『誰がために花は咲く』第六話(第一章 名も無き花~エスターの物語~)
テセに戻ってから、エスターとヴォーグは、しばらく静かに暮らした。
凱旋といって良い成果をもたらした帰還だったが、隠密行動であったし、またはいわば「前科者」でもあるエスターの存在をテセは公にもできなかったので、ヴォーグとエスターを英雄の如く遇したのは、ごく限られた人々、つまりは、女王セシリアと王弟セヲォンと、その腹心のものたちだけであった。
エスターは都の郊外に専用の館を与えられ、療養に専念し、ヴォーグといえば、まだ休暇の残りがあったので、自らの宿舎に戻り、軍の雑務をこなしたり、部下の訓練を指揮したりの日々であった。
だが、それまでと違ったのは、そんな毎日の中で、足繁くエスターの館を訪れることであった。水菓子などを携え、見舞い、と称しては館に現れ、エスターの顔を見ると、安堵したようにしばらくたわいの無い話をし、程なく館を辞す。
そんなヴォーグを見て、館の下働きのものたちは呆れながら笑った。なんと不器用なお方だろうね、と。
エスターはそれまでの激動の日々を離れ、何不自由ない生活を送りながら、今の自分の身を振り返り、人生は不思議なものだと考えたり、可笑しく思ったりした。
与えられたテセ風の優雅なドレスは、自分には不釣り合いに思ったし、何と戦うことも無く、ただ平穏に過ぎていく日々も、ドレスと同じく、自らの人生に似合うものなのか、ふと考え込むこともあったが、朝、窓を開けて吸う空気を美味しいと想い、空を飛ぶ鳥の羽ばたきや、それを照らす陽の光が美しいと思ったり、エスターの世界は再び美しいものに変ろうとしていた。
そしてなにより、ヴォーグの訪問が嬉しかった。
体は日に日に弱っていくのを感じてはいたが、死への恐れは、その嬉しさが、ほぼ、消し去ってくれていた。顔を合わせても、たいして実のある話ができるわけではなかったが、その喜びは、エスターの人生における、最後の平穏な短い日々を明るく眩しく照らすものであった。
そんな日々が続いたある日、ヴォーグは久々に王宮を訪れた。軍の仕事を済まし、ひとり王宮の廊下を歩いていると、後ろから誰かがヴォーグに声をかけた。振り返ると、セヲォンが立っていた。
「よお」
セヲォンの表情は普段の微笑みだ。だがなにか、その日はそのなかにチラリと皮肉なものが見えたのは、気のせいだろうか。ヴォーグはそういぶかしみながらも、旧友に差し出された手を取り、いつものように握手した。
「セヲォン、元気だったか?」
ヴォーグは手にしていた書類を落とさぬよう気をつけながら、握手を終えると、セヲォンに気心の知れたものにだけ見せるくだけた笑顔でそう語りかけた。
「見ての通り、元気さ」
セヲォンは手のひらを広げながらそう応えた。そこには変らぬ友の表情であったので、ヴォーグは少し安堵した。そして気になっていたことを尋ねた。
「薬草の研究は、どうだ」
「ああ、今、薬師たちが懸命に、お前たちが持ち帰った種を培養しているぞ。ただ、なかなか花が咲かない。花弁が蕾のまま落ちてしまうのだよ。種もできぬ。何の栄養分が不足しているのか、夜も寝ずに研究に励んでいる。それが分かれば、薬ができる日も近いだろう」
「そうか、早く薬ができれば、エスターが喜ぶ」
ヴォーグは心が軽くなるのを感じて、笑いながら言った。セヲォンはそれを見て肩をすくめた。
「お前は本当にわかりやすい奴だ」
「……」
ヴォーグの無精髭で覆われた頬が少し赤くなった。それをセヲォンは確かめると、微笑みを崩さぬままさりげなく言った。
「エスターの館にまた今日も行くのか」
「……ああ、ここ数日調子が良くない様子なのでな、ちょっと見に行くことにする」
「姉上が泣くぞ」
ヴォーグは急に飛んできたセヲォンの攻撃を躱せず、一瞬言葉に詰まった。
「……からかうな……」
「……からかってなどないさ……」
セヲォンの瞳にちらちら炎が踊っているように感じ、ヴォーグはひるんだ。そして早くこの話題を終わらせたいとばかりに、軽く咳払いをして、その場を去ろうとした。
