月収6万円だったけど、やりたい仕事に絞ったら収入が増えていった話。というアレの真相
Dybe!という媒体さんで書かせて頂いたコラムが、結構多くの人に読んでもらえているようで…。
https://ten-navi.com/dybe/5368/
こういうのは久しぶりの感覚である。ありがとうございます。
でも実はこれを書いたのは、もう2、3ヶ月前のことなのだ。アップされたのがこないだだったというだけで。
だから、読んだ方の反応にあったことや、その後考えたことなりを、音楽の話を中心にここで補足させてもらおうかなと思ってこれを書いている。
あちらはちゃんとした媒体ということで、なんとなく体裁的に書かなかったこともありますしね。
まず、はてなのコメントに、「有名人で世に出ていた人がここまで低収入だったことに驚いた」というものがあった。
正直私はそこまでの有名人ではないというのもあるが、一番有名だったのって神聖かまってちゃんのマネージャーだった時で、それはもうただの会社員ですからね。
書いた通り、映画のギャラも、CMのギャラも(実はフレッシュネスバーガーのCMに、店員役で出たことがあるんです)、なんなら元々やっていた自分のバンドのギャラも全部事務所に納めていたのだ。
それはでも、そうしろと言われたわけでなく、自分で選んでやっていたこと。
だって神聖かまってちゃんの仕事だけで休みもなく忙しいのに、ライブがあるから休みます、撮影があるから休みます、お金はもらいます、だったら、他の社員にも、バンドのみんなにも示しがつかないと思ったからだ。
それで収入が増えたら、自分の実力だと勘違いするのも嫌だった。自分の精神衛生的にもそうするのが一番やりやすかった。
まあ、今思えば何割かもらっても誰も文句はなかったのかもしれないが。
それで固定給で、手取り25万くらい。まあ引かれた税金など含めたら30万ですね。
この額は、あれくらいの規模の音楽事務所としてはかなり出してくれていた金額だと思う。
働いている時間が時間なので、一般の会社感覚で対価としては安いかもしれないが、今は一般企業ももっときついところがあるし…。
バンドに対しても、支払い率はかなりいい方の事務所だと思う。大手でももっと厳しいところはいくらでもある。
本当に今は、そこそこ有名なくらいのミュージシャンはあまりお金になってない。
世の中の人たちは厳しい厳しいという話はなんとなく聞いていても、まだまだそこまで少ないとは思っていないんじゃないか。
元々私は、他の関係ない仕事をしていた時期もあったけど、やっぱり音楽の仕事に携わりたくて28歳で大阪から上京したのだ。
今も、音楽にはビッグマネーの夢はある。ただ、そこまで行ける人が本当に少なくなったとは思う。
でも自分はそもそも、バンドをやり始めた時から、大金持ちになりたいとも、なれるとも微塵も思っていなかった。それなりにうまくいって、そこそこ普通に暮らせれば、それは夢が叶ったということだった。
だから夜遅くまで働いても、土日働いても、音楽の仕事ができて、自分のバンドも出来て、だったから、あの日々は本当に幸せだった。それで給料30万なんて、自分には十分すぎると思っていた。
好きで聴いていたようなバンドの人たちにもだいたい会えて、なんなら友だちになれて。最高でしかない人生だと思ってましたよ。
まあでも、かまってちゃんのマネージャーとして顔が出てるから、批判の矢面ばかりに立たされるのはちょっと辛かったかもしれない。
劔がバンドを利用して私腹を肥やしてる、とかよく言われたものだ。
有名税とかいうが、有名ゆえにそれなりの対価があるから我慢もできるわけでしょう?
対価もないのに、なんでこんな高い税金を払わなければいけないんだよ!と当時はよく思っていた。
さっきも書いたように、私は20代の頃からバンドでやっていくのは「そこそこ」を目指していた。無理のない理想の形態は、メンバーと有能なスタッフひとりで運営することだという考えがあった。
メンバーだけでもいいが、対外的にも客観視できる人がいてほしい。だからスタッフは最低限のひとり。物販も移動も、みんなで協力すればいい。
もしくは、仕事しながらでもそこそこやれること。お手本は友人である赤犬だった。みんな働きながら家庭があり、週末にバンドをやって、ワンマンはクアトロ級の箱でやれる。フェスも出られる。それが理想だったが、いざ働いてみると、私が不器用だったせいもあるが、もう忙しくてバンドどころではなかった。
だから、上京後は音楽の仕事を探して、ライブハウスのバイトをした。そこで経験したこと、出会った人も大切な財産だ。
神聖かまってちゃんと関わって、初めて「そこそこ」ではない、どこまでもメジャーを目指すことを意識した。関わる人が増えるほど広がるものがあることも理解できた。売れるタイプの人がどういう人か、逆にいつまでも売れない人はこういう人だ、ということも自分なりの基準を持つようになった。
ただ、コラムにも書いたように、いつしか「売れるためのこと」が、自分に合ってないと思うようになった。
経験せずにそう思っているなら世間知らずだが、経験してそう思ったんだから、これはもう仕方がないと納得した。
結果、かまってちゃんに対する想いも、会社の上の方とはズレていった。
その感じは、当時のファンの人たちにも伝わっていたのではないか。
私は元々、自分にやれることがなくなったのなら、もっと上手くやれる人に任せたいと思っていたので、社長からの提案もあり、身を引くことにした。
それでいったん月収6万になった。
この話は妻がテレビやら色んなところでしたものだから、夫の貧乏エピソードとして色んな芸人さんたちにいじられ、ちょっと有名になったが、正直6万だったのはたった2、3ヶ月なのだ。
そこからすぐ10万ちょっとにはなっているから!まあそれも大概少ないけど!
