺に騙されていただけなんだ。彼女を責めないでくれ」
女の子も震えている。
「別に責めてないわよ。ただひたすら悲しかっただけ。だって、私より好きな子がいるなら、そう言ってくれたらいいのに」と花子さんが言って男に優しく覆いかぶさった。
「違うんだ。俺が好きなのは、お前なんだよ『華湖』だよ」
「あれ?」と一瞬思った。なんか発音が変じゃね? まあ、いいか。灘岡の訛りなんだろうな。俺はじっと見つめていた。この光景を。その終着点を。でも、どう考えても、こりゃ、俺っちの出番じゃねえなって感じだった。俺と浮気相手の彼女は明らかに浮ついているし、ここは出る幕じゃないなって。
「ねえ、別に怒ってないの。あなたが彼女を愛しているのなら問題ないわ。だから、聞きたいの。私と別れたい? 私ともう2度と会いたくない?」と花子(?)さんは言った。「別にいいよ。合鍵だったらあげる。好きに彼女とファックでもしてればいいわ」
「違うんだ。俺は彼女とは何にもしてない。お前だけを愛してる。でも、彼女は病気だ。彼女も放っておくことができなかったんだ」
「馬鹿のお人好し」と言って、花子さんは男を立たせた。そのまま抱きしめた。「そんなところが好きなの! 愛してるわ! 2度とこんな真似しないっていうんだったら許してあげる」と泣いていた。
「ごめんよ」と男も彼女を抱きしめていた。「俺が愛しているのはお前だけだから」
なんか……ハッピーエンドだよね、これ? あれ? それ? 俺は脇役? 何してるの、俺?と思った。彼女たちを見ていたら、明らかに付け入る隙ないじゃん。俺は白血病だという彼女を見た。彼女も泣いている。痩せている体をずっとワナワナ震わせていた。
そんな。俺、死ぬのかな? 女の子を2人泣かせるのはどうかって思うけど、明らかに、俺のせいじゃない感じで泣いている女の子と、明らかに、この状況に太刀打ちできないって感じの女の子がいるんだな。
俺は仕方なしに、白血病だったという女の子を見た。彼女も俺を見ていた。俺たちの出番はないってわけだ。もう黙って家を出るしかない。俺たちはそそくさと部屋を出た。
「愛してる!」と男と花子さんの声がミュージカル風に合唱してたよ。「永遠に!」
そんなこれみよがしにするもんかね?
俺の初恋は終わった。見事にあっけなかったね。って思う? 人生はいろいろあるよ。
で、だ。俺と白血病だった女の子は、帰り道、周回道路をトボトボと一緒に歩いた。彼女は普通の女の子よりもちょっと小さかった。灘岡湖の湖畔の道はどこまでも続く。話すこともねえけど、とりあえず、いろんな話を聴いた。俺、どうやら人の話を聞くのが得意みたいだ。そうしたら彼女も別に男を好きとかでもなくて、体を寄せる場所が欲しかったということだった。男とは同級生だし、どうも白血病で入院していた病院の担当の研修医だったらしい。名前は聞いたけど、忘れた。そんなもの聞きたくない。とにかく、「愛」じゃなかった。緊密な関係を欲していただけだ。でも、そこには愛がある。
んで、「名前なんていうんですか?」って俺は聴いた。何かの縁だと思ってね。
「私?」と彼女は小さな声を出した。「花井花子。簡単な花に、子供の子。とっても普通の名前でしょ?」ってね。
「えっ? 花井花子?」と俺は聴いた。
「どうしたの?」と女の子は言った。
「いや、彼女も花井花子でしたよね。簡単な花に、子供の子って字で」
「ああ、彼女は違うわよ。確かに『はない・はなこ』さんだけど。はなって中華料理の華に、湖って書いて『華湖』って読むんだよね。彼女って、おじいちゃんが、中国人だったのかな」
俺は度肝を抜かれた。そんなもんなんだって思った。俺、恋をする人を間違えていたみたい。俺、どうすんの?みたいな。俺は考えに考えた。ピーナッツぐらいの脳味噌でね。
で、だ。間違えた恋は正しい答えにすればいい。俺の心模様はいつだって変わりやすいのさ。俺はじっとその子の顔をみた。明らかにウィッグをつけていると気づいた。病気の後遺症だろうか。二重の大きな目に、小さな鷲鼻、そして大きな唇。頬はこけているけど、女将さんとそっくりだった。華湖さんとも似ているといえば似ていたけれど、根本的に違うっていうか。都合がいいやね。許してくれない? 人生、そういうもんだからさ。
あ、そういうことかと思ったね。なんか気持ちが揺れ動いた。この人を泣かせちゃいけないのかってね。この人なんだってね。
来たよ。電気ショックがさ。俺の体にね。
「さっきはごめんなさい。私、どうしようもなくて」と彼女は泣きそうな声を出した。
「いや、いいんですよ。俺も、実は、お手伝いみたいなもんだったから。浮気現場を抑えて、とっちめようと思っていたけど、どうやら、そうでもないみたいですね」
「お互いフラれたね」と彼女は笑った。とても素敵な笑顔だった。灘岡に夕日が灯っていて、彼女の少し凹凸のある顔が暗くなったり、明るくなったりして綺麗な花に見えた。
「それ!」と俺は思わず叫んだ。
「なに?」と彼女は言った。
「その顔ですよ。その顔、可愛いです」
「エロカメラマンか!」と彼女は突っ込んできた。「篠山紀信やん!」
「俺、わかりました。たぶん、あなたに出会うために、あの現場にいたんだって。ちなみに、俺のことどう思いますか?」
「はっ?」と彼女は驚いた表情をして立ち止まった。「何、言ってるの?」
灘岡湖に風が吹きつける。気持ちがいいもんやね。彼女のウィッグがハラハラと舞う。なんか物悲しい気がしたけど、俺は誓った。それをぶっ飛ばしたいんだ。
「いきなりナンパなの?」と彼女は頭を押さえながら言った。「私、あなたが考えているよりもおばさんかもよ」
「27歳ですよね?」と俺が聞いた。ここまではデフォルトだ。
「そうだけど。よくわかったね」と彼女は感心した。
「あなたを見ればわかりますよ」
「私は病気だったからそんな風に見られないけど。痩せっぽちだし」
「そんなことないですよ。あなたは綺麗です。俺、あなたのことなら1から10まで知っています。俺はあなたの天使になる」
「あなたきっと馬鹿ね」と彼女は笑った。「だって、さっき会ったばかりじゃない」
「いや、こんなこともありましたし。俺、やっぱりあなたの方が好きかなって」
「あの人より極悪ね」と彼女は微笑んだ。
「もしよかったら、ご飯食べに行きません?」と俺は誘った。「とびきり美味しい中華料理屋さんを知ってるんですよ」
「明らかに馬鹿ね」
「よく言われます。でも、あなたの笑顔を見るために生きているなって」
「わかった、わかった」と彼女は納得した。「なんだかあなたに興味が湧いてきたよ。どうして押し入れに入っていたかも聞かないと。なんであの場所にいたのかもね」
「すげえ話です。俺が奢ります。気にしないでください。それから、手繋いでください」
「馬鹿ね」と彼女はにっこりした。「まだしないけど。奢ってくれたら考えてあげる」
そんなわけで、俺の初恋はフラれて失敗したけど、初めて恋が成就したってわけ。結果オーライってやつさ。文句ある?
人生はプラマイゼロさ、なんでもね。
イッツ・オールライト。
10
そんなわけで、俺は正真正銘の花井花子さんと付き合うことになった。中華料理を食って、連絡先交換して、何回か会って、「愛してる」と告白だ。思ったよりも簡単だった。
「私と付き合うの大変だよ」って言われた。
どうだってよかった。どうでもよかった。人生は何が起こるかわかんない。だから、面白いのかもな。ただ、彼女は病弱だった。どうやら、あのタトゥー研修生と気の迷いで付き合ったのも、期間限定だった。すぐに検査入院やら、体調を崩して病院に入った。どうやら、8歳の頃に白血病を発症して、いろんな病気(そんなもの知りたくもない)を繰り返しているらしい。明らかに再発はしていないが、時間の問題とも言われたそうだし、彼女はいつもビクビクしている気がした。
俺はそんな彼女の守神になりたいと思った。俺は、愛を運ぶトラックの運ちゃんってとこかな。豊洲と灘岡を行ったり来たりした。でも、ぜんぜん、疲れなかったね。とにかく、彼女に会うために、ひとっとびさ。彼女は大きな病院にいて、そこの受付をしていた。両親も白血病で亡くなって、身寄りがないのを病院の院長さんが雇ったらしい。灘岡の聖隷病院という、全国でも有名な病院で、不幸にして、あるいはそうでもないのか、健全だと求めてくる社会になかなか適応できない患者さんのバックアップをしているそうだ。いずれせよ病院からは離れられない。
俺にとってはどっちでもいい。とにかく、彼女に会って、話をして、そして笑わせること。これだけが俺の人生のすべてになった。
彼女の部屋は、病院の敷地内の研修医の寮の一室だった。部屋は質素なもので、華湖さんの家よりもさらに何もない。6畳一間といったところで、キッチンがあって、部屋の半分ぐらいを仏壇が占めてるって感じだ。若いのに老中している気がしなくもないけど、部屋のいたるところに蝋燭があった。なんでもアロマテラピーにハマっているらしくて、匂いを嗅ぐだけでリラックスできるらしい。まるでどこかの占いの館みたいだったけど、俺は別にどうでもよかった。おまけに、彼女はちょっとした宗教にハマっていたけど、そんなことも興味なし。俺に興味があるのは、彼女であって、アロマテラピーじゃないし、宗教じゃない。人種なんて興味もなし。食人種だって構わない。彼女がすべてだった。
「私のこと好き?」と彼女はよく聞いてきた。「どれぐらいか言える?」
俺は灘岡のスーパーに荷物を下ろしたあと、よく彼女の家に泊まったのだ。そんな時、必ず聞いてくる。
「もちろん。灘岡湖が裏返って、地球が水浸しになるぐらい好きですね」と俺は言った。「みんな溺れて死にます。ただ、俺と花子さんだけに浮き輪が空から降ってきて助かる」
彼女は静かに言った。「他にもある?」
「灘岡にいる100万頭の猪が周回路を3周半ぐらいするぐらい好きです」と俺は言った。「みんな猪に轢き殺されるんですけど、俺と花子さんだけが猪にまたがって、モーゼみたいに灘岡湖を闊歩するんです」
「本当に馬鹿ね」と彼女は笑顔になった。
「それっすよ。笑ってなくちゃ。体にいいですから。なんか、笑っていると体が良くなるってテレビで言ってるし。俺を馬鹿にしてもいいから、俺をダシに使ってもいいから笑うことだけ考えてください」と俺は言った。
「ありがとう」と彼女はそっと俺を抱きしめた。どうも、俺を抱きしめると彼女の骨が痛むらしいんだ。だから俺から積極的に抱きしめたりすることはしなかった。あのバカ研修医はよくバックハグなんてできたよな。もう考えないけど。俺もそっと抱きしめた。
それだけだよ。誰も傷つけたくなんかない。俺は優しくなったような気がした。
社長から「お前、変わったな」と言われた。「なんだかすげえ繊細になったよ」
「ごめんね」と彼女から言われたこともある。「私、女の子らしいことできないから。この部屋が質素なのも、いつ何があるかわからないから。アロマテラピーの蝋燭とか、その程度しかないの」
「いいですよ。いい匂いがするし」
「あと、私が信じている神様も受け入れてくれた。なんて言うんだろう。そういうのって嫌いな男の子が多いから。病院からはあからさまに言われないけど、あんまり……ね」
「別に、神様が好きでここにいるわけじゃないし。俺、神様を愛しているんじゃないんですよ。あなたが好きなんです」
「私の信じている神様も愛して欲しいけど」と彼女は俺の手を握って柔らかに微笑んだ。
ということで、1回だけ、彼女の信じている宗教のミサに行ったことがある。正式な名前も聞いたけど、そんなもの興味なし。灘岡の結構、奥まった所にある教会みたいな(キリスト教じゃないからさ)ところだった。十字架もないし、キリスト様もいない。ただ厳かだったね。彼女の寮から行って帰ってくるだけで、朝から夜になっちまった。遠いよ。
ミサといっても、俺っちは他にどんなミサがあるのか知らないし、どれが適当なのか知らないってわけで、あんまり比較ができないけど、悪そうには見えなかったな。お祈りをしたり、女性が厳粛な衣装を着て踊ったり、ハンチング帽みたいな帽子をかぶった司教っていう人に、塩をもらったりした。何のこっちゃわからんけど、静かにしてたよ。
ミサが終わった後、俺たちはトラックの中にいた。彼女の家に帰るつもりだった。
「ありがとう」と彼女は言った。「月1回礼拝があるんだけど、私の体のせいで、そんなに通えないし。連れて行ってくれて嬉しいよ。半年ぶりぐらい。研修医の彼はとても嫌いだったから。神様はどうだった?」
「そうですね。あのなんとかの9条ってやつですかね。『人は須くすべての死者を愛すべし』って感じが花子さんの気持ちかなって。なかなか女心をくすぐる神様ですね」
「あ、嬉しい」と彼女は微笑んだ。「あの宗派は特別で、死者の蘇りを推奨しているの。アロマテラピーもその一環なんだ。私はもう一度生き返って、今度は普通に生きたいの」
「蘇るなんて俺っちにはわかんないけど、いまでも、花子さんは十分生きてますよ。俺がここにいる限り、あなたは存在するから」
「どんな根拠よ?」と彼女は笑った。
「俺っちは頭が悪いから、神様のことはあんまりわかんないですけど、花子さんが信じていることを信じているし、花子さんが好きなものが好きなんですよ」と俺は言った。
「ありがとう」と言った。「本当に、私、何もできないもんね」
「何がですか?」
「ほら、男の子って、好きな女の子を抱きしめたりするんでしょ? 私は体が弱くて、そういうのができないの。拒否してるわけじゃないし、嫌いじゃない。宗派も男女間のセックスを認めてるし。もともと陽明学から派生した宗派だから、日々の生き方が重要になってくるのね」
俺はしばらく考えた。何を言ってるのかよくわからなかったから。それで、ああ、そういうことかと思った。あの占い師のおばちゃんも言ってたよな。なるほどね。灘岡では陽明学が流行っているらしい。
で、俺は「心配しないで。そういう時は風俗で……」と言った瞬間、ビンタされた。
「最低ね」と彼女は俺を見た。素敵な笑顔で笑ってる。もっと笑ってください。
「ちょっと、運転中は死ぬんでやめてください」と俺は戯けていた。
「このまま一緒に死ねたら楽なのに」と彼女はボソッと言った。
俺は聞こえないフリをした。「何もしてないですよ」と俺は言った。本当に何もしてないのだ。風俗も嘘さ。この間だって、大量に夢精をしたぐらいだしね。性欲もわかなかった。彼女が愛おしかっただけだ。
「本当に? だって旅から旅で疲れない?」
「つもりっていうのはありますけどねえ」
「つもり?」
「頭の中で想像してやるやつですね」
彼女はしばらく考えた。「あー、そうね。お役に立てて何より」
「いえいえ。体調は?」
「うん、今日は大丈夫」
「じゃあ、灘岡遊園地に行きます? いま、夜間限定で、観覧車に乗れるみたいですよ」
「知ってる! 嬉しいな。行ってみたい。私、遊園地なんて行ったことがないから」
「決まりだ」と俺は右手の親指を上げた。
そうして俺は夜の遊園地に行った。閉園1時間前でギリギリだった。「灘岡ラルラル遊園地」といって、灘岡で最大にして、最強のデートスポットなんだ。遊ぶ場所ってここぐらいしかないけどね。東京に比べればこんなもんかなって思うけど、豪華なもんさ。メロウなメリーゴーランドがクルクル回って、ド派手なゴーカートがガタンガタン音を立てる。暴力的なジェットコースターまである。
結構なカップルがいた。
「そういえば俺の宗派ってわかります?」と俺は、観覧車までの道のりで彼女に聞いた。遊園地全体が光って、まるで光の回廊にいるみたいだ。灘岡はやっぱり綺麗だな。
「なんかあるの?」と彼女は言った。「私の神様と真っ向勝負するの?」
「そんなことないですよ。俺と手を繋ぐってことですね。そうするとすべてがハッピーになる。それしかないんですけど」
彼女は笑った。「それぐらいなら任せて」
俺たちは手を繋いで、遊園地の敷地を歩いた。彼女に合わせてゆっくりと。彼女の手はカサカサだった。なんだか干からびてしまいそうだった。彼女は間食を禁じられているので、俺は何も食べなかった。飲み物だけは許されていたので、オレンジジュースを買って、観覧車に乗った。でかい観覧車だ。見上げるだけで首が痛くなるね。天辺までライトアップされてる。どれぐらいの高さかわかんないけど、全国で2番目の高さを誇っているらしいから、すごいんじゃない? それから、夏の夜の開園中は、花火が上がるらしくて、花火が上がっていた。人気スポットだから、人が多いかなと思うけど、東京に比べれば大したことはない。待ち時間もなかった。
「すごいね」と彼女は言った。
俺たちは観覧車に乗った。ゴンドラは10分ぐらいなんだけど、この花火に合わせて、20分仕様の運転時間になっていて、最後の花火の連続が頂点で見られるというところがミソなわけだ。徐々にゴンドラが登っていく。彼女は俺の前に座っていた。そしてずっと外を見ていた。灘岡が一望できる。っていっても、ほぼ湖だから、何にもない。それが一層美しいよ。東京にいるとこんな景色は皇居ぐらいしかないだろうね。いろんな光が湖に反射している。歓楽街や、温泉街や、住宅街や、高層マンションや、すべての光を集めたような感じだった。そこに花火が飛んでいく。すべてが二重になってるんだ。どこか俺は生きているのに、死んでいる気もする。それが正解な気がするんだ。それにしても、俺には花火が似合うなと思うね。
彼女は俺の方を見た。
「どうしたんですか?」と俺は言った。花火の弾ける音が聞こえる。「疲れました?」
「ううん。楽しいよ。オレンジジュースなんて本当に久しぶりだし」とジュースを飲み、ストローの飲み口を拭って椅子に置いた。
「そうですか。よかった」と俺は言った。
ゴンドラの中は暗くて、花火が弾けるたびに彼女の顔が見えるだけだった。時々悲しげに見えたり、とても楽しんでいるような気がした。いつも塞ぎ込んでいるし、笑わせるのに苦労したけど、笑ってもらえればハッピーさ。俺はそのためになんでもするんだ。
「あのね、検査の結果が出て、あんまりよくなかったんだ」と彼女は唐突に言った。言葉に感情はこもっていない。いつもの感じですという気がした。諦めも、悲しみも超えてしまったんだろう。かなり悩んでいた様子だけど、吹っ切れてる。俺の顔色を伺っている。
俺はいつでも準備はできていたから、「気にしないでください」と言った。
「明日からしばらく入院すると思う」と彼女は言った。相変わらずフラットだ。「今度もいつ出てこれるかわからない」
「気長に待ちます。病院にいるってわかってますから、お見舞いに行きますよ」
「本当に、私のこと待てる? 私、死ぬかもしれないよ」と彼女は言った、少し感情が揺らいでいて呼吸が湿っている。
「俺は、自分が愛した人が、この世界から消えていくなんて考えもしないし、俺がいる限り、そんなことはないと思っています。だって、俺がどんなにも偉い神様ですから」
「そうね」と彼女は神妙な顔をした。「ミサの時、変な顔しないでくれて嬉しかった」
「そうですか? ああいう感じじゃないんですかね?」
「時々、嫌がって帰る人がいるから」
「ふーん、どうでもいいですよ。金がないから金をくれと言われたら困るけど、それ以外はなんでもいいです。俺は、どんな人種だろうが、どんな国だろうが、どんな言葉を喋ろうとも、俺の愛した人を笑わせるんです。強制なんかしないで、あなたの心から笑って欲しいんですよ。とにかく笑ってください。宗教でも、蘇りでも、陽明学でも、俺がいて、笑ってくれればそれでいいんですよ」
彼女は笑った。「ありがとう。またしばらく会えなくなっちゃう」
「気にしないでくださいね。ずっとそばにいますよ。あなたが嫌いになってもね」
「ほんと?」と彼女は言った。「どうすれば私のことを覚えてくれる?」
「そうだなあ。ずっと忘れられないために、あなたと『つもり』ができるように、一度だけ裸になってもらえませんか?」と俺は言った。言った瞬間に後悔するような類だけど、でも、なんかそんな雰囲気だった。
彼女は悩んでいる様子もなかった。「いいよ」とフランクに言って、彼女は暗がりの中、ピンク色のワンピースを脱いだ。花火が連続で光る。彼女がブラジャーをとって、パンティーも脱いで、最後にウィッグも取った。彼女の裸が光ってる。彼女のありのままだ。頼りなげだけど、ちゃんと存在している。意味も、理由もなくて、ただそこにいる。俺も立ち上がって、ちょっと揺れたけど、上半身裸になって、彼女を抱きしめた。
「暖かい」と彼女は俺の痩せっぽちの胸に額をのせた。「私は、こんなだけどお化けじゃないよ。昔は誰も信じてくれなかったけど」
「ちゃんといるから安心してください。こんだけ暖かければ、すぐに退院できますよ」
「キスできる? 私のこと怖くない?」
「なんでですか? ぜんぜんっすよ」
俺たちは裸のままキスをしていた。彼女の胸の感覚。とても小さいけどちゃんとそこにある。おそらく病気のせいもあるのだろう。背は普通の女の子より小さい。でも明らかにって感じじゃない。だから彼女も必死だったんだなって思う。それから頭の感じ。まったく毛がないというわけじゃない。明らかに普通の女の子とは違っている。でも、すべてが愛しかったな。死ぬってこういう感覚がなくなることなんだよな? それって俺は悲しくなるんだろうかってね。花火が上がって、弾けて、明るくなって、そしてまた暗くなる。普段よりもゆっくり上がるゴンドラが、頂点に達した時、弾ける花火が、真下に見える。俺たちは、ゴンドラの上から、花火を見下ろしていた。それはなんだか不思議な感じだった。花火って見上げるもんだと思ってたからさ。花火を下に見るってことはとても気持ちよかった。なんだか俺たちしかそこにしかいない気がした。俺たちの体が真下から明るくなる。俺たちはいつだって這いつくばって、光を照らされると、下から光るんだなって思う。足が光り、お尻が光り、背中が光り、顔はほとんど判別ができない。だから、俺たちはここにいるんだって思った。俺は彼女の小さな乳房を触った。彼女の吐息が少しだけ俺の口に入った。それ以上は何にもしなかった。ただ抱き合って、キスをしているだけだった。頬から彼女の涙が伝わってきて、それが俺の口に入った。舌と舌を絡ませて涙を受け渡した。俺たちはただ愛し合っている。
花火が連続で弾け続けた。凄まじい爆音がした。耳が潰れそうだった。彼女は耳を塞いで笑って何かを言っていた。俺にはそれが聞こえなかった。彼女の裸は虹色になっていた。彼女は生きているんだ。この瞬間が大切なんだよな。永遠に忘れないでいよう。
花火が終わった時、「すごい」と彼女は言った。「一生忘れないよ」
「すげえや」と俺も言った。「俺もですよ」
「ねえ、私のこと忘れないでね」と彼女はもう一度、キスをした。
「忘れないなんて言わないでください。ずっと覚えていますよ」と俺は言った。
「嬉しい。ありがとう。私は忘れないから」と彼女は言った。「それから服着ていい? ウィッグも。私が変態扱いされる前にね」
空中に火花が浮かんでいて、ゴンドラがそこを突っ切るんだ。なんだか壮大な風景だったよ。燃え盛る森で、ずっとふたりで抱き合っているような気がした。世界が破滅したって構わない気がしたね。俺は愛してるんだ。
俺さ、自分が死んでもいいから、永遠に彼女を離したくないなと思った。
そんな強い想いを抱いたのは初めてさ。
11
不思議なもんやね。神様はいつだって俺たちに試練を与えるみたいだ。永遠に解決できない問題って感じだった。検査をしたら彼女の白血病が再発したとわかった。今度はやばいやつだった。明日か明後日って感じ。
俺っちは北海道のスーパーで卸をした後、東京の豊洲に戻り、急いで灘岡までトラックで病院に通った。入院が決まって、医者から、ただ首を振られた時から、明らかに彼女はダメだっていうのは、なんとなくわかっていた。女将さんが白血病の姉さんとか板前さんを前にした感じがなんとなくわかったよ。
俺は彼女にどっぷりハマっていた。大きな二重の目、小さな鷲鼻、そんでもって分厚い唇。ただ、めちゃくちゃ頬がこけている。ウィッグをつけている。健康的じゃない。それだけなんだ。それ以外なんでもないんだ。
なんか取り憑かれてるのかな?
