架空の話・其の10
【架空の話】
時刻は13:00を少し回り、空港では、体調不良のためコーヒーを少しだけ飲飲んで昼食を食べていなかったことが、ここに来て思い出された。
そこで、食事を摂る場所を探すべく、Tのアーケード街を歩いていると、早速、いくつかの全国チェーンの飲食店が目に入ってきたが「初めての土地で、どこでも食べられるものを食べても・・」と「明日編入試験なのだから、ここは大人しく食べ慣れたものを・・」といった二つ考えの葛藤が生じ、とりあえず、このまま、何かに出くわすまで歩いてみようと、そのまま歩き続けていると、Yという百貨店の近くでTというラーメン屋さんを見つけた。
その店の佇まいは、首都圏ではなかなかお目に掛かることの出来ない、まさに「昔ながらの」といったものであり「こうした店は味も確かに違いない」と決めこみ、早速、そのお店に入った。店内に掲示されているメニューを見ると「ラーメン」と「特大ラーメン」と「めし」のみであり、そこからも店主の一徹なこだわりが見て取れ、好感を持てた。
時刻は既に昼過ぎ時であり、店内は混雑はしていなかったものの、他のお客さんは疎らにいて、一人客の私はカウンター席に案内され、すぐに「ラーメン一つください。」と注文した。すると、すぐに熱いお茶と大根の浅漬けが運ばれてきたが、ラーメンと漬物を一緒に食べる文化は、これまで知らなかったことから「これはどうするのだろう?」と周りの様子を見ると、お茶を飲みながら食べているのが多かったことから、おそらく、これは先付けや突き出しのようなものなのだろうと思い、私も昔ながらの湯呑に注がれたお茶を飲みつつ、この漬物を一切れ食べてみたところ、味が薄いと感じられた。そこで卓上に置かれた醤油を少し垂らし食べてみたが、ここで、その醤油の味で大変驚いた。この醤油は味が滅法甘かったのである。「これは本当に醤油なのだろうか?」と、容器を手に取り確認してみたが、やはり醤油であった。このことは、私がKに降り立って初めて体験した大きなカルチャーショックであったと云える。ともあれ、この甘い醤油には、その後もお世話になったが、他方で、最後の最後まで「これは私の知る醤油とは異なるものだ。」という認識を完全には拭い去ることは出来なかった。それ故、味覚というものは、なかなか根が深いものであると云える。とはいえ、であるからといって、決してこの醤油が不味いという意味ではなく、後に食べた当地域の郷土料理と云える鶏肉の刺身などは、この甘い醤油でないと、どうも、その本来の美味しさは分からないと思う。
おそらく、こうした絶妙の組み合わせといったものは、こうした味覚のみならず、他の文化事物においても同様であると思うのだが、如何であろうか?
さて、漬物と醤油のハナシはこのくらいにして、次に、運ばれてきたラーメンについて述べる。その見た目は、これまた昔ながらのラーメンといった趣であり、上の具材は、チャーシューとネギともやしのみであり、そのスープは澄んでいた。また、味の方も、見た目から想像される通りあっさりしていたが、同時にその中に味わいがあり、これは必ずしも若い人受けを狙ったものではなく、老若男女の広い層に食べてもらうことを前提にしているのではないかと思われた。
ラーメンを食べ終え店を出て、宿泊先のホテルにチェックインをしようと、再びTのアーケード街を歩いていると、所々、道の端々などに火山灰らしきものが堆積していることが見て取れた。そこから「ああ、ここでは本当に火山灰が降るのだなあ。」と実感した。予約したホテルも同じT地域内にあったが、さきのラーメン屋さんからは少し離れ、更に南西気味に行ったところの、いわばT地域の端に位置していた。また、面白いと感じたのは、歩いていると、横の道路に自動車と路面電車の両方が走っている風景であり、それまで、日常生活において、こうした風景を目にすることがなかったため、先刻K空港に降り立った際に感じた「何だか懐かしい」という感覚とも相俟り、不思議なエキゾチック(異国情緒)ともノスタルジック(懐旧的な)とも云えるような感覚が湧いてきた。この時の経験が根本にあるのか、私は現在もなお、路面電車の走る街並みが好きである。いや、よく考えてみると、これには別の理由もあると云えるのだが、それについては、また別の機会に述べたいと思う・・。
そうこうして、予約したホテルに着いてみると、丁度、清掃等の準備を終え、部屋に入ることが出来る時刻になっていた。そして、案内された部屋に入ったところ、思いのほかにベッドも部屋も広く、明るく、安心してくつろぐことが出来そうであると感じたものの、今回、Kに来た目的は、あくまでも編入試験であることを思い出し、うがいをして手と顔を洗い、持参した英論文と辞書を取り出して机に向かった。しかしながら、どうも意識が散漫として集中は出来ずに、結局のところ17:00前には、テレビを点けながら、何やら勉強らしきことをやっているという状態になっていた・・。
17:00頃とはいえ、この時季のK市街地は充分に明るく、また同時に、夕食を食べに出る時刻には少し早かったため、スマホでBに「こちらで安く夕食を摂れる良い店はないか?」とメールを送ったところ、しばらく経ってから「その周辺であればK中央駅近くに全国チェーンの中華料理店のK県版のお店があり、そこは安くて味は悪くないと思う。」との返事であり、最後に「ナマ物は食べない方が良い。試験頑張れ。」とのことであった。そこで、あらためてスマホで調べてみると、たしかにそのお店はあり、また値段もそこまで高くないことから、そのお店に行くことにした。また、夕食に適当な時刻までは時間があることから、もう少し街を歩いてみようと、再度、顔と手を洗ってから出かけた。
宿泊ホテルから、さらに南西方向に歩いて行くと、さきほどまでのTの繁華街的な賑やかさは薄まり、徐々にオフィス街らしく大人しい街並みになってきたが、その歩く道の先にはビルの上に設置されたと思しき観覧車が見えることから、そこにも何かしら繁華街があるのではないかと思い、そこを目指して歩き続けた。すると、道路と川が交差する川沿いに建つ、維新回天期、そして明治新国家建設に活躍した、K出身者の洋装の銅像が目に入ってきた。もう一人の、K出身者で維新回天期に活躍し、そして後の西南戦争で斃れた方の銅像は、東京の上野に建っているが、これは和装で犬を連れている姿であることから「この対称性(洋装・和装)には何かしら意味があるのかもしれない。」と考えてみたものの、此処Kには、西南戦争で斃れた方の洋装での銅像が別に建っていることを後になって知った。
ともあれ、私は川沿いに建つ銅像に近づき、その説明文を読んでみた。説明文は左側に日本語、中央に日本語で書かれた年譜、そして右側は英語にて記されていたが、この左右の説明文章を比べながら読んでいると、さきほどまで英論文を読んでいた影響からか、何やらブツブツと口に出していることに気が付いて、我に返った。しかし、そこで興味深いと感じたことは、説明文の最後に、この方の死を当時、ロンドンタイムスが報じていたことを記している点である。
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!