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語るべき言葉のために。KAAT神奈川芸術劇場プロデュース・リーディング公演「ポルノグラフィ」

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2005年7月にロンドン市内の地下鉄とバスで起きた同時爆破事件を題材にした、英国の人気劇作家・サイモン・スティーヴンスの戯曲のリーディング公演「ポルノグラフィ」が、2021年4月16(金)日から4月18日(日)まで、KAAT神奈川芸術劇場の中ホールにて上演された。
今作は、昨年、新型コロナウイルスの影響で中止になった延期公演となる。テロが起きた周辺の地域で生きる人々の7つのエピソードで構成された物語。
出演は、上田桃子、内田淳子、小川ゲン、奥村佳恵、竪山隼太、那須 凜、平原慎太郎、堀部圭亮と実力派揃い。演出は、桐山知也が手がける。そんな舞台の楽日を観劇することができた。


文 / 竹下力

我々があなたに語るべき言葉

この舞台を観ていると得も言われぬ感慨を抱く。我々があなたに語るべき言葉は、目の前に無数にあるはずなのに、この世界では、誰も口に出すことや聞くこともできず、手が届かないまま存在している。我々が発する言葉は、“真実”をいたずらに隠匿するイメージとして成立するだけで、本来あるべき世界の姿を遠ざけてしまう。突き詰めれば人間は、どんな理想を語ろうとしても、行為として現れてくるのは、「悪」でしかない矛盾と諦めを煮詰めた存在かもしれない。言葉で“事実”を語ることはできても、誰も本当の答えを教えることはできないもどかしさは、生きているだけでつきまとってくる。今作を観ていると「善」を為そうとしても、「悪」にしかならない人間の生存の悲しみに気づかされる。

この公演は、壊れた象牙の塔のがれきの周縁を歩きながら眺めているような、理想や夢が壊された果ての虚無を抱き続けることを余儀なくされた切なさにあふれた舞台だ。そして、それでもなお生きなければならない人間の不思議さとグロテスクさを炙り出している点で、演劇の魅力の詰まったリーディング公演だった。

オフビートでポストモダン

舞台には8つの椅子がジグザグに並べられている。正面にはスクリーンがあり「この芝居は何人の俳優で演じてもいい。また7つの章をどのような順番で上演しても構わない」といった文字が投射されている。ピンスポットや地面に設置された蛍光灯に照らされた椅子に座った俳優だけが朗読する。観客席と舞台を区切っているのは規制線という黄色いテープだ。

やがて、ひとりの俳優にライトが当たり、育児と仕事の両立に追われ、人生に疲れた女性の冷めたモノローグから舞台が始まる。そこから、学校の先生をストーキングするティーンと思しき男子生徒、ボロアパートで近親相姦から抜け出そうともがいている兄妹の対話、アメリカで働いていたがロンドンに戻って職を探している元教え子と彼女を誘惑する大学教授のダイアローグと続く。

そして、スクリーンに映し出される無数の人々の描写。続いて、爆破事件の実行犯の語り、夫を失った孤独な老婦人のささやかなつぶやきへと繋がる。言葉にならない言葉や、声にならない声が静謐に響きわたる。そうして、2005年7月6日の「オリンピック決定」のニュースに沸くロンドンの喧騒から、7日の「地下鉄とバス同時爆破事件」の絶望にいたる数日間の人々の生活の切れ端が瑞々しく淡々と語られる。