何度か彼女を殺すことを真剣に考えたりしたよ、マジで。俺も死ねばいい。どんなに楽だろうって。俺、彼女のこと好きだったんだ。愛していたと思う。心の底からだよ。じゃなきゃ、殺してやるなんて考えてないさ。
付き合った時から、俺の前ではウィッグだったし、観覧車の時もよくわかんなかったけど、髪の毛は、抗癌剤の治療でなくなっていた。彼女はそんなこと気にならなくなった。というよりも、体の調子がキツすぎて、そんなことを考えてる余裕がなかったような気がするね。病室ではウィッグを外していた。丸坊主に近かった。俺が彼女のちょこっと生えていたりする毛をバリカンで刈ったりした。彼女は笑っていたけど、泣いていた。笑いながら泣くなんてダメに決まっている。俺はバックハグをしたよ。彼女はぶっ壊れそうだった。抱きしめられないって思っていたのに。抱きしめなくちゃいけない気がしたんだ。その時は、研修医の気持ちがわかるよ。体から女の子の匂いじゃなくて、病院の匂いがした。ただでさえ痩せ細っていた体はみるまもなく、痩せ細って、ミミズみたいだ。
でも、よくもったと思う。変な言い方だけど。彼女が入院して、1週間後、転院をすることになった。簡単に言えば、緩和ケア用の病院行きだった。住居は移さなかったけど、医者から、手の施しようがなくて、ウチでは預かりきれないと言われた。でも、住所だけはあるよってね。1ヶ月後に、意識がなくなった。時間の問題だった。そんなわけないよなって思うけど、そんなわけだった。なんとか話すことができたのも、わずかなもんで、意識がすぐにぶっとんだ。そして、3日もてば良い方ですね、と言われた。
俺は病室にいて、彼女が苦しんでいるのを見ているだけだった。ただ徐々に安らかになっていく気がした。いい意味で。社長が良い人で、俺に3日間、休みをくれた。特に何かを言ったわけじゃないのにね。俺のことを誰よりもわかってくれるんだ。親父以上にさ。感謝したね。スーパーの三好さんも俺のことを理解してくれた。仲間にも感謝だ。俺のルートの代わりにトラックを運転してくれた。
それで2日目の夜かな、いよいよって感じの時だった。親族の人がいたね。おばちゃんとおじちゃんだ。これまた良い人でさ。俺のことを受け入れてくれた。感謝しなくちゃな。夜はやばかった。ずっと苦しんでいたし、なんだか怒りモードって感じで、いろんなものに八つ当たりをするんだ。俺は必死で抱きしめていたよ。まるで台風だ。それが終わって彼女は眠っていた。俺は、ハードな旅路で疲れているせいもあったし、緊張していたのもあるんだけど、うとうとと寝ちまったんだよね。来客用の簡易ベッドの上かな。
そうしたら夢を見た。何度も言ってるけど、俺っちは夢を見ないタイプだから珍しいんだ。しかもこの夢はよく覚えている。というか、よくわかんないんだよね。夢を見てる気がする。あんまり夢を見ないわけだから、夢じゃない。そんな雰囲気だった。
ベッドから彼女がそっと降りてくるんだよ。彼女は繋がれたいろんなチューブを器用に外してさ。俺はびっくりしたし、そんなことしてる場合じゃないって思うんだけど、体が動かないわけ。ご家族もいたしね。
でも、時が止まっているみたいだった。明らかに彼女は起きているし、俺のところに近づいてくるんだけど、家族は誰も彼女が起きていることに気づかない。
俺は金縛りにあったみたいだった。俺の目の前に立ったんだ。ピンクのパジャマだったね。丸坊主さ。んで、パジャマのボタンを外していくんだ。そして裸になった。俺は夢を見ているんだろうか。彼女は息もたえだえだっていうのはわかっていたのに、彼女は全部脱いだ。スッポンポンだったね。真っ白な裸だった。あの時、ゴンドラで見ていた、どこか色彩豊かで生きている感じには程遠かった。いつ消えてもよかった。でも、彼女だった。俺はどうしていいのかわからなかった。
彼女の声も聞こえる。
「短い期間だったけど、ありがとう」って言ってくれた。「さっきはごめんね。すごく腹が立っていたの。自分が死ぬことに」
俺はずっと目をパチパチさせているだけだった。どうするも何も、俺には何もできない。俺はただ彼女の声を聴いて、彼女の行動を見つめているだけだ。
「私が辛い時、そばにいてくれた。私のことを献身的に扱ってくれた。私がどこで生まれたとか、どうやって育ったのかとか、そんなことも気にしなかった」
「そんなこと聞く暇がなかったんだって」と俺は言おうと思ったよ。俺は泣きそうになっちまった。「もっと話を聞きたかったんだ。いろんなところに行きたかったんです」
彼女は「ありがとう」って笑った。俺は異世界にいると思ったね。だってさ、俺はその言葉を想像しただけだったからさ。そんなこと考えている余裕さえなかった。
でも、彼女はそんなことお構いなしに、俺のところにきた。俺のズボンに手をかけた。
「ごめんね」っていうんだ。「こういうことだってすることもできたのに。あの時、観覧車に乗り終わって、私を誘うこともできたのにしなかった。ほんとは待ってたの。ちょっと寂しかったよ」と彼女はクスッとした。
「いや、違うんだって。俺、別に、どうでもいいんだって。君の笑顔さえ見えていたらよかったんだ」って。
「最後のお願いをしてもいい? これはその交換条件かな」と彼女は胸を触った。
「なんだい?」と俺は聴いた。
「灘岡湖を見たい。私の1番の思い出なの。私、小さい頃から辛いことばかりだったけど、湖を見ていたら、癒される。湖がすべてを受け入れてくれた。私の信じている宗教も神様は湖の中にいる。最後はそれを見たいなって」と彼女は俺のペニスを掴んだ。
そんなことしてる場合じゃないし、そんなことしなくてもいいわけじゃない? どうすればいい? 俺は彼女のなすがままにしていた。体も動かなかったし。たしか湖は病院の近くにあったと思った。彼女はそこで死んじまおうとしている。そんなことはさせられなかった。俺は首をふった。「俺から離れちゃいそうで嫌です」と俺は言った。
「お願い」彼女は泣いているようだった。彼女の裸の説明はしない。俺に跨ってくれるんだ。いや、そんなわけないのよって言おうとしたけど、ちゃんと勃起してる。俺は悪魔かなって思ったけど彼女の中に入った。彼女は腰を動かしたんだ。でもさ、俺ってさ、そういう星の元に生まれたんだね。10秒で終わっちまうみたいだ。なんだかさ、情けないよ。射精した後、彼女は俺のペニスを咥えた。彼女の吐息が俺の腰にかかった。俺たちは抱きしめあってた。明らかに喜びよりも悲しみの方が大きかった。こんな風にしかなれないなんてな。こんな結末、誰が望むんだ?
「本当に早漏ね」と彼女は口を窄ませた。
いつもそれだもんなあ。ついてねえっつうかさ。俺の男の子としての資質を疑うね。俺はまったく機能しないわけだからさ。でもさ、どうでもよかったんだよ。俺は思ったんだ。もっと愛することができたのに、こんなことでしか、愛を支払うことができないなんてな。最低な男だ。でも、約束だ。湖に行こうと思った。彼女を湖に連れて行こうって。
彼女は着替えてベッドに戻った。そして器用に自分でチューブとかつけたりしてるんだよ。あれ、やっぱりこれは夢なのかなって思うじゃない? でも、俺はちゃんと、立派に射精をしてるわけだ。俺の体が動くようになった。俺は急いで、パンツをはいた。その時には体が動けるような気がした。俺は立ち上がった。部屋の中を見回した。夢なんかじゃない。見ているものも、聞いているものも、すべてがリアルな感覚だ。とても悲しい。
窓は朝方の紫色の光が差し込んでいる。
俺も言わなくちゃいけない言葉がある。彼女の耳に、口に、鼻に、なんでもいいんだ。彼女に届けなくちゃいけない。彼女に最後に見せたいものも決まった。彼女を泣かせるわけにはいかんもんな。灘岡生まれの人間ってそうかもな。灘岡に帰りたいんだ。俺だってそうさ。俺の帰るべき場所は、社長の会社だったりするからね。居場所が必要なんだ。
灘岡湖か。町の9割を占める湖。すべての源。生きとし生けるすべてがいきつく場所でもあんのかね。何より、彼女はそこに神様がいると信じている。なら、そこに送り届けてあげなくちゃね。転院させられた病院は小さくて、息苦しいほどだった。天井のさえない黒くくすんだ天井灯を見ながら死ぬのなんて嫌だよな。そんなのが最後になるのなんて嫌だろうし、俺だって嫌だ。嫌に決まってる。嫌に決まってるだろ! 自分の望まない生き方なんてね。したくないことなんてしたくないに決まっている。連れて行くよ、湖に。
病室の窓から、早朝訓練飛行と称して自衛隊の練習機が飛んでら。今日は日曜日だ。なのに自衛隊は容赦ない。デモしようぜって俺は思った。でもさ、自衛隊の航空祭には行きたいって彼女が言っていたような気がするな。毎年、9月の終わりになると、航空祭を開催するんだ。その練習も兼ねて練習機が飛ぶ。そしてブルーインパルスが飛んでいく。
刷毛で梳いたような飛行機雲が見える。それがさざ波をたてて湖に映っているんだろう。湖には何でも映ってる。町。ビル。鉄工所。山。飛行機雲。手を伸ばせば届くはず。湖に飛び込めばどこまでも飛んでいけそうだ。成層圏の彼方へ。宇宙へ。俺たちもそうでありたい。君と俺はどこまでも一緒だ。
俺は彼女の目の前に立った。彼女の呼吸は絶え絶えで、すでに、チューブに繋がれている。こんなものむしり取って大丈夫なんだろうか? こいつをそのまま運ぶか。どうするかね。おじちゃん、おばちゃんは寝ている。
泣きたくなるよ。痛み止めの薬をたくさん飲まされて。チューブもいろんなところにつなげて。点滴を打って。注射を打って。
最後の朝かもしれない。それが何もいうことなく消えていく。そんなの許されるのか?
わかってるんだ。だけどなんとかするから、心配しないで。心配なんてしないで。心配したらダメだよ。心配したらイッツ・オールライトと言おう。
イッツ・オールライト!
