『誰がために花は咲く』第十一話(第二章 カレイドスコープ~カロの物語~)
光が緑の狭間から満ちてくる。カロが気付けば、新しい朝が訪れていた。
となりではメリアが、すやすやと寝息を立てている。ふたりが包まれている草のふんわりとしたベッドは森の衆が用意してくれたものだ。
そしてベッドの周りには、森の衆が、木の上から落としてくれた木の実を食べ散らかした跡がある。ほかでもない、カロとメリアの昨日の夕食の残骸だった。
そこまで思い出して、カロは自分が昨日この森にたどり着いたことと、この森を支配する「森の衆」といわれる民から聴いた、自分に関する重大な話を反芻した。
「僕は……」
昨夜、突然のその出現に驚くカロとメリアに、森の衆は木の実を、ドサリ、とまず与えた。とりあえず、空腹の極みだったふたりは、それらをむさぼるように食べた。
彼ら森の衆は、地上に降りてこない。外の者に、姿を現すのを恐れているのだという。
「病のため膿に覆われた体を見たら、お前たちは驚くだろうからな」
「驚くだろうからな」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……ざわざわ……
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……ざわざわ……
誰かが何かを言うと、他の者が木霊のように呼応する。それが森の衆の会話の特徴であった。
それは鳥のさえずりに似ており、または、詩の朗読のようでもあり、詩を書くのが何よりも好きなカロには心地よい響きであった。
――ああ、そういえば、詩を書き溜めた帳面は、崩れた馬小屋の下だ。もったいないことをしてしまったな。
カロは、そこで今ではすっかり遠くなってしまった我が家に気を向ける。父はあれからどうなったであろうか。ガザリア軍は父をどう処遇したのだろう。
気に掛かるが、今のカロには知る術もない。
「食べ終わったか。どうだ、美味かっただろう。その木の実は客人にしかもたらさない、栄養分豊富な貴重な実なのだぞ」
「美味い、美味い、実なのだぞ」
カロは、はっ、として上を見た。
漸く腹が膨れたからには、聴かねばならぬ。なぜ「お帰り」なのか。自分はこの森にきたことなど、ついぞないというのに。
きっ、と上を見上げてカロは目に見えぬ、森の衆に語りかけた。メリアはただじっとその様子をうかがっている。
「礼を言う。ありがとう、美味しかったよ。それにしてもなぜ“お帰り”なのかい?僕はこの森に来たことはないぞ」
「来たことないってよ」
「覚えてないってよ」
森の衆の声が木霊する。歌うように、さえずるように、その声は夜の森に響き渡る。
「お前はこの森の出身だ」
「そうだ、この森の衆の出身だ」
「どういうことか、教えてやろう。聴くがいい」
「じっくり聴くがいい、知るがいい」
こうして始まったカロとこの森ににまつわる話は、その夜更けまで続く、長く、そしてあまりにも意外なものだった。
「我々の村、フィード。疫病の者どもが住む貧しい村。この村は20年前、一度滅びました。あなた様のお父上の目の前で」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……
「そうだ、そうだ、昔のことだ。だが忘れては無いぞ、われわれは」
「ある日のことだ。ある者が、テセの国境警備隊の兵士を殺して逃げてきました。我々は、その者を受け入れました。なぜなら、その者は、仲間であったから。つまり、病を患う者であったから」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……
「そうだ、そうだ、仲間だったのだ。仲間だったのだ」
「事が起こったのはその夜です。国境警備隊が我々の村を訪ねてきた。もちろん、その者の行方を捜してのことです。将軍自らが村の長を尋問しましたが。われわれは、その者を引渡すことを断りました」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……
「そうだ、そうだ、仲間を売るわけにはいかぬ。いかぬ」
「ところが、断るやいなや、将軍は長の首を剣で一刀両断にしました。そして将軍は恫喝したのです。こうなりたくならなければ、その者を差し出せと」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……
「そうだ、そうだ、あの光景はおそろしかった、おそろしかった」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……
森の衆の声と、木々を通り抜ける風が、うねる。