ひとりが語り終えるたびに、地下鉄のヘッドライトや爆弾の爆発を模したフラッシュがあって暗転し、俳優の周りを規制線が取り囲む。精神的に追い詰められていく、あるいはいろんな苦悩でがんじがらめの人々の焦りを感じさせる。重要なのは、最初のスクリーンの但し書きにあったように、各エピソードは並列に並べられるので、モノローグとダイアローグがテンポよく展開していくが、ドラマらしいドラマは見当たらない。まるで2005年7月のロンドンの人々の台詞がデータベースから無作為にかき集められて展示されているようだ。言葉のイメージによって作り出される歪んだ主観による現実と、わずかながらの登場人物たちの関係性だけを浮かびあがらせ、テロの説明は排除し、最も大切な部分の解釈は観客に委ねられている。オフビートでポストモダン的な性質の作品で、これがロンドンのテロ事件を扱ったと言われなくても、世界中のどんな事件にも見えるし、観客は傍観者のようにクールな視点で眺めることができる。劇場では観客と演者は近くに存在するのに、冷めた目線と遠い距離感を感じさせる空虚な味わいが作品に深みを与えていた。

人間の抱える本質的な矛盾

本作のリーディング公演としての最大の魅力は、言葉の意味や声のトーンとグラデーションだけで、観客の想像力を掻き立てることだ。明確な行為がないので、時制はねじ曲げられ飛躍し、行間に時系列がなくなり、観客は自らのイメージで俳優の言葉を紡いで舞台を作り上げる。観客が作品と同一化していくので、朗読劇に向いた作品だと思う。各々のキャラクターの個性のせいか狂気を孕んだ言葉のイメージの豊かさに溢れているけれど、それが爆弾の爆破の瞬間、テロの瞬間は描かれていないことで一瞬にして虚脱感を味わうことになる。

白井 晃がナレーションで「地獄のようなイメージ」とリフレインをするけれど、肝要なテロの瞬間には思考が行き止まってしまう。想像が想像を促しつつ、その時の現場に向かってひたすら突き進んでいくはずなのに、“ある地点”で思考が停止して空転してしまう作劇。いうまでもなく“ある地点”とは、テロの瞬間であり、爆心地である。我々のイメージの限界がそこにある。そこでもたらされるのは、“完全な消滅”だからだろう。そこには空無しかない。そのことを明確に意識させてくれる。

もちろん、その周縁には様々な“地獄的なイメージ”が散らばっている。家庭内暴力も、近親相姦も、パワハラも、爆弾を抱えた犯人が現場に向かうまでのちょっとした仕草も、グロテスクに見えるけれど想像できるだけ“人間的”である。それらは悪意や孤独に繋がり、癒されることもなく、解決の糸口はどこにも見当たらないまま話がストンと終わってしまう。彼らはひたすら惨劇の空無を明らかにしていくだけだ。想像力の臨界点を露わにしながら、人間の行為の極点は言葉で表すことのできないという分裂が起きる。

あらゆる戦争、あらゆるテロがもたらすのは、消滅の瞬間に宿るはずの壮絶なカタルシスを味わえない空疎な感覚だ。だから、いつの時代の、どこの人間もそのカタルシスを求め続ける。それは愚の骨頂と笑えるだろうか? 行為と言葉の不一致は永遠不変で、その圧縮をはかろうとしてしまう人間の抱える本質的な矛盾を誰しもが抱えていると教えてくれる。もし、そのために人が生き続けているとしたら……。空転に空転を続ける人生に明日はあるのだろうか?

モノローグには虚無や諦念、ダイアローグにはエロスが漂う

小田島創志の翻訳は、リズミカルでクリスプ、猥雑で暴力的な言葉を適切に翻訳しながら、人物の苛立ちや、虚無感をわかりやすく表現していた。どのエピソードから舞台を始めてもいいのだから、ストーリーラインは演出家の選択によって決められるのだろう。戯曲にはない言葉選びの苦労もあったと思うが、見事に日本語の舞台に仕上げた。

演出の桐山知也は、セットの装飾や動きをできるだけオミットし、リーディング劇の理想形を表現しようと注力していた。ペットボトルの蓋を開けずにすべての俳優に水を飲ませるフリをさせ、朗読劇にある意味性を取り払った演出をする一方で、耳障りな都市のノイズ、目も眩むようなフラッシュや規制線をいく本も使い、人々の生活が、思惑や欲望に絡め取られていく人間を有機的に表現する対位的な手法が見事だった。