俺は天井を向いた。泣きそうになってきたよ。ダメだよ。このままじゃダメだ。彼女は湖を見たいと言った。それを叶えなくちゃいけない。泣いちゃダメだ。泣いたらダメなんだ。諦めちゃダメだ。諦めたらダメなんだ。
さて、どうすべかな? 彼女の意識が完全に宇宙に行ってしまう前に、なんとかしなくちゃな。その時に声が聞こえる。
「あなたが最後を看取るのよ」って。
相変わらず都合がいい時にご登場するね。占い師のおばちゃんだ。
「都合が良い時に出てくるね」と俺は言った。「タイミングはバッチリって感じさ」
「占いはすべて都合が良いものよ」
「ふーん。で、どうするかってことだけど」
「安心して。あなたを手助けしてくれる人がいるわ」とおばちゃんが言った。
「そんなこと初めて聴いたけど」
「まあ、見てなさいよ」と言った。「私がいろいろと手配をしたの」
「そうか」
「だから、口座に1万円ね」
「それってひどくね?」
「あなたは私に永遠に占われるのよ」
「そうですか。まあ、あんがとございます」
「感謝なら、すべてが終わってからにしてね。ちゃんと振り込まないとぶっ殺すから」
その時、俺っちに声をかけてくる人がいた。「おい」って。そちらの方を見ると、タトゥーの研修医の兄ちゃんだった。俺の前に立ってる。相変わらずでかいね。
「えーと」と俺っちは言った。「殺人ならお断りですけど」
「な、わけねえだろ。彼女の最後のお願いを聞くんだろ?」
「どうして知ってるんですか?」
「お前を助けてやるよ」
「どうしてそんなこと」
「夢を見たんだ。すげえリアルでさ。お前がやってきて、俺の胸ぐらを掴んで、彼女の最後の言葉を聴いてくれってね」
「すみません」となんだか謝っちまったよ。
「俺がここで食い止める」
「どうすれば良いんですかね?」
「ここから湖までは2分で行ける。お前が彼女をおぶってダッシュするんだ。で、だ。チューブやら点滴を外しても問題ない。もう最後だからな。俺がその辺をやっておくよ」
「そんなことできるんですか?」
「こう見えても、俺は医者だぜ? 大学病院の研修医だけど」
「そうでしたね」と俺は言ったが、どう考えても、パーティーピーポーでしょう。
「俺は医大に戻ったから、ここから離れてたけど、ここでバイトしてたんだよ。俺のやることがバレたら一発退学だし、逮捕もされるかもな。それぐらいのことをしちまうことになる。元々、彼女は大学病院にいたんだよ。その時に、浮気をしちまった。で、もう手遅れになっちまって、医局の病院に移って、ここの病院に回されちまった。ここは最後の人たちが来る場所さ。処置はしてるが所詮その場しのぎだ。いつ死んだっておかしくない」
「そうなんですか」
「で、お前は彼女を愛してる」
「愛してますよ。少なくとも浮気じゃない」
「悪かったよ」
「良いんですよ。花井華湖さんだったから」
「はあ?」
「こっちの話です」
「なら良いけどさ」
「じゃあ、早速お願いします」
「おうよ」と研修医のパーティーピーポーは実にうまく、機械のスイッチを操って、点滴とかすげえ簡単にぬいちまうんだな。
つくづく思ったね。俺は人に恵まれている。それは感謝だ。そうして、男は実に要領よく彼女を抱えた。そんでもって俺におぶらせた。そして大きなマントを被せた。
「遮光性のカーテンをパクってきた。これならバレないだろう。搬入口から出るぞ。俺はここの宿直やってたからなんでもわかる」
「そうっすか。愛してもいたんですね」
「もちろん。どうしていいかわからなかった。そんな時に、お前がやってきた。そして本当の愛に気づいたんだ。俺は、なんだか許せなかった。このままじゃダメだと思った」
「そんなことないですよ。まだ、愛しているのなら、それで大丈夫です」
「俺を許しているのか?」
「俺は許すことが趣味ですよ。それに、誰も悪くないじゃないですか。ただ間違っていただけです。さあ、早く案内してください」
そう言って、俺たちは病室の廊下を歩いた。すれ違う人もいない。ただリノリウムを擦る足音が聞こえる。悲しいのは彼女の体重が凄まじく軽かったことだ。信じられないよね。これが人間なんて。愛ってなんて薄情なんだろう? 涙が出てきた。耐えられない。
でも、決めたんだ。みんなが一生懸命になるのなら、俺だって一生懸命になりたい。みんなが生きるのなら俺も生きるんだ。
湖へ行こう。湖へ。きっと大丈夫。
「湖なら彼女の願いを叶えてくれるだろう。灘岡にとって、湖はすべての生物が生まれて死ぬ場所なんだ。湖は町のすべてだ。湖に映ったすべてが生きている。彼女はそこで生まれ変わるんだ。そこでならすべてになれる。そこでなら新しい彼女になれる」と呟くように研修医さんは言った。
灘岡っていうのは特別な場所なんだね。神様がいるっていうのもあながち間違いじゃないか。俺は彼女を背負っていた。彼女の呼吸を感じる。ギリギリのところではあるけれど、呼吸をしている。そうか、所詮は、最後にそうやって送り届けられて、ギリギリ生きているように見せかけられて、死んでいくのか。人間の最後なんてそんなものか。
なんだか、悲しくなってきちまった。
搬入口で俺たちは止まった。
「俺は宿直ってことにして病院のナースステーションに戻る。できるだけ、誤魔化すよ」
「これって、殺人幇助とかになるんですかね?」と俺は一応聞いた。たとえ、そうだとしてもやっていただろう。でも、社長とかには迷惑をかけらないからな。
「たしかにな。ただ、俺がそんなこと言うと思うか? お前は、彼女を湖に届ける。そして彼女を生まれ変わらせるんだよ」
「ありがとう」と俺は言った。「そういえば、彼女の神様ってなんて名前なんです?」
「ああ、俺は、ちょっと受け付けられなかったからわからなかった。聞けばよかったよな。そっちは?」
「1回ミサに行ったんですけど、名前忘れました。だって……神様よりも……」
「わかってるよ。湖は、外を出て、その道を歩いて、すぐだ。湖岸に出る」
俺は彼女を背負ったまま湖岸に出た。湖はどこまでも広かった。なんでもお見通しかな? 女将さんの時の花火大会の時とは違い、小さな砂浜のそばに湖がある。まるでみんながそこで死んでいくような気がしたよ。
俺は彼女をおぶったまま、湖岸のヘリに立った。足元に波が寄せては返す。さて、どうすべか。彼女を降ろしたって眠ったままだしな。と思っていると彼女は静かに目を開けた。「寝てたみたい」と彼女は言った。
「おはよう」と俺は言った。「まだ朝じゃないけど。とりあえず。おはようございます」
「変わった挨拶ね」と彼女は笑った。「ありがとう。私、ここにきたかったんだ。最後だってわかっていたから」
「そんなこと言わない。自分の人生は、誰かが決めることであって、自分で決めることじゃないんですよ」
「どういうこと?」彼女の声はか細くて聞き取りづらかった。
「あなたを愛している人がいれば、あなたはここにいることができる。あなたがここにいたいと思えばここにいることができる」
「それ、私の宗教と一緒だね」
「そうっすか。さあ、どうしますか? もっと、湖に近づきますか?」
「ありがとう。そうして欲しいな」
「苦しいですか?」
「チューブをつけていると動きづらいだけなの。あれをつけても、無駄だってわかってるし。ただ、儀式みたいなものだから」
「わかりました。ちょっと揺れますね。胸が当たって、気持ちいいです。あの時よりも大きくなりましたね。Bカップぐらいですか」
「変態ね」と彼女は笑顔になった。「そう言ってくれると嬉しい。胸は本当に小さくなるからさ。女の子でいなくなるのが悲しいね。でも、いいの。ここの湖はみんなのすべてなの。町のお祭りでさ、子供達を湖に放り投げる行事があったの。小学生ぐらいの時かな。子供たちの無病息災を祈ってという、大人になるための行事。大人に投げられるのを怖がって泣き出す子もいるけど、私は違うんだ。だってね、その時、私は病気でみんなと同じことができなかったんだ。それが悔しくて。悔しくて。私は同じ人間だよ。同じ生き物だよ。なのにどうして私だけ違うことになっちゃうの? 私は一生懸命生きたいの」
「でも、いまのあなたを放り投げることはできませんね」と俺は言った。そしてカーテンを地面に敷いて、そこに彼女を座らせたけど、息も絶え絶えだったので横にさせた。
「どうするの?」と彼女は言った。
「俺、あの時のミサで清められたから、一心同体だって言われましたけど」
「そうよ。あそこの訓戒は、みんなが一緒に繋がることなの。心と心、体と体、すべてがひとつになる。それを宇宙思想って言うんだけど。まあ、そういうところね」
「そうか。じゃあ、見ててください」と俺は言った。さすがに服のまま湖に突っ込むのはまずいと思ったので、その場で裸になった。そういや、彼女に裸を見せるのは初めてのような気もしたけど、そんな気もしないでないし、どうでもよかった。見せたいやつに見せれば良いんだ。気になんかしないさ。
俺は湖に走っていって湖に飛び込んだ。ピエロみたいに何度か回転したね。湖が冷たくなかったのは幸いだった。塩辛かったよ。泣いていたのかもね。その時に思ったね。俺はピエロになりたいんだ。それで構わない。馬鹿にされたって、意地悪をされたって、頭が悪いと思われたって、それでいい。みんなを笑顔にするために生きるんだ。
「どうですか! 感じますか! 湖のことを」と俺は湖でバシャバシャとはねた。
彼女は笑っていた。「馬鹿みたい!」
「その笑顔! 生きることができますよ」
「ありがとう」と彼女は大声で言った瞬間に咳き込んだ。
「しゃべらないで!」と俺は飛び回ったよ。
クルクル回転して湖に飛び込みながら、俺は思い出していた。彼女との出会いや、ほぼ忘れているミサのこと、観覧車のこと、すべてが繋がってる。何もかもが同時に起こってる。過去はすべて今日になって、明日になる。明日はどうなるのかわからないけれど、今日のすべてが明日を教えてくれる。
俺は湖から上がって、彼女に近づいた。彼女は目を閉じていた。涙が頬を伝わっていた。紫色の光の中で、彼女の体は消えてしまいそうに見えた。完璧な絶対として。
彼女はそっと目を開けた。目に涙がたまっている。真っ白な顔。わかってる。わかってるんだ。これが死ぬってことなんだ。
俺はそっと近づいたが、「湖の水飲んでますけど大丈夫かな?」と言った。口に湖水を少し含んでいる。それだけはいいかもなと思う。そうすれば湖になれる。
「つまらないことを気にするのね」と彼女は微笑んだ。「キスして。私とひとつになってね。私を好きになってくれてありがとう」
「いろいろ理由があるんですけど、でも、愛してますよ。俺、こんなに好きになったことないから。それに人を愛するのに時間なんていらないんです。俺はあなたを愛するから愛しているんですよ。あなたが俺を愛するから愛するんです。ただ笑ってください」
「ありがとう」と彼女はとびっきりの笑顔をした。本当にぶっ壊れそうだったよ。
俺たちはキスをした。
波の音がした。やけに、塩辛いけどそれは一体、なんだったんだろうな? 涙? 湖水の塩? さあな。ずっとキスをしていた。朝日が登ってきて、背中が真っ赤になってく気がしたよ。俺は彼女の何もない髪の毛の頭を撫でた。彼女の舌先を少し触れたよ。なんだかざらざらして乾いている。俺の舌先に残っている湖の水を口移しすると、彼女の喉がゆっくり動いた気がした。「さようなら」彼女は笑って目を閉じた。呼吸が薄くなる。
俺たちの頭上を練習機が飛んでいく。俺は立ち上がって空を見上げた。ジェット噴射の音が見えたよ。飛行機雲ができた。青空が見えるよ。もうすぐ自衛隊の航空祭だ。ブルーインパルスが目玉だった。一緒に行きたかったな。屋台も行きたいよね。イカ焼きは食い損ねたしね。俺っちは金ないけど、屋台のりんご飴ぐらいならプレゼントできたかもな。
これで良いんだ。これでいいに決まっている。間違っていることなんてどこにもない。ずっと、ずっと、俺っちはそう思っていた。
イッツ・オールライト。
12
俺は、彼女が亡くなった年の灘岡自衛隊の航空祭に行ったんだ。ブルーインパルスが飛んだよ。でもさ、事故っていうのか、墜落しちまったんだよね。なんでも、ブルーインパルスが作られて以来、初めてのことだったらしい。パイロットは残念なことに死んじまった。事故った時は、ガヤガヤしていたね。墜落現場は、遠くの方だったけど、煙がモクモクしていたよ。ただ、みんなが慌てて逃げていたりすることもなかった。冷静そのものさ。群衆の中で、俺っちひとりだったっていうのは、悲しいかもな。彼女に見せなくてよかったかもね。どうなんだろうな? でも、きっと彼女なら笑ってくれるだろう。いろんなものをひっくるめて、その日を祝ってくれるだろう。俺の観たものを観てくれただろうか? 俺の感じたものを感じてくれただろうか? 事故っちゃったりしたけど、これからも空を飛んでくれたら嬉しいね。亡くなった人にはお悔やみを。戦闘機でもないみたいだから、みんなを空から見ていてよ。俺っちは戦争のことも、それが意味してることも知らない。ただ言えることは、空を飛んでって、いろんな色の煙を吐いて、空をぶっ飛んでくと気持ちいいだろうなってことさ。
湖岸から彼女をおぶって帰ったんだ。タトゥーだらけの研修医さんが迎えてくれた。脈を測って「順調だな」って言った。それってどういう意味って聞いたら、首を振りながら「死ぬってことだよ」と言った。死ぬってそんなもんかなって思った。「順調に死ぬ」か。それも悪くないかもな。彼女が痛くなかったり、辛くなければ嬉しいよね。
病室に戻ると、おじちゃん、おばちゃん、誰も起きなかったし、看護師さんもいないし、誰一人として俺たちを咎める人はいなかった。そして研修医さんがベッドに眠らせてくれて、もう一度チューブを繋げたけど、彼女は眠ったまま、二度と起きなかったよ。
あっさりしたもんやね。死ぬってことはさ。そのとき、思ったんだな。俺っちもいつかそこに行くんだろうなって。死んでみなくちゃ、死んだ時の気持ちなんて誰にもわからないだろ? でもなんとなくわかった。
うーん、俺もそろそろか。彼女が死んで、通夜も葬式も出て、親戚の人とも仲良くやって、今でも連絡取り合ったりするんだよ。ありがたい縁だ。研修医さんと花井華湖さんは会ってないね。レジのおばちゃんがスーパーを辞めちまって以来、それっきりって感じだ。人との出会いも、別れもあっという間かね。「サヨナラ、こんにちは」も言わないまま、死んじまうんだなって思うよ。
俺は窓を見た。見た、って気がしているだけなのかもしれないけど、いつの間にか、窓の外は青空だった。朝になっちまったのかな? 日付を跨いじまったんだろうか? それにしても真っ青な青空やね。そこにブルーインパルスが飛んでいくんだよね。七色の煙を吐いてさ。すげえよな。彼女にも青空を見せてあげたかったな。「そんな空どこにあるのか」って青空さ。俺が死ぬには絶好の日じゃない? いろんなことを思う。死ぬって、死なない限り、死なないわけじゃないか? でも、生きているってことも、生きてないことになっちまえば、死ぬってことになるわけで、そんなこと誰も求めてないよな? 死んじまえば死んじまうわけで、それ以上でもそれ以下でもない。死ぬことは死ぬってこと。
人生、プライマゼロってわけさ。
俺って必死に生きてきたかな? 俺って必死に死んできたんだろうかって思うよな。いろんな人に感謝したいけど、感謝しきれないぐらいだ。もうすぐ死ぬわけだけどね。
俺は病室の天井のシミを見ていたような気がした。目の端っこに、女将さんもいる。彼女のことを忘れちゃいけないね。なんてたって童貞をあげた人なんだ。さっきからずっといたってこと? 朝まで? ありがたいやね。そんなに俺のこと思ってくれたんだな。そうしたらもう一発ぐらいヤらせてくれたらよかったのにな。彼女は泣いているような気がする。ありがたいやね。俺っちみたいなクズのために泣く人がいるなんてさ。
気づくと、俺の肩をポンポンと叩く人がいた。感覚はないな。なんというか、そんな気がしただけ。俺はそっちの方を見る。というか、そんな気がしただけ。「華湖」さんと、研修医さんがいた。ふたりともずいぶん老けたような気がするし、あの時のままな気もする。でも、あれから20年ぐらい経ってるんだけどな。目が霞んでよくわかんねえや。
どっちでもいいか。俺たちは歳をとり、変化して、人生を生き抜いてきた。嬉しいよ。どっちも健在みたいで。声があんまり聞こえないけど、夫婦になったんだって? そんなふうに聞こえたけど。そうだったら嬉しいよ。だって、覚えてるよ。さっき、思い出してたんだ。華湖さんは押し入れにいて、よだれを垂らす闘犬みたいに苛ついていて、女の子って怖えなって思ったよ。んで、研修医のあんたもさ、俺っちは殺されるって思ったんだから。そんなふたりも俺を助けてくれた。特に、花井花子さんの最後はね。研修医さんに感謝したいよ。ありがとう。
俺っちはとっても幸せかな? あんたたちもきたんだ。「はない・はなこ」さんがふたりもいるってことやね。いや、3人か。彼女は先に行ってるけど、どこかで待っていてくれたら嬉しい。あんたたちに感謝したいんだ。俺っちはずっとあんたたちの思い出で生きてきたよ。そのほかにもいっぱいあるね。
あ、彼女の親族もいるね。おお、壮大やね。彼女には何があったか教えないでくれよな。いま考えると、すごいことだと思うよ。俺は華湖さんと付き合うつもりバンバンだったのに、いざ、研修医さんと華湖さんの仲を見ていたら、こりゃ、ダメだって思ったし、俺じゃないと思ったんだよね。そうしたら、今度は白血病になった花井花子さんだったってわけ。人生ってわけわかんないよな。でも、嬉しいよ。彼女を愛することができた。勘違いが生んだ奇跡ってやつだね。奇跡はあんまり信じないタチだけど。彼女の神様だったら許してくれるだろう。そういえば、俺、彼女の宗教、なんだかわかんないまま生きてたけど、ミサまで行ったんだから、これぐらいの奇跡は許してもらっていいのかね。
そのとき、俺は思い出したんだ。8歳の時さ、親父に東京の東村山の公園の枯れ井戸に突き落とされたんだ。親父はしこたま酔っ払って、学校帰りのひとりぼっちの俺をひっ捕まえて、東村山児童公園にある井戸にいきなり突き落とした。なんでそんなことになるのかってわかんねえよね? 俺だってわかんない。人生っておかしいよな。望まなくたって、そんなことが起きてしまう。逆に、どんなに望んでもそんなことが起きやしない。
東村山の町の連中も、枯れ井戸だったら、入り口に網を張るとかしてもよかったじゃない? そんなことしてないんだよね。政治について言いたいわけじゃないんだ。ある意味、政治なんだけどさ。わかるかい? わかんないよな。俺もよくわかんないし。頭、悪いからさ。すげえ頭悪いんだよ。
とにかく、何10年にも渡って放置された井戸の底は、いろんな葉っぱとか泥とかが溜まってクッションになって、怪我はしなかった。それだけは幸いだったのかもな。あるいは俺のクソみたいな人生を考えたら、そこで首でも折って死んでおけばよかったかもな。
俺は空を見上げた。空は月みたいにまん丸に切られていた。ただ青空に雲が流れている。綺麗だなって思ったね。青い満月だよね。そこを飛行機が飛んでいった。ああ、そうそう。あれがブルーインパルスだったかもしれないな。もちろん、怖かったよ。周りは真っ暗だしさ。壁にちょっと触れると変なものがグニュグニュ動いているんだよ。たぶん、ムカデとか、その辺の怖い生き物だよ。壁にも触れられないし、地面はヌルヌルしてるし、泣き叫ぼうと思った。でもさ、声がでないんだ。体はカチコチさ。親父でも呼べばよかったんだけど、いくら待っても親父はやってこないんだよ。どこにもいないんだ。
落ちたかどうかぐらい確認しにきてもよかったんじゃない? 俺ってどんな人生を歩んでるんだろうと思ったね。親にそんなことされて、人生めちゃくちゃだなってさ。それでどうするんだって考えた。泣き出したいよ。叫びたいよ。助けてほしいよ。でも、声が出ないんだ。そうしたら俺はこのまま死んじゃえばいいのかなって思い始めてた。なんかさ諦めちまえばいいって声が聞こえたんだ。だって親父にいきなり井戸に捨てられる息子だぜ? 死んだって構わないよなってさ。
その時に助けてくれたのが小学校の同級生だった。女の子でさ。彼女の名前、花井花子っていうんだよね。いま、思い出したよ。
「あんた何してるの?」って言ってきた。
井戸を覗く彼女の顔が見えた。変な生き物を見ているような顔をしてる。何もかにも、好きで落ちているわけじゃないんだけどね。
「助けてください」って言ったさ。
「どうしたの?」
「いや、父さんに落とされたんです」
「かわいそうね」ってプイと向いて行っちゃおうとするんだよ、彼女。
「ちょっと待って!」と俺は叫んだね。「だから助けてください」
「ただじゃ嫌だわ」って言ったね。「私は現金主義なの。1万円がほしいわね」
「お金ないから、お嫁さんにしてあげる」って言ったんだ。「永遠に良き夫になります」
「なります? させてください、でしょ」って言った。なんだか高圧的やね。
「させてください」と俺は懇願した。
「ほんとだね?」と言って消えちまった。「約束は守ってよ。私を愛してね」
そうしたら近所の駄菓子屋かどっかに行って、警察に電話して警察の人が助けてくれた。それってニュースになったよ。テレビで取り上げられたし。で、俺は警察の人にいろいろ聞かれたわけだ。親父のことは言わなかった。何だか言っちゃいけないような気がして。なんだかさ、俺が言うもんじゃない気がしたんだよね。もちろん、警察に叱られた。
で、家に帰った。親父がいて焼酎を飲んでいた。ただ俺に背中を向けてひたすら焼酎を飲んでいた。俺は一瞬、井戸に落ちたなんてこと、起きてないんじゃないかと思ったよ。でも、親父はその日のテレビのニュースで俺が井戸から助け上げられているのを見ていた。焼酎を飲みながらだけどね。
その次の日に学校に行ったら、花井花子が転校するって話を聞いた。彼女はサバサバと挨拶をした。それで、花井花子が俺の席にやってきて「あの約束、覚えておいてね」と言った。「それから、あなたのお父さんに呪いをかけておいたわ。あなたを助けてあげる」ってね。それがどんなことだかわかんなかったけど、「ありがとう」と答えたさ。
親父は警備員だった。安っぽい仕事かい? 馬鹿にするのかい? で、毎晩いろんなところの工事現場の道路の案内係をするわけだ。下水道にある水道管の点検だったかな。マンホールを開けて、何人かのおっちゃんが地面に潜って。それで親父は警備と車の誘導をしてるんけどさ、仕事中でも酒を飲んでたの。近くのコンビニで焼酎買って。ベロンベロンになって、休憩中に穴にストーンと落ちたんだよね。ざまみろってね。で、親父が下水道に落ちた時に、点検をしている連中がミスったかなんかで水道管が破裂したんだ。親父がさ、マンホールから水柱とともに飛び出してくるんだよね。空高くさ。真夜中の月夜の晩に。悲しみの犬さ。それを今度は俺がテレビで観てたよ。たまたま通りかかったフジテレビのニュース班だかにスクープされてた。
人生って巡り巡ってんな、と思ったね。あっちでいいことがあれば、こっちで悪いことがある。その逆もある。そのまた逆もある。
それが花井花子さんの呪いだったわけ。人生って、ほんと、いろんなことがあるよ。親父も同じ目にあった。人の強い想いは現実になるのさ。それで人生はプラマイゼロさ。
その時に助けてくれたのも花井花子だった。ほんと、縁があるよ。彼女たちには。彼女にも感謝しなくちゃな。どんな人生を歩んだんだろうな? 素敵な人生であることを願うよ。約束を果たしてないのが怖いけど。あるいはすでに呪われてんのかな? 可能性もなきにしもあらずだね。そういえばこんなこともあった。俺の社長の話。社長がさ、灘岡にいるパイロットと浮気しちまったんだよね。でさ、名前が花井花子っていうんだよ。すげえよな。人生の偶然。そこに俺が巻き込まれちまってる。んで、冒険をすることになる。ちょっと聞いてくれよ。俺が死ぬ前に。
俺の人生もプライマゼロってことさ。さあ、俺のダイヤルにチューン・インだ。
13
初恋の花子さんが死んじまって俺は何もかも失った気になってた。俺は伽藍堂さ。心にポッカリ穴が空いちまった。魂は暗黒に汚れちまった。彼女を救うことができなかった。俺はやくたいったらない。アホ(あったもん)で、不良品(おしゃか)だった。俺はクズだった。申し訳ないと思う。
結局さ、誰も信じてなかったんだ。信じきれなかった。そりゃ、俺がクソみたいに弱かったからだ。俺は弱い。だから身近なやつらしか、俺を信用してくれるやつしか信用できなかった。そういうことなんだろうな。彼女を最後まで信じられなかった。助かるって思ってたらさ、神様が救ってくれるってね。思うんだよ、俺は14歳で孤児院に預けられて以来、誰も信用できてなかったんだ。だから肝心なところで誰も助けることができない。
花子さんが死んじまって、時はあっという間に流れ、俺は35歳になっていた。ひたすらトラックに乗って走るだけだよ。誰とも付き合ってないし、誰ともヤってもない。ヤってないわけじゃないんだけどね。10年以上、誰も愛することはできなかった。肝腎かなめな、花井花子さんには出会ってないしね。もう失うのは嫌だった。何がって? 君が考える大切なものだ。想像してくれ。哲学的なものじゃない。ごく当たり前の、俺の手に届く何かだ。幸せなものかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そんなもの。
身近な幸せが欲しいばかりに、下らない人生を生きるようになった。たとえば宝くじで2億円を一発当てるとかさ。ナンパなんて無駄な努力はやめて風俗で一発、とかね。途方もない夢は砕け散り、くだらない現実に苛まれる。そんなものを交互に繰り返してたら、いつの間にか普通の人間になっちまった。なんてことはない、俺はただのクズ野郎だったってわけだ。誰も俺を救うことができない。
楽な選択ばかりするようになった。楽なことばかり考えていた。楽な生き方ばかりを夢見るようになった。そう願えば誰だって楽な生き方ができると信じてた。笑って馬鹿にしてくれよ。馬鹿にしてよ。俺をけなしてよ。小馬鹿にしてよ。大馬鹿にしてよ。
幸せっていうのはさ、10億年前からある灘岡湖のように目の前にあり続けるのに、俺たちにはそれが当たり前すぎて、そいつを見過ごしてしまって、ようやく幸せかなって思ってぎゅっと拳を握ったら、灘岡砂丘の砂みたいにポロポロと溢れてくんだ。そうして、不幸せだとか、恵まれてないって嘆いている。なのに、そうであればあるこそ、永遠に見つけられない100万光年彼方の銀河みたいな幸せを探し続けて必死になって泥だらけになって、そこで出会える奇跡を信じ続けている。おかしいだろ? 矛盾してるだろ? 奇跡ってなんだ? 自由ってなんだ?
