『死と乙女』とチリ・クーデター|作品をよりお楽しみいただくために
札幌を拠点に活動する劇団・弦巻楽団は、2023年12月2日(土)〜3日(日)にアリエル・ドーフマン作の世界的傑作『死と乙女』(1990年)を上演します。
本作はフィクションですが、その背景にはドーフマン自身も体験した1973年のチリ・クーデターがあります。作中では、劇の舞台がチリであるとはっきりとは明言されていませんが、軍事政権が崩壊した直後の国で起こる、3名の登場人物による「正義」と「交渉」のスリリングな会話劇です。
作品自体は、歴史に詳しくなくても楽しめるように作られていますが、歴史的な背景を理解することでさらに深い楽しみが得られるのではと思い、より充実した観劇体験のための基礎知識をご紹介します。
監修:馬場香織(北海道大学公共政策学連携研究部、准教授)
1973年チリ・クーデターとは
1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴで発生した軍事クーデターです。
当時のチリは他のラテンアメリカ諸国と比べても、安定した民主主義体制を持っていました。政党は「右派」「中道」「左派」の3つに分かれ、中道が左右いずれかと連合を組むことでバランスが保たれていました。
しかし、1960年代に入るとキューバ革命や冷戦の影響を受け、イデオロギーの分極化が進みます。左派は急進化、右派は保守化するとともに、中道のキリスト教民主党は独自路線を確立し、三つ巴の対立・抗争へと発展していきました。
1970年の大統領選では、左派のアジェンデが政権を取ります。
アジェンデ政権は議会制民主主義の下で社会主義社会の実現を目指した世界初の政府として国際的な注目を浴びましたが、アジェンデは左派勢力のみの独自路線を選択し、国内の対立はますます激化して、経済的・政治的混乱が深まっていきます。右派だけでなく中道も、次第に反アジェンデ政権の立場をとるようになりました。
そして1973年、陸軍総司令官ピノチェトの指導のもと、ついに軍事クーデターが起こり、アジェンデは拳銃自殺を遂げます。
『死と乙女』が書かれた1990年から約17年前の出来事です。
16年にわたる軍事政権
ピノチェト軍事政権下では、民間人をも対象とした人権侵害行為が行われました。
クーデター直後には、1000人を超えるアジェンデ派が殺害、あるいは強制失踪させられました。拘留者は数万人に上り、大学教員や多くの学生も国外追放を余儀なくされました。
『死と乙女』の作者、アリエル・ドーフマンはアジェンデ政権の文化補佐官を務めていましたが、この時期にアルゼンチンに脱出します。
1974年以降も弾圧は続き、大統領直属の秘密警察「DINA」を中心に、政権にとって危険分子と判断された人物を組織的・計画的に誘拐、拷問、殺害していきました。
『死と乙女』に登場する妻・ポーリナへの誘拐・拷問事件は、この時期の出来事と重なります。作中の拷問の加害者は、秘密警察から拷問のコンサルタントとして依頼を受けた医者です。
1976~1978年頃になると、これら人権侵害に対する国内外での批判が高まり、政権はDINAの改編、戒厳令の緩和、軍政と反軍政派双方による政治的な刑事犯罪を対象とする「恩赦法」の制定など、対応せざるをえない状態になっていきます。
経済危機と民主主義の回復
クーデター直後の1975年に深刻な経済危機を経験しますが、ピノチェト政権は新自由主義経済を進めて継続的に成長していき、その様は「チリの奇跡」と称されるほどになりました。しかし、好景気の一方、貧富の格差は拡大していきます。
1982年、二度目の経済危機が起こります。国民の4割以上が貧困ラインを下回ると推定されるまでに至り、先の人権侵害批判もあいまって、国民のピノチェト政権に対する不満は高まっていきます。
反軍政派は街頭行動などを続けますが、逮捕や脅迫、拷問などの犠牲者は増えていくばかり。そこで、左派・中道の反軍政派は「対決型」から「交渉型」へと戦略転換していきます。
1988年、ピノチェトの任期の延長をかけた国民投票の機会がやってきます。
結果は、ピノチェト支持43%、反対54%で、16年にわたる軍事政権は終わりを迎えることになりました。
しかし、それでも40%超の国民はピノチェトを支持しており、依然として世論の分裂は根深く残ります。ピノチェト自身も大統領を辞任した後も陸軍総司令官の座に留まり、隠然たる影響力を保持していました。
真実と和解のための国家委員会
ピノチェトの失脚後、1990年に発足したエイルウィン政権は、軍事政権下に起きた人権侵害事件の調査のために、「真実と和解のための国家委員会」を立ち上げました。