「だがそんなことはできぬと、我々は震える声で言いました。すると、将軍は外に出ると大きな声で何か叫んだのです。次の瞬間、夜闇に隠れていた兵士たちによって一斉に村に火の矢が放たれました。村は火に包まれました。そして、逃げ惑う村人の背に、今度は兵士の刀が躍ります。村人は次々と絶命していきました」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……
「そうだ、そうだ、炎の中の忌まわしい夜だった、夜だった」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……
……ざわ、ざわざ、ざわわ……
「国境警備隊は、我々を皆殺しにしたのだ。見せしめのために、見せしめのために」
風が止んだ。
そこでいったん、森の衆のざわめきも途切れる。
その、忌まわしい記憶を弔うかのように。
「……だが、助かった者がいました。我々の村には、国境警備隊のあるひとりの兵士と恋仲の娘がいたのです。その兵士は将軍や同僚の目を盗んで、紅蓮の炎の中からその娘カレンとその家族を救い出すと、密かにこの森に隠しました」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……
「そうだ、そうだ、あれは勇敢な行為だった、勇敢だった」
「カレンの恋人は事件のあと、除隊すると都に戻っていきました。だが、それからひと月後、カレンは身ごもっていることに気づきました。ほかでもない兵士との子でした。カレンは、ほどなくして元気な子を産みました」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……
「そうだ、そうだ、あれは元気な産声だった、産声だったぞ」
「それから数年後のことです。我々の森にあの兵士が姿を現しました。彼は血だらけでした。彼は王弟の副官にまで出世していましたが、その身分をなげうって、敵を取ってきたとカレンに告げました。あの夜、我々への殺戮を指示した将軍ヴォーグを殺してきたと」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……
「そうだ、そうだ。彼は、敵、敵を討ったのだ」
「兵士はもうテセにはいられない、カレンに一緒にガザリアに亡命しようと言いました。だが、カレンは言いました。自分は明日をも知れぬ病の身、ガザリアまで逃げるのには足手まといになると。そのかわり、未来あるこの子を連れていってほしい、と。兵士は承諾すると、子を連れてガザリアへと亡命していきました。カレンは程なく死に、兵士は戻ることはありませんでした、が……我々の前に、いま、その忘れ形見は姿を現しました」
はっ、として、カロは固唾をのんでその声に聞き入った。
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……
「そうだ、そうだ、今目の前にその子がいる、いる」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……
「こんなに大きくなって、大きくなって」
そこでしばし森に沈黙が訪れた。
カロは息を殺して次の言葉を待った。
「カロ、それがお前です」
カロは目を見張り大きく息を吐いた。
――僕はこの森で生まれたなんて。そして、父上……父上……あなたという人は。
カロはその場に崩れ落ちた。体が小刻みに震える。
メリアがそっと、その肩に、自らのすり切れたローブをかけた。
長い夢を見ていたような気分だった。いや、いまでもそんな感じが心の中にはある。
昨夜の長い自分と父、そして母にまつわる物語を思い出しては、カロは故郷である森の土を踏みしめた。その、かさ、かさという土と葉の擦れる音でメリアも目覚めた。
メリアはメリアで、また別の長い夢を見たような瞳をしている。カロとメリアはしばらく無言のまま見つめ合ったが、やがてカロが先に口を開いた。
「お前はここにいろよ……かくまってもらえるよ、きっと。なぜならお前も彼らの仲間だから」
「仲間って。私もあの疫病に罹っているってこと?」
メリアは震えながら言う。
「そうだろ、その傷の膿は。お前、自分が病だと気づかなかったのか?」
メリアはこくりと首を縦に振った。
「嘘だろ。お前、なんて無知なんだ? それでも神官か?」
「神殿では誰からも、そんな事教えて貰ってないわ。そんな病が世に満ちているなんて、誰も教えてくれなかったわ!」
カロは絶句した。まさか、薬ができ、不治の病ではなくなったとは言え、この疫病のことをこの世で知らぬ者がいるとは。
――いったい……この娘には、いや、テセの神殿では何が起こっているのだ?