なーんて、ね。どうでもいいんだ、もう。
俺っちは完全に自分を見失ってた。仕事はそれなりにしてたさ。風俗に行って、女の子に一発抜いてもらって、それで満足だった。北海道から沖縄までトラックを運転した。独り言が多くなった。夢がなくなって死ぬことばかり考えていた。現実に押しつぶされた。もし、ショットガンがあれば、頭をぶっ飛ばしちまっているところだった。
七転八倒もうやぶれかぶれ。
なんだかそんな気がしてたよ。俺の人生は終わっちまったんだ。俺に生きる術はないってね。ずいぶん長い失恋だ。俺はとにかくひたすらひとりになりたかった。そうやって生きていたかった。ずっと引きずってたんだ。こんなにも求めているものがあるのに、こんなにも手に入らない。大したものじゃないのにさ。悲しいやね。トラックを運転している最中に泣いたりした。涙が止まらないんだ。
で、ある日、社長に呼ばれたんだ。最初は、首になるのかなって思ってさ。別になんか悪いことしたわけじゃないけど、そんな気がしたよ。会社の業績は悪化の一途を辿っていた。負債を棚上げした。気づけば、親しい仲間もいなくなっていた。もっと給料のいいところとか、もっと安全に働ける仕事を求めていた。そりゃそうさ。北海道から沖縄までトラックを走らせる必要なんてないもんな。
俺が社長室にいくと、社長が上を向いて電子タバコを吸っていた。社長は、すっかりハゲ上がっていてさ。俺を拾ってくれた時は、山崎努みたいなめちゃくちゃヤクザでかっこいい人だったけど、どんどん太り出して、頭がハゲ上がって、目も丸くなって、鼻も丸くなって、口も丸くなって、豚みたいな人になっちまった。そりゃ、俺だって歳を取ったけど、こんな人って変わるもんかね? 山崎努の面影が見える時もあるけど、ゴツゴツした彫りの深い顔や、ぶっとい眉毛はどこかに行っちまった。俺が27歳の時に再婚して、子供が生まれたからかもしれねえな。でもさ、俺のことを捨てたわけじゃなかった。俺をほんとの子供のように扱ってくれた。俺のことなんてまったく知らない家族に紹介してくれたし、仲良くしてくれた。息子さんの幼稚園の運動会に出て、なんでか知らないけど、俺が徒競走で一等賞を取ったこともある。お嫁さんも美人でさ。これだったら骨抜きになっちまうのは仕方ないかな。お嫁さんも時々、俺に彼女を見つけなさいよって言ってくれて、お見合いなんかセッティングしてくれる。そりゃ、ありがたいけど、なんだか気恥ずかしくて断っていた。とにかくいい家族だった。そんな家族に囲まれて社長は幸せだと思う。それが何よりもハッピーさ。
で、社長がいる。
「話していいかな?」と社長が電子タバコの煙を吐き出しながら言った。
俺は当たりを見回した。あんまり良くない話って出だしだった。俺は首になるのかなって思っちまった。でも、そんなことを容易にする人じゃない。それはわかっている。
「親父さん」俺はいつも社長のことを親父さんと呼んでいる。「どうしたんですか?」
「どうだ仕事は?」
「相変わらずっすね。暇な時は暇ですし、忙しっちゃ忙しいですけど」
「仕事が減っているのはわかってる」
「そりゃ、俺だってわかりますよ。現に仲間がいなくなっちまった。トラックも売っちまった。でも、親父さんが、仲間の首を切るような真似をしないから、彼らから身を引いた。俺ら親父さんのことを愛してるから。だからこそ余計に悲しいっすよ」
「ありがたいね。お前たちは俺の息子さ。『スーパー三好』の三好さんは元気か?」
「三好さんは相変わらずっすね。でも、2代目の息子さんが跡をついでるから。経営は大変みたいだけど、俺たちを頼ってくれる」
「そうだな。感謝したいな。あのスーパーへの荷物の卸しは、俺が最初に見つけた仕事だったからな。運送会社を独立して金がなくて、売り込みをしている時代だった。三好さんの親父さんに助けられて、それ以来だからな。親子三代の付き合いなわけだ」
「そうっすか」と俺は淡々と言った。
「それで、俺はお前を信頼して灘岡に送っていた。灘岡は特別な場所なんだよ。俺の第2の故郷といっても良くてね」
「そうなんすね。どうしたんすか? 急に、そんな話を。なんでも話してくださいよ」
「いや、実はな。ここでの話にしてくれるかい?」と親父さんはタバコをじっと見てた。
「ええ。いいっすよ」と俺は社長を見た。なんだか捨てられた猫のように怯えている。あるいは、ちょっと怖がっている風情だ。なんか社長の身にあったのかな? 普段はもっと堂々としてる。ヤクザとやりあう男だぜ。
「俺、正直に言うとだな、浮気をしたんだ」と親父は言って口を細めた。
「はあ」と俺は言った。小さな社長室だ。親父さんは「社長は偉ぶる必要はない」と言って小さな部屋を社長室にした。俺たちはそれでこの人なら許せるって思っていた。んで、なんて言ったらいいのかわかんない。いいことなのか、悪いことなのか全然。
「5年ぐらい前からだ。当然だが、家族に内緒でね。それで、その女性に子供ができた」
「はあ」と俺は続けた。意外というよりも、この年になると、いろんな人生に出会ってるからか、あんまり驚きはなかった。
「その女性が臨月を迎えている。明日、明後日には生まれちゃいそうなんだな」
「ええ」と俺は目をパチパチさせて頷いた。
「それで、お前に様子を見に行ってもらいたい。もしくは出産に立ち会ってもらいたい。シフトとしては、灘岡に行く日だろう?」
「確かに行きます。豊洲から灘岡に行く予定です。静岡で一泊して帰ってくる予定でしたけど」と俺は言った。最近はトラックの運転も厳しくなってきて、片道8時間以上運転する場合は、どこかで一泊してこなくちゃいけない法律ができた。んで、東京と灘岡の真ん中あたりの静岡で一泊することにしてる。知り合いの風俗嬢がいるってことなんだけどさ。そこで一発抜いて帰るのが、最近の灘岡行きの理由になってた。大した理由でもなく、大した生きがいでもない。
「滞在を延ばせないかな? 彼女の出産を見届けて、産まれるまで見守ってほしい」
「親父さんが休んでいいっていうのならいいですけど……俺でいいんですか? っていうか、親父さん……親父さんは大丈夫っすか」
「わかってる。お前に内緒で灘岡に通っていたんだ。俺の家族は知らないようにね。浮気っていうぐらいだからさ。で、俺もおおっぴろげにしたくない。正直いうと、灘岡の女性となんでそんなことになっちまうかっていうと、三好さんのいとこなんだよね。三好さんと同窓会みたいな感じで飲んでたら、紹介された。出会ってしまって、んであれよあれよと、愛してしまって、やってしまって」
「そんな……韻踏まれても」と俺は呟いた。
社長は笑った。「一時期の気の迷いだった。ほんのちょっとの誘惑だった。それに乗っかっちまった。気づいた時には、遅かった。妊娠しちまった。俺に女房と子供がいるってバレて、ほれたはれたってなって、彼女から、『私ひとりで育てるから』と言われたんだ。強気な女で、強情っぱりなところに惹かれちまったんだな。俺もダメなやつだ」
「男なんてみんなそんなもんですから」
「そんなもんかな?」
「そんなもんですよ。で、ご家族にはバレないで、その様子を見てきて欲しいと」
「そういうことだ」
「それは可能ですけど、で、どうするんです? その後っていう話になるんですけど。俺は黙っておくことはできますけど」
「ありがとう。それは俺がなんとかするよ。ただ、見届けてもらいたいんだ。彼女のことを。俺がいけないことも知っているから、余計にくるなって言われちまってね。俺もひどいことを言っちまったしな」
「ああ、あんまり言いたくないけど、妊娠をなかったことにしてくれとかですか?」
「そういうことだ。結構もめた。そしてひどいことを言っちまった。でも、彼女は俺のことを愛してる。俺も、まだ忘れられない。お前の前で言うのもなんだけど」
「大丈夫っすよ。俺、習ったことがあります。人間は、何人もの人を同時に愛することができるって」と俺は親父さんを慰めた。誰かが同時に何人も愛するってあんまりわかんねえし、嘘に決まってるだろ? そんなこと誰が言ったわけでもないし。親父さんが苦しんでいる姿を見たくないだけさ。社長も悩んでいたんだなってさ。ほぼ、自業自得だけど。そりゃ、仕方がない。なんとか助けてやりたい。相手の女性は誰だかわかんないけど、その女性や社長の家族が壊れていくのは嫌だった。俺の家族が壊れるようにしたくないんだ。飲んだくれの親父と母親が一悶着起こして、事故って死ぬなんてな。
社長は目を閉じた。「助かるよ。これは俺の責任でもある。そいつは背負うつもりだ」
俺は親父さんを見た。そういう時に限って、俺を拾ってくれた頃に見えちまうんだ。そうだよな。親父さんは、義理と人情があった。でも、やっちまった。人間ってそんなもんかな? 人間って悲惨なことをしちまう生き物なのかね? なんか俺たちは罪を背負っているんだ。仕方がないか。俺を育ててくれた社長のためだ。いっちょやるしかないね。
「で、親父さんのお相手はどこにいるんです?」と俺は言った。
「灘岡吉田産婦人科に入院してる。住所は携帯に送るよ。もういつ陣痛が来てもおかしくないそうだ。俺からもお前が行くと伝えておく。彼女は自衛隊のパイロットをしている。女性初のブルーインパルスの飛行士なんだよ。そんなこと関係なかったけどね」
「ふーん、そうっすか。わかりました。で、名前はなんて言うんです?」
「花井花子っていうんだ。花の花に、井戸の井、難しくない花に、子供の子って書くよ」
社長室は静かになった。社長の電子タバコのジジジと燃える音がする。
うーん、俺の人生って、奇跡に満ちてるかもなって思ったんだ。特に夏場はね。
なんか俺の人生がまた変わりそうだ。
14
次の日に、豊洲で荷物を積んで灘岡に向かった。高速道路を走っている。いろんな理由があって、灘岡に通ってるわけだけど、こんだけ何かがあると、灘岡に因縁があるかも知れねえなって思うよ。俺と灘岡は結ばれてるんだな。ぜんぶ、偶然なんだろうけどさ。
俺はさっさと仕事をこなして、さっそく、灘岡吉田産婦人科に行った。なんだか変な産院だね。敷地は狭いんだけど、縦に細長い建物だ。3階建てで天辺まで10メートルぐらいある。ちょっとした飛び込み台みたいだね。まあ、センスのいい病院なんだろう。しかも灘岡湖に面しているっていうか、張り出している感じだな。3階のベランダから飛び降りることだって可能だ。敷地内には桟橋があって、医院長の趣味なのかボートがある。灘岡湖は相変わらず綺麗だね。奥まったところに駐車場があって、「触れるな危険」とゴムのカバーをされた補助電源のボックス。
事前に社長が話を通してくれてるということで、俺っちは受付で名前を言って、花井花子さんに面会しに行った。俺みたいな見ず知らずのやつでも、軽々と面会できちゃうのは、こういった産院ならではなんだろう。風通しがいいね。看護師さんに3階の奥の部屋だと言われて、ノコノコと行った。
そこはこじんまりとした4人部屋だったけど、誰がいるわけでもなく、奥のカーテンに仕切られているところに、彼女がいた。というか影が見えたわけだ。俺はヘコヘコ歩きながら、さあ、何言おうかと考えていた。だって、微妙な問題だろ? 社長からは、特になんも言われなかったけれど、社長は家族を愛しているし、彼女も愛しているんだろう。ってことはだ、今の法律ではどうにもならんわけだね。いかがしたもんか。みんなに気を利かせすぎて、彼女を泣かせるようなことをしちまうのか。そんなことしたくないな、って思っていた。それに花井花子ってくれば、不幸にしたら俺が死んじまうしね。
その矢先だった。俺が「こんちは」と言って、挨拶をしながらカーテンを捲ると、頭に凄まじい衝撃が走ったわけだよ。頭が破裂して首がちょんぎれたと思ったね。彼女は俺の頭を簀子で殴っていたんだ。
「また、きたのね! ドグサレ!」って叫んだ。「私は決心したんだから。私がひとりで産んで育てるって! あなたとは縁を切る」
俺は頭がフラフラしてた。まったく、どうにかなっちまうかと思ったよ。
「あれ?」と声がした。「あなた、誰?」
俺はめまいがしてたね。あのね、殴るんだったら、ちゃんと確認してから殴ってよ。俺はフラフラしながら、「ちょ、ちょっと待ってください。頭がフラフラしてて」と答えて、カーテンの仕切りの棒みたいなもんに捕まっていた。さすがに死ぬんじゃないかと思ったね。頭を触ったら血は出てないみたいだ。まったく、すごい女の人やね。
「やー、ごめんなさい! 大丈夫? あの人だと思ったから」と彼女は俺の体を支えた。
俺は頭を振った。ようやく意識がまともになった。ただ、周りがぼやけて見える。俺は何度も目をパチパチさせる。確かに俺はいる。死んではないみたいだ。彼女はピンクのマタニティドレスを着ていて、お腹がバッチリ膨れている。風船みたいだ。で、顔はやっぱりなあって思うよね。大きな二重の目に、小さな鷲鼻、んでもって、大きな唇。身長は俺と同じぐらいか。初代も2代目も変わらずってところやね。ただ、お腹が膨れている。やっぱり、初恋の花子さんと違って、健康的だ。どでかい赤ちゃんが産まれるだろう。
「やだ、ごめんなさい、本当に」と彼女は俺の頭をさすった。「痛くない?」
「痛い、痛い! 痛いんで、触らなくて大丈夫です。ええ、大丈夫です。いつも、誰かがきたらぶん殴ってるんですか?」
「そんなことないけど。なんか、今日あたり、あの人が言い訳にくるんじゃないかって思ってて。絶対に負けないつもりだったの」
「そうっすか」と俺は言った。「社長から言伝が行っていると聞いたんですけど」
耳鳴りが聞こえる。頭がノイズを出してるんだね。俺は窓の外をみた。湖が広がっているが、くぐもった雲があたり一面にある。今にも雨が降りそうだ。そういえば、台風が近づいているって話だったな。明日あたりに上陸するかもしれないって話だったね。
「ああ、なんか社員さんの人が私を見舞ってくれるんだって?」
「そうです。その人が俺ってわけです」
「じゃあ、ちょっとこっちにどうぞ」と俺はベッドの横にある椅子に座らせてくれた。彼女はベッドに座った。
「で、なんの用? 私を説き伏せに来たとかそんな話?」とやたらに高圧的だ。
「いえ、特に何も言われなかったですね。ご出産の時にそばにいて、出産が無事に終わったら、帰ってくるというか。なんていえばいいんでしょう。俺が立ち会うっていうか」
「やっぱり、そんな人なのよね。私が好きになったのが間違いだったみたい」
そんなことないと言おうとしたけど、そうだよな、立ち会うっていったら、俺じゃねえよなって思った。彼女の体は全開にむくんでるって感じだったね。もうすぐだろうなって思った。どこか人間じゃない気がしたんだね。それは悪い意味じゃない。出産の準備をしている感じだ。俺の初恋の花子さんとは大違いだ。生きてるって感じがする。そうだよなって思う。彼女のお腹には、でっかい赤ん坊がいて、その子の心臓がある。いつも感心するんだよ。俺は女性といるとさ。いつもじっと見つめちまう。女の子ってさ、心臓が2つも、場合によっては3つも4つも持てるわけじゃない? 考えによっては、赤の他人の心臓なわけじゃん? それってすげえよなって思っていたんだよね。女の子って強いって思う瞬間なんだよ。人の命を丸ごと預かるわけだ。俺は自分の心臓を抱えるだけで精一杯なんだけどね。まあ、いいや。とにかく、どうするのかはまったく考えてなかった。
「何を言っても産むことは決めているから」
「そうですか。それを俺は止めることはできないと思うんで。なんか、法律とかそんなものがあったような気がするし」
「そうよ。半年以上経つとね」
「だから、とりあえず、社長の代わりとして。お見舞いに来たわけです」
「いやよ! あの人の顔なんて見たくないし、思い出したくもない。ひとりで産む」
「そんなに社長のこと嫌いなんですか?」
「だって、あの人、独身だって言ってたし、私と結婚するって言っていたから」
「そうですか」と俺は唸った。親父さん、やっちまったな。そんなヘマをする人じゃないと思ったけど、やっぱり人間なんだろうな。どんな偉い人間だって、そりゃ、馬鹿な真似をする。そんな時にどうするかってことだ。俺のクソみたいな人生で学んだことはそういうことだね。でも、確かに、社長が惹かれるタイプだって気はするね。可愛いと思うよ。ショートカットの花子さんは初めてだけど、出産に合わせているんだろう。で、いつもの花井花子さんだ。大体、俺が好きになっちまうタイプだね。うーん、困ったな。これってなんかやばくなる気がしたね。
「でも、社長なりに愛していたと思います」
「なんか、過去形になってるけど、勝手に過去形にしないで」と彼女は頬を膨らませた。
「そりゃ、そうですね。すみません。多分、愛していると思います。だから、俺みたいなクズをここに使わせた」
「それがあざといって言ってるの。お金で解決する人じゃないのはわかってる。でも、あの人が来ればいいじゃない? たしかに、私もなんだかこの人、結婚してるなって思った記憶がある。私、やばいことしてるなって」
「そんなもんなんですか?」
「当たり前よ。何年、女の子やっていると思ってるの?」
「27年」と俺は言ってみた。花井花子とくれば27歳なのだ。デフォルトだね。
彼女はキョトンとした。「よく……わかるわね」
「俺の特技なんです。女性の年齢当てるの」
「そんなの知らなかったわね。占い師をよこしたってことかしら?」
「そんなところですね」
「名前は知ってるんでしょ?」
「花井花子さんですね。で、灘岡航空自衛隊のパイロットをしている。ブルーインパルスに乗っているんですよね?」
「そうよ。あと数週間もしたら、航空祭のために練習機に乗る予定なのよ。本当はそろそろダイエットもしたいし、筋トレもしたい。ブルーインパルスって大変なの。肉体的にも精神的にもハードなの。例えば視力が落ちちゃいけないとか、いろいろあるわけ」
「そうなんですね。でも子供を産むことを選んだ。それは間違いじゃないと思います」
「当たり前じゃない。ブルーインパルスより、子供の方が大切でしょう」
