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問いを連ねる場をつくる

2025年最初の1冊に選ばれたのは、31日に届いたこの本。

『問いの編集力』(安藤昭子 ディスカバー21)

現在第3章 Emerging-「問い」を発芽させる まで来ましたが、ここらへんでひとまずアウトプットしておきます。

今年のテーマは「人間らしさ」を問う、かなあと。それを分解するキーワードを3つ挙げると「問いを連ねる場づくり」と「これからの兼業農家」「まなび×マーケティング」あたりかなあと

第3章の冒頭は「問いが奪われている?」という衝撃的な一節から始まる。

~~~ここから引用
私たちの想像力の目を開かせる契機は、あることを「知らないことすら知らなかった=無知」の状態から、「知らないということを知ってしまった=未知」の状態に転がり込むことにある。

そうして遭遇された「未知」がさまざまなアプローチを経て「既知」となっていくその道筋の中で、幾度も「問い」が引き出され、また幾重にも未知と遭遇し、その積層の上に知性の足場が育まれていく。
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そうそう。まさにまさに。「未知」と「道」が同じ音だっていうのにも何か意味があるのかも、と思ったり。

ところが、である。この後がすこしホラーだ。
~~~ここから引用
情報体制は情報資本主義と結びついており、この情報資本主義社会はいまや監視資本主義へと発展し、人々はこれによってデータを吸い上げられ消費へと駆り立てられる家畜へと劣化させられている。(『情報支配社会デジタル化の罠と民主主義の危機』ビョンチョル・ハン 花伝社)

情報社会のパラドックスは、人々が主体的に生産していると思い込んでいる情報によって、結果的に自分を拘束していることにある。

そうしてプラットフォーマーは刻々と人間から採取する情報を資源として、また私たちの認知環境を良き具合に形成し、明日の行動を誘導することで完全なる予測経済を強化している。便利さというかたちをとって、いたるところに監視と予測と行動の支配がすべりこんでいるのだ。

なんとなく惹かれるものは本当に自分の好奇心からなのか、今調べようとしていることは、本当に自分の問いなのか?誰かがつくった道筋の中で、こちらへどうぞと案内」されているだけなのかもしれない。

何もかもが揃う情報環境の中で、きっと「問い」だけが奪われている。私たちは今や、未知に飢えているのだ。
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なんておそろしい。これらはきっとすでに現実に起こっていることなのだ。情報資本主義は監視資本主義へと発展している、か。

僕たちはいま「未知」と「問い」を奪われつつある。好奇心、それこそが「人間らしさ」、いや「生きる」ことそのものではないのか?

~~~ここから引用
自然人類学者の長谷川眞理子さんは、人類があるとき大陸から出た理由は好奇心にほかならないという。あの山の向こうに何があるのか、そのやむにやまれぬ好奇心が人類の活動領域を広げ、進化させた。

問題はテクノロジーの進化そのものではなく、テクノロジーによって人の好奇心を退化させ自らが肥大化していく経済社会的なロジックであり、そこに従う人々の無自覚と無関心なのだ。要はこの道具をどう使うのか、」そこへの自覚が必要なのである。

デジタルネットワークから絶え間なく流れ込んでくる情報に「拡散的好奇心」を浪費するに任せるか、そこから「知的好奇心」を立ち上げて未知なる探究へ突き進む自らの燃料に切り替えるか。
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ここで安藤さんは「だからこそ本(書物)なのだ」と力説する。

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そもそも本を読むというのは、一方的に情報を得るだけの行為ではないのだ。テキストで表現されたことと自分の想像力が「混ざり合う」、著者との相互編集活動だと思ったほうがいい。

もっと言えば、自分と混ざり合うのは「書かれた言葉の意味」だけではなく、その奥にある著者の世界観や書いている時点で取り入れた文脈、著者の日頃のものの見方や問題意識などといった思考空間とその編集プロセス全体なのだ。いわば著者の「編集構造」が自分自身のその時々の「編集構造」と混ざり合う、ということだ。

冷蔵庫の中身とここ数日の体調と市場に出回る旬の食材によって「今晩の献立」が変わるように、日々刻々と動いている読者の側の思考の状態や編集の構造によって「読み」も変わる。
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そっか。読書とはまさにそういうことだな、と。「読書会」っていう一期一会の「場」もまさに日々の献立を考え、料理を作り上げるような活動なのだな、と思った。

この章のラストに、江戸時代の「連(れん)」という文化コミュニティが紹介されている。松尾芭蕉や、今年の大河ドラマの蔦屋重三郎が才能を開花させた「場」だ。

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連にあったような「場のダイナミズム」は、西洋的な個人主義とは違った次元で捉えなければ再現できないようだ。人の集まりとしてのサロンではなく、ある動的な生成の勢いを共に生み出すような場では、個人は他者や共同体に一体化するのではなく、むしろ他者と離れながらあくまでも連なるという特徴を持っていた。そうした連鎖が自然発生的な流れを生み、その流れが新しい文化を次々と創発させた。

そこでは、単に目の前にいる人同士がお互いに認め合うというばかりでなく、人づてに伝わる先達の知や、神に寄せて共有される地域の物語といった過去からの風を含め、交わし合う言葉の背後に無限の網の目を張りめぐらせている「間テクスト性」を、よくよく自覚しながらコミュニケーションが起こっていたのだろうと思う。

独立し閉じた個人としてではなく、半ば場に対して開かれた才能の芽吹きとして、どんな発露も歓迎された場だったはずだ。そうした場には常に、才能を入れて交わらせるに足る器があった。
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わー、それそれ。
それが「まちの研究室 ぷかぷか」で起こしたいことだし、つくりたい器なんです。

「閉じた個人」としてではなく、場に連なる「ひとつの才能」として、場に何かを投げ入れることで、場が何かを生み出す。そこに存在する誰かの体を借りて。

たぶんそんな場をつくっていくことなのだろうと思う。そして、それこそが、冒頭の「好奇心」や「未知」や「問い」が気が付かないうちに奪われ続ける現代社会においての僕なりの反抗であり、「人間らしさ」の表明であり、問いかけなのだろうと思う。

1年の始まりに、心震わされる1冊を、ありがとうございます。

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