『誰がために花は咲く』第十五話(第三章 地を這う星よ~グルーの物語~)
「こんなはずでは……」
グルーは呻いた。手に負った傷からは絶えず血が流れている。意識が朦朧としてくる。グルーは気力をふり絞って、腹心の部下たちの名を叫んだ。
「ガルムド! サラーン! ヨヘド! ……生きてるか? いたら返事をしろ!」
だがその声に応える者はいない。ただ風が吹き、砂塵がばあーっとグルーの傷ついた体にまとわりつくのみだ。
「皆死んだか……ガザリアの奴らめ……」
テセとの国境に配置されたガザリア軍の作戦は巧妙だった。グルーたちが動き出す前夜のうちに、野営をする一団へ、病の者を装った数人の精鋭を忍び込ませ、朝が来る前にグルーの一団を襲ったのだ。
さらに、混乱するグルーたちの一団へ、ひそかに周りを囲んでいたガザリア軍の本隊が攻め込んだ。攻撃は一方的なものとなり、悲鳴・怒号……修羅場と化したグルーの野営地は病の者のうめき声で満ちあふれた。
倒れ込む患者たちの上に更にガザリア兵の剣がきらめく。野原は病の者たちの血で赤く染まった。
夜襲に気づいて必死に戦ったのはグルーも同じであった。
いつものように地位を顧みず、病の者の群れの中で、獅子奮迅するグルーの姿があった。だが、銀髪を振り乱し、隻眼をらんらんと怒らせて短剣でガザリア兵に戦いを挑むグルーの姿は、否が応にもガザリア兵の目についた。ガザリア軍にとっては、グルーこそが標的であったからだ。
「他の者はほっておけ、首謀者グルーを捕らえよ!」
ガザリア軍の将校から途端にそう指示が飛び、グルーはあっという間に囲まれた。間一髪のところで、グルーの腹心たちが駆けつけ、その輪の中へと切り込んだ。たちまちグルーの周りは大混戦となり、もはやだれが味方で敵か分からぬほどだった。
「グルー、逃げろ! ここは俺たちに任せて逃げろ!」
誰かがそう叫んだ。
「グルー、お前がいれば病の者たちのこの一団は再建できる、だから逃げるんだ、国を作るんだ!」
刃と刃がぶつかる中でグルーは何度もその声を聞いた。
「逃げるんだ! グルー」
そう言って事切れた声を足下で捉え、グルーははっと下を向いた。腹心、それも昔からの仲の仲間がグルーの盾となったまま、血にまみれ崩れていた。
グルーは観念した。逃げるのは性に合わぬ、だが、いまはこの場を逃れなければ何もかもが終わってしまう。グルーは不承不承それを悟ると、戦場を脱出する決意をした。が、それも容易ではなかった。何人ガザリア兵を斬ったかも分からぬ混乱のなか、グルーは必死に退路を探り、走った。力の限り走りに走り、そしていつのまにか、独りになっていた。
「畜生、こんなはずでは……」
砂塵の中からは、いまだグルーを追うガザリア兵の声が微かに聞える。グルーの体力も限界が近づいていた。
――どこかに身を隠せなければ……。
グルーは光ある片目で必至に周りを見回した。すると、もとは軍の詰め所だったらしい古びた建物……というか廃墟が眼に入った。グルーは震える体でそのなかに這いずりこみ身を隠す。だがガザリア軍の声は次第に近づいてくる。
ここまでか、とグルーは思った。同時に、捕まるのは恥だという気持ちがグルーの中で高まる。
――なら、ここで自害して果ててしまおうか。俺を守って倒れていった仲間に申し訳はつかぬが、こんな人生の終わり方が、血濡れた俺にはふさわしいのかも知れぬ……。
グルーは愛用の短剣を勢いよく引き抜くと、首に当てた。そして勢いよく喉を切り裂こうとした、その時……短剣がグルーの意に反して手を離れた。そして、カターン、と床を転がると、短剣は不自然な格好で廃墟の隅に転がっていた古びた帳面に突き刺さり、止った。
グルーは笑った。
死なせてももらえぬのか。そう可笑しくなりながら、短剣を引き抜こうと帳面に触った。だが、意外なことに、帳面に短剣は固く刺ささっており、抜けない。
――どうした、俺の短剣よ、俺を殺させてくれ、ずっと一緒だったではないか、お前とは……そう、赤い花の平原で拾ったのだ、この短剣は。それからずっと俺の護り神だったよな。だったら、俺の最後の願いを聞いてくれてもよかろうよ……。
グルーの意識はそこで途切れた。
静かに廃墟の中に崩れ落ちたグルーの側には、古び朽ちかけた帳面と短剣だけが寄り添うように落ちていた。
火が迫る。
――ミリ、ミリだけでも助けねば! 俺の大事な妹、ミリ、俺の命と変えても救い出さねば! その歳でこんな運命を辿るのは残酷すぎる。いくら我々が病の者だからといって、そんな運命がこの世で許されるものか……!