8名の委員には軍政支持の保守派も含まれ、政治的バランスに配慮されたメンバーとなりました。軍や警察は調査に協力的ではなく、様々な制約がある中での調査でしたが、委員会の報告書は2279名の死亡者を認定しました。他方、加害者の個人名は秘密にされ、恩赦法の適用により刑事責任を問われることもありませんでした。
『死と乙女』に登場する夫・ジェラルドーは、この委員会の若きメンバーとして選出されていると考えられます。妻が拷問の被害者であることを隠しながら。
作中でも触れられていますが、委員会ができた当時の調査対象は「被害者が死に至った場合」にとどまります。つまり、ポーリナの拷問は、調査や補償の対象にはなりませんでした。
実際に拷問被害に関する正式な調査が始まるのは2003年のこと。ドーフマンが『死と乙女』を書いた1990年よりずっと後になります。
3名の登場人物(ポーリナ、ジェラルドー、ロベルト)
ここまでの歴史を前提とし、『死と乙女』に登場する3名の登場人物の背景についてご紹介します。
ポーリナ・サラス(木村歩未)
1975年、軍事政権下で誘拐・拷問の被害にあっています。数ヶ月の拉致拘束を経て、命からがら何とか脱出。それから15年、軍事政権が倒れてもなお、未だに傷は癒えずにいます。
ポーリナは夫・ジェラルドーが調査委員会のメンバーに選出されたことを喜びつつも、委員会の「限界」を訴えます。恩赦法により加害者が裁かれない中、自らの手で裁くことの正当性を主張します。
ジェラルドー・エスコバル(佐久間泉真)
ポーリナの夫。弁護士。ポーリナとは学生時代からの付き合いです。
軍事政権が倒れたのち、1990年に発足した調査委員会の最年少メンバーとして選出されました。
委員会や制度の「限界」を認識しつつも、せっかく回復した民主主義を無に帰さないために、個人による私刑ではなく、あくまで法の支配を守ろうとします。
ロベルト・ミランダ(井上嵩之)
医師。ある晩、路上で車がパンクし困っているジェラルドーを発見し、彼を家まで送り届けることになります。彼の家で酒を飲み、一晩泊まることに。
翌朝。眼を覚ますと、ピストルを自分に向けたポーリナと出会います。
「この医者こそ、自分の人生を壊した男だ——。」
復讐を果たそうとする妻、
妻を説得しやめさせようとする夫、
人違いだと無実を訴える医者。
3人の「交渉」とも「復讐」とも言える言葉の攻防は、私たち社会が抱えるジレンマを浮き彫りにしていきます。
関連略年表
関連する事件をまとめた年表です。【※】印は、『死と乙女』劇中の出来事(フィクション)であり、脚本から推定できる時系列で記載しています。
世界中で衝撃と議論を呼び起こし続けるセンセーショナルな問題作を、札幌キャストで堂々上演です。
歴史、国家、個人、愛憎、性差…あらゆる問題が浮き彫りにされる舞台で、ドーフマンが描きたかったことは何か。
拭い去れない過去についての舞台ですが、もしかするとこの国の未来、いやひょっとすると現在のお話かもしれません。
三つの運命が交錯する緊迫の夜を、ぜひお見逃しなく。
公演情報
弦巻楽団#38 1/2『死と乙女』
劇団旗揚げ20周年の記念公演第二弾として挑戦するのは、チリの劇作家アリエル・ドーフマンの名作『死と乙女』。独裁政権下での人間の尊厳と正義を描くこの作品は、3名の登場人物によるスリリングな心理劇です。1990年に発表されて以来、そのセンセーショナルな展開が世界中に衝撃を与え、今もなお繰り返し上演されています。弦巻啓太が若い頃から取り組みたいと熱望していたこの問題作を、青井陽治氏の翻訳でついに舞台化します。
脚本 アリエル・ドーフマン
翻訳 青井陽治
演出 弦巻啓太
出演
井上嵩之(→GyozaNoKai→)
木村歩未(劇団fireworks)
佐久間泉真(弦巻楽団)
日時
12月2日(土) 19:00
12月3日(日) 15:00
※開場は開演の30分前。
※上演時間約110分。
会場
生活支援型文化施設コンカリーニョ
札幌市西区八軒1条西1丁目2-10 ザ・タワープレイス1F(JR琴似駅直結)
TEL:011-615-4859
→Googleマップを開く
チケット
一般 3,000円
U-25 2,500円
高校生以下 1,000円
スタッフ
協力:さっぽろアートステージ2023実行委員会、札幌劇場連絡会(TGR札幌劇場祭2023 大賞エントリー作品)
宣伝美術:横山真理乃(劇団5454)
主催:一般社団法人劇団弦巻楽団
後援:札幌市、札幌市教育委員会
弦巻楽団『死と乙女』のほかにも、至極の作品が目白押し。「秋の大文化祭!2023」をぜひお楽しみください!
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