「そりゃ、そうだ」
「だから、不安なのよ。私は、ブルーインパルスのパイロットから解任された。それって結構ショックなことよ。もう一度飛行機乗りになるのは大変だもん。私は防衛大学を出て、航空自衛隊に入って、ようやく掴んだ切符なんだよ? それを手放すってことになる。で、愛した相手は、妻子持ちってわけだから、私、つくづく運が悪いわね」
「運なんてそんなものですよ。俺も、初めて好きになった女の子、白血病で死んじゃったし。お付き合いして3ヶ月ぐらいでしたからね。人生って複雑な迷路みたいですよ」
「そうなんだ」と彼女は俺に同情するように言った。「悪いこと聞いちゃったわね」
「いいっすよ。何年も前の話だし。それ以来、運なんてそんなもんだなって思うようにしてます。思い通りにならない人生の言い訳なんだなって」と少しだけ俺は嘘をついた。
運はあるよ。人生ってね。だから誰にも止められないぐらい輝く時がある。
「そんなもんかしら?」
「そういえば、俺、航空自衛隊でブルーインパルスが初めて墜落した航空祭にいましたよ。でも、素敵ですよね。俺、トラックの運ちゃんで、誰でもできる仕事ですけど、すげえなって思います。パイロットはね」
「あなた、変な人よね?」
「何でですか?」
「あの事故の飛行機に乗っていたのが、私のお父さんだったんだもん。それに出会うってすごいことよ。だって、あの事故以来、後にも先にもブルーインパルスって墜落してないから。それでお父さんが亡くなって、私は、絶対に、お父さんの跡を継ぐって思った。それが私の生きる糧になった。女には大変だっていろいろ言われたけど、私が女性で初めてのパイロットになった。ちょっと光栄じゃない? 自慢もしたいけど。でもさ、不倫されて、子供ができちゃってるなんてさ。それで私の夢は泡と消えるわけ」
「そんなことないですよ。生きている限りチャンスはあり続けます。生きてるだけで儲けもんですよ。俺の見立てでは、あなたはまたブルーインパルスに乗れますね」
「根拠は?」
「俺なりの占いですね。ショートカットが似合ってるので」
「あなた変わった人ね」と彼女は笑った。
「それ! それですよ。なんか足りないと思ってたんですけど。やっぱ、女の子は笑ってなくちゃダメですよ。笑ってください」
「急に、変なこと言うわね。出産前だから、結構イライラしてるわよ。だって、今日かもしれないし、明日かもしれない。それで来た人が、まったく知らない人だっていうんだから。おまけになんか丸め込めにきてる」
「なんか、知らない人じゃないと思ったんですよね。ちなみに、俺は、ガキの頃、親父に井戸に突き落とされたことがあります。その時にも、井戸の空にブルーインパルスが飛んでいて、すげえなって思ったんです」
「それと私の人生とどう関係あるわけ?」
「つまり俺の人生にはブルーインパルスが常にあるってわけです」
「アホね、あなた」と彼女は笑顔になった。
「だから、笑って欲しいんですって。でもね、どこかで、根本的につながっているような気がするんですよ。今日、ここであなたに会ったのは偶然じゃないなって」
「なんか急にナンパしに来てない?」
「そう言われたら、そうしますけど」
「そう言われたの?」と彼女は悲しい声を出した。「あの人の代わりになるの?」
「そんなことないっす。悲しくならないでください。社長がそんなこと言うわけないじゃないですか。社長にだって、それなりの失敗や、それなりの報いがあると思うんです。俺が勝手にそうしてるだけです。で、俺、決めました。俺、あなたの彼氏になります」
「あなた本当にぶっ飛ばすわよ」と彼女は呆れた声を出した。
「タイプなんです。ズバッと速球のね。俺が親父に井戸に突き落とされたのも、お父さんが自衛隊の事故で亡くなったのも伏線なんですよ。俺と出会うための」と俺は語ったが、よくわからんかった。「あなたの二重の大きい目とか、小さな鷲鼻とか、分厚い唇とか、俺好みです。むくんでますし」
「むくんでるのは余分でしょ? そこまで露骨にナンパされたの初めてなんだけど。しかも妊婦だよ、私」と彼女は言った。「あの人が仕向けているのなら乗らないわよ」
「違います。俺の初めての彼女も花井花子さんだったし」
「それ、本当? あなたの話、ぜんぶ、嘘っぽいけど」と鋭い眼差しを向けた。
「事情を説明すると長くなりますけど、俺、27歳の花井花子さんと永遠に付き合っていくことになってるんです」
「気持ち悪い、運命よね」
「だから、俺、なんでもしますよ。あなたの言葉も、あなたの表情も、あなたの仕草も、俺が全部引き受けます」と俺は言った。運命だなって思った。俺はここで、彼女を引き受けるんだ。そうだ。そうしよう、ってね。まだ、出会って15分ぐらいしか経ってないけど、そんなもんだよなって。人と人が出会う。そこに奇跡が生まれるまでに時間なんて必要ない。俺たちは、出会った瞬間に結ばれることだってある。それが奇跡ってやつだ。
「それじゃ、私の産まれてくる赤ちゃんも引き受けられるってわけ?」と彼女は大きな目で俺を覗き込んだ。
「もちろん」
「すごい覚悟ね」
「人生って、こんなもんだなって思うんです。こうやって、偶然とか、奇跡とか、いろんなことが重なって、いつかどこかでひとつになる。そして俺たちはひとつになる」と俺は彼女の目を見つめながら話した。
彼女はしばらく考えて目を閉じていた。そして目を開いて言った。「あの人があなたをここに連れてきてくれた理由がわかる気がした。あなた優しいのね。じゃあ、正直に頼むわよ。私の赤ちゃんの親になって欲しいの」
「逃げます」
「最低」と彼女はそっぽを向いた。
「嘘です」と俺は彼女の手を握った。
「本当?」
「本当です。いいですよ。そうしないといけないんですね。きっと。花子さんにとって」
「そう。自衛隊って規律も厳しいから、シングルマザーになるのは構わないけど、シングルマザーになる理由がね、それが正当なものじゃなきゃくちゃいけないの。だから父親は死んだことにしたいのよ。それから私が体力的に、精神的に、パイロットとして活躍できるほど戻ってないといけない。子供が産まれても、私はワークアウトをしたりしなくちゃいけない。視力が落ちていたら、レーシック手術だってする。私はパイロットでいたいの。だから、子供の親になって欲しい。あなたがひたすら面倒を見るの。私はずっとパイロットでいたいの。それってめちゃくちゃな要求だよ? 私の人生に、あなたの人生を犠牲にして欲しいって言っているわけだから」
「大丈夫ですよ。その代わり、俺のお嫁さんになってください。あなたの赤ちゃんもめちゃくちゃ愛するんで」と俺は言った。そうだよなって思う。俺が花井花子と関わりを持てば必ず、そうなるのだ。そんなことはわかっている。だから、俺には決心がある。社長も俺だったら何かすると思っている。心配しないでください。俺が、親父になる。親父のいない子供なんて大変だもんな。俺は経験済みだ。それがどんだけ辛いかわかってる。オールオッケーさ、と俺は言い聞かせる。これまで失ってきた人生、すべてを取り戻すんだ。
「あなた、本当に馬鹿ね」と彼女は泣き出した。「こんなのでたらめじゃない? 適当に言っているだけなんだよ」
俺はそばに寄って肩を抱きしめた。「ずっとそばにいますよ。たとえ、誰が何を言おうとも、俺があなたのそばにいるんです」
「本当なのね? 私、まだ夢を諦めてないよ。私はまたパイロットになりたい」と彼女は俺を押し除けた。「ちょっと、めちゃくちゃ近いから」
「だって旦那さんになるんですよ」
「あなた、怖いわね」
「俺は自分の夢を諦めてるから、あなたにすべて捧げます」と頭が痛いのでさすった。
「ありがとう。でも、嘘だったら、本当に、殺すからね」と彼女は真っ赤な目を腫らせて言った。「本当に殺しちゃうわよ」
「怖いな」と俺は言った。「でもマジです」
「証拠を見せてみて」と彼女は言った。
「わかりました」と俺は言った瞬間に立ち上がって彼女に覆いかぶさるようにキスした。
思いっきり押し退けられて、ぶん殴られた。しかもグーで。思いっきり腹を蹴られた。目ん玉が飛び出るかと思ったよ。
「あんた! バイキンが入ったらどうするのよ!」と彼女は口を拭いながら怒った。
「つまりですよ、俺だったらあなたの奴隷になれちゃうって訳です。これが服従の証です」と俺はダッシュして3階の窓から湖に飛び込んだ。かなりな高さだったけどね。湖はそれなりに深いとは思っていたから問題なし。そして湖をバシャバシャと泳いだ。
「どうです! これだけ愛しているんですから!」と俺は泳ぎながら叫んだ。なんだか俺と湖の相性はいいなと思う。そういえば初恋の花子さんの最後の時も泳いだっけ。でも、今回はこれがスタートだ。湖は、塩っ辛くて、涙の味がする。どんな不幸も、どんな幸せも、同じぐらい価値があるのなら、幸せをあげようじゃないか。俺には義務がある。
「何してんのよ!」と彼女が窓際から叫んだ。「あなた馬鹿じゃないの?」
「これでわかってくれましたか! こんなことだってできちゃうんですよ! 俺、あなたのためにならなんだってするんですって!」
「馬鹿!」と彼女は泣いているようで、笑っているようだった。「とにかく、わかったわよ! あなたに託すから。戻ってきなさいよ。私に迷惑かけないで」
看護師さんたちがたくさん窓から覗いている。「あんた、何してんのよ!」って叫んで怒ってる。「ぶっ殺すわよ!」
「静かにしてください! 笑ってくださいよ! 俺、笑ってる女の子が大好きなんです! いや、笑っている人間が大好きなんです。俺があなたのすべてになります!」
「馬鹿!」と彼女は何度も叫んで、次第に笑い始めた。「本当にアホね!」
彼女が笑顔になった時、俺は思ったよ。俺の勘が戻ってきたって。そして思ってたんだ。そうやって、そうして、俺の人生は動いていくんだって。ここまできたらなんだって引き受けるのさ。俺は無敵になれる。
イッツ・オールライト。
俺たちの合言葉は、それさ! それ!
15
「こんばんは。灘岡テレビです。ここで臨時ニュースです。昨日、灘岡沖、100キロに発生した台風18号は、短時間で勢力を強め、945hpa、最大風速55メートルを計測し静岡県に上陸。進路を北北西にとって灘岡を直撃。灘岡の家屋、約35棟の屋根を吹き飛ばし、200棟の家屋が床下浸水しました。ビルの鉄骨は曲がり、逃げ惑う人々を傷つけました。巨大な暴風が家々を飲み込み、濁流を渦巻かせ、そして虚無の圧力のもと地面をえぐりました。温厚で静かな灘岡湖ですが、激昂し、あえぎ、ボート乗り場のボートを転覆させ、並木道の桜並木を捻り倒し、周回道路を冠水させました。激しい波が湖岸に打ちつけました。しかし、今夜2時ごろ。台風は温帯低気圧に変わりました。一瞬にして一瞬の恋のように。そして新潟に抜けようとしているところです。今朝の状況ですが、人々は、すぐに復興の動きに入っています。朝早くから、軒にたまった泥を掃除していらっしゃる方もいます。現場調査も始まりました。自衛隊が派遣される見込みです。以上、灘岡テレビの臨時ニュースでした」
灘岡湖の湖岸に座って湖を眺めている。いつものようにここに帰ってくる。別に求めていたわけじゃないのに、求めてる結果になる。湖が俺を引き寄せてるのかね? それとも俺が湖を引き寄せてるのか。それにしてもでかい湖だ。目を閉じればこの町は湖にしか見えない。きっと町のすべてなんだろう。
湖岸は昨日の台風で泥だらけだ。でも気にしない。ケツが濡れている。ケツに大量の汗もかいたしな。俺の作業着が湿っている。逆に清々しいぐらいやね。足元に台風あとのちょっと乱暴でいて、緩やかな湖の波が、静かに寄せて靴を優しく濡らしてる。風はしとやかな優しさで8月の下旬にしては涼しげだ。空は泣いていたのかな? 青と紫に泣きはらしている。まるでみんな泣いていたみたいだ。台風ってさ、みんなが泣くイベントだって思わない? 泣くことを許してくれるようなさ。そして明日へ生きる。どうしてそんなに泣いちまう? 誰だって泣きたくて泣くわけじゃないからさ。つまり、なんで泣くかは知らないけど、そういうもんだってことさ。
もうすでに、晩夏の台風一過の暴力的な太陽が雲間から覗きはじめ、湖面に業火的なスポットライトを当て始めている。俺たちの涙は汗に変わるだろう。それは湖の水になり、すぐに蒸発するだろう。そして雨になり俺たちを癒してくれる。俺たちは目覚めて生きることを強要され、いまを働いて生きなくちゃいけない。強要じゃなくて恐喝かもな、俺は思った。生きることにあくせくしなくちゃいけないのは辛い行為さ。痛くもあるね。虚無の政治をしなくちゃいけない総理大臣に誰が居座る? 神様だって嫌がるはずさ。俺は総理大臣のことよくわかんないけどさ。
特にこんな日の朝なんかさ。昨日の朝からおかしいと思っていたんだ。風がうねっていたんだよね。社長の愛人の花井花子さんの病室に行ってたら、あっという間に、やばい感じの蒸した風に変わって台風がやってきた。灘岡灘沖100キロ先で発生した超巨大台風。名称は灘岡台風18号。どれだけの強さなのかは正直わからない。夕方観てたニュースでは、ニュースキャスターが2人、空にぶっ飛んで、車は宙を舞っていった。そうして、すべてをなぎ払って、朝方に温帯低気圧に変わって、新潟に抜けたってわけ。
まるで、昨日のことが嘘じゃね?って変な感じさ。体がクタクタに疲れているからか、夢を見たようにフワフワしている感じだ。風俗行ったみたいなさ。一発ぶちかましてきたのに、ポコチンがソワソワしてるというか。それが起こったことだと理解できない。夢なのに夢じゃなく、夢じゃないのに夢だ。
なーんてね。バカだよな。俺にはもっとまともなことを考えることができたのにな。
よくよく見ると、湖の湖岸には暴風雨のせいだろう、あちこちにゴミがいっぱいだ。家庭のゴミとかテレビとか、冷蔵庫とか、家電なんかもあったし、どこかの家の屋根の残骸も打ち寄せていた。よくわかんないけど、遠くの方には、軽自動車まであった。どっかからぶっ飛んできたんだな。なのに波は穏やかだ。優しい波が寄せては返して白い泡が弾けている。シャンペンみたいやね。今日を祝おう。朝日が乱反射して眩しかった。光に満ちてる。光に。真っ白だ。空は真っ青になろうとしてる。紫がかった空。湖は真っ白で美しい。涙が出るほどすべてが優しいんだ。
そういや、俺っちの親父は、警備員の仕事を首になって、怒り狂ってばかりだったな。酔いつぶれて陶酔したような顔の湖にも見える。何かに怒り疲れて安堵しちゃってる。そうやって、よく親父に殴られたっけな。金属バットとかさ。そんなやつにはなりたくないなとよく思ったけど、いまにしてみれば、似たようなもんか。誰も俺みたいな人生を歩みたいとは思わないだろうね。あんなに怒り狂って親父は何を言いたかったんだろうな? 親父もお袋も、車で高速道路を運転中に、逆走してくる車とぶつかっちまうっていう奇跡の事故を起こして死んじまった。それが俺の14歳で、孤児院に預けられて、16歳で社長の元に行った。あの人たちは、何を残したかったんだろうな? 頑張って生きてみねえか?とかさ。ちゃんと生きなさいよとかね。
冗談ばっか。俺をぶん殴ってきてばかりだったよ。嫌いな人じゃないけどさ。もうちょっと、良き方向に関わり方はあったよね。
社長に拾われて以来、トラックの運ちゃんだ。ずっと続けてるよ。これに関してはさ、辛いと思ったことはあるけど、それなりに満足している。町から町へ俺は走ってく。新しい人との出会い。そしてまた新たな出会い。そこで出会う新しい真実。なんだか大げさだ。自分の人生や責任から逃げてるんじゃないかって一節がちらほらあるけど。ボニーとクライドみたいに派手に決めてさ。大袈裟じゃないよ。たぶんそういうことなのさ。
昨日のことで俺はわかったね。俺は、生から逃げていた。生きることを馬鹿にしてた。俺はアホ(あったもん)で不良品(おしゃか)だ。昨日は、東京から灘岡までやってきて、200キロトラックを走らせてきて、ちょいちょいと仕事を片付けて、社長の愛人に会って、すげえ事件(?)に巻き込まれてさ。疲れてクタクタさ。グーの音も出ない。だけど心地よい疲労っていうのかな、心はそんなもので満たされている。光に満ちてる。光に。俺の心は輝いている。ピカピカさ。
そんなのは嘘だって?
嘘なんて日常のひとつの世界を反転させた解釈の違いでしかない、って誰かが言っていたな。俺のこと見下していた孤児院の偉い人だったな。回りくどいし、やたらに上から目線で大嫌いだったけど、それ以上に俺は頭が悪いからわからねーや。難しいこと言うな。
どうでもいーし。知らねー。
とにかく、こうやって明け方のきらめく屋根の残骸やらを眺めながら、生きるってことをダラダラ考えている。内省的じゃないよ。なんかさ、嬉しいんだ。すげえさ。心の底から嬉しいんだ。久々にタバコを吸ってる。うん、普段は吸わないんだけどね。だけど、今日ぐらい大丈夫じゃないかって思ってるよ。
ヤクって嫌いなんだよ。俺が売人やってたせいもあるかもな。もちろん、それがヤクなんて知らなかったけどね。ここ10年間はイライラしてた。俺に何かできるのかずっと考えていた。俺にできたかもしれないことがあったか? ずっとその想いに駆られていたよ。白血病で死んじまった花井花子さんに対してなんかできるのかってね。でも、不幸せにしたら、占い師に死んじまうって言われて死んでないってことは、彼女は幸せだったんだろうか? 考えても、俺っちは幸せな気分にはなれなかったよ。あてどなく旅を続けていたような気がする。漂泊とはよく言ったもんだ。俺っちは、すべてを失って、ただひたすら彷徨い歩いていた。生きていればいいこともあるってもんかね。そうだといいけど。
なーんてね。かっこつけかな?
チューン・イン? 君に繋がってる? 聞こえる? 聞こえたら嬉しいよ。そんなこと考えて、ひたすら体育座りでグダグダしている。作業着は汗でダクダク。汗臭いったらありゃしない。ソープでも行って、ソープ嬢とヤってりゃ、楽な人生だったかな?
