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古代日本の技術力と財力 その1


古代日本と言うことになれば、その姿を明確にすることが、近現代の日本の姿を捉える以上の困難が伴う。資料などが不足していることもあって、その分、憶測、憶説の入り込む余地を残すので、実像を明確に掴むことが難しくなるのは当然のことである。

しかし、ある程度、分かる人物もいて、非常に影響力のある仕事をして、時の権力に仕え侍った業績などがあれば、実像を浮かび上がらせることも不可能ではない。そのような意味から、取り上げることのできる人物の一人が秦河勝(はたのかわかつ)である。正確な生誕と死滅は不明であるが、聖徳太子(574-622)と同じころの人物だ。

秦河勝を取り上げる理由は、この秦一族が飛鳥時代、奈良時代から平安時代にかけて、非常に大きく、かつ決定的な働きをしたからである。いや、それ以後の日本政治、日本社会、日本宗教、日本文化の中で、少なからぬ影響力を及ぼしてきていることが分かっているからである。日本における秦一族の働きは想像を超える大きなものがあると言える。

ざっと、大まかな所を言えば、秦造河勝(はたのみやつこかわかつ)は、山背(やましろ)の葛野(かどの)、京都の太秦(うずまさ)に拠点をおいて暮らしており、聖徳太子の舎人(側近)であった。

太子の財政、軍事の両面を支え、実権を持っていた重要人物である。秦河勝は金色(こんじき)の弥勒菩薩像、二体を聖徳太子から賜り、それをきっかけに、603年、広隆寺を建立したと言われている。

財政、軍事の面から聖徳太子を支えたという功績は、大変なもので、それゆえ、弥勒菩薩像二体を聖徳太子から賜るほどであったわけだ。古代豪族において、群を抜く大財力を成していたことは間違いない。

「太秦は、神とも神と聞こえくる常世の神を打ち懲(きた)ますも」(皇極三年7月)とある「日本書紀」の記述からも分かるように、秦河勝は京都では神のごとく讃えられ、噂が遠くまで響いていたということである。

秦氏一族は渡来系であると、日本書紀に記述されている。「秦」は「はたおり」の「はた」と関連しているとも言われ、文字通り、養蚕、絹、麻、木綿などの織物産業に優れた才能と技術を有する一族であったことは確かである。

それだけでなく、土木建設業、瓦製造業、金工、刀剣製造、酒造などの幅広いテクノロジーを手中に収め、古代日本、随一の大いなる職能集団であったと見てよいだろう。そして、それは彼ら一族に莫大な富をもたらしたという福徳が秦氏一族に与えられたことは疑いのないところである。

秦氏一族のこれらの技術はどこからもたらされたのか。秦氏一族が渡来系であるとすれば、当然、大陸からもたらされたものであると見ざるを得ない。

中国から朝鮮半島へ渡り、さらに、朝鮮半島から日本へ渡ってきたという経緯、もしくは海路で日本列島へ辿り着くという経緯などを考えれば、秦氏一族の持つ技術の発出地は大陸であり、大陸ではぐくまれたものであるという結論になる。

秦河勝の6代前まで遡ると、秦酒公(はたのさけきみ)という名前の人物が見つかる。さらに、秦酒公を深堀する必要があるようだ。

秦河勝の先祖は、その6代前まで遡ると、秦酒公(はたのさけきみ)の名を見つけることができるが、彼は、雄略天皇の時代と重なっているから、400年代の後半期(450年代~470年代)に活躍した人物である。

「日本書紀」の雄略天皇の15年の条に、臣、連などの諸氏のもとに分散して暮らしていた秦の民を集めたいと秦酒公が天皇に訴えたところ、天皇は秦の民を集め、酒公に賜ったとある。

これで、秦氏一族(秦民92部18,670人)は非常に強い結束を作り上げ、優れた職能集団がますます大きくなり、その一族の発展と繁栄を築くことになるのだ。秦氏一族が天皇に貢進した膨大な絹の山は天皇を大いに喜ばせ、それを納める大蔵を宮側に立てて、秦酒公はその長官になったほどである。

このようにして、雄略天皇(在位457年~479年)のころには、相当の人数の一族集団を形成したことは分かる。

だが、それより、もっと前の応神天皇の時代(在位390年~431年)に、実は、秦氏一族が日本に大挙してやってきていたことが「日本書紀」に記されている。秦氏一族は5世紀初め(406年)に大挙して日本に渡来したのである。

彼らは秦の始皇帝の末裔であると名乗っているが、その真偽はともかくとして、弓月国(ゆづきこく)から日本列島まで移動し渡来したということである。

弓月国は、現在のカザフスタンと中国の国境付近にあった国で、おそらく、戦乱や苦役を逃れて、東へ、東へと移動して朝鮮半島の東南端に達し、秦韓と名乗る国を作っている。

その大部分が、新羅の圧迫を逃れるようにして、加羅(任那)を経て、百済へ逃れ、百済から日本へと大移動を決行したものと思われる。新羅(斯蘆=しろ、さろ)の圧迫に屈し、新羅に吸収された秦韓の人々もいたにちがいない。

中央アジアにあった弓月国の民は、キリスト教徒であったと言われており、その大部分は、BC722年に滅んだ北イスラエルの人々の一部、或いは紀元70年に滅んで完全に国を失ったイスラエルの人々の一部が、中央アジアに逃れて作った国が「弓月国」(ユダヤ人の国)であったため、その国の民は、大半がユダヤ教もしくはキリスト教徒(景教=ネストリウス派)であったと見られる。

秦氏一族はキリスト教徒であったという場合、そのキリスト教は原始キリスト教、またはネストリウス派の「景教」の信奉者たちであったのかもしれない。

聖徳太子にぴったりと寄り添い、聖徳太子を物心両面から支え、聖徳太子を「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と言うような呼び名によって、イエスの馬小屋誕生と重ね合わせる連想に引き入れるなど、聖徳太子をメシヤ的な信仰対象にした形跡を窺わせる。

いずれにせよ、こうした経緯を見ると、非常に篤い信仰心を持った宗教的な氏族の集団が秦氏一族であると見ることができる。政治の舞台に深く首を突っ込むことは避けていたようにも見え、熱心に殖産に励み、絹織物業などを起こした一族の姿が浮かび上がる。

やはり、古代社会の日本において、秦氏一族は非常に必要とされる職能集団であり、日本の古代を優れたテクノロジーでリードした功労の多い氏族であったと言わざるを得ない。


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