それから半年くらいで今の成田がパーフェクトミュージックの社長になって、私はかまってちゃんの仕事に戻された。その時また少し給料が増えて、自分の個人仕事も合わせて20万ちょっとくらい。
でもなんだか会社に振り回され続けているような気もして、「才能を自分のために使ってみろ」という妻の勧めを信じて、結婚を機にマネジメントの仕事は一切やらなくなった。
成田はチャラいけど突然経営者になった割にアーティストたちのバランスを絶妙にとってうまくやってるし、天野は私なんかよりずっと優秀だ。全く問題はなかった。
私の仕事はというと、その頃ちょうど会社員時代から描いていたマンガが2冊本になったことでそれが宣伝にもなり、一気に連載も増え、収入が格段に上がったのである。
コラムでは「マンガと音楽仕事で得ている収入」と書いたが、正直音楽はおまけ程度で、ほとんどがマンガやコラムの連載での収入である。
あら恋のギャラは、会社に全額入れている時代が一番多かったかな…。フジやらライジングやらに出たことでフェス系のお客さんが増えて、リキッドルームでワンマンをやったりもした頃だしね。今はまあ、臨時収入的に嬉しいくらい。
吉川友ちゃんのバックバンドの仕事は、もちろんしっかり頂いているけれど、他のメンバーにより多く還元していたり、出て行くものも多い。
これも私は、「今の自分があるのはハロプロのおかげ」とずっと思っているし度々口にもしているので、ハロプロ関連の仕事は今後も基本採算度外視でやることに決めている。
妻に言われた「お金だけで考えて結果損することをするな」という話にも繋がるが、そこは強い意志を持ってやっているので皆まで言わないで下さい。実は某大手アイドル関連の仕事を二つ返事で断ったこともあります。
でか美のバンドはまだ2回しかライブをしていないが…チェキのお金の分配があるので、本当にチェキは素晴らしいシステムだなと思う。
でもそれも全てでかさんのおかげなので。自分のバンドでチェキをやろうとは全く思わない。
今私は、そんな感じで仕事をして、あとは一日の大半を娘とともに過ごしている。
家事育児は大変だが、得るものも多い。今の自分ならそれを作品にもできるし、実際育児系の連載だけで3つくらいやってるし。
保育園もあるので、自分の時間も作れるし、妻も色々気にかけてくれる。
もちろん、生活全てを音楽関係に捧げられたあの喜び自体は無くなった。
頻繁に地方へ行くことは出来なくなった。あら恋の台湾でのライブに行けなかったこともある。その時は、ダルジャブのベンチくんに代わりを務めてもらった。
フェスのシーズンがくれば、なんかすっかり関係なくなっちゃったなあなんて、TLを眺めながら思うこともある。
それでも、また新しいバンドをやろうかな、なんていう構想もあって、今はとても楽しい。
ここ最近で、人は人、自分は自分、という想いが強くなり、誰かと比べなくなったことが大きいかもしれない。
多くの人が関わる必要はない。たくさんの機材をスタッフが運んでくれたり、準備してくれたりって本当に助かるけど、機材は軽く減らして、自分でやればいい。
最低限のスタッフどころか、物販も運転も、自分たちで全部やったらいいと思うようになった。
もちろん、妻がいてくれるからこそできる生活だ。
犬山と出会わなかったら選ばなかっただろう。
その代わり、妻も私がいるからこそ気兼ねなく仕事ができて、虐待防止の慈善活動までできるようになったのだ。
得るものがあれば失うものもある。
それでも、常に今を選んで良かったと思える生き方をしたい。
そんな私の呑気なコラムに共感する人が多くいてくれたのなら、令和の時代も、そういう人たちと楽しくやっていくだけである。