はっきりさせなくても良い。
代表です。
最近、言葉にすると馬鹿みたいですが「音楽」とか「バンド」って友達みたいなものなんだなって思いました。「ボールは友達!」とはちょっと違う意味で。
若い頃好きだったバンド、10代の頃胸を撃ち抜かれた音楽が、今の10代にそこまで響かないことが不思議だった。(半ば無理矢理)聴かせると「いいっすね」みたいな反応が(半ば気遣いで)返ってきました。
でも掘り返したりハマったりはしない。例外な反応もあるけど往々にして。
同じように、クラスでたまたま隣り合った人や、机がたまたま並んでいた知人が一生の友人となるケースも不思議だった。どうしてもその人じゃなきゃ!という人間とそんな「たまたま」出会う?隣り合う運命なんてある?と。
趣味を介して知り合ったり、探し求めていたタイプの人と出会った時に「一生の友人」になるのではと思っていた。そうじゃないとこの膨大な人間の数と、個性の違いの中でピッタリくる人間となんて、確率的に出会うわけないだろう、と。クラスで隣り合うなんて、宝くじより遥かに低い確率だ(多分)。
でも実際はそうじゃない。机が並んでいただけの人が「一生の友人」になることもある。出席番号が続いてただけでなることもある。(自分の唯一と言っていい親友も中学生の時、前の席に座っていた高原君だ)
たまたま目の前に居ただけである。ほんの少し遅く生まれていたらそもそも出会わなかったかもしれない。
だから、本当に自分にぴったりくる「一生の友人」は違う時代にいるかもしれない。地球上の違う場所にいるかもしれない。でも案外僕たちは出会う。それは人間が思っていたよりずっと弾力的なもので、「ぴったり」を柔軟に変えながら相手と寄り添える形状に整わせていくんだと思う。
きっと人はそうした「たまたま」を都合良く解釈しながら生きていくんだろう。たまたま近くにいた人間を「運命」と呼んだり、「勘違い」と呼んだり、「奇跡」と呼んだりして。いい加減なものである。もちろん、それは素晴らしいことだ。
音楽やバンドも、ある意味同じように出会ってると言えるんじゃないか。
偶然のタイミングで、机が隣り合う様にたまたま出会った音楽。バンド。
10代の頃刺さり今でも繰り返し聴く「一生の友達」。
もし10年遅く生まれていたら刺さってなかったかもしれない。
オアシスやブラーやレディオヘッドなど時を越えて評価の揺るがないバンドも今でも大好きだけど、心がザワつく時必ず聴くのはロングピッグスである。20歳の頃、この曲じゃないと開けない感情の栓があった。今もそこが痒くなると、使い慣れた孫の手の様に彼らの音楽を聴く。
前は今の時代のジュディマリって?とよく考えていた。
彼らに代わる存在が自分には見出せず、彼らじゃなきゃ開けない衝動を今の若い子たちは誰に託してるのだろうと。ジュディマリだけが背負ったり託せた「何か」があったと思ってたので。
自分はあった。唯一無二で、ギリギリで、でも鋭利なほどポップで。
今そこを埋めるバンドって?
でもそれはきっといるのだ。若い世代にとっては、目の前に、隣りの席に。(もちろんジュディマリの音楽は永遠不滅だけど!)
その時たまたま出会えたからこそずっと聴き続ける音楽。人それぞれに、その時代それぞれにあるんだろう。限られた選択肢の中から見つけられた、その人にとっての「一生の友人」の様に。好きなバンドとか音楽とか、きっとそういうものなんだろう。
もちろん、劇団も。舞台も。
『ナイトスイミング』の配信はおかげさまで多くの方に観ていただけました。劇場で観劇が出来なかった方達に少しでも届いたことを祈ります。
そして、それ以外にも様々な支援をいただきました。
ありがとうございます。
表立った活動はしばらくありませんが、弦巻楽団は演劇活動をやめてはおりません。現在は演技講座でチェーホフに取り組んでいます。新たな受講生も交え、発見や笑いとともに前進しております。
今後とも、どうぞよろしくお願いします。