『誰がために花は咲く』第十七話(第三章 地を這う星よ~グルーの物語~)
「お前と取引がしたい」
セヲォンがカロを伴って傷の癒えたグルーの部屋に訪れた。この館にやってきてふた月ほど経ったある日のことである。
セヲォンがグルーの部屋にやってくるのは異例のことで、何ごとかとグルーは改まってふたりの顔を見た。そしてセヲォンの第一声がそれであった。
「取引?」
セヲォンは、疑念の色を顔に示したグルーを一瞥したが、かまわず椅子に腰掛け、そして、驚くべき一言をさらりと言ってのけた。
「お前にテセの国をやろう」
「……テセを、俺に?」
グルーの心の臓の、鼓動が早くなる。そんなグルーを見つめながらセヲォンは言葉を続ける。
「病の者たちの為の国を、お前は作りたいのだろう? ここに作るが良い。どこの馬の骨とも知れぬお前だが、国を作り上げたいという気概は買おう。そんな人物にテセの国を継いで貰うのも一興かと思ってな」
セヲォンは重大なことを話しながらも、どこかそれを面白がっているような口調である。それは若い頃からの癖であるのだが、グルーはそれを知るよしもない。グルーは隻眼を光らせてただセヲォンの一言一言に耳を傾けるのみである。
「ただ、ひとつ条件がある」
セヲォンは立ち上がって陽光あふれる窓の外を見つめた。その目は、また、あのときのように、どこか遠くを見ている。
そして、手にしていたものをグルーに手渡した。
「これは……」
「テセの都に行って、城の堀にこの帳面を沈めてきてはくれまいか。城の西の堀だ。そこにはエスターが眠っておる。そこにこれを、エスターが最後まで気にかけていた歌が記してあるヴォーグの帳面を、沈めてきてほしいのだ」
一気にそこまでセヲォンは言うと、小さな声でこう付け加えた。
「それが、余の友ヴォーグに対するせめての弔いだ」
窓の外ではうららかな日差しの中、小鳥がさえずっている。
そのさえずりに紛れるように、そうグルーに告げると、セヲォンはグルーの返事も聞かずに部屋をゆっくり出て行った。
しばし思いがけないセヲォンの申し出にグルーは呆然としていたようだ。我に返ったのは、カロの声を耳にしてだ。
「引き受けるのだろう?」
「……」
「いや、私からも頼みたい。どうか、セヲォンさまの願いを引き受けてほしい」
「カロ……」
「正直、国のことは、私はどうでもいい。お前がテセの国王にふさわしいかのも、わかりはせぬ。だが、ふさわしくなければガザリアに、または民に倒されるだけのこと。私が願うのはセヲォンさまの心の安寧だ。あの方は、さまざまな栄光、しかしそれ以上の業を抱えて、生きてらっしゃる」
カロには珍しく言葉が多い。それだけ、セヲォンへの想いがただならぬものなのを、グルーは感じざるをえなかった。
「あの方と私は、メリアは、初めて会ったとき、敵としてまみえた。あの方はその時言った、自分は悪魔であると。だが、そう生きたくて生きてきたわけで無いというのは、監視人として仕えるようになってから、身に染みるほど分かった。たまたま、地位によって、そうならざるをえなかっただけなのだと。そして私は、あの方が私と同じ人間だと、初めて知ったのだ……」
「……」
「人は光にも闇にもなり得る。だが、等しく同じ、地を這う星だ。私もあの方も、そしてグルー、お前もそうだ。それならば……この取引、悪くは無かろう……」
グルーはそのカロの言葉に腹をくくった。
「……引き受けよう。国が手に入るとは、願っても無いことだからな」
カロはグルーのその一言を聞いて、ほっ、と安堵の息を吐き、言った。
「礼を言う。すでに、都への旅の支度は調えてある。庭へ回れ。それと、お前の短剣を返そう。これは好きにするがいいと、セヲォンさまがおっしゃっておられた」
カロはグルーに愛用の短剣を手渡した。
元はエスターの短剣であったそれは、今はただ鈍く、昼のやわらかな光を跳ね返すのみであった。
セヲォンの館を後にし、グルーは馬の上で思った。
――ついに、自分の国が手に入る。あんなに、苦労して、血を流して、仲間を犠牲にして、目指した目的が、あっけなく手に入る。それも、こんな簡単な一仕事で。
だがグルーの心にあるのは、それを願っても無い幸運と捉え、高揚する気持ちより、カロが口にした、セヲォンの、王であればこその苦悩、そのことであった。
権力とは、いったい何であるのか。人を人たるものとせざるものなのか。
そして自分がひたすらに追い求めていたのは、ただ一心に、病の者の解放であった。だが、それは、この世への血濡れた復讐でもあった。
――そうとしたなら、俺は、セヲォン以上に、人間では無くなっていたのではなかろうか……。
疾走しつつ、グルーの心は混乱した。さらに、カロとメリアの物語、ひいてはエスターとヴォーグの物語が心に広がる。
――人間とは、なんだ? 矛盾に生き、矛盾に死んでいく生き物でしか無いのか? 人間とは、一体?
疑問がグルーの心を駆け巡る。
そうこうしているうちに、カロの配慮でテセの旗を掲げた馬は、思った以上の速度でテセの都に到達した。
テセの都は思った以上に疲弊していた。人も少なく、家も古ぼけ、何より活気が失われて久しいことが、その荒廃ぶりから容易に想像が付く。
――これが薬草を冠した世界一の都と、ほんの30年前までは謳われた都か。
グルーは銀髪を風に揺らしながら、歴史の皮肉さに思いを馳せざるをえなかった。グルーの青黒い膿がたまった眼にも、人々は特に驚かない。そのような者は、都の到るところに見受けられたからだ。道行く民の顔は、誰もが疲れきっている。
それは、一度絶頂の美酒を味わってしまったからこその、残酷な衰退ぶりでもあった。
城の西の堀にたどり着いたのは、セヲォンの館を出て2日後の夕刻であった。
夕日を受けてきらきらと光る堀の水面は、引き込まれんばかりの妖しさがあった。ここに、薬草をもたらした英雄である、あのエスターが眠っているのか。最後は罪人として、この堀に遺体を沈められたエスターが。
そう思うとグルーの心は一瞬、畏怖に満ちかけたが、気を取り直して、グルーは胸元からセヲォンより預かったヴォーグの帳面を、そっ、と取り出し、目を通した。
ながれる みずが そのすえに
注ぐ うみは 永久のうみ
なにも かもが 集まって
いつしか 地の果て たどりつく
おおきな石も
ちいさな木の葉も
いきつく先は みな おなじ
いきつく先で 見るものは
おまえが望む 夢のあと
おまえが望む 夢のあと……
読み終わると、グルーは、一気に堀の底を目指して、帳面を投げ込んだ。帳面は飛沫を上げながら、まっすぐ仄暗い水の底に沈んでいく。
そして、グルーは少しのためらいの後、自分の短剣をも堀に投げ込んだ。
――元の持ち主に、返してやろう。
短剣も勢いよく飛沫を上げ、帳面の後を追って沈んでいく。
それだけであった。
しばらくグルーはその場に座り込み、水面を眺めていたが、すっ、と立ち上がると、堀をあとにした。
いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。