だが、セヲォンがヴォーグの顔をまっすぐ見据え、ヴォーグの足を止めさせると、こう呟いた。
「国境の村、フィード、新月の夜」
ヴォーグの顔色が変った。
青ざめたヴォーグの手から書類がバサリと落ちた。途端に風が書類をまき散らす。その渦の中でヴォーグはただ言葉も出ず、動けなくなっていた。それを拾い集めながらセヲォンが押し殺した声で語を継いだ。
「……昨年の夏の新月の夜、村は何者かに襲われた。フィードには重度の疫病患者が集まって暮らす貧村だ。そこに火が放たれ、逃げ惑う村人は、その何者かに焼かれるか斬殺された。生き残りは、ただひとりもいなかった」
「……」
「近隣の人々は、国境警備隊の手によるものではないかと噂した」
ヴォーグはただ何も言わずに立ち尽くしている。
「あの事件は、やはりお前の命によるものか」
「……そうだ」
ヴォーグはしばらくののち、吐き捨てるように言った。セヲォンは合点したとばかりに、頷きながら、書類をまだかき集めている。
「王族の情報収集能力を舐めるなよ。お前が留守している間に、国境警備隊の報告書を漁ってみたのさ。お前の部下は正直者だな。はっきりとあの事件の詳細が書いてあったよ。お前の命令書付きで」
「……しかたなかったのだ! 我が軍の将校を殺して逃げた賊が、あの村に逃げ込んで……」
ヴォーグは弱々しい早口でそう呟いた。その声は震えていた。
「部下にやらせるわけにはない、任務だった……だから、俺が率先して村を焼いたんだ」
「うむ。報告書にもそう書いてあったさ、一字一句その通りだ」
セヲォンがそう言いながら、漸く集め終わった書類の束をヴォーグに渡した。ヴォーグは、震える手でそれを受け取ると、きっぱりと言った。
「軍法会議にでも何にでも、俺を突き出せ……!」
「そんな野暮なことはしないさ。ただ、これは聞きたいな。お前がエスターに好意を抱くのは、その罪滅ぼしなのか、どうか、は」
「……違う!」
本音が、ぽろり、とヴォーグの口から漏れたのを聞き、セヲォンは乾いた笑い声を上げた。
「ならいい」
「……笑い話をしてはないぞ、俺たちは……!」
「笑い話さ」
ヴォーグはそう言い切ったセヲォンの瞳が、冷たい色に染まっているのを見た。たまらず、ヴォーグは呻いた。
「……いまだに村人の断末魔が耳に残っている」
「気にするな。もし、どうしても気になるようだったら、姉と俺のためと思えば良い。お前はこのテセの国を護るために、真っ当な仕事をしたのだ。とな、それでは駄目か?」
ヴォーグはたまらずセヲォンに背を向けて歩き出した。その背中から、自分の提案には承服しかねる、無言の意思を受け取るとセヲォンは大声で言った。
「近日中にお前に新しい任務地が決まる。楽しみに待っていろ。あと、これは余計な話だが、俺は近々、ガザリアに行く。軍事顧問という名目だが、まぁ、人質みたいなものだ。王族も王族なりに苦労があるのだよ、ヴォーグ」
ヴォーグが振り返る。すでにセヲォンは、くるり、と身を翻し歩き出していた。ヴォーグの瞳に映るセヲォンの後ろ姿が、ゆっくりゆっくり、遠ざかる。
ヴォーグはそれを見届けると、彼もまた歩き出した。セヲォンとは、別の方向に。
その日のヴォーグは珍しく表情が硬いように、エスターには思えた。
エスターも慣れない手つきで、自らテセ流の茶を淹れてみたりしたが、器を受け取ったヴォーグはそれにも気づかない様子で、やはり浮かない顔をしている。
「近日中に新しい任地が決まるとのことだ」
やがてヴォーグは器を手にしたまま、ぽつりと呟いた。
「もうここには、来られなくなる……」
エスターはついにこの日が来たか、とばかりに小さく頷いた。が、これがヴォーグとの永久の別れになることを感じ取り、微かに震えた。
ヴォーグはそれを見て、思い切ったように、いかつい手をゆっくりエスターの頬に差し伸べた。エスターはとっさのことに声も出ない。
お互いの顔が赤くなるのを、ただふたりは見つめあった。
「お前の好きに生きてほしいんだ……呪いを解いて。お前の生はお前が決めろ。自分の意思で生きろ。死ぬも生きるも、お前が決めろ……」
