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古代日本の技術力と財力 その2
秦河勝は、秦氏一族の総帥として、彼らの経済的力および宗教的な結束力を示しつつ、聖徳太子を全面的に支える実力者として動いていた。
応神天皇(在位390年~431年)の時代、弓月王が127県の民(25000人以上とも言われる)を率いて帰化したという出来事から200年を経たのちに、秦河勝の傑出した活躍が、秦氏一族の政治的影響力を高める基盤の形成に繋がったと見ることができる。
7世紀初頭、河勝の当時、秦氏一族の総人口がどの位であったか分からないが、7~8万人に膨らんでいたと思われる。
歴史人口学の研究者、鬼頭宏氏によれば、奈良時代(710年~784年)の人口は、約450万人と推定しているので、渡来人集団としての秦氏一族の人口比率は、決して、小さくはない。
秦河勝の活躍で、7世紀の飛鳥時代に大きな経済基盤と政治基盤を整えた秦氏一族は、8世紀の奈良時代、9世紀の平安時代へと変遷する古代日本の政治舞台に、大きな存在感を示す職能集団に発展した。
平城京の奈良時代(710-784)から長岡京(784-794)の時代、ならびに平安京(794-1185)の平安時代、京都盆地(山城盆地)へと歴史が変遷した時期に、秦氏一族の技術力と財力は決定的な役割を果たした。
彼らの技術と財力がなければ、遷都は難しかったかもしれない。794年の平安(京都)遷都から、1868年の東京遷都までのおよそ1000年間の日本の首都機能を果たした「京の都」は、まさしく、中央アジアから移動してきたユダヤ系渡来氏族「秦氏族(弓月国の民=キリスト教徒)」の財力と技術力の賜物であった。
応神天皇の時代、日本に渡来したユダヤ系の集団が、その商才と技術力を発揮して、大きな財を蓄えたとき、その経済力は、平城京から平安京へ(奈良から京都へ)の遷都資金として強大な威力を発揮したのである。
シルクロードと言われるように、中央アジアの絹織物を、東西の交易ルートに乗せ、その流通経路を抑えたユダヤの商才民族が、古代日本に渡来し、京の都(平安京=日本のエルサレム)を造営するという歴史的偉業に貢献を果たしたことは特筆しなければならない出来事である。
桓武天皇と秦氏一族の深い関係がなければ、遷都自体ができなかったか、あるいは挫折する可能性があったかもしれない。
例えば、桓武天皇の場合、長岡京(784-794)遷都を決断されたとき、その任務を遂行する責任者に、造営使として藤原種継が任命されるわけであるが、種継の母が秦氏であり、その実家が山背国の葛野郡であるから、言うことがない。秦氏一族の故郷に都が建設されるのである。
こうして秦氏の全面的協力を取り付ける流れが出来上がり、秦氏一族は、桓武天皇による長岡京遷都(784年)、同じく、桓武天皇による平安京遷都(794年)、この二つの遷都に物心両面の尽力を果たした。
巨額の財力、最先端の土木技術と建設技術、ソロモン時代のエルサレムを思わせる都、唐の長安にも引けを取らない碁盤の目の優雅な都、そういう首都建設を秦氏は全力投入で成し遂げた。
我々は、意外と、古代史の息吹といったものを過小評価しているかもしれない。歴史を考察するとき、古代は、現代人が思っている以上に躍動感があり、人々が東西に移動し、あるいは南北に移動するというダイナミズムを持っていたと考えざるを得ない。
近現代のように、国民国家という国家概念が強固なものではなく、国家の壁が低かった古代においては、人々の移動が活発であり、戦乱のようなものがひとたび起きると、古代の人々は一族郎党を引き連れ、新たな土地に移動したというようなことが大いに考えられる。
また、非常に大胆なことを決断する統治者や経済的富豪がいたりして、大きな歴史のうねりや変化を作り上げる人物たちの刺激的な物語が、古代社会にちりばめられていると考えることは、そう的外れなことではないと思われまる。秦河勝とその末裔たちのことに思いを馳せるとき、そんな気持ちを抱くのである。
秦氏はもともと宗教的バックボーンが、弓月国においてキリスト教を信奉した民であるという研究が多いのを見ると、当然、彼らの活動エネルギーは宗教心によって引き起こされたものであると見ることもできる。
案の定、日本に八幡神社が多いという事実は、秦氏の信仰心を裏付けていると言ってよいだろう。八幡神社と秦氏は、非常に深く関わり合っているとみる見方が一般的である。八幡神社の創建に秦氏が多く関わっているからだ。
秦氏一族は、5世紀から8世紀にかけての300年~400年の歳月をかけて東進し、近畿・大和進出、瀬戸内海沿岸への植民、さらに、北陸・尾張・駿河への進出を果たし、全国的な同族ネットワークを完成させた。
その古代日本の一大豪族に成長した秦氏一族は、八幡神社を通じて強固な精神的連帯を築いたと思われる。八幡神の母子神なる信仰を、もしキリスト教の信仰に置き換えるならば、それは「マリアとイエス」の「母子神」となり、神道や仏教の信仰の中に密かに「マリアとイエス」を潜り込ませた信仰の形をとったのかもしれない。
八幡神社の信仰は、神仏習合して、護国信仰を旨とするものになり、国家鎮守、武運隆盛などの外敵打倒の勇猛心を奮い起こす信仰のようになってしまった感はあるが、本来は、平和を願う信仰の心を大切にする宗教であると見てよいはずである。
秦河勝を祀る赤穂の大避神社は、その名称である「おおさけ=大避=ダイヒ=ダイビ=ダビデ」と解明されることが一般的となっており、彼がユダヤ人であったこと、彼はまさにダビデのような武運と王的権威をもって、古代日本における活躍と実績を残したことを、秦河勝自身が語っている、そういう神社であると見て間違いないだろう。