かみきり🇺🇸

在米20年の元日本人 出羽守 アメリカの片隅に住んでいる(自称)妖怪研究家 普段は人の…

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在米20年の元日本人 出羽守 アメリカの片隅に住んでいる(自称)妖怪研究家 普段は人の髪を切って生計を立てている https://twitter.com/@tsurubewotoshi https://fedibird.com/@tsurubewotoshi

最近の記事

夔ノ神(きのかみ)

Xで「雷と目を合わせるとその人に向かって落ちてくる」と祖父に言われたというポストを見かけた。 リプ欄を見ると同じ様な話を聞いた事があるという人を何人か見かけたので割と広く知られている言い伝えの様だ。 雷にまつわる神様と言えば、山梨県笛吹市にある山梨岡神社では古代中国の奇書『山海経』にある雷獣、「夔(キ)」が雷避けの「きの神」として祀られている。 …確かに目が合ったら襲われそうではある。 ちなみに山梨県の名称はこの山梨岡神社が由来になっているようだ。(了)

    • 河童と尻子玉(かっぱとしりこだま)

      はじめに 河童は、相撲で負かした相手や、川に引き摺り込んだ人間の尻子玉と呼ばれる臓腑を抜き取り、抜き取られた人は文字通り腑抜けになってしまうという。 もちろん、この尻子玉というのは架空の臓器で、一説には川などで溺死をすると死体の括約筋が緩み、肛門が広がっている姿が、まるでそこから何かを抜き取った後のように見えることから想像されたという。 十返舎一九は黄表紙『河童尻子玉』にて、この尻子玉を手に持って誇らしげに立つ河童の絵を描いている。 この十返舎一九の絵にある尻子玉は上部

      • 鬼(おに)

        鬼とは 今では誰もがその姿を頭に思い浮かべられる鬼だが元は実態のない「氣」のようなものだったようだ。その名も「おぬ(隠)」が転じたもので五行説にある鬼門、つまり丑寅の方角からくる悪しきものとされ、それは善悪ではなくただ良くないものであり、実体はなく気配のようなものであったとされる。 また魂魄という時が鬼という字を含むところから分かる通り、死者の魂でもあるようだ。それらが仏教の羅刹や夜叉のイメージと混ざり合ったものが今日私たちが知る鬼の姿になったようだ。 鬼と物 『日本

        • 逢魔時(おうまがとき)

          妖怪が現れる境目 思うに妖怪は境目に現れる様だ。古くは現世(うつしよ)と常世(幽世・隠世)、人の住む集落と隣り合う異界としての自然、または疫病や自然災害によって引き起こされる死と生、隣り合う村と村、更には自分と他人、橋の向こうとこちら、川、人家と空き家、古寺など物理的、形而上的な差異の間に妖怪たちはその姿を表す。 『今昔画図続百鬼』の冒頭にあるこの「逢魔時」はそういった妖怪達が現れる時間的様相の境目を表す。 黄昏時と誰そ彼時、そして逢魔時と王莽時 本文中の解説にあるよ

        夔ノ神(きのかみ)

          息と贔屓(いきとひいき)

          京極夏彦の『鵼の碑』にちょっと出てきたので日光東照宮陽明門で見られるこの龍の彫刻について。 作品内でも言及されていたが実はこの彫刻上と下で違う。上は「龍」だが下は「息」という神獣となる。龍には髭があり、息の鼻は上唇の上にあるという違いがある。ではこの息とは何かというと、「贔屓」ではないかと思う。贔屓とは「えこひいき」などとも使われるが、その語源は龍が生んだとされる九頭の神獣、竜生九子の内の一つ「贔屓」による。 現在では「ひいき」と読まれるが元は「ひき」であったようだ。東照

          息と贔屓(いきとひいき)

          比々(ひひ)

          (比々)狒々は実在の動物、ヒヒの名前の元となった妖怪で、鳥山石燕の解説によれば「鷹が小鳥を捕るように猛獣を取って食らう」そうだ。『本草綱目』によれば人を見ると笑い、その際には上唇が目を覆うという。この時の笑い声から狒々(ひひ)と名付けられたとされる。 またこの笑うという習性から前述の『本草綱目』に本邦の動植物を加えた『本草綱目啓蒙』では「狒々」を「ヤマワロ」と訓じ、柳田國男等はこの狒々と山童を同一視していた様だ。 「比々」と「猪笹王」の対称性 この鳥山石燕の絵にある狒々

          犬神と白児(いぬがみとしらちご)

          鳥山石燕の『画図百鬼夜行』に「白児」と「犬神」という二体の妖怪がセットで描かれている。 稚児髷を結った少年とも少女ともつかない振袖姿の児童が神主の装束をした犬の前で何やら文字の修練に励んでいる。 稚児とは剃髪しない少年の修行僧の事だが、少年の神秘性を観音菩薩になぞらえ、特に天台宗においては「稚児灌頂」という儀式が行われた。 これは両性を備えるとされる観音菩薩と同格とされた稚児と性的関係を持つ事でその加護にあやかるというものだが、実際は女人禁制の僧侶たちの性愛の対象とされた

          犬神と白児(いぬがみとしらちご)

          札返し(ふだがえし)

          この話にある様な幽霊が生者に、または逆に生者が幽霊に結界となるお札を剥がす様に持ちかける話は良くあって、有名な所では『牡丹灯籠』のお露さんがいる。 短い怪談で語られる場合には多くの場合、お露さんが新三郎を誑かして/騙して札を剥がさせようとする。 長編の人情噺で語られる場合には、新三郎の店子で下男の伴蔵がお露さんに百両で札を剥がしてやると持ちかける。 小泉八雲は『化け物の歌』の中でこの様な幽霊を「フダヘガシ」と呼んだ。『狂歌百物語』にも「札返し」の名で登場する。 『狂歌百物語』

