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逢魔時(おうまがとき)
妖怪が現れる境目
思うに妖怪は境目に現れる様だ。古くは現世(うつしよ)と常世(幽世・隠世)、人の住む集落と隣り合う異界としての自然、または疫病や自然災害によって引き起こされる死と生、隣り合う村と村、更には自分と他人、橋の向こうとこちら、川、人家と空き家、古寺など物理的、形而上的な差異の間に妖怪たちはその姿を表す。
『今昔画図続百鬼』の冒頭にあるこの「逢魔時」はそういった妖怪達が現れる時間的様相の境目を表す。
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「黄昏をいふ。百魅の生ずる時なり。世俗小児を外に出すことを禁(いまし)む。一説に王莽時とかけり。これは王莽前漢の代を奪いひかど、程なく後漢の代となりし故、昼夜のさかひを両漢の間に比してかくいふならん。」
黄昏時と誰そ彼時、そして逢魔時と王莽時
本文中の解説にあるように逢魔時とは黄昏時、つまり昼から夜の境目のことであり、それは自分と他人がはっきりと認識できる日中から、日が翳り人の顔も分からなくなる夕刻刻との境目…つまり誰そ彼(たそかれ)時であるという。また石燕は中国の王朝である秦のあと前漢、後漢の間の短い間に存在した新の皇帝、王莽(おう もう)を引き合いに出し「王莽が時(おうもうがとき)」と逢魔時の起源を王莽に求めているが、これはただの駄洒落であろう。(了)