また、人々の言葉を半ば暴力的にスクリーンに映し出したエピソードの後、朴訥と喋る老婦人のモノローグに繋げ、実際に食べ物の匂いを観客席まで届け、俳優に実際に食べさせる行為を通して、“あの極点”で起こった観ることも感じることもできない空無な現実との対比、あるいはイメージと現実の落差を描いた。“事実”と“真実”の混交がもたらす目眩を感じさせる手腕に鳥肌が立った。たしかに暗いお話ではあるけれど、たとえ“真実”に辿り着けなくても明日を生きようという祈りで希望の光を灯す演出で美しかった。

俳優たちは静かな声のトーンで、人間の抱える秘匿を暴き、小声でしゃべり、心の機微や恥ずかしさを観客に感じさせれば、どのキャラクターもエロティックでさえある。それでいて台詞回しはスタイリッシュ。生々しさとクールさを合わせた声を聴くだけでスリリングな体験をもたらしてくれる。彼らの言葉は、表層的で具体的な“事実”を語ることに力を注いでいるけれど、それが人間の心理を的確に表現していた。どの俳優も役をきちんと理解していたし、一言一言に力強いパワーがあった。

モノローグには虚無や諦念、暴力衝動が滲み出て、ダイアローグにはエロスが漂う。近親相姦の兄弟役を演じた那須 凜と竪山隼太の会話には、泥沼にハマって粘ついたどうしようもない諦めの予感を含んだエロス以上にタナトスさえ感じさせる。元学生と教師を演じた奥村佳恵と堀部圭亮の関係性には、抜き差しならない人間の業がしっかり浮かび上がっていた。

答えを導き出すために生きていけばいい

サイモン・スティーヴンスは、彼らの語る何気ない言葉でさえ指し示しているのは、テロの爆破犯が抱く思想と同じではないかという問いをしているのだろう。登場人物をバラバラに配置して、同じ地平に立たせることで、「あなたもやってしまうのではないですか?」と暗黙のうちに共犯関係に巻き込もうとする危険な戯曲を描いた。「あなたはどんな“悪”も成すことができる。死なない限り。それでもあなたは生きますか?」。彼は、人間のあらゆる矛盾や欠点を暴きながら、自己を見つめ直す機会を作ってくれた。

「ポルノグラフィ」というタイトルには、表層的なことよりも、その内側にある“真実”にこそ目を向けるべきだという意味合いがあるかもしれない。目を背けたくなる“事実”を言葉にして、やがて“真実”に辿り着くべくもがき続けること。辿り着いたゴールには、たとえ腐った果実しかなかったとしても。そんなことは醜いと嘲笑っていることしかできなければ、我々は、どうして生きていけばいいのだろう? 何を言えば正しいのだろう? もちろん、答えは明確に与えられない。答えは観客の数だけある。その答えを導き出すためにはありのままを受け入れながら生きていけばいい。その時、あなたの語るべき本当の言葉が見つかるはずだ。

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース
リーディング公演「ポルノグラフィ」

2021年4月16(金)~4月18(日)中スタジオ

作:サイモン・スティーヴンス
翻訳:小田島創志
演出:桐山知也

出演:
上田桃子
内田淳子
小川ゲン
奥村佳恵
竪山隼太
那須 凜
平原慎太郎
堀部圭亮
(五十音順)

【STORY】
家庭と仕事の両立をこなす女性、先生につきまとう男子生徒、近親相姦にふける兄妹、教え子を誘惑する大学教授、夫を失った孤独な老婦人、さらに爆破事件の実行犯。
登場人物の多くは事件に直接関わりは無いが、誰もがそれぞれに不満を抱き、鬱屈とした日々を過ごしている。各々が一歩を踏み出すことにより歪む世界……。そんな彼らの生活を通して見えてくるロンドン同時爆破事件とは……。黄色い線の内側とはどこなのか……。

オフィシャルサイト
オフィシャルTwitter(@kaatjp)

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