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2022「愛と野生」に至るまでの過程

今年、「愛と野生」を抱負に掲げた。

私は20代半ば以降、徹底的に「自分の感情を俯瞰する、認識した上で対処する」ことを努力した自負がある。これをやらないことには絶対にクリアできない超巨大な壁が立ち塞がっていて、恋愛も仕事もプライベートも全てに関わってくる問題だったので、絶対に見ないフリをしては通れない道だった。

その戦いを続けて10何年経ち、結婚も10周年を迎え、39歳になる今年。そろそろ自分へのキツい戒めを解除して、もう少しわがままに生きることを許しても大丈夫なのでは?と思えた。

この10何年の己との戦いを振り返ると、それまでは他人のせいにして怒ることでその場凌ぎしていた問題が、本質的には自分の問題であることがほとんどだと気づいていく、その作業の繰り返しだった。どんな目に遭っても、最後は自分自身を叱り、再教育する日々はなかなかにキツかった。

私がこんなに傷ついたんだから相手が悪いに決まってる、と思うことも、よーく自分の感情を観察したり、はたまたとても遠いところから眺めてみたりすると、自分にも必ず落ち度があった。いわゆる本当にこちらに非の無い巻き込まれ事故以外の、誰かとの関係性から派生する問題というのは、どこかしらで「お互い様」のことが多々ある。そしてとにもかくにも、相手が変わることを期待してはいけない。自分が変わることでしか現状打破はできない。(と思っていないと逆にキツい)

その結果、自分が見たくない、認識したくないくらい愚かで醜い自分とも向き合うことになる。これは本当にしんどい。

だから私は間違っても若い頃に戻りたいなどと全く思わないし、あの愚かで傲慢で己だけは汚れていない正義の塊のように思っていた自分と、血肉を斬り合うように戦う作業は、もう本当にごめんだ、と心から思う。

とは言え、今でもまだまだ若輩者で愚かな私にはその戦いをしなくてはならないタイミングが往々にしてあるのだけど、肉体改造ならぬ精神改造を行なったあの20代後半〜のキツさはもうあの年齢特有の戦いなのでは、と想像している。大変キツかったけど、あれをやってなければ夫との結婚生活はまず間違いなくうまくいっていないし、花とポップスも生まれていないし、愛する人たちに囲まれて幸せに暮らすなんてことには程遠かったと思う。

そして今やっと、手枷足枷をつけながらトレーニングしていた時期を終え、ドサッ…と枷を下ろした私は、なんだかとても具合がいい。もう枷をつけなくても、他人が私と別の人間であること、そのことへの尊重、期待せず愛すること、適切な距離を図ること、暴発しそうな感情を俯瞰して様子を見ること、それらのことがもうそんなに頑張らなくてもできるようになった、ような気がするから。肉体と違って目には見えないから「気がする」としか言いようがないけど。

要は「私は、私を、信頼できる。」と思えたのだ。だから枷を解いた。

その結果、浮かんだ抱負が「愛と野生」。脳で冷静に処理することすらも、私の野生の一部になったから。もっともっと感じたことに素直に生きてもきっと大丈夫だ、と思う。

そんな2022年。風の向くままに、生きている幸運をめちゃくちゃ楽しんでいきたい。できれば大好きな人たちと一緒だと、なお嬉しい。



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