まさかな、俺が花井花子さんに豪語しちまったわけだ。俺が産まれてくる子どもの親になるってね。社長が愛人にお痛しちまった航空自衛隊所属の花井花子って女の子。昨日、出会ったばかりなのに、運命を感じて、産まれてくる子は、俺が引き取るなんて言っちまった。口からでまかせじゃない。ほんとのことだよ。もっと、簡単にすむもんだと思ってはいたけどね。なんか、人生なんて、気づけば終わっちまってるぐらいにさ。簡単に。
さて、これからどうすんのかって感じだよね。俺は、彼女の子供を引き受ける。どんな試練が待ち受けてる? でも、今はそんなこと考えなくていいか。ただ、ひたすら、脱力していたい。今日だけは、こうやって湖岸に座って湖を眺めていたい。何かが終わったんだから。だけど何も終わっちゃいないよな。始まったばかりなんだ。それはわかっている。頭が悪いけどさ。今日を始めなくちゃいけないことは知っている。新しい今日を。今日は特別な日さ、なんてったって、俺に子供ができたんだ。俺の子供じゃないんだけどさ。でも、俺は心の底から愛するよ。すげえ、愛で満ちてるんだ。そうじゃなきゃ、やっていけないもんな。愛ぐらい俺みたいなバカ野郎にもあるよね? 心の奥底に眠っているはずさ。まあ、どうでもいいんだ、そう。
それにしても、湖ってでかいな。両手じゃ抱えきれないぐらいだ。湖はずっとそこにあり続ける。幸せはずっとそこにあって、ただ気づかないってことだよね。10億年も昔からあり続けたんだ。それを見過ごしていただけ。ほんとかよ? 信じられないかもしれないけれど、こんなクズみたいな俺にだって些細な願いがあって、誰だってゴミみたいな人生は送らせたくないなって願ってる。なんかさ、教会でティーチ・イン? ゴスペル・ソング?を歌ってさ、あんな厳かな感じじゃなくてさ。みんな幸せでいてほしい。些細な幸せを大切にしてほしい。大切な人生を自由に生きて欲しい。生き続ければ幸せに巡り会えるはずさ。そう思ってるよ、本当にね。
すべての子供たちに幸せを。そういや、俺っちは、孤児院にいる時から、自分さえよければいいと思ってたな。すぐに脱走しちまったけどね。そんな想いだけは子供にさせないようにしたいね。俺たちはみんなで生きる。
そうさ、いつだってそばにいるよ。こんにちは。手術灯に照らされた太陽みたいな目が明るかったな。抱き上げるとき、血となんだかよくわからない液体でヌメヌメで地面に落としそうで怖かった。まるでソープでローションまみれになっているみたいだった。そうだったんだから仕方ないだろ? その目はまだ何も映してないだろうけど、いつかきっと大切な何かを映してくれるだろう。
君はこの世に生まれてきて辛いかな? 生まれたくなんてなかったかな?「俺っちが偽物の親父です」なんて言わなくちゃいけない時がくるんだからさ。どんな気持ちになるんだろう? 嫌かな? 少しぐらい受け入れてくれたら嬉しい。俺はクズ野郎だ。そんなやつが親父になっていいのかな? だけどいまは優しさに包まれている。ひとつ言いたい。聞いてくれるか? 君に言っておくよ。
この世界には辛いことがたくさん待っている。逃げずに聞いてほしい。プレッシャーで潰れそうになるときが必ずでてくる。どうしようもなくなっちまうことがやってくる。そんなとき、かならず俺がそばにいる。俺が駆けつける。不幸になんてしない。だって昨日の台風を一緒に乗り越えたんだ。大人になって、この話を聞いたら笑ってくれるだろうか? きっとお前を大切に育ててみせる。お前を立派にしてみせる。お前を守るのさ。
お前を愛してみせる。心の底から。
ひでえ台風だったのはもう言った。さっき避難所にちょっと寄ったし、テレビのニュースで見たよ。こっちは被害者だったんだね。大切なことは、それが起こってからじゃないと、どんなひどい事か気づかない。変なもんやね。それでそんなに酷いんだって気づいたんだ。たくさんの人が被害にあった。俺だって悲しい気持ちになる。救済を、さあ。
おまけに、こっちだってひどい有様さ。
言っちゃうとさ。おじさん言っちゃうよ。台風直球ど真ん中のそんときに、たまたま灘岡吉岡産婦人科にいる花井花子さんが破水したんだ。突然ってわけでもないな。社長からは今日とか明日とか言われてたし、だから俺はこの町に戻ってきた。彼女は俺にブー垂れたりしたけど、やっぱ、愛していたんだと思うんだよね。誰がって? 社長のことを。だから、シングルマザーになるって決心をした。それはそうか。でも、自衛隊のパイロットは続けたいと言った。理由は正当じゃなくちゃいけない。まさか、浮気相手の子供を妊娠して、産んじゃいましたって、それでオールオッケーみたいな社会じゃないってこともわかってて。そりゃ、そうか。社会なんて厳しいもんやね。俺は独り身だったから、そんなこと考えないですんだけど。でも、俺も、独り身じゃないって思うんだよね。そろそろ身を固めなくちゃな。社長は許してくれるんだろうか? いや、社長もわかっていたんだと思う。俺のことを許してくれるさ。なんてたって、16歳の時から一緒だからね。
俺が彼女の生まれてくる子供の親になるって決めちまった。そんなもん簡単に引き受けていいのかって思ったけど、やっぱり、花井花子さんって俺に取っては特別でさ。びっくりだよ。俺が彼女を説き伏せるために湖に飛び込んで、シャワーを浴びて、ティシャツとジーンズを借りた。「バイキンだらけじゃないの」と看護師さんにめちゃくちゃ叱られてさ。でも彼女は笑ってくれた。それだけが救いさ。んで、彼女と話している最中に、ちょっとトイレに行ってくるとかって言って、トイレに行ったら、廊下がバタバタとして、看護師さんに「奥さん破水しましたよ」って言われたんだよね。俺、何も知識ないんで、破水って何?みたいな顔をしてたら、流石に俺の顔面をぶっ飛ばそうと思ったんだろうね。
「あんたの子供が、奥さんから産まれようとしてんだよ!」って言われてさ。ああ、そうか、ぐらいさ。大変なことはこれっぽっちもないと思ってた、ちょっちょと解決さ、と。
手術室でイキんでる花子さんはすげえよ。引いたよ。なんかすごいんだよ。俺の見たことない景色が広がってる。俺を拒否するような空気で満ちてる。手術室でなんか緑色の紙エプロンをつけさせられて、マスクして、キャップも被って、なんかすげえ雰囲気だった。俺が近づいちゃいけないような気がしたんだよね。分娩台に乗ってイキんでる花子さん見てて、顔が真っ赤になってて、お医者さんに、「邪魔、邪魔」とか言われながら、看護師さんには、「こんな時にしかこないからこうなるのよ」って怒られてさ。
そりゃ、ないんじゃないの? 俺だって、知らされたばかりだったんだから。で、どれぐらい頑張ったんだろう。いや、よくわかんねえな。すげえ時間だったと思う。まるで宇宙の誕生を目にしているみたいだ。陣痛ってさ、ずっと痛いもんだと思ってたけど、波があるんだね。それで、痛くない時とかあってさ、花子さんはふうふうってやりながら目を閉じて、俺っちはどうしていいかわからなかったし、彼女はとにかく目を閉じたり開いたりするわけだ。俺を求めてたわけじゃないんだよな。俺じゃなくて社長だったんだけど、それは悲しかった。でも、仕方がない。
ここで俺が男気でも見せなくちゃって思った時だった。何していいかわかんないけど。
病院内の電源がバッチバチにショート。バチバチバチッて配線に火花が散って、廊下の電源がパッパッパと消えていくんだ。そして闇が廊下の奥からやってくる。さっさっさっとね。まるで悪魔がやってくるホラー映画みたいだった。俺は辺りを見回した。
停電だ。すげえことだよ。
台風が外にきてたんだ。手術室に入った時からやばいなって思ってたんだけど、直撃って感じで。小さな産院だから、ガタガタ揺れているのに初めて気づいた。外は暴風だった。荒れ狂っていたね。何かが電線を切っちゃったらしいんだ。病院はガタガタ揺れていた。手術室は一瞬で真っ暗闇さ。小さな病院だが補助電源はあるって話だったんだけど、うんともすんとも言わないわけ。
でさ、俺が外に言ってみてこいって怒られて、いそいそ見に行ったら、補助電源がある場所に電信柱が突っ込んでて、ぶっ壊したみたいなんだよ。ボックスみたいな箱に電信柱が突き刺さってて、バチバチ火花が飛んでる。こりゃ、ヤバイなと思ったね。それで急いで戻った。先生は仕方ねえから、他の病院、でかい病院ならなんとかなるだろうと踏んだ。だから、急いで大きな病院に連絡をしようとした。この台風だ。道路はめちゃくちゃ冠水してて、救急車どころじゃなかった。みんな慌てふためく。じゃあ、どうすんだって話だよな。俺は、なんかどうしていいかわからなくなってきて、泣きそうになったよ。
「あんたが泣いてどうすんのよ!」って看護師さんに怒られた。
花子さんは強かった。陣痛がズンズン定期的に腰だか子宮にやってきて、苦しみに汗だくだくだったのに、子どものために、文句をお医者さんにぶーたれたんだ。
「そんなことしてこの子になんかあったらどうするん? 死んじまったらどうするん?」
いや、あんたは強いよ。恐れいる。
俺はやくたいったらない。アホ(あったもん)の不良品(おしゃか)だ。手術室でうじうじしていると、花子さんは、俺の袖をつかんで首を振った。うーん、うーんって唸っていた。「私は死んでもいいけど、この子だけは助けてあげて」って泣きながら叫ぶんだ。汗びっしょりでさ。ゴリラじゃん?
馬鹿な俺だ! くそったれ。
俺の作業着の裾を掴む彼女の腕から痛みが感じられた。その辛さったら。
頭が下がる。俺は土下座したい。
そのとき俺は男の子であることを恨んだ。なんにもできない。オロオロしてた。情けないね。俺をぶん殴ってくれよ。俺はどうしていいかわかんないから、ヨタヨタしてるだけ。補助電源があるところはバッチバチに火花が飛んで危ねえし、電線が暴風でビュンビュン飛んでて、絶対に感電して死ぬね。
やべえよ。もうどうしようもない。彼女と彼女の赤ん坊を殺しちまう。俺はどうしたらいい? 目をつぶった。その時に神様に祈ったんだ。俺のぜんぶをやるから、助けてくれよって。俺は分娩台で唸っている花子さんを見ながら涙が出てきた。助けてくれよ!
そんな時、暗がりの廊下からやってきたのが社長だった。しかもヤマハの電動自転車にまたがっている。ヒーローみたいだ! いやいや、何してんの? さあ、誰もわかんねえよな。一度も来たことがないし、でも、社長は状況がわかっているみたいなんだ。手術室に入るんだけど、誰も気にしないわけ。それどころじゃないしさ。俺だって除菌もするまもなく、手術室に出たり入ったりしてたしね。懐中電灯の光だけが飛び交ってるわけだ。とにかく、ヤバイ状況なんだよ。俺は親父さんになんか言おうとすると社長はポンポンと俺の肩を叩いた。親父さんは、高校の電気科で、もともと電気屋の息子だった。ヤマハの電動自転車にスマホをランプ代わりにして照らし始め、いきなり手術灯とか、よくわかんない機械の、いろんな配線と自転車を分解してつなげ始めた。どでかい手術灯の配線を要領よく自転車につなげたりするわけよ。
俺はびっくりした訳だ。だって社長は来ないつもりだったしさ。
「何してるんですか親父さん?」って聞いたら「黙ってるんだ」って怒られてすごすごしていた。しばらくその作業をして、自転車のサドルを叩いて俺のほうを向いて言った。「よし、こいつで自家発電できるように改造した。ちょっと乱暴だけどな」と。
確かにいろんな配線が電動自転車にクルクルと絡んでいる気がする。暗がりじゃよく見えないけど、未来のロボットみたいだ。
「え、どうするんすか?」って俺が聞いた。
「こいつを漕いで電気を発電するんだ。こいつならなんとかなるってね」
「誰がやるんすか?」
「俺に何か期待するのか?」と社長は俺の顔を見て言った。「お前がやるんだ」
みんなこっちを見てる。
そりゃ、そうだ。
花子さんは唸ってる。
わかった。社長がそう言うんだ。仕方がない。俺は渋々ためしにそいつに乗ってペダルを軽く漕いでみた。ウィイイインと唸りをあげてすぐにペダルの回転が止まる。こりゃ軽くじゃねえな。とてつもなく重かった。2トンはあるね。一漕ぎするだけでアキレス腱が切れちまうんじゃないかと思ったよ。でも、たしかに、少しペダルを動かせば、手術灯がボワっと蛍のように光った。酸素ボンベが泡立っていく。そのたびに歓声が上がる。俺が漕ぐ力を抜くと灯が弱くなった。酸素の供給が止まる。ブーイングだ。花子さんは一瞬産気づくのをやめて、睨んだあと、間があって、痛みに叫び声をあげた。馬鹿って。
ちょっと待て。なんでそんなときだけ睨むの? 俺っちだって必死なんだからさ。
「わかったか?」と社長が言って肩を叩いた。「おれはこの間のサイクリングでアキレス腱を痛めちまってさ」
あーあ。
俺は手術台で横になっている花子さんの隣に用意された電動自転車(スポーツジム風に改造された)にまたがった。みんなこっちを見ている気がする。あたりは真っ暗闇だ。
俺は声のあらん限り、力を振り絞って必死になって漕いだ。車輪が回転しまくる。俺は立ち漕ぎした。ヒラメ筋がべっこり凹んだ。筋肉が悲鳴をあげる。ギュウウウンっていう電動的な音がする。すると辺りが光る。なんでこんな羽目になっちまう?
そりゃ漕ぎまくった。漕ぎまくったさ。すぐに疲れた。ダメだ、こりゃ。俺の手に負えない。足だけどね。体のことを考えてる余裕もなくなったよ。意識がぶっ飛びそうだった。頭がクルクル回っている。いろんな思考が渦巻く。よく考えたらさ、もっと違う人生ってあるだろうなって思ったりした。じゃあどんな人生が違っている? どんな人生が正しい? 誰にもわかりはしない。わかるのはただそこにいてやるべきことをやるだけ。やらなくちゃいけないことをやるだけなんだ。
わかってるなら、やるしかねえよな。
手術室が明るくなる。もっと! もっと明るくするんだ。もっともっともっと! 花子さんが叫んだ。もっと光を! ちょっと待て。俺だって叫んだ。昨日だってトラックの運転で、東京から灘岡を行ったり来たりしたんだ? 寝てもないんだ。それぐらい加味してほしいのに。俺っちはどうでもいいんだ?
「早く漕いで!」先生はせかした。「手が見えないから暗くなっちゃうでしょ。それに他の赤ちゃんたちもいる。救命室にくる子もいるかもしれない。あんたがこの病院のすべての命を背負っているんだ。補助電源は壊れちまったし、あたりは酷い有様だ。赤ちゃんたちを移動させるわけにはいかない! というか、今日はずっと光を灯し続けるんだ」
そんな無責任な!
「もっと一生懸命漕ぎなさいよ。パパになるんでしょ!」と看護師さんが俺の頭を張り倒した。「お産に比べたら屁みたいなものよ」
ちょっと待って。俺じゃない。社長を見ると、暗闇の中で見えないのか、よくわかんなんだけど、親父さんの姿が見えない。とにかく、こっちだって必死なんだから。誰かが何かをリアクションするたびに、花子さんは雄叫びをあげて俺を睨んだ。「あなたしっかりしてよ! 私と結婚するんでしょ?」
あんまし俺を責めないでほしいな。暴風のせいだ。何もかも暴風のせいにしたいね。手術室の窓を打ちつける風は、凄まじい音を立ててドラミングしている。恐妻家のゴリラだね。風の声がビュウビュウ聞こえた。雨つぶが窓にぶつかって弾け飛んだ。まるで野球ボールみたいだ。いつ窓が破裂するかわからない。とにかく気にするな。集中しろ。俺は一生懸命自転車を漕いで発電した。ここまで自転車を漕いだことはないな。ロードレーサーばりだよ。日本代表になれそうだね。ペダルを漕ぎまくっていたら、酸欠でだんだん意識がぶっ飛んできた。脳みそが痛いぐらいだ。ノータリンのすっからかんだ。そんなとき、無意識のなかでふとつぶやいた。自分でもびっくりしたんだ。そんなこと考えてもない。
「君だけは特別だ。君だけは俺たちの選択に選ばれたんだ。選択したんじゃない。君が産まれることを選び取ったんだ。君が泣いたら俺が泣くだろう。君が笑ったら俺が笑うだろう。君が怒ったら俺が怒るだろう。君にはまだ名前がないけど。きっと特別になれるスペシャルな名前を考えている。君だけが特別なんだ。たとえこの地球が破滅したって絶対に君の命を終わらせない。君が強くなるのと同じぐらい、俺は強くなりたいんだよ」
そんなこと考えたことないのにね。心の叫び声ってやつかな。ふんぬーって自転車のペダルを漕ぐ俺の声。そのとき小さな声がした。風のせいなのかな? 窓が揺れて、ビブラートな音がしているせいなのかな?
「ねえ。ねえ。ねえ」と甲高い声だ。でもとても小さい。
「なんだよ?」俺は怒鳴った。「自転車のペダルを漕ぎまくってるんだ。話があるなら後にしてくれ」
「諦めたらだめだよ」
「わかってることを聞くなよ」
「苦しい?」
「わかってること言うなよ」
「痛い? 痛くてたまらない?」
「わかってること聞くなよ。お前はどうなんだよ?」
「……」
「なんか言えよ」
ペダルを必死に漕いで喘ぎながら俺は叫んだ。みんなは俺がどうかしちゃったんじゃないかって顔で見ている。俺はぶつくさ言うんじゃなくて本気で叫んでいたのだ。
「俺が笑ってるときに君を笑わせたい。俺が泣いているときに君を笑わせたい。そう思わなくちゃ。俺のすべてをかけるよ。君は空よりも広くて太陽よりも明るい輝きの名前で地上を覆い尽くすだろう、なーんかカッコつけかな? ご覧の通り、俺は馬鹿だよ。アホ(あったもん)で不良品(おしゃか)だ。笑いたければ笑えばいい。俺はトラックの運ちゃんだ。たいしことない人生だった。君はその通りだと言うだろう。大統領なんかになれないかもしれない。ただの兵士Aくんってところが関の山かもしれない。だけどすげえ特別にしてみせる。絶対生きていることを満足させてみせる」と叫びながらペダルを漕ぎまくった。ペダルを漕ぐために叫んでいるのか、叫んでいるからペダルを漕いでるのかわからなくなってきた。どうでもいいや。
「負けるかよ。負けるわけにはいかないんだ!」と俺は叫んだ。
「諦めたらだめだよ」って声がする。相変わらず小さい声だ。
「わかってること聞くなよ」と俺は乱暴に答える。「って、誰?」
「苦しい?」
「わかってること言うなよ」
「痛い?」
「わかってること聞くなよ」
「……」
「わかってること言うな。おい、どうした? 俺に文句があるんじゃないのか?」
「……」
「何か言えよ」
「……」
「何か言ってくれよ」
「もっと漕いで!」と先生が慌てふためきながら言った。「患者の心拍数が下がっている! 心臓に負荷がかかりすぎた。産道が閉まっちまった! 停電のショックのためかもしれない。赤ちゃんの首が挟まっている! やばいぞ。やばいって! 母体に深呼吸をさせるんだ。落ち着かせろ! 落ち着くんだ! みんな落ち着けー!」
「先生が落ち着いて!」と看護師さんが叫んだ。「先生がすべてなんですから!」
「二酸化炭素持ってきて! 過呼吸だ」
「このままマスク用の電源も使ったら」看護師さんもオロオロしていた。「先生の手元が見えなくなるかもしれないし、最悪麻酔を使った帝王切開もできなくなるかも」
「だめだ! 呼吸を優先させる! 俺は俺の決断を信じるんだ!」
やばいよ。ダメだよ。俺っちなんかには無理だ。クタクタでヘトヘトなんだ。
「馬鹿なこと考えてるんだったら、もっと必死に漕ぎなさいよ!」看護師さんが言った。「あんた大人なんだから、自分の子供ぐらい守ってあげなさい!」
「俺じゃねえんだ」って言おうとしたけど、それどころじゃねえな。俺は俺の決断を信じるしかないんだ。自転車の車輪が回転しまくる。発電しまくる。手術室は光りまくる。責めないでほしいな。これでもやってるほうだぜ? だけど、もうダメかもしれない。ヘトヘトだ。汗だくだ。手足はボロボロだ。これ以上うまくいけないかもしれない。
「諦めたらだめだよ」って声が聞こえる。都合いいね。あんたは風の又三郎か?
