『誰がために花は咲く』第十話(第二章 カレイドスコープ~カロの物語~)
カロは運が良かった。
落ちてきた梁と梁の隙間に体が挟まっていたが、足を動かせば難なく外に這い出ることができた。メリアも同様だった。けほけほと咳き込みながら、藁と柱の間から体を浮かしカロの目の前に姿を現した。
運が無かったのは軍人ふたりだ。なんとか外に這い出たメリアとカロが見たのは、どす黒い大量の血が地を這って、崩壊した馬小屋の下から流れ出る様子だった。軍人ふたりは梁の下敷きになり、手を宙に突き出したまま死んでいた。カロは自分の運の良さを喜ぶ前に、その光景に唇を青くした。
――殺してしまった? 僕が? この僕が?
「なんていうことをやったんだ……」
気が付けば、もうもうと埃の舞う馬小屋跡に父の姿があった。
「父上! 僕はそんなつもりはなくて……」
「関係ない! 結果が全てだ!」
父の目は血走っていた。そして呟いた。
「ここでも俺は人殺しか……」
カロにはその呟きの意味が分からなかった。
――いつも、いつも、そうだった。もう、うんざりだ。
気がつけば、カロは傷だらけの顔で叫んでいた。
「父上! もう話してくれてもいいでしょう、いつまで僕に隠し続けるんです、父上はテセで何をしたのですか!? どうして僕はガザリアに来たんですか?」
父は血走った目をカロに向けて叫んだ。
「お前には関係ない!」
「父上!」
父はカロの疑問に答えなかった。口にしたのは別のことだ。
「カロ、逃げろ。その娘を連れて」
「え……?」
「この騒ぎを聞きつけて、今度は軍の本隊が来るのは時間の問題だ。俺はもう運命から逃げられない。だがな、お前は違う。まだ間に合う」
「……父上」
「テセの国境の村、フィードの近くの森に行け。そこには、お前を助けてくれる者どもがいる」
父はそう言いながら、無事だった馬に鞍を付けている。
付け終わると無理やりカロとメリアを馬に乗せ、こう告げた。
「俺がお前に教えられるのはここまでだ、カロ。あとの真実は自分で探せ!」
そう言うやいなや父は鋭く馬をむち打った。
カロがなにか言おうとする間もなく馬は駆け出した。メリアが、悲鳴を上げてしがみついてくる。やわらかな体が再びカロに触れたが、今度は赤面もせず、カロは疾走する馬の手綱を握り、前をきっ、と見つめた。
なにか、動き始めてしまった。僕の人生のなにかが。カロは大声でそう叫びたいのを堪え、ただただ、前を見つめた。見つめるしか無かった。
フィード近くの森にふたりの馬が着いたのは、その日の夕刻だった。
――なんてことだ。この娘と出逢ってから1日も経ってないというのに、こんなことになっているとは。
カロはこの1日の人生の動転ぶりが信じられない、というように森の入口で空を見上げた。
その夜空にはいつもと同じ星座が瞬いていたけれど、その下に生きる僕の生はなんだか、すっかりおかしなことになってしまった。それもこれも、メリアを拾ったばかりだったが、当のメリアは、すやすやとカロの背中にしがみついたまま、いまは眠っている。
馬を飛ばしながら、その日の昼間、メリアとカロはお互いのことを、ぽつりぽつり、と語り合ったが、それでもなお、メリアは謎が多い娘だった。
「お前、テセからなんで逃げてきたんだよ」
「そういうあなたも、テセ人なんでしょ」
「……ああ、僕はたしかにテセ人だ、亡命してきたんだ。でも、それかなぜかは知らない」
メリアは自分のことを聞かれたのに、対するカロの素性の方に興味津々である。
「じゃあ、テセの思い出はまったくないのね」
「そうだよ」
「……じゃあ、私たちのことなんか、知りっこないわね……」
「神官のことをか?」
そこでカロは漸く、本来の疑問に立ち戻る。
「お前、生贄になる、って騒いでいたな。テセの神官にはそんな慣習があるなんて、聞いたことないぞ」
途端にメリアの体が、ぶるっ、と震えた。
馬を止めて振り返ってみれば、怯えた顔でちいさな声で呟く、幼い顔がある。
「……私は嘘をついてはいないわよ」
その青ざめた顔を見てしまうと、もう、カロはなんだかメリアが哀れになって、それ以上問いただせなくなってしまうのだ。カロはそれ以上の追求をやめて、再び馬を走らせる。そんな1日であったのだ。
さて、森に着いたとはいえ、いったいこれからどうしたものか。考え込んでいると、後ろでメリアが目覚める気配がした。ふぁっ、とあくびをするとメリアはこう言った。
「ああ、あなた汗臭いわね、そういえば神殿なら、いまころ禊ぎの時間だわ」
「一日中馬を飛ばしていたんだから、汗臭くて当然だろ!」