          札返し(ふだがえし)

          恙虫(つつがむし)

          竹原春泉斎画「絵本百物語」に恙虫(つつがむし)という妖怪が紹介されている。 この妖怪は夜中、民家に現れ家人の生き血を吸い、その命を奪うという。 後にそれはダニの一種による感染症が原因と分かり、この妖怪の名前、ツツガムシがこのダニの名前になった。 ちなみにトラブルがなくスムーズに物事が運ぶ事を「つつがなく」というが、この「つつ」は、この恙虫(つつがむし)の恙で病気や災いの意味。 この「恙なく」という言葉は随分古くから用いられている様で、有名な聖徳太子が随の煬帝(ようだい)に

          恙虫(つつがむし)

          否哉(いやや)

          否哉(いやや)は、美しい女性の後ろ姿だが、振り返れば、その顔は老女のそれで、見た人を驚かすと言われる妖怪。 鳥山石燕の解説によれば、中国の前漢の武帝が東方朔を伴って旅行に出かけた際、行く道の途中に頭、目、牙、耳、鼻、歯が人間の様に揃って生えている姿の奇妙な虫を「怪哉(あやしかな)」と名付けたという故事に倣い、この妖怪は「否哉」と名づけられたことが述べられている。 つまりこの解説に沿えば否哉(いなかな)と読み下す事ができるだろう。 ではこの妖怪は何を否定/拒否しているのだろ

          否哉(いやや)

          野衾(のぶすま)

          ムササビとモモンガはよく似た実在の動物であるが、古くは妖怪の一種とも思われていた。 この二種は、今では別種の動物とされているが漢字表記の「鼯鼠」がムササビと同時にモモンガにも用いられるなど両者は古くから混同されてきた様だ。そして妖怪の世界でもこの二種の関係は複雑である。 鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』には野衾という妖怪が紹介されているが、その解説文にはムササビの事であると書かれている。 以前紹介した『今昔画図続百鬼』にある百々爺は肉食の隠喩であったが、その解説文では別名に野衾

          野衾(のぶすま)

          天井裏にいる「誰か」と「何か」

          今読んでいる本の休憩に読み始めたこの本が面白くてあっという間に読んでしまった。 精神科医である筆者が患者達の江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』の様な「屋根裏に潜む誰か」の妄想の例を挙げながら「何故屋根裏なのか」「何故出て行かないのか」という謎を明らかにしていく。この妄想は独居老人に多く見られるそうで、しかしながら必ずしも痴呆症というわけでもないらしい。この一文にある様にこの「誰か」は孤独を埋めるためのある種の「イマジナリーフレンド」であって、それは非常に妖怪的だなあと感じた。

          天井裏にいる「誰か」と「何か」

          賽の河原(さいのかわら)

          ランニング中に賽の河原を見つけた。 ハドソン川は三途の川であったか。 賽の河原で石を積むのは親より早く亡くなった子供。積み上げた石は獄卒が何度も崩してしまうが、100日目に地蔵菩薩が現れてその魂を救うとされている。 何故子供が鬼に責め立てられているかというと親を悲しませた罪だと。これは裏を返せば親は子を亡くした悲しみから立ち直らなければ子はいつまでも救われないとも言える。いつかは悲しみを振り切らなければいけない。そこから死後100日目の法要は卒哭忌、つまり哭く事を卒業する

          賽の河原(さいのかわら)

          恵比寿(えびす)と大黒(だいこく)

          水死体を恵比寿さんとして祀るのはやっぱりイザナギイザナミの最初の子で不具の子であった為海に流された蛭子(ヒルコ・エビス)から来てるんだろうなあ。 七福神の中でニコイチにされやすい大黒様と恵比寿様だけど恵比寿様は海に由来のある神様なので鯛と釣具を持っている。 大黒様はヒンドゥ教のマハーカーラや大国主命が由来なんだけど大黒神としては竈神なのでお米とセットに描かれている。 「大黒柱」とは、家の支えとなる柱であり、家族の稼ぎ頭を指す言葉である。この言葉は、家の中心にある台所の柱に

          恵比寿(えびす)と大黒(だいこく)

          人魚(にんぎょ) その2

          先日のこのツイートから日本の人魚は鯉だったんじゃないかと考えている。 もちろんヨーロッパのマーメイド伝説が日本に入った江戸以降とそれ以前では別物であったと考える必要があるけど。 根拠の一つとしては八百比丘尼伝説でこれは人魚の肉を食べて不老不死となり全国を行脚したという尼僧の伝説。実際に日本各地にその伝説は残っている。 実在の鯉にもその肉を食べると長生きになるという伝承がある。これは鯉自体が非常に長生き(個体によっては50年以上)という事に加えて、中国の故事に倣い、鯉は滝

          人魚(にんぎょ) その2

          人魚(にんぎょ)

          マーメイドが話題になっているのでここで日本の人魚の話でも。 『箱入娘面屋人魚』 ざっとあらすじを説明すると、竜宮城の乙姫の愛人、浦島太郎が鯉の遊女と浮気して出来た人魚が冴えない漁師に拾われるというとんでもない話。 愛人との子供ゆえに浦島太郎に捨てられた人魚は成長して平次という冴えない漁師に拾われて妻になる。 身体は魚だが美人であった人魚は女郎小屋の主人に誑かされ家計を助ける為に股引きをつけて遊女になる。 が、結局上手くいかず、食べれば不老不死になるという人魚の肉を舐め

          人魚(にんぎょ)