「わかってること聞くなよ」と俺は答えた。
「苦しい?」
「わかってること言うなよ」
「痛い?」
「わかってること聞くなよ」
「……」
「わかってること言うな。おい、どうした? 俺に文句があるんじゃないのか?」
「……」
「なんか言えよ」
「諦めたらだめだよ」といきなりでかい声で言った。
「何だよ、まだ喋れるじゃんか」
「最後の一言さ」
「なんかうまく出来すぎてない?」
「僕はね、ちゃんと生きるんだ。だから諦めないで。昔はそうしてばかりだったんでしょ? 諦めてばかりでさ」
「昔はね。でも……」
「じゃあ……諦めないで」
「っていうか、あんた、占い師のおばちゃんだろ?」と俺は言った。こんな時はそうだ。
「なんだ、わかっているじゃないの」
「そりゃ、気づくわね。この間の時もそうだったからさ」
「じゃあ、わかってるだろ?」
「なんとなくね。彼女を傷つけたらあかんのでしょ?」
「そういうわけだね」
「ったく」
「諦めないで」
「言われんでもわかってますよ。社長の愛した人ですよ! ってか、なんで社長がいたんやろ。今日だなんてわからんのに」
「それも時期にわかるよ」
「ふーん」
「さあ、あんたの死ぬ気を見せる番だよ。そうすりゃ、救われる。それは絶対にそうだ」
「そんなもん言われなくてもわかってるわ!」
「それから励ましたんだから、口座に1万円、一週間以内にね、よろしく!」
「そりゃ、ないよね」
わかっているさ。俺は、だけど……だけど、やっぱりヘトヘトでクタクタだ。諦めたい。身体中が痛くてたまらない。痛みがハンパない。やめたい。やめちまいたいんだ。苦しい! 死んじまいたい! 死んじまいたいよ! ごめんな。ごめん、ほんとうにごめんな。謝っても謝りきれないよな。苦しいんだ。痛いんだ。無理かもしれない。これ以上、頑張れないよ。ちくしょう。
汗が吹き出てる。血が出そうだ。前に、尿管結石やったけど、あんなものじゃねえ。痛い。痛くてたまらない。5トンぐらいある石で顔面を殴られているような気分だ。ボッコボコにリンチされてるみたいな気分だ。
その時、「もう諦めてもいいよ」と花子さんが俺の作業着の裾を引っ張った。そして首を振った。汗と血がボトボトこぼれてる。
手術室にどこからか風が吹く。いったいどうなっちまってる? みんなシーンとなる。
「私が頑張るから。私が頑張ればいいんだから。私だけが、頑張ればいいんだから。よくやったね。頑張ったね。だから大丈夫。大丈夫だからね。ごめんね、無理ばかり言って。出会ってすぐの人に、私のことばかり押し付けてごめんね。あなたに出会えてよかった」
顔じゅうを覆う汗が頬をつたいながら、俺は思わず我慢できずに泣いてしまった。ポロポロ泣いて、泣いて、泣いてしまったんだ。
「あなただけが頑張ったってだめなんですよ!」と俺はどなった。「俺がなんとかしますから。俺を信じてください!」
尿管結石なんて馬鹿っぽい前戯みたいなもんだよ。俺たちはふたりでひとつになるんだ。俺は決心した。俺は家族を作る。そしてもう一人、大切な家族ができるんだ。
負けてたまるか。さあ、人生最大のピンチさんよ、かかってこいよ。お前をぶっ飛ばして、宇宙の彼方まで吹き飛ばしてやる!
俺はトラックの運ちゃん。彼女は社長の愛人。ブルーインパルスのパイロット。たいした人生かな? だけど君は俺らに選ばれたんだ。そして君が俺らを選び取ったんだ。君が笑ってるときに俺らが笑っていられるように。君が泣いているときに俺らが泣いていられるように。すべてを捧げるよ。
「しっかり漕ぎな!」と占い師のおばちゃんの声が聞こえた。「子供ができて人生はもっともっと大変になる。そうすれば、あなたの人生はもっと光り輝くはずよ」
「わかってらあ!」と俺は叫んだ。「この病院すべてを明日まで光り輝かせてやる。ここが目的地なんかじゃないんだ!」
頼むから俺のケツを叩いてくれ! 俺のケツを蹴り上げてくれ! この自転車のペダルに足の筋肉を全部くれてやる。これで終わってもいい。歩けなくなってもいい。身体中が引き裂かれたっていい。神様なんていなくていい。今なら信じられる。
神様さんよ。聞いてくれるか?
幸せは、10億年前からある灘岡湖のように目の前にあり続けるのに、俺たちはそれが当たり前すぎて見過ごしている。そんでもって、永遠に見つけられない100万光年彼方の銀河みたいな幸せを探し続けて必死になって、そうやってその先で出会える奇跡を信じ続ける。それが人間なんだよ!
それでいい。神様なんていなくていい。どこかに隠れていろ。これは俺と台風の勝負なんだ。俺と君の人生の戦いだ。俺は決着をつけて、正々堂々と生きることを誓ってやる。
それが生きるってことなんだ。
雷が鳴り響く。暴風は吹きすさび、雨は叫び続ける。だけどかならず終りがやってくる。確実に。始まりがあって終わりがある。そういう人生を生きているんだ。配線だらけのクソ電動自転車。きらめく病院。
すべての電気を君にくれてやるからさ。エジソンだって真っ青だね。俺の人生なんて終わってもいいんだ。すべてをくれてやる。なあ、すべてをくれてやる。お前にすべてをくれてやる。これで終わってもいいんだ! 花を咲かせようぜ。どでかい花だ。凄まじく美しい花だ。どんな花か知らねーけど。引き受けてやる。すべての責任を。俺っちの人生をすべてくれてやるんだ。さあ、輝けよ!
病院の手術室は煌々と光り輝いていた。
あーあ。もっと楽に生きられないかなあ!
16
42年間。まるで夢みたいな人生やったね。別にそんなに夢を見てるわけじゃないんだけど。俺の人生が変わっちまうことがたくさん起きたのに、何も起きてない気がする。大切なこともいくつか見逃した人生さ。俺の体が真っ二つになっちまって、意識すらなくなって、それでも生きようとしている自分がいるんだから。変なもんだよ、人生ってさ。
そうそう、ブルーインパルスのパイロットの花井花子さんやね。子供は無事に生まれた。女の子だった。あんなにすげえ出来事があったのに、元気な女の子が生まれた。3500グラムあったね。よかったよなあって俺は泣いちまった。めちゃくちゃ汗だくで、それで死にそうになってたのにな。
で、顛末を話さないとね。これじゃ俺が死ぬ意味がないよ。俺はこのまま死んじまうわけだからさ。最後の与太話ってところかね。まずは、病院はぶっ壊れなかったんだ。それは奇跡だったよ。電線は切れて飛びまくり、電信柱だって突っ込んできたのにね。補助電源のあるところはすぐに自衛隊の人が来て片付けてくれた。復旧まで一日かかったが、自衛隊の人が発電機械を持ってきて、なんとかその場をしのいだよ。褒め称えるつもりはないけど、感謝はしないとな。俺は、彼女が入院中は毎日、通ったんだ。育児室にいる赤ん坊を見て、この子が俺の赤ん坊になるって決めていた。へちゃむくれで、真っ赤かだし、なんだかわからないけど、決心は揺るぎなかった。俺は自分の人生を決めたんだ。彼女を幸せにして、子供だって幸せにする。人生なんてたった1日の出会いで変わっちまう。そんな気がした。たった、1日の奇跡だ。
彼女の体調が落ち着いてきて、退院前ってところだったね。俺はこの後、どうすんのかとか、結婚してからどうすんのかって話をしてた。マジもんさ。俺はそのつもりだった。彼女は病室でいつもニコニコしてた。よかったなって思ったよね。誰もが笑顔になるべきだよ。これで俺の人生も少しは誰かのために役立ったわけだ。それでこそ意味があると思ったね。たった1日しか会ってないわけだし、もっと親睦を深めなくちゃいけないって、俺はいろんな話をした。俺の過去だ。といったって大したことじゃない。
「花子さんの話を聞きたいですね」と俺は言った。「もっと聞かせてください」
「あなたの話をもっと聞かせてよ」と花子さんはベッドで半身を起こしながら言った。「どうして私を選んだのかしら?」
「花井花子さんだからですね」と俺は答えた。「花井花子さん以外は考えられないからですね」と俺は言った。
「どういうこと?」と彼女は俺に聞いた。
「花井花子さんだから、俺のお嫁さんになるんです」ってね。
「よくわかんない」と笑いながら「私は、このままブルーインパルスのパイロットに戻りたいわね。そんなこと可能かどうかわからないけど」と花子さんは言った。
「万事オーケーですよ。人生ってすげえ困難があってそれを乗り越えれば必ずハッピーになれます。今回のことがあったから、そういう試練を乗り越えたからパイロットにだって戻れますよ。絶対にそうなるはずです」
「ありがとう」と彼女は言った。「あなたがいなかったら、きっと産むことができなかった。変なものね。あなたのおかげよ」
「弱みを見せたりもしましたけど。さすがにキツかったな」と俺は振り返った。「人生で一番キツいことになりましたね」
「あなたもきっと私の苦痛をちょっと引き受けてくれたんだと思う」と彼女は俺の手をとった。産後の彼女はずいぶんふっくらとしているように見えた。でも、それが良いらしい。健康が一番。性欲は二番。
「俺が苦痛を引き受ける?」と俺は聞いた。
「そう。だって大変だった。夜から朝まで頑張ってくれた。自転車を漕ぎ続けてくれた。ずっと明かりを照らしてくれた」
「あれはでも社長のおかげだから」
「え、いなかったわよ」と彼女は驚いたように言った。「先生のお父さんが自転車屋さんで、いろいろ知っていたみたい。苦渋の決断だったみたいだよ。手術室が汚れちゃうし、でも、仕方がないって判断して。信頼してる先生で助かった。この病院でよかったわ」
「そう……なんですか」と俺は呟いた。俺は社長が目の前にいたような気がしたからだ。「確かに俺もテンパってたからな」
「あの人がいたの?」
「いや、そんな気がしただけですよ」と俺は言った。これ以上言っても仕方ないしな。社長には申し訳ないけど、彼女は俺のものになるんだ。絶対に幸せにするって決めたんだ。
病室には夏の終わりらしい少し涼しい風が入ってくる。クーラーも切っていた。灘岡は秋になる。ずいぶんいろんなことがあったような気がしたね。俺の人生ってさ。
「ねえ、確認なんだけど、私の赤ちゃんも含めて、引き受けるって本当なの?」と彼女は言った。「そんなことできる?」
「いまさら、引き返せませんよ。約束です」と俺は彼女の小指をとった。そして指切りをした。「どんなに辛いことがあっても、あなたと赤ちゃんと一緒にいます」
「大変だよ。あの場では、脅迫するつもりだったし、試していたのに」
「そんなことないですよ。俺は決めたんです。こうならなくちゃいけないのは、神様のお告げみたいなもんです。そしてあなたたちを幸せにする。そうすればいいんだって思ってますよ。どうせ俺は独り身だし」
彼女は俺の頬を触った。「無理しなくていいよ。だってあなたの人生だよ」
「無理じゃないです。あなたが決めたことが一番だから。俺は両親がろくでもなくて、俺をまともに扱ったことがなかった。そんなのが嫌なんです。子供たちは幸せになる権利があります」と俺はなんだか柄にもないことを言っちまった。「そしてあなただって幸せになる権利がある。義務があるんです。あなたを幸せにするのが俺ってわけです」
「ありがとう。でも大変だよ? 私が自衛隊に戻れば、いろいろ面倒あるし、しょっちゅう引っ越さないといけないかもしれない」
「なんとかしますよ。というか、何とでもなりますって」と俺は言った。そうか、そうだよな。自衛隊の人って転勤が多かったっけ? 俺は職を変えないといけないわけだ。場合によっては仕事をやめなくちゃいけない。親父さんとはお別れをしなくちゃいけないのかもなと思うとなんとなく悲しくなった。それでも、俺が引き受けちまったもんだ。
病室は優しい雰囲気だった。風でカーテンがはためく。湖が見える。静かなもんだ。
「名前……決めないといけないですよね」と俺は言った。
「そうね」と彼女は目頭を擦った。
「女の子だからな。可愛い名前にします」
「考えがあるんだ?」
「エミリーとかいかがですかね? 最近は国際化が進んでますし。どこの国に行っても謙遜のない名前だと思います」
「なんでやねん」と彼女は突っ込んだ。
「一緒に決めればいいですね」と俺は言った。「灘岡市役所に提出するんですよね。名前とか、いろいろ手続きをするってことですね。1週間でしたっけ? まだ時間があるから。俺、こっちに戸籍をうつさないとな」
「ありがとう。嬉しいよ。私のためにね」と彼女は俺の手をギュッと握った。
「別に、花子さんだけのためでもないですよ。俺の幸せだってあるから。俺、これまで自分の人生から逃げていたから」
「でも、そうも行かないかも」と彼女は小さく言った。
秋風がカーテンを揺らしている。人生が変わろうとしている。俺の人生、無駄なことが多かったような気がする。クソみたいだと思っていたよ。そうでもないのかな?
「あのー」と俺は言った。
「何?」
「実はですね、まだ、夫婦の契りを交わしたわけではないのです。なので、改めましてチューぐらいしておきたいなと思いまして」と俺は言った。「あの時は、無理やりしちゃったけど、唇にしっかりキスしてないので」
「なんかそんな歌ありそうね」
「唇にー、しっかりキスしないでー♪」と俺は米米クラブの「浪漫飛行」の節で歌った。俺のカラオケの十八番なのだ。
「あなた、アホよね?」と彼女は笑った。「私たちは特別じゃないよね? これからお互いのことを知っていけばいいか」
「そうですよ。結婚したら完結なんておかしな話です。結婚するから始まるんですよ」と俺は言った。「俺たちは完璧じゃないから、完璧になろうとする。でも、永遠に完璧になれないから、ずっと一緒にいるんです」
そうだよな、結婚するんだもんな。かなりの覚悟をしなくちゃな。彼女を俺のものにしよう。そして幸せになるんだ。
「変わってるわね、本当に」と彼女は笑い続けた。「いいわよ。キスぐらいなら」
俺は彼女に近づいてキスをした。舌先と舌先が触れ合う感じだった。おっぱいを触ったら、母乳が飛び出してびっくりした。「うわ」って。そりゃそうだ。彼女は笑って、おしぼりで胸を出して拭いた。でっかいおっぱいだった。これだったら子供も幸せだ。
「なんか……飲んでみたいな」と俺は言った。「牛乳みたいですね」
「あなた、馬鹿ね」と彼女は俺のズボンを触った。「もっと近くに来れる?」
「どうしたんです?」と俺は言った。
彼女に近づくと、俺のジーンズの上から、チンコを撫でたり、揉んだりした。
「こんなことしかできないけど。今はね」と彼女は言った。
俺はびっくりした。「いや、いいんですよ。どうせ夫婦になるんだし。まだ産後だから大変だし。そんなことしなくても」
「最後だから」と彼女は小さく言った。それは俺には聞こえなかった。彼女は俺のズボンを下ろした。そして口にペニスを含んでくれた。まあ、情けないやね。早漏でございますからね。あっという間にイッちまった。
窓の外から風はずっと吹き続けてる。秋口ののんびりした風は、どんなことも許してくれそうな気がした。そこで、こうやって俺は幸せになってくんだなって思った。俺は、きっと幸せになるんだって。ようやく見つけたんだ。俺の幸せを。俺だけの人生を。
彼女は俺の射精した精液を飲み干して口を拭った。「こんなことしかできないけど。特別だよ。私だってまだ療養中だし」
「すみません」
「いいわ。それぐらいのことしたんだもん」
「幸せになりましょうよ」と俺は言った。
彼女は泣きそうになって外を見てた。「もう秋になるわね」と言った。
「そうですね」
「それにしてもあなた相当な早漏よね」と彼女は言った。「頑張っていっぱい出せるようにならないとね。私は結構厳しいわよ」
「なんか学校の先生みたいだな」
彼女は笑った。本当に素敵な笑顔だった。
俺たちは幸せなはずだった。
早漏なのは余分だけど。
次の日。彼女が退院するときに迎えに行ったんだ。いろんな準備もした。彼女がどこに住んでるのかも聞いてないことに気づいて驚いたけど、まあ、いい。俺も、時期に引っ越すぐらいのつもりでいた。でも、病室には花井花子さんはいなかった。赤ん坊も。もぬけの空だったんだ。伽藍堂になった病室で俺はひとりだった。病室は母乳のように柔和で甘い匂いがする。初めて産婦人科って意味を知ったよ。カーテンがはためいていた。誰もいない。俺の決心も、俺の決意も、俺の言葉も、どこにもいくところがなかった。そりゃ、そうかもなと思う自分もいるし、そんなんじゃないと思う自分がいた。心に穴が開きそうだった。俺のケツを叩きまくった看護師さんがやってきて、「あれ、午前中に退院したけど、一緒じゃないの?」と聞いてきた。
「いや、最後のあいさつをしたくて」と俺は嘘を言った。「その節はありがとうございました。めちゃくちゃ怒られましたけど」
「ごめんね。こっちもいろいろあったからね。でも、よく頑張ったわね。しっかり育てるのよ」と彼女は言った。「もう彼女ひとりじゃないんだから」
「わかってます。ところで、育児室も空っぽになりましたね。みんな元気でよかった」
「うん、しばらく出産予定の人はいないんだ。こんなの珍しいんだけどね。ある意味ラッキーかもしれない。病院はちょっとだけ改修が必要なんだって。結構な事故だったし。それで休みを作った。それに、灘岡って町が過疎化してるから、暇な時期ができるのよ。でも冬にはね」と言って行ってしまった。
俺はしばらく秋風に吹かれていた。窓の向こうに灘岡湖が見える。灘岡湖は太陽でキラキラだった。ずっと向こうまで。遥か彼方まで。俺はどうしていいのかわからなかった。
ベッドの上に手紙があった。俺はそれを手にした。俺への手紙だった。手紙なんて人生で初めてもらったような気がするね。俺はそれを手にして、病院を出て、しばらく歩いて、灘岡湖に行った。湖岸は後片付けがされていた。台風の時のゴミもないし、いつも見る灘岡湖だ。綺麗なもんやね。灘岡湖は知っているのだろうか。こんなことが起きたことを。俺、彼女の連絡先すら知らなかったんだぜ。気を使って聞く暇もなかったけど、毎日通ってたのにな。でも、聞いていたところで、無駄なような気がした。彼女は俺からいなくなっちまった。こっから、そっから。
俺の前から消えちまったんだ。
消えちまったんだ。
たぶん、永遠に。そして、絶対に。
彼女の手紙には「いままで本当にありがとう。ごめんね。あんまりうまく言えないけど、嬉しいよ。あなたの決意も、あなたの決心も、全部受け止められたけれど、でも、やっぱり違う気がする。勘違いしないでいいよ。あなたは正しいと思う。たった1週間ぐらいで私を受け入れてくれた。いつも笑わせてくれた。すごく嬉しいよ。ただ、間違っているものを無理やり戻そうとするのは違う気がするわ。あなたが考えていたこの子の名前も、あなたがしようとしてくれた努力も、すべて無駄にしちゃうのは忍びないし、私だって悪魔になりたくないけど、でも、こうすることが正解だったと思う。ごめんね。利用するつもりなんてなかった。ほんとに、このまま結婚して、一緒に暮らしていけばいいと思ったことさえあったけど、このままじゃダメだと思ったの。それは私の決心の問題でもある。私の決意もある。私のことなら気にしないで。台風のおかげで私たちはひとつになった。すごく深く。それはすごく嬉しい。ただ、あなたは優しすぎるの。だから、もうちょっと自分のことに怖くなってもいいわね。傷つきすぎるのは良くないよ。でも、本当にありがとう。二度と会わないかもしれないけれど、あなたのことを忘れないと思う。一生。忘れる訳ないわよね。さようなら。最後に、あなたすごい早漏よね」と書いていた。
俺は体が震えてきちまって、涙が止まらなかった。どうしてこんなことになっちまうんだろう? どうして俺がこうしたいと思ったことがそうならないんだろう? 俺の願いが叶わないのはどうしてだろう? こんなにも強く願っているのに? どうして俺が感じたことが、実現しないんだろう? 俺はもう、伽藍堂になったまま、ただ、灘岡湖に佇んでずっと泣いていたんだ。なんでだろうな? ずっとさ。早漏なのは余分だけどね。
17
ベッドで寝ている。もう目は見えないし、耳も聞こえない。しゃべることもできない。俺の頭の中で、思考なのか幻想だかが、クルクル回っている。人生なんてやることなすこと上手く行かないもんやね。そんなもんか。人間なんて生きてるだけで、無駄なことが積もり積もってく。重さに耐えきれなくなって潰れちまった時に死ぬんだ。死ぬ間際になって気づくなんてな。生きるのに精一杯で、そんなこと気づく暇もなかったよ。
それに気づけただけでもありがたいのか。精一杯は生きたってことかな? 人間は生きるものじゃないな。死んでくんだ。死んでいくから生きているんだな。それで死ぬっていうのは、何もないってことなんだな。単純だった。何もない。無でもない。「ない」っていう空間なんだ。そこにいるってことさ。「ない」から「ある」。つまりそんなアホみたいな真理を人間は死ぬ時に気づくもんだってことやね。哲学者っぽいやろ?
