アイデンティティ構築への人類学的アプローチ
「人類学とは何か」(ティム・インゴルド 亜紀書房)
「寮のハウスマスターってどんな仕事ですか?」と問われたら、どう答えるか?
どんな「仕事」か?ではないけど、ひとつ言えそうなのは、「アイデンティティ構築への人類学的アプローチ」なのだろうということ。
手法として使われるのは人類学のまなび方である「参与観察」ではないかと。
そして「参与観察」的アプローチが
学校⇒公営塾⇒寮⇒サードプレイス(阿賀町で言えば風舟等)
という円状に連なっていく外側になるほど、実際に行われていることだし、
それがプロジェクト的な場においては「ジェネレーター」と呼ばれるものとなるだろう。
その中でも特に、寮の「ハウスマスター」という立場は、業務の性格上、そのようなアプローチにならざるを得ない。
~~~本書より引用
私たちは人々についての研究を生み出すというよりも、むしろ人々とともに研究する。このやり方を参与観察と呼ぶ
参与観察には時間がかかる。人類学者が「フィールド」と呼ぶところで何年間も過ごすのは稀なことではない。
フィールドワークとは互酬性の土台の上に築かれた原理であり、互酬性とは、与えられないものを偽ったりごまかしたりして得ようとすることではなくて、与えられたものをありがたく受け取るものである。
「質的なデータ」という考え方そのものが、私にはどこか落ち着かない感じがする。というのも、現象の質はその現前の中にしか、つまり現象を知覚する私たちを含む、周囲の環境に現象が開かれるやり方の中にしかないからである。
人類学者にとって、参与観察はデータ収集の方法では断じてない。参与観察とはむしろ、やりながら学ぶということへの積極的な関与であり、徒弟とか生徒がやっていることに比べられうる。
他者を真剣に受け取ることが、私の言わんとする人類学の第一の原則である。このことは、たんに彼らの行動や言葉に対して注意を払えばよいという話ではない。それ以上に、物事がどうなっているのか、つまり私たちの住まう世界や私たちがどのように世界に関わっているのかについての私たちの考えに対して、他者が提起する試練に向き合わねばならないのである。
先生に同意する必要などないし、先生が正しくて、私たちが間違っているとみなす必要もない。私たちはそれぞれ違っていて構わないのだ。だが、その試練から逃れることはできない。
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昨日見た動画「神山つなプロ ♯24 つくる暮らし・つくる仕事」
https://www.youtube.com/watch?v=dVMGrUTVDME
これを見て、あらためて「アイデンティティ構築」と「つくる(創る、作る)」の関係について考えさせられた。
アイデンティティ(自分らしさ)とは、自分を限定する(規定する)ことだと言えるだろう。
〇〇ができる、××が不得意、〇〇が好き、××は苦手、とかとか。
この動画の中の神山のアーティストたちが語るのは「神山という地域限定の中から、さらには地域との関係性から、作品を生み出したい」という想いなのではないか。
「クリエイティブ」の意味が変わってきているのではないか、と思った。
いわゆる0⇒1(ゼロイチ)ではなくて、限定(制限)された中で、すでにある資源を活かし、どう生み出すか?そしてどのように「継いでいく」のか?
さらにそれは、神山での暮らしの中で、だんだんと紡がれていく。無から有を生み出すのではなくて、資源や歴史、暮らしの営みからプロダクトを生んでいく。いや、生んでいくというより、生まれていく。
そんな「生まれていく」作品としてのモノを彼らはつくっているのではないか、と。
それを、作家の側から見ると、
「アイデンティティ構築への人類学的アプローチ」
と言えるのではないだろうか。
「つくりたい」という衝動。それは、自らのアイデンティティと切り離すことはできない。それを地域を限定した形で実現することは難しいと思うけど、なんていうか、ロマンがあるよね。神山には広大な自然と受け継がれてきた文化があり、その中で生み出す、っていうのが可能だし、それこそがクリエイティブとアイデンティティを両立させるのではないか。
22日に書いたように
http://hero.niiblo.jp/e492843.html
参考:ベクトル感のある「共同体」とベクトルとして存在できる「共有地」(23.1.22)
僕たちは地縁共同体を飛び出して「自由」を手に入れた。それは同時に、受け継がれてきた「アイデンティティ」の喪失を意味する。そのアイデンティティを消費によって生み出すという近代社会の壮大な実験は失敗した。
僕たちはアイデンティティを自ら構築しなければならない。構築というか、おそらくはクリエイト(創造)しなければならない。
そのための一歩目が「参与観察」なのではないか。
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他者を真剣に受け取ることが、私の言わんとする人類学の第一の原則である。このことは、たんに彼らの行動や言葉に対して注意を払えばよいという話ではない。それ以上に、物事がどうなっているのか、つまり私たちの住まう世界や私たちがどのように世界に関わっているのかについての私たちの考えに対して、他者が提起する試練に向き合わねばならないのである。
先生に同意する必要などないし、先生が正しくて、私たちが間違っているとみなす必要もない。私たちはそれぞれ違っていて構わないのだ。だが、その試練から逃れることはできない。
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この他者を「地域」と置き換えても同じことが言えるだろう。
3年間の参与観察というフィールドワーク。それによって、他者は、そして自分は、何が変わったのか?場は何を創造したのか?
「アイデンティティ」は、きっと「観察」と「相互作用」と「創造」のあいだに生まれていく。
それは寮生も、ハウスマスターも、寮長も同じだ。
そんなふうに場を見つめていきたいなと。