その疑念をぐっと飲み込んで、カロは別のことを言う。
「とにかくお前はここにいろ、僕はガザリアに戻る。父上を助けなきゃ」
すると森がざわめいた。森の衆の声が降ってくる。
「それは無理だよ、それは無理」
「知らせがあったよ、今朝、お前の父はテセに連行されたと」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……ざわざわ……
「えっ!」
カロは叫んだ。
「我々の英雄、お前の父は反逆罪と逃亡罪でテセに連行された…残念だ、残念だ」
「処刑は免れられないだろうよ……悔しい、悔しい」
……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……ざわざわ……
森の衆の声が今度はカロの脳内に木霊する。
――なんだ、って……。父上!
カロはうめき声を上げへたり込んだ。が、次の瞬間すっくと立ち上がると叫ぶように言った。
「父上を殺させはしない! 僕はテセに行く」
ざわめきが消え、しーん、と森の衆は黙りこくった。
その沈黙を破ったのはメリアだった。
「私もテセに戻ります。カロ、あなたを導きましょう」
そう告げたメリアから、有無を言わせぬ神官の言の趣きを感じ、カロはたじろいだ。更にメリアは言う。神々しささえ感じる、神官の口調で。
「私も何が起こっているか……知らねばならない。神殿で何が起こっているのかを! なぜ、私は、生贄にならねばならないのかを!」
「メリア……」
「私は……私は、物心ついたときには神殿にいて、神に仕えてきたわ。だけど、ある日、昨日までいっしょにいた姉様が、次の日にはいなくなってるの。王宮に奉公に行ったんですよ。そうお母様たちは言ったわ。だからそう、信じ込んでいたの。そんな事が幼い頃から続いたわ。永遠に続くのかと思うほど。だけど、違ったの。私にもその番が来ましたと、あの日、私と、親友のドゥは、お母様たちから告げられたわ。いつもより念入りに禊ぎをするように言われ、ふたりでそうしたわ。そして、連れてかれたの……でも連れて行かれた部屋には、冷たい大理石の寝台があって……まずドゥがそこに横たわれるように言われて…ドゥはそうしたわ…。そうしたら……」
メリアの唇が青ざめてきた。声は震えていた。それでも、メリアは話すのを止められなかった。それが、如何に恐ろしい体験だとしても。いや、おぞましい体験だった、だからこそ。
「ドゥの体に、お母様たちはなにか言いながらいきなり斧を振り下ろしたの…悲鳴をあげるドゥにお母様たちは言っていた“……生贄におなりなさい”って……」
「……えっ……」
「それで、私も、押さえつけられたけど、大勢の人たちを夢中で蹴って、噛みついて、逃げ出したの、神殿を……! だけど。だからこそ戻るの。何が起こっているのか、なぜ私たちには、この世の闇が隠されているのか、知らねばならないの!」
メリアの思いがけない告白に、森の衆もカロも、言葉を失い、森は全ての命が絶えたかのように、しばらく静まり返った。
メリアの頬には涙が伝っていた。
「私は、知らねばならないのよ……ねぇドゥ、そうでしょ……」
その最後の声は消え入らぬばかりであった。その手をカロがそっと握った。大事な人を亡くそうとしている自分と、亡くしたばかりの者。その痛みの共通項が、カロを思わずそうさせた。
「テセに行こう……いっしょに」
カロはそう言うと、メリアの手を引いて、馬を繋いだ森の入り口へと木々の間を駆け抜けた。森の衆が何やらざわめいているが、気にならなかった。ただ、このひとつの声は聞こえた。
「……行きなさい、英雄の子よ。ですが、かならず帰ってくるのですよ」
母の声だ、とカロは直感で悟った。そうでなくとも、死んだ母はきっとそう言っている、と。
そう信じる心が、カロの眼差しをかっ、と熱くさせた。
いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。