あれから花井花子さん、ブルーインパルスの人だけど、どうしちまったんだろうな? あんな元気な女の子の赤ちゃんも、俺にはどこにいっちまったのかわかんねえままだった。どれだけ調べても、わからなかった。1年ぐらいは頑張ったよ。でも、諦めた。たぶん、彼女の方も知られたくないんだろうと思った。俺は心に穴が開いて、それを埋める術を失っていった。生きてるだけありがたいだろうって、みんなが言ってくる。健康で、金もあって、人生があって、それだけでありがたいってさ。生きていてわかったよ。そうでもないってね。俺たちにとって大切な何かはそんなものじゃ測れない何かさ。
社長には報告した。「そうか」と言っただけだった。まったく何も言ってこなかった。親父さんは親父さんなりに何かしようと思っていたのだろう。俺は仕方がないのかなって思ったんだ。で、ほったらかしにした。俺の出番じゃないなってね。そして俺はまた北海道から灘岡、沖縄までトラックを走らせることになった。伽藍堂なままなのは変わらないけど、それが正しいと思うようになったよ。
俺は受け入れたんだ。人生ってやつ。人間って生まれた時は100%なんだよ。でもどんどん減っていく。充電された携帯電話みたいさ。0になった時、人生が終わる。死ぬって意味じゃない。終わっちまうってことさ。
そろそろ死ぬわけだけど、なんかそんなことが思い出されたよ。人生、長かったようで、短かったかな? 42年間、よく生きたと思うね。もう少し頑張ってみるべきだったかもな。俺は誰かを幸せにできたのかな?
みんな、ありがとう。とにかく、感謝だ。
社長、それから女将さん、初恋の花井花子さん、その家族、名前は勘違いしてたけど、花井華湖さん、同居人の研修医さん。ありがとうな。占い師にも感謝しなくちゃね。ちゃんと42歳まで生きたってことは、約束を守ったってことなんだろうな。不思議だよな。42年かけて気づいたことはそんなことだ。
窓の外には、雷が見えるよ。なんか暴風雨になってるよ。雷も鳴っているぜ。さっきまで、ブルーインパルスが飛んでたような気がするけどね。人間は、生きている時はずっと生きている気がするもんだよな。これからどうなるのかね? 死んでみなくちゃわからないことがいっぱいあるね。準備しなくちゃいけないことってなんだろうな? 死ぬのにどんな準備がいるんだろう? そんなこと考えてるよ。死んじまうからいいのか。
俺の感覚はどんどんなくなっていく。下半身はぶっ飛んじまった。もうちょんぎれた感じしかしない。でも、俺はそこにいるような気がする。裸で宙に浮いているような気がする。俺はどこかにいるみたいだ。なんかフワフワしてるね。ここは病室じゃないみたいだ。なんとなく灘岡湖を泳いでる気がする。
その時、社長が病室に駆け込んできたような気がした。俺の名前を呼ぶのは親父さんしかいないからさ。俺、たぶん、事故ってから、5、6時間は生きているんだろう。だって親父さんは東京にいたしね。俺にしちゃ、頑張ってるんだな。親父さんは、8年前よりも丸々太ったし、さらにハゲ上がっていた。お子さんは、高校生だったかな。あれからお互い、いろいろあった。申し訳ないなって思うよ。だって、あのビルどうするんだろう? 倒壊しちまったぜ。花井花子さんの罰だったら、俺っちのせいにしていいよ。俺の少ない財産で、なんとかならんもんかね? 会社だけは潰したくなかった。俺の居場所なんだ。それだけは無くなってほしくない。
「お前は悪くない」と社長は言った。泣いてるような声だったし、そうでもない気がしたし、とにかく、ありがとう。社長のおかげでたくさん生きることができた。もう少し長く生きたかったけど、最後ぐらいカッコよく生きることができた。それは嬉しいよ。
「お前は何も気にするな」と社長は言った。「なんてこった。こんなになっちまって」
「気にしなくていいですよ」と俺は言った気がした。「もう十分です」
最後までありがとう。ほんとにありがとう。社長のおかげだよ。それからみんなのおかげだ。占い師のおばちゃんありがとう。わけもなく意識に入り込んできてさ。おかげで生きることができたよ。感謝しなくちゃね。
俺の体をバシバシ叩く存在がいた。痛いなと思った。やけにリアルな痛みだなって。
「ごめんね」と女の人の声が聞こえた。
俺はそっちの方を見た気がした。3番目の花井花子さんだった。いくぶんぽっちゃりしてるけど、妊婦さんの時とあんまり変わんないね。そうか、元々だったんだな。
「ああ、久しぶりです」と俺は声をかけた。
「ごめんね」と泣きながら言った。「あの子から連絡があって」
「そうか。親父さんと連絡は取り合ってたんですね。さすが親父さんだな。ちゃんと、フォローもしてたんですね」
「こんな形で会いたくなんかなかった。なんでこんなこと……」と花子さんが言った。
「あんまり親父さんを恨まないでくれたら嬉しいですね」と俺は答えた。
「それはわかってるわ。違うの。そうじゃない。社長と会ったのはさっきよ。あの事故のとき、助けてくれた女の子が私の娘なの。旦那から連絡があって駆けつけたの。あなたに最後まで迷惑をかけちゃった。ほんとはそうしたくなかったのに、迷惑をかけちゃったね。ごめんね。でも、娘は元気だから。本当にありがとう」と彼女は泣いていた。
「そうなんだ」と俺は言った。そうか、あの時、トラックで避けた女の子が花子さんの娘さんだったのか。ずっと元気かなって考えてたから。よかったよ。元気そうだった。それに大きくなってた。すげえ必死でかわしたんだ。よかったよ。怪我ひとつなかったみたいだ。俺も報われた気分だね。よかったよ。娘さんの顔を見せてくれないかな。
そこには娘さんもいる。怯えている様子はない。少しずつ近づいてくる。君を最初に抱きしめたのは俺なんだ。誇りだよ。やっぱり、親父さんに似ているね。もっとこっちに来てくれないかな。目が見えないんだ。よかったよ。君は選ばれたんだ。だからもっと大切にして生きるんだよ。それぐらいかな。
「ほんとうにありがとう」と彼女は言った。
「いえいえ、どういたしまして」と俺は笑った。「名前教えてくれないかな?」
彼女は名前を言ったような気がしたけど、聞こえなかった。まあ、いい。きっと素敵な名前なんだろう。
よかった。なんだかすべてが報われたみたいだ。俺は気づく。ベッドにいるんじゃない。俺は砂浜に寝っ転がっている。ここは灘岡湖の砂丘だ。気持ちいいね。波の音が聞こえる。磯の匂いがする。そこにみんなが集まってる。女将さん。親父さん。研修医さんも。華湖さんも。それから3番目の花井花子さん。旦那って聞こえたから結婚したんだね。そうか。よかった。幸せでいてくれたら、嬉しいよ。最後にみんながいる。別れちまった人間がそばにいてくれる。それだけでもありがたいね。そして君もいる。怖がる必要はないよ。俺が守ったんだ。ずいぶん、大きくなったね。俺の腰ぐらい身長があるんじゃないかな。それから可愛いよね? 俺っちみたいなやつに好かれることを願うよ。
君のために一生を捧げるつもりだった。まだ残りかすが残っていて、君に捧げる分はあったみたいだ。ほんとによかった。みんなが俺の周りに座っている。なんか声をかけたいけれど、そんなことできなかった。
嬉しいよ。ありがとう。俺には家族もいなかったし、子供もいないし、ツテもなかったけど、俺なりの家族を作ったみたいだ。俺だけの家族。ありがとう。花井花子さんが3人もいるけどね。奥の方に、4人目もいたわ。俺が井戸から落ちた時に助けてくれた女の子。いつまでも隠れてないで出てきなよ。その女の子が俺のところに近づいてくる。
「よく生きたわね」と声がした。
なんか聞いたことがある。って言うか、占い師のおばちゃんの声だ。また、どっかから言ってんだろうね。
「おばちゃんのいう通りになりましたね」と俺は笑った。「でもちゃんと生きましたよ」
「おばちゃんじゃないわよ」と小さな女の子が言った。「私も花井花子って名前なんだから。あの時、あなた井戸に落ちたでしょ?」
「えっ?」
「ちゃんと、親父さんに呪いをかけてあげたのよ」と言った。「昔から私のいうことって当たるのよ。あれから灘岡に引っ越したの」
「そうか。おばちゃんやと思ってたけど、若かったんだね」と俺は呟いた。
「失敬な。あなたと同い年よ」と小さな女の子が笑った。「おばさんになったけどね」
「みんな花井花子さんだったのか」
「生きていれば、奇跡っていうものがあるのよ。奇跡は誰にも制御できない何かなの。あなたはそれを感じることができた。ちょっとは幸せな人生だと思うわよ。それを感じることができない人もいる。でも、あなたは奇跡を体感した。もうすぐあなたも死ぬ。残念だけど。私たちとは会えなくなるけど」
「ひとりぼっちなのはなれてるからさ。向こうには、初恋の花井花子さんがいる」
「会えるといいわね。実はあなたのこと好きだったりしたのよ。当時。だから占った」
「みんなが俺の周りを囲んでくれる。これが俺の家族だ。おばちゃんもね。そういえば俺、結婚するって言ってなかったっけ?」
「そうね。あなたすっかり忘れていたでしょう? まあ、早漏の男は嫌いだからいいわ」
「まいったね」と俺は目をパチパチさせた。
「さあ、あなたは自由になる」
「みんなと会えて嬉しいよ」
「なんか話しておくことはない?」
「特にないな。俺はしっかり生きたのかな? このクソみたいな世界で」と俺は言った。
「しっかり生きたと思うわ」
「じゃあ、死んでもいいわけか」
「そうね。十分だと思う。みんな一生懸命生きてるけど、あなたみたいになかなかなれないと思うわね」
「光栄だね。みんなにありがとうって伝えてくれないかな?」
「伝わってるよ。他のみんなを見てご覧」
他のみんなを見る。みんな泣いている。ボロボロ涙が溢れてる。俺っちも泣きそうになっちまった。俺は泣いてるわけじゃないけど、泣いちまった。とにかく嬉しいよ。
「笑って欲しいな。俺は悲しい人を見るのが嫌いなんだ。ありがとう。声も出ない気がする。何も聞こえないしさ。ただ、ずっと心で思ってるよ。ありがとうって」
「ありがとう」みんなが言ったような気がした。「ほんとうにありがとう」
俺の周りを取り囲み、笑顔になってる。
「そうだ。笑ってくれよ。笑わなくちゃさ。でも、そんなに笑われると、くすぐったいやね。でも、嬉しいよ。死ぬことがこんなに嬉しいとは思わなかったな。最後にみんなに会えた。嬉しいよ。ありがとう」
「ありがとう」とみんなが言った。
「ありがとう。サヨナラ」
俺はそう言って目を閉じようとした。
そして親父とお袋がいることにも気づいた。ああ、なんやかんやあったけど、ありがとう。初恋の花井花子さんもいる。彼女は笑って両手を広げてる。ずいぶん元気に見える。よかったよ。ほんとうによかった。
俺は思いっきり彼女を抱きしめるだけだ。俺は起き上がった。みんなが拍手している。目の前には湖が見える。そうか、俺はそこに帰っていくのか。俺は歩き出した。するとどんどん、水の中に入っていく。膝丈、腿、腰、胸、首、顔が水の中に入る。それでも構わずに進み続ける。俺は湖底を歩き続ける。いろんな人たちが現れては消えていく。泡のように。ああ、そうか。俺は湖の一部になったんだ。俺は生まれ変わるんだな。塩の味。
なんというか、最高の気分だったよ。
ありがとう、サヨナラ。バイバイ!
目を開けてみると空を見上げていた。真っ青だったね。ただ月のように切られている。丸い青空だ。まるで井戸の底から空を見上げているような気分だ。小さな穴に青空が見える。まるでどこかの砲台の中に入っている弾だね。ここどこ?って思っていたら、俺の周りが燃えている。炎が立っている。そうか、ここが火葬場だったりするんだな。俺の体が燃えている。檜のお棺だった。親父さんに無理させたのかな? ありがとう。とはいえ、燃えてる気がしねえな。熱くもねえし。
俺の体が宙に浮き始める。煙突の外にひっぱりあげられてる気がした。あの時、井戸に落ちた時、そういえば警察に引っ張り上げられたんだっけな。俺の体が徐々に浮かび上がっていく。そして俺の体が煙突の外に出た時、俺は真っ白くなっていることに気づいた。俺は真っ白な雲になっちまってる。町が見える。どうやら俺は灘岡火葬場で焼かれたらしい。灘岡が見える。灘岡湖が見える。小さな町だ。そこでいろんな人に出会い、いろんな人と巡り合った。ありがたいことだ。
これが死んだってことか。なんか生きているのとあんまり変わんないね。死ぬって悪くないもんやね。なんか、フワフワしてるよ。ずっとソープ嬢に抱かれてるみたいだ。
空を漂っている。空を飛んでいく気がする。俺は空を飛ぶ。気持ちいいもんやね。いきなりブルーインパルスが突っ切って、俺をバラバラにする。コックピットに花井花子さんが見える。彼女は俺に手を振って笑ってる。そして、俺はひとつの雲になっていく。
俺はここにいる。そこにもいる。どこにもいる。そうか、俺がこの世界のすべてになることなんだな。死者の王様ってことか。
どんどん宙に登っていく。井戸の底から脱出できた。俺は暗闇が苦手だったからさ。これで俺のトラウマはなくなったわけやね。ありがたいことだ。そういや、葬式代もどうしたんだろうな。親父さんだろうな。また、迷惑をかけちまった。ありがとう。それしか言えないよ。ありがとう。ごめんね。
俺は宙を漂っていく。するとそのスピードがどんどん上がっていく。消えちまいそうになる。意識がぶっ飛んでいく。音速を超え、光速さえ超える。空を飛び越え、宇宙までたどり着く、俺は宙をクルクル周り、宇宙に漂っている。星が見える。月が見える。地球が見える。目をパチパチさせる。慌ただしいやね。さっきまで王様だと思ったのに。
気づくと、また井戸の底だった。その感覚を覚えている。空が青く切り取られている。でも、そこには縄梯子があって、俺はゆっくりと上がっていける。なんだこれ? 俺は縄梯子に手をかけて、登っていく。そうやって外にでた時、そこには、女性がいた。
「心配したわ! 大丈夫?」と彼女が叫んだ。「もうどうにかなるかと思った」
ここはどこだろう? 辺りを見回す。俺の体を見回す。俺はなんだか子供に戻っちまったみたいだ。俺はお気に入りだったティシャツを着てる。泥だらけだけどね。たくさんの大人がいる。警察もいる。なんでこんなことになっちまったのかわかんねえ。
「大丈夫?」と俺を抱きしめる女性。それは、記憶にないんだけど、どこかで引っかかってる。どこかで出会ったことがある。
俺、やっぱり、ここに戻ってきたみたいだ。いや違うな。ここは、別のどこかだ。
「母さん?」と俺は言った。
「よかった、痛くない?」と母さんは言った。母さんの二重の大きな目、小さな鷲鼻、分厚い唇。
「うん」
「井戸を覗いていて落ちたって聞いて駆けつけてきたの。お父さんにも連絡したから。びっくりしてた。すぐに来るわよ」
「そう。ねえ、母さん?」
「何?」
「母さんって花井花子だよね。花は簡単な花に、子供の子」
「そうよ。あなたは花井あきらでしょ?」
「そうか」
「大丈夫? あなた頭とか打ってない?」
「大丈夫だよ」と俺は言ったが、なんとなく、俺の過去の、あるいは、未来の記憶が薄れていく。俺は、8歳の花井あきらになっている。明らかに俺はここにいるんだけど、どこかに行ってしまっている。でも、俺はここにいる。そこにいる。俺はしっかりといる。
目の前に大人がいた。それはすぐにわかったよ。俺の親父だった。親父は俺を見つけると、いきなり抱きついて泣き出した。
「生きててよかったよ。心配したんだ」
「仕事は? トラックどうしたの?」なんだか自然と言葉が出てくる。
「社長に言われて駆けつけたんだ」
「ありがとう父さん」と俺は言った。
みんなが拍手をした。よかったねって。
俺は照れちまった。なんか、死んだはずなのに、生き返ってきたような気がするんだけど。俺の明確な記憶が薄れていくのはわかる。もう、何をしてきたのかわからない。
父さんがいる。母さんがいる。俺は8歳のガキだ。きっと、また何かをするために俺はここにいる。俺は何かをするために戻ってきたんだよな。でも、何か違うんだ。
俺は一体、どこにいるんだろう?
まあ、いいか。俺はどこかにいるんだ。死んだとしても、生きているとしてもね。
「母さん?」
「何?」
「僕はどこにいるんだろう?」
「ここにいるに決まってるじゃない。灘岡公園の井戸のそば」
そうか。俺は灘岡で生まれた? あれ? そんな気もするな。何かが壊れて、何かが元に戻っていく。新しい一日が始まってる。
なあ、みんな、聞いてくれよ。チューン・インしているかい? 俺の声が聞こえる?
なんか変わった人生を歩み始めたよ。
俺は生きているのか、死んでいるのかわからない。生きてもいいし、死んでもいい。
けれど、俺はここにいる。
俺は、ここに、いる。そこにいるよ。
イッツ・オールライト。
(了)