ミリの寝室まではもうすぐだ。梯子を駆け上がる。焦げ臭い匂いに鼻を押さえながら部屋の扉を開けると……人の形をした火柱が目に入った。
「……ミリ!」
油汗が額をだらだらと伝う。グルーは、かっ、と目を見開いた。見知らぬ部屋の天井が見える。そして目が合った。
――ミリ……。ミリではない、だが、どこか面影が似ている。そう思うのは、俺がどうかしているからか……。
「……大丈夫? 無理しないで……まだ傷が痛むでしょう。静かにね」
少女の落ちついた声音が、横たわったグルーの耳には優しく響く。
少女は布で、グルーの額に流れる汗をそっと拭く。そしてグルーはびくりとひるんだ。少女が、グルーの膿んだ右目にも躊躇なく触れたからだ。その心中を見透かしたように少女は微笑んだ。
「感染る、言いたいんでしょう? 大丈夫、怖くなんか無いわ」
「なに……?」
「とにかく余計な心配しないことよ。ここに、ガザリア軍は来ないわ」
――俺の正体をこいつは知っているのか?
この少女は何者なのだろう。それを尋ねようとしたとき、部屋の外から声がした。
「メリエラ!」
「はい、父さん! 今行きます」
少女はグルーの汗を拭き終わると、布を丁寧に畳みエプロンのポケットにしまうと、くるりと背を向け、扉の外に出て行った。
「父さん、あの人、気が付いたわよ」
「うむ、お館様に報告してくる。メリエラ、このことは他の誰にも言うなよ」
「わかっています」
扉の向こうから落ち着いた声の、男と少女の会話が聞える。やがて、それが遠ざかると同時に、グルーの意識も再び深い底に落ちていった。
次にグルーが目覚めたとき、メリエラと呼ばれていた娘の横には、ふたりの男がいた。
ひとりは30代半ばくらいの理知的な印象の男、そしてもう一人は、一見質素ながら、質の良い織りのローブを身につけた壮年の男性であった。位の高さが伝わってくる出で立ちである。
まず口を開いたのは若い男であった。
「グルー、私はカロ。この館の管理人であり、ガザリアの書記官だ。だが怖がらなくていい、お前のことはガザリアに報告する義務は、私には無い。この館はガザリアからは、治外法権なのでな」
「治外法権……なぜ?」
事態が飲み込めないグルーは、まだ自由に動かせない身を動かして、状況を探るのに必死だ。それをメリエラが、そっ、と手を差し伸べ制する。カロはそれを静かな眼差しで見つめると、再びグルーに向かいあう。すると壮年の男性が口を開いた。
「それは余から言おう。グルー、私はテセの王、セヲォンだ。ただ王と言っても、今やテセの実権を握っているのはガザリアだ。余は権力をガザリアに引き渡し、この館に隠居……いや軟禁の身だ。このカロは余の監視役も同じなのだよ。だがいいこともある。国の実権を渡した引き換えに、この館は余の自由、ガザリアの権力は及ばない。治外法権とは、そういうことだ」
「お前がテセの王だと……?」
「そうだ、地に墜ちた王だがな」
グルーは、2人の男の意外な正体に驚きを隠せない。だがテセの王、と聞いて、問いたださずにはいられないのは薬草のことだ。勢い込んでグルーは体の痛みも忘れ、叫んだ。
「病を癒やす薬草は……テセの何処にある!?」
「薬草はすでに絶えた」
セヲォンは重大なことを、さらっ、と言う。
「なに……! 嘘をつけ、隠しているのではなかろうな!?」
「隠してなどいない。なぜなら……」
今度はカロが物腰静かに告げる。しばしの沈黙ののち、カロは呟くように言った。
「薬草を絶やしたのは、他でもない、この私と、亡くなった妻だ」
いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。