罪と法、あるいは鶏と卵

暖房が壊れたクソ寒い講義室でダウンを着たままとある博士候補生の研究発表を聞いていた。彼は武力紛争法(Law of Armed Conflict)の問題点を指摘しながら、法律がカバーできない人々の苦しみについて分析していた。そもそも個人の苦しみは一般化のしようがないことに対し法律というものはある種の一般化を前提としているため、そこにどうしようもない不可能性があることは確かだろう。

しかし彼の研究の目指すところが僕にはいまいちよくわからなかった。法がカバーできない個の苦しみを描き出したその先が、少なくとも僕には不明瞭だったのだ。

だから僕は彼に訊ねた。あなたの研究の目的は、例えばこの研究で頻繁に参照されている武力紛争法を改正することですか、と。彼は少し呆れたような表情を浮かべてNoと答えた。確かに少し間抜けな質問をしてしまったかもしれない。しかし続く彼の言葉に僕は頭を悩ませた。

そもそも戦争があるべきではありません。

彼は続けた。そもそも戦争などという非人道的な行為に法があること自体がある種の馬鹿馬鹿しさを孕んでいるのです。何も間違ったことは言ってないと思うのだが、この回答には少し困ってしまった。結局彼の研究の目的はなんなのだろうか。

とはいえ、彼の研究意義は想像に難くないかもしれない。彼の「法の外側への眼差し」はこれまでに戦争の被害者と認められなかった人々が実は戦争の影響で苦しんできたという事実を再確認することになるだろうし、目に見えない戦争の傷痕を想像する手続きとして有意義だろう。

しかし同時に、明らかに改正の余地がある法律をそのままにしておくのもおかしな話に思われる。今回の文脈においては確かに法改正に積極的であることは戦争に積極的であると思われても仕方がないことかもしれない。しかし残念ながら全く戦争が起こらない未来というのも想像し難い。事実、まさかそんなはずがと思ったロシアによるウクライナ侵攻は起きた。ウクライナの件は広く報道されたから認知されているが、十分に報道されていないだけで大戦後にも紛争や殺戮はずっとどこかで起きてきた。戦争のない世界は限りなくユートピア的であり、武力闘争が根絶できないのであれば、一見すると「馬鹿馬鹿しい」法を改正することによってできるだけ市井の人々を守るという選択も決して馬鹿らしいと一蹴できないだろう。もちろん、それでも我々が目指すべきは武力闘争のない世界だが。

戦争に関する法を改正するということは、決して繰り返すべきではない戦争に「いつか起こる」という位相を挿入することに聞こえるかもしれない。罪の存在と法の存在は切り離せない問題かもしれないが、別個に検討することは可能なはずだ。罪と法の関係はおそらく想像以上に複雑で、鶏が先か卵が先かという問いに通じるところがあるかもしれない。しかしここで検討すべき主題が形而上学的な因果関係でないことだけは確かだと思われる。

なるほど、僕が抱く彼の研究への違和感は、僕がラトゥールのモダン論に抱く違和感と似ているのかもしれない。形而上学的処方箋は僕らが生きる経路依存的な現在に対して超越的な眼差しを向けるだけで、当事者として諸問題に取り組むことを拒んでいるのではないだろうか。

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