「そんなに怒らないでよ。感じたことを口にしたまでだわ。それより、どこかに泉は無いかしら。禊ぎがしたいの」
勝手なこと言いやがって、とカロは言いかけたが、たしかに泉を見つける必要はあった。カロの喉はなにしろ乾ききっていたし、考えてみれば、メリアに夕食を恵んでしまったおかげで、学院での昼食以来1日半何も口にしていないのだ。それにしても、あの毎日退屈だった学院での日々が、級友たちの顔が、とてつもなく遠い日のものように思える。
――とりあえず森の中に進もう、水も食糧も見つける必要がある。
カロはそう決心し、馬を下りると、森の入り口付近を窺った。微かに水の音がする。カロはメリアをも馬から下ろすと、その音を辿ってゆっくりと歩き出した。
幸いなことに小川、ついで泉はほどなく見つかった。まあまあの綺麗さである。カロとメリアは、夢中になって喉を潤した。と、一息ついたところで、メリアはいきなりカロにこう言う。
「あの……すこしこちらを見ないで下さる……?」
さっそく禊ぎをしようというのだ。カロは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「好きにしろよ! もう!」
そうカロが後ろを向いた途端に、するりとメリアが衣を脱ぎ捨てる気配がした。カロは勝手に心臓がどぎまぎするのを感じ、振り返りたい衝動を抑えようと一歩、歩を進めた。
――野草か木の実でも、いまのうちに探してこよう。
そんなカロにかまわず、メリアは泉にしずしずと沈み、何やら祈りの言葉を目に見えぬ者に捧げている。
「……大いなるテセの護り神よ……この国を護り賜え……赤い花よ、永遠に咲き誇り賜え……永遠に散りゆくことなく、我らを護り賜え……」
なにやら不思議な祈りの言葉だ、と思いながら、カロは森に落ちた木の実を物色する。
――そうだ、あと薪も集めておかないと。もうすぐ日がくれてしまう。獣の餌食になるのはごめんだ。
「ああ! 森の泉って思ったより綺麗ね! 神殿の水より匂わないくらいだわ!」
今度は、メリアは足を水の中でばたつかせ水音を立てて、はしゃいでいる。高尚な祈りの言葉が途切れたと思えば、途端に年相応の少女の声音だ。その落差にカロは、いまだ、ついていけない。やがて水音が静かになったので、もうそろそろいいかな、とカロは泉に向き直った。
メリアは泉から上がって、ローブを身に纏おうとしていた。ローブの下の腕は思った以上に細かった。
……と、カロは思わず声を上げた。メリアの左腕下には、遠目でもはっきりわかる大きな十字の傷があった。
そして、その傷は青黒く膿んでいた。
「……! お前! それは、あの病の……」
「え? これ? あなたには無いの?」
「……僕は疫病なんかじゃないぞ!」
思わずカロは飛び退きながら叫んだ。そんなカロをメリアは不思議そうに見ている。
「え? 私の知っている人には、みな、この傷があったけど……そういうものじゃないの?」
メリアの口調はどこまでも暢気だ。だが、間違いない。あれは、あの、疫病の証だ……。
カロは恐怖した。感染る……!
治療薬はあれど、それは今でもガザリアでは稀少なものだ。ましてやこんな旅の途中で罹ったら…。
カロの背中に、ぞわっ、と鳥肌が立った。
そのときだった。
「案ずるな……案ずるな……」
「恐れるな……恐れるな……」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……ざわざわ……
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……ざわざわ……
木々の上から、声が降ってきた。森がざわめいた。
カロはひっ! と声にならぬ声を上げた。自分が恐怖のあまり、おかしくなってしまったのかと思ったのである。
だが、たしかに、その声は聞こえてくる。その証拠に、メリアもローブを肩に引っかけたまま、不思議そうに頭上を見上げている。そして、その声ははっきりとこう告げたのである。
「カロ、お帰りなさい……」
「お帰りなさい……カロ」
カロはあんぐりと口を開けた。そして今度は声だけでなく、無数の影が降ってきた。
「ようこそ、お帰りなさいませ、この森に」
「我ら森の衆は、カロ、お前の帰りを、長く、長く待っていたのだよ」
「……どういうことなの?」
メリアの声にカロは思った。それはこっちの台詞だよ! と。
いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。