そうしてヴォーグはなにかを言おうと、口を開いた。エスターもなにか言わねばならぬ、と唇を動かした。
その時、館の玄関から大きな叫び声がふたりの耳をつんざいた。ふたりは我に返った。
「何事だ?!」
ヴォーグが、ソファーから立ち上がり叫んだ次の瞬間、客間の扉が乱暴に開けられた。そこにはヴォーグの見知ったテセの将校と、部下らしい数十人の兵士が剣を手に立っていた。
「お前は……たしかセヲォンの副官だな! 何をしている!」
「将軍、その女をこちらへ。ガザリアに引き渡します」
「何を!」
ヴォーグは腰の剣を抜き将校に突きつける。
「セシリア様との約束はどうなった! それを知らぬわけではなかろう! 統治者の威にかけてされた約束だぞ!」
将校はひるまなかった。それどころか薄笑いを浮かべてヴォーグにこう言い放った。
「統治者の威など、糞なことは、貴殿が一番お分かりでは無いか?」
「……!」
ヴォーグは言葉を失った。その隙を突いて兵士がエスターを取り巻き、連行しようとその腕をつかんだ。
「やめろ! 放せ!」
ヴォーグは兵士に躍りかかった。同じくして、ヴォーグに向かって、複数の剣が振り下ろされる。ヴォーグは身を翻して応戦する。数十人の兵士がそこになだれ込む。客間は一瞬にして戦場と化した。エスターはただ目の前で繰り広げられる惨劇を見ていることしかできなかった。
決着がやがて、ついた。
「手こずらせやがって……」
十数人の兵士の血だまりのなかに、更に大きな血だまりがあった。ヴォーグの大きな体が、その中に沈んでいる。その体は傷だらけだった。
エスターはドレスの裾が血に染まるのもかまわず、ヴォーグに声ならぬ声を上げ、駆け寄る。亜麻色の髪をも血に染め、振り乱し、ヴォーグの顔をのぞき込み、その口元を見た。ふたりには、まだ言うべきことがあったし、また聞くべき言葉があった。だがヴォーグの唇は青ざめ動かない。
エスターは血だまりの池に崩れ落ちた。頭を垂れたエスターの腕を兵士が掴む。
その瞬間、エスターの中でなにかがはじけ飛んだ。エスターは渾身の力で兵士を突き飛ばすと、その剣を奪い、血の池から高く飛んだ。
兵士たちは怖じ気突いた。まるで死の女神が襲いかかっていたように見えたのだ。エスターは剣を一振るいし、一番前にいた兵士に斬りつけた。そして血しぶきを浴びながら、身を反転させて、庭に面した客間の窓に身を投げた。ガラスは派手な音を立てて割れ、エスターは庭の芝生になんとか着地すると、いまある力の限りで駆け出した。
あのとき、呪われた都の城壁に向かって走った、あのときのように。
「行け!」
エスターの背中を押すヴォーグの声が再び聞こえたような気がした。
だが、それが気のせいでしかないことをエスターは知っている。走るエスターの頬を、止めど無く涙は流れ、飛沫は冷たい風にさらわれていった。
エスターの館での事件は、すぐに王宮に伝わった。報告を終えた武官が退出すると、セシリアは膝から崩れ落ちた。
「……俺の仕業じゃ、ないですよ。姉上」
「だがセヲォン、お前の副官がしたことではないですか!」
「俺は指図していません、俺のガザリア行きを止める駆け引きの手段に、エスターを使おうと彼らは考えたのでしょう……先走りやがって……」
姉弟の間に火花が散った。
「嘘おっしゃい!」
「嘘では無いです。その証拠に……」
「証拠に!?」
セヲォンはためらわずその名を口にした。
「俺はそこまで、ヴォーグが嫌いじゃ無かった……!」
セシリアはヴォーグの名を聞いた途端、雷に打たれたように固まると、次の瞬間泣き崩れた。
だが、それも長くは続かなかった。慌ただしい気配が扉の外でする。床に崩れているセシリアの代わりにセヲォンが、再び現れた武官から事の次第を聞くと、セシリアに向き直った。
「姉上、薬草園が、何者かに襲われたそうです」
「……そう……」
もうセシリアは泣いては無かった。統治者の冷たい仮面をかぶり直すと、静かに言った。
「迎え撃ちましょう。エスターを」
いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。