どうする家康の物語を構造から読み解くと
◯前書き
どうも、波触雪帆と申します。どうする家康、終わってしまいました。去年から大河ドラマを見始めた新参者で去年の空気感と大きく異なる本作が合うかなぁ?と思っていましたが、終わってみれば楽しく拝見していました。
さて、最終回を迎えたどうする家康を見終わり、ちょっと気がついたことがあるのでここで書かせていただきます。気が向いたら読んでみてください。
◯対比構造から見るどうする家康
以前Twitter(X)にて投稿したくさんの方から2000ものいいねをいただいた考察でもあるのですが、(初めてそんなにいいねいただいてビックリしました笑)どうする家康という作品は『瀬名・信康・五徳』と『茶々・秀頼・千』との対比構造によって成立しています。
瀬名・信康と茶々・秀頼は互いに理想を掲げ、周囲に夢を与え、それでもこれが叶うことなく志半ばで悲惨な死を遂げる点が共通し、五徳と千は互いの家の娘として政略結婚しながらも、最終的には相手方の家の妻として生きる決意をし、夫の死後も生き続けるなど共通する点も多いです。(名前も数字繋がりですしね)
一方で、瀬名・信康は遠過ぎる『未来』を夢に見て、茶々・秀頼はとっくに過ぎ去った『過去』の夢を見ていたという違いがあります。五徳と千も、五徳は瀬名・信康と共に『死ぬ』覚悟があった一方で、千は最後まで茶々・秀頼と『生きよう』とする点で決定的に違うわけです。
この一点のみが異なることで正反対の存在になってしまった両者を取り巻く形でどうする家康という作品は構成されているわけです。
どうする家康のストーリーで批判の多い、瀬名による東国平和連合経済圏構想はやはりこの地点では夢物語にすぎないのですが、それは家康に将来的な治世の原点を作るため以外にも、物語全体を見た時に両者の対比を明確化させ、次から話す家康と信長の対比を際立たせるためにも必要不可分な要素だったといえます。
◯そして生まれる『家康=信長』の構図
この構図が出来上がった時、それは同時に両陣営の夢を打ち砕く存在として信長=家康の構図が完成することになります。大阪の陣では意図的に信長と家康を被せる描写も多かったですよね。共に海外と積極的な交流をとったことが圧倒的な戦略の獲得へと繋がりましたし、どうする家康の世界の信長は、「戦なき世の政は乱世を鎮めるよりはるかに大変じゃろう。この国を在り姿に戻すためには困難が立ちはだかる」と述べるなど平和な世を作ろうとしているのがわかり、その点でも家康と共通します。魔王の信長と神の家康という対比も叙情的です。
ここまで共通点の多い信長と家康ですが、では彼らにとって『唯一異なる一点』とは一体何だったのでしょうか。私は彼らの『死に様』だったのではないかと考察します。
◯家康と信長の、『死に方』と『死に様』
信長と家康の最期は理想を胸に抱えながら共に一人孤独に生き絶えるものでした。ドラマとしての最後は感動的なカーテンコールではありましたが、リアル視点では家康は誰も見ていない大きな部屋の中で一人生き絶えるという形になっています。一方の信長も、自分を殺しにきた家康の幻影を追い求めながら本能寺を徘徊し一人死んでゆきます。死に方まで共通する二人ですが、その死に様は似ているようで大きく異なります。端的に言ってしまえば、信長と家康では置かれた状況が違うのです。
◯考察小噺『どうする家康で描かれる炎』
少し話は逸れますが、どうする家康という作品において、送られた手紙の処分方法って記憶にありますか?信長が家康についての密文を無かったことにしたり、茶々が家康からの手紙を捨てたり。具体的には手紙を引き裂いているところを見たことがありますか?僕の中にはありません、作品内で彼らは必ず火鉢に焚べます。そう考えてみると、どうする家康において火とは『拒絶』を表す表現として捉えることができます。愛しの家康の不義理を拒絶したり、憧れの相手からの降伏を促す手紙を拒絶したり。そしてそれは、本能寺の変での信長や、賤ヶ岳の戦いでのお市と勝家、大阪夏の陣での茶々にも言えます。信長は家康ではなく光秀が殺しにきたという現実を、お市と勝家は秀吉が治める世を、茶々はこれから訪れるであろうつまらぬ平和な世をそれぞれ拒絶したのです。
◯二人の『死に様』が描く天下人への資質、そして家康は信長を殺す──。
さてさて、話を元に戻しましょう。信長と家康の死に様がどう違ったのか。それは二人の家臣の在り方が物語っています。
家康の家臣たちは家康を優しく迎え入れました。1年間を通して『固い絆』を描写してきた徳川家臣団から一人ずつ家康に感謝を伝えられながら、家康は浄土へと旅立つわけです。
一方の信長はどうだったでしょうか。最愛の家康は来ず(正確には同盟者ですが)、長政には既に見捨てられ、光秀は謀反を起こし、秀吉すら邪魔者だと思っています。当時のネームド織田家臣の中で信長の詩を悼みそうなのは精々勝家ぐらいのものだったでしょう。信長の最期はひどく孤独でありました。
信長は明らかに孤独な人物して描かれてきたした。濃姫が登場しなかった原因もここにあるでしょう。では信長と家康、この二人を分けたものとは一体なんだったのでしょうか。
「徳を持って治めるのが王道、武をもって治めるが覇道。覇道は王道に及ばぬもの。」
これが答えでしょう。家康は人を疑わず信じることで家臣との主従を結び、信長は人を信じず疑うよう育てられ力で家臣を統率しました。天下統一目前で命を散らした信長と、戦乱の世を終結させた家康との明暗を分けたのはたったそれだけの違い。その微かな違いが人を信じるか弱きうさぎに、武力で統べる狼の世を喰らうほどの力を与えたのです。そして最後の狼の生き残り、信長の血を受け継ぐ秀頼と茶々が本能寺を思わせる赤き炎の中で命を絶ったことで、家康は本能寺の変のやり直し、もとい『信長殺し』を成功させたのかもしれません。第一話に今川義元から投げかけられたこの言葉こそが、この物語の行く末を指し示された、長い長